233 そこで雹を降らせる呪法を使うと、村はたちまちにして、ひどい災害に見舞われた。 こうした罪深い行為に恐れを感じたトバガの中に、ダルマを学びたいという気持ちが、 わきあがってきた。彼に黒魔術を教えたラマ・ ュントンは、そんなトバガの心を察して、 有名なゾクチェンの師であるロントン・ラガからダルマを学ぶがよい と教えた。ゾク チェン・ラマは、こう語った。「私のゾクチェンの教えは、とりわけすぐれた法だ。昼 間それについて瞑想すれば、一日のうちに仏性を得ることができる。また、それを夜瞑 想するならば、一夜のうちに仏性を得る。過去のカルマに縛られた者も、それを瞑想す れば、たちまちにして、カルマから解き放たれる。それは聞くだけで、悟りをもたらす、 またとなくすぐれた法なのだ」 こうしてミラ ( ト。 ( ガ ) は、この師のもとで出家して、ゾクチェンの法を学んだ。彼 導は考えた。「自分はわずか十四日間で黒魔術をマスターしたし、雹を降らせる呪法でさ 神え、一週間で身につけた。ところが、この仏性を得るというゾクチ = ンの法は、わずか 精 一日、一夜の瞑想で、学びとれるのだそうだ。それどころか、恵まれた才能があれば、 A 」 解瞑想の必要もないのだという。これはもうけものだ」 の こう考えたミラは、瞑想もせず、ただ寝ていた。そのために、この高度な教えは、け っしてミラのしにしみこんでくることがなかった。 ミラにこうさとした。「おまえは、自分が この様子を見ていたゾクチェンのラマは、
366 「鎧の精進」「実行の精進ー「飽くなき精進」の三つからなる。 まずは「鎧の精進ーだ。これは、ブッダや菩薩たちのすばらしい生き方や能力のこと を聞いて、そんなことは恵まれた超人的な人にしかできはしないことで、自分のような 凡人にはとうてい無理なことた、とはなから意気阻喪してしまうことなく、「そういう すぐれた人たちたって、はじめからそれができたわけではなく、努力の末たどり着いた ことなのだ。私はそういう人たちの弟子として、たとえ彼らに優ることはできないとし ても、彼らの歩んだ道を歩んでいくしかない」と思い切って、精進にはげもうとする態 度のことを、しめしている。鎧を着けて、ダルマの道に出陣する、という感覚た。 ブッダや菩薩のようなすぐれた存在でさえ、真理をつかむまでには、大変な努力と試 練を必要としたのである。私たちは、いままで悪いカルマに阻まれて、ダルマの真理の 道から遠ざけられていた。しかし、今や私たちは、なによりも貴重な人間としての生を 受け、しかもすぐれたラマと出会い、深い教えの扉の前に立っているという、幸運を得 たのである。それならば、私たちは、「鎧の精進」の意志をもって、どんな苦労や苦し みにも耐えて、教えの実現に向かっていかなくてはならないはずではないか。 かくして、いよいよ実行の時が来る。いつまでも「ダルマの修行がしてみたいものだ なあーなどと言っている時ではない。望みの実現を明日に延ばすのではなく、今日すぐ にそれを開始するのだ。
批判しだすのである。ダルマの否定といって、これほど罪の深い否定はない。「私はダ ルマを否定するという、悪いカルマを積み重ねてきたことを、ここに告白いたします。 それはなによりも罪深い行為です」という、告白の言葉も記録されている。 ある日、二人のインド人の僧が、アティーシャの語る「十二の調教法」の教えを、拝 聴に来たことがある。アティーシャが自我の非存在の教えを語ると、二人の僧は、大い に満足の様子をしめした。ところが、彼がさらに進んで、一切の現象もまた非存在であ ると説ぎはじめると、二人の僧はひどい恐怖にとらわれて、もうそんなことは説かない でくださいと、恐れをしめした。アティーシャはそれを聞いて、うんざりしたような顔 で、こう語ったという。「もしもあんたたちが、愛と慈悲による菩提心を学んで、その のちに深いダルマの真理を学んでいくことがないのなら、いくら信心をいだいていても、 それはあんたたちをどこへも連れて行ってはくれないだろうよ」 はじめてブッダが、存在はすべて空であることを説いた時にも、高慢な心をいだいた たくさんの僧たちが、恐怖のあまり、ロから血を吐いて死に、地獄に生まれたことを語 る、たくさんの話が伝えられている。だから、ダルマの真理とそれを説く人にたいする、 提 深い尊敬をいだいていることが大切だ。また、たとえそこで説かれていることを理解で きなかったとしても、高慢にそれを批判したりしてはいけない。 「六つの完成ーの修行の四つ目は、「努力を重ねること ( 精進 ) 」の完成である。それは
539 グル・ヨーガ りにも尊敬の気持ちを欠いていた。本当に失礼な論争をしかけてしまった」。彼はやに わにナイフを探した。失礼をおかした自分の舌を切り取ってしまおう、と思ったのであ る。ガラップ・ドルジェは、彼の心中を見抜いた。そこで、こう語った。「おまえの舌 を切り落としても、罪を浄化することはできないよ。それよりも、因果によるダルマよ りもはるかに偉大な、このアティの教えを体系化する仕事をしなさい。それが、最上の 浄化の道だよ」 カルマと吉祥にみたされていない者は、アティの教えにはまだ未熟であるとして帰さ れた。そしてマンジュシュリ ー・ミトラだけが残った。彼はグルの示す秘密の身振りを わずか目にしただけで、ただちにすべての教えを理解した。そこでガラツ。フ・ドルジェ は、この希有の弟子の心に教えが完全に定着できるように、「勝者の霊感による方法」 によって、深遠なる灌頂を与えたのであった。彼はすべてのタントラと伝授を、残りな く受け取った。それから、ガラツ。フ・ドルジ = はこの聖なる教えを文字に書き留める業 をおこなったあと、マンジュシュリ ー・ミトラにつぎのように語った。 自然状態の心はそのままブッダなのであり 心には生まれも減するもなく、あたかも天空のようであり あらゆるダルマは平等であるという理解に
だから、ラマから教えられたことにもとづいて、そこから必要なエッセンスを絞り出 して修行することが、大切なのだ。それに、教えられたことを、実践に移さないのなら、 どんなすばらしい教えも、何の力も発揮できない。「腹の空いている人に、食べ物の話 をしてやっても、腹は一杯にならない。それと同じように、ダルマをただ知っているだ ミラレ。ハの言葉だ。 けで、実践に移さないのなら、何の意味もない」とは、 修行の目的とは、煩悩と執着を治療することにある。ミラレ。ハがこう語っている。 「食事をしたかどうかは、顔が赤くなっているかどうかでわかる、と人々は言う。それ と同じことで、ダルマを理解しているかどうか、ちゃんと修行しているかどうかは、そ の人の煩悩と自我への執着が治療されているかで、すぐにわかる」 ポトワはある時、ゲシェ・トン・ハにこうたずねた。「ダルマと非ダルマの境界線は、 どこに引くことができますか」 ゲシェ・トン・ハはこう答えた。「煩悩に投薬するのがダルマで、そうでないのが非ダ ルマだ。世俗を離脱しているのがダルマで、そうでないのが非ダルマだ。・フッダとラマ の教えにしたがうのがダルマで、そうでないのが非ダルマだ。行為が良い痕跡を残すの 菩 : ダルマで、そうでないのが非ダルマだ」 発 チェゴム師の言葉を聞こう。 「低い能力を持った人が、正しい道にあるためには、因果の法を信ずることが必要だ。
359 発菩提心 勉強が進めば進むほど、瞑想が深くなればなるほど、あなたはいよいよ謙虚で、おだ やかで、ヘりくたった人間になっていかなければならない。嫉妬心を制圧して、他人の 持っているすぐれた点、美しい点に、すなおに感動できる心になっていかなければなら ない。そうでなければ、ダルマの修行などをしても、自我を肥大させ、謙虚さを失わせ、 嫉妬心を増進させ、修行などをしなかった時よりも、もっとひどいところへ、あなたは 連れていかれてしまう。そして、実際に、そういう修行者はこの世にたくさんいるのだ。 つぎに、私たちは、ダルマのために困難に耐えることを、学ばなくてはならない。あ るタントラには、こう圭日かれている。 火の山を越え、カミソリの上を歩み 死ぬまで、至高のダルマを求める 昔のカダム派の修行者は、つぎのような四つの目標を立てた。 深く心をダルマに向け ダルマを無所有に向け 無所有を死に向けて
の王国だ。ここには、過去に大麦一粒もささげて、功徳を積んできた人がいない」と、 ずいぶん厳しいことをおっしやったものだ。 あなたが、ちっぽけな富やら、ちんけな権力などに、心を引かれているのだとしたら、 それは第一に、あなたの心の狭さをしめしている。第二にそれは、あなたがこの世の現 象に執着していることをしめしている。またそれは第三に、あなたがカルマの理法を理 解していないことをしめしている。あなたが真実の心の解放を求めるのだったら、たと え大地のカの王であるナーガ ( 竜 ) のような権力を持ち、空よりも高い地位を得、雷の ような威力をあたえられ、虹のような美しさに恵まれていたとしても、そんなこの世の 完全さは、すべてうつろいゆく、むなしいものだと、知るはずだ。肝臓を病んでいる人 が、脂肪の多い食べ物をだされても、ウッとなってしまうように、あなたはこの世の富 るや権力を差し出されても、それを見て、気持ちが悪くなるだけだろう。 さ あなたの今の人生を豊かにするために、善を集積しようとするだけでは、あなたは本 を当のダルマから、かえってどんどん遠くなっていってしまう。心では解脱を求めていて も、それによってあなたはこの世の富や権力がしかける罠に、まんまとはまってしまう ダ ン ことになる。だから、集積した善が物質化して力となってしまわないように、あなたは マ 自分の国を捨てて、ほかの人々の住む土地に、一人ででかけていくのが良いのだ。まっ たくの孤独の中に住んで、病気を前にしても心は楽しく、死を前にしても幸福にみたさ
間まぜ合わせてしまえば、純粋なダルマとは言えないものが、心に沈澱してしまう。 ニャンメ・タク。ホ・リンポチェもっ」のように衄る。 ダルマの教えがダルマにしたがわないのなら ダルマは地獄への因となろう 師やダルマに反対すること、修行仲間をけなすこと、自分をうぬ・ほれ、因果の縁を無 視すること、これらはあなたを悪趣に生む因をつくる。注意してそうした原因をとりの そきなさい。 第二の障害の種類を六つにまとめることができる。 1 慢心と嫉妬、 2 信の欠如、 希求心のなさ、 4 ほかの物事に気をとられている、 5 自分の中に閉じこもりす ぎる、 6 忍耐力がない この六つである。これを順にざっと説明していこう。 煩悩はさまざまあるが、慢心と嫉妬くらい本人がそれにおかされていることに気づか ないものはない。だから、たえず自分の心を注意深く観察して、慢心と嫉妬の根をつま みださなければいけない。かりにあなたにすぐれた点があったとしても、自分は偉いの だという慢心がおこれば、自分の欠点は見えなくなり、他人のすばらしい点も見えなく なってしまう。慢心は自分より劣った者をあなどり、嫉妬はすぐれた者たちを誹謗して
360 死を絶対の孤独に向ける このカダム派の教訓は、ダルマの修行者は、所有にとりかこまれた日常の世界を離れ、 さらには生への執着を離れ、さらには死の時にあってこの世へのいっさいの気がかりを ここに衄られている 離れるという、なかなか壮絶な心意気をしめしている。たしかに、 ことは、正しいと思う。私たちは、今自分が暮らしている、安楽で豊かで幸福な生活を と考えがちだ。そういうものを捨て 捨てることなしに、ダルマの修行もできればいし いかにもおっくうだからだ。そこで、こ て、勇気をもって、困難に出かけていくのは、 んなことを考える。「他の人たちだって、けっこううまくやっているじゃあないか。そ うして見ると、あのラマはたしかに良いラマだ。な。せって、あのラマはダルマと世俗の 暮しを、上手に結婚させているからな」。しかし、ダルマと世俗の暮しを、完全にうま く両立させるなどということは、本当には不可能なことなのだ。 その二つをうまく両立させようというのは、先が二つに別れた針で縫い物をしようと いうようなもの、同じ器に火と水を一緒に注ごうというようなもの、反対方向に走り去 ろうとしている二頭の馬にまたがろうとする上うなもの、いずれにしても、不可能な甘 い考えにほかならない。 日常の人間が、シャキャムニ・ブッダをしのぐことなどできな いが、このシャキャムニにしても、ダルマの追求と日常の世俗生活を一緒くたにするこ
237 ミラは雹を降らせて、里人を苦しめた。 ミラはもどって、教えを乞うた。マルバが答 える。「おまえはそのぐらいの手柄を立てたぐらいで、わしが艱難辛苦のすえに、イン ドから運んできたダルマを、学びとれると思っているのか。ダルマを学びたいのなら、 まず、呪術を口タク・ラカの人々に差し向けろ。彼らはニャルロンからやってくる、わ しの弟子たちの邪魔をしているからな。それがみごとにできたなら、わしはナロー 偉大な法をおまえに伝えもしよう」 そこで、今度もまた、 ミラは呪術で雹を降らせた。彼はマルバのもとに帰り、ダルマ を求めた。マルバはそれを聞いて、彼をあざ笑った。「はつはつはつ。おまえが犯した その程度の罪が、わしの知るところの神聖な教えに値すると思うのか。大馬鹿者め。こ のダルマは、ダーキニーの炎のようなもの、わしは生命の危険を犯して求めてきた。お 導まえの使う呪術程度のものが、それに値するなどと思ったら、大間違いだ。おまえはヤ の ルトクの人々の被害をうけた畑を元通りにして、ひどい目にあったラカの人々に、つぐ 神 とないをしなければならない。それができたら、わしはおまえにダルマをあたえよう。で 解きないのなら、もうわしの前にはあらわれるな」 の マル。ハはミラをひどくしかりつけた。絶望に打ちひしがれたミラは、ただ位くばかり や - 」っこ 0 翌日、マルバがやってきて言った。「きのうはすまなかった。気にするな。教えない