91 人に生まれる では、ブッダの教えが説かれ、実践されている土地が、辺境にたいして、中心と呼 ばれるのだ。長いこと、インドは地理的にも、精神的にも、中心の土地であった。 だが、今ではその土地に仏教は説かれておらず、ブッダガャも荒れ果ててしまって いる。ダルマという観点から見れば、インドはもはや精神的な中心ではなくなって しまっているのだ。 ブッダがこの世にあった頃、チベットは人もあまり住んでいない、まったくの未 開の土地だった。文字どおり、そこは辺境の土地だったのである。ところが、そこ には、しだいに人間が住みつき、偉大な王たちが、あらわれるようになった。ハト トリ・ニエッエン王のとき、『。ハンコン・チャクギャ。ハ』という仏教書が、ツアッ アと呼ばれる仏塔の小さな模型や、そのほかの仏具といっしょに、宮殿の屋根に降 りてきた。これが、チベットに仏教の広まる、最初の印となった。このあとに続く、 五王のときに、仏教の意義はしだいに理解されてくるようになった。 観世音菩薩の化身であった、偉大な王ソンツェンガンポは、翻訳官トンミ・サン ポータを、インドへ派遣し、サンスクリット文法や語彙を学ばせた。彼はチベット にもどって、インドの文字にならって、チベット文字の体系をつくり、また文法を 理論化した。このとき、観世音菩薩にかんする二十一のお経や、『ニエンボ・サン ワ』のような本が、はじめてチベット語に翻訳された。ソンツェンガンポ王は、大
り、またそれによって『すべてに優れたる雲』などの仏典を、はじめてチベット語に翻 訳するのに、成功したのである。また、さまざまな場所に観世音菩薩の像が出現したの も、この時代であり、この王の時代に、チベットにおける仏教の基礎が築かれた。 また、それから五代ののちの話である。チベットに文殊菩薩の化身であるチソンデウ ツェン王があらわれた。チソンデウッエンは十三歳のときに、父親を失い、王位につい た。十七歳のときまでに、彼は大臣のタムタル・ルゴンとラサン・ルベルの助けを得て、 堅固な政治組織と強大な軍事力をつくりあげ、近隣諸国を圧倒した。王は先祖たちの残 した古文書や古記録の中に、 ハトトリ・ニエッエン王の時代にすでにチベットには仏教 が到達し、さらにソンツェンガンポ王のときには、その移植が試みられていたことを、 知った。自分の先祖たちが、仏教の移植を熱望していた事実を知った王は、深く考え込 んでしまった。そして、みずからも、仏教の教えのチベット への定着に力を尽くそう、 と決心したのである。 ガ 王は宗務大臣のゴ・ ペマ・グンツェンにこのことを相談し、他の大臣たちにも、この ョ ためになにをなすべきかを、相談した。皆は、それならば、大きな仏教寺院を建築する のが第一歩としてふさわしい行為である、と進言した。つぎの問題は、どこに寺院を建 グ てるかということたった。人々は、サムエ・チンプに住んで、儀式用の供物を王のため に準備するのが役職だったニャン・ティンジン・サンボに、 この問題に答えを見いだす
542 「あなたはどこからやってきた、誰なのかーとたずねた。彼は指で天をさした。そこで、 人々はこの人はきっと天空界からやってきた神にちがいない、 と思い込んだのであった。 人々は土や石を背中にのせて運んで来て、玉座をつくり、彼をそこにつけて、彼らの王 とした。王としての彼の名前は、「ニヤティ・ツェンポ ( 背中の上の玉座につく王 ) 」とい った。彼がチベットの最初の王であったが、彼はまたサルヴァニルヴァルナヴィシュカ ンビン ( デイプパ・ナムセル ) 菩薩の生まれ変わりでもあるという。 それから、じつに多くの歳月が流れた。普賢菩薩の生まれ変わりであるハトトリ・ニ ェッエン王の時代に、王宮の屋根に、ツアツアの仏像と『装入筐経』と『パンコン・チ ヤクギャ。ハ』の二書と、水晶製のチョルテン ( 仏塔 ) が、下りてきた。それが、チベッ トに仏教が出現した、最初である。 それから五代ののち、ソンツェンガンポ王があらわれる。この王は観世音菩薩の生ま れ変わりである、偉大な王であった。王はタドウルとヤンドウルと呼ばれた二つの寺と、 ラサの寺を建てた。また王宮には、ターラ菩薩の生まれ変わりである中国の王女コンジ ョと、トゥニエルチェン女神の生まれ変わりであるネ。ハールの王女ティッンを、それそ れ王妃として迎え入れた。二人の王妃は、ジョヲと呼ばれる二つの仏像を、ラサに持っ てぎた。また、トンミ・サンポータははじめてチベット文字をつくった。彼はインドの 学者デバビ・シンハについてサンスクリットを習い、その知識をもとにして文字をつく
とにかく、信は計り知れないほど重要たから、これからもくどいぐらいにそのこと を話すつもりだ。 つぎの五つの条件は、修行者をとりまいている環境に関係がある。 1 ブッダがこの世界にあらわれたこと。もしプッダがあらわれていなかったら、私 たちは「ダルマ」という言葉さえ知ることがなかったろう。 2 ブッダが教えを説いたこと。覚醒ののち、深い瞑想の中に安らって、人々に教え を説くことがなかったとしたら、私たちのようなありきたりの人間が心の解放をめ ざして修行することもできないことになる。 3 その教えが今日まで伝えられたこと。イスラム教の侵入によって、インドの仏教 は滅び去ってしまった。チベットに伝えられた仏教は、さまざまな困難をかいくぐ って、幸いかろうじて今日まで教え伝えられてきた。チベット仏教、とくにニンマ 派の仏教体系が今日難しい状態にあることは確かた。すぐれたラマたちはみな年を とり、あとをつぐ若者たちは少数で、生活条件は劣悪である。しかし今、伝統が絶 えてしまったら、もう二度ととりもどすことはできないのだ。それはチベット仏教 だけの損失ではない。そのことを、私はいつも若いチベット人の弟子たちに言いき
出版からほ・ほ十年たって、中公文庫におさめるにあたって、『虹の階梯ーーーチベット密 教の瞑想修行』には、大幅な増補と改訂が、加えられることになった。 平河出版社版の読者は、すでにご存じのように、 この『虹の階梯』という本は、チベ ット仏教のニンマ派が伝えている「ゾクチェン」という密教の、いちばん初めの段階の き修行のやりかたについて、詳しい解説をほどこしたものである。この本が初めて出た当 時は、チベット仏教についての生きた知識や情報も乏しい頃で、学者の中には、「ゾク のチェン」なんてものが存在することすら、疑っている人も多かった。それから十年の間 へ に、事情は大きく変わった。たくさんの旅行者や専門家たちが、チベットに実際に出か 全ける機会も増え、多くの写真集やエッセイを通じて、チベット仏教の世界は、もはやヴ 完 エールのかなたの神秘に閉ざされてはいなくなった。 版 そればかりか、アメリカやヨーロツ。ハ諸国に散っていった、多くの亡命のラマ僧や学 庫 文僧たちの才能と努力によって、チベット仏教の思想と実践の体系は、ここ十年の間に、 着実にそれらの世界に、根を下ろしはしめているのである。そこではまた、実に旺盛な 文庫版 ( 完全版 ) へのまえがき
場を転々としながら、多くのラマのもとで、小乗・大乗・金剛乗 ( 密教 ) にいたる仏教 哲学と倶想技法をあらかた総なめにしてしまう。この中にはニンマ派の教義体系だけで なく、サキャ派、カギュ派、。 ケールク派というチベット仏教の他の派の教義体系も含ま れている。だが、そこでいちばん心ひかれたのは、やはりニンマ派のゾクチェンの教義 と瞑想であった。こののち六年間、ラマ・ケツン・サンポは山中に隠棲して、ゾクチ = ンⅡアティヨーガを究極の完成にまで鍛えあげていった。 山をおりて、一九五五年から若い僧たちに仏教哲学と瞑想の教授をつづけていたとこ ろに、中国人民解放軍によるチベット侵攻が勃発した。一九五九年、ケツン・リンポチ 工は愛馬とともに・フータン、シッキムをぬけてインドのカリンポンに脱出、長い亡命生 活の始まりであった。シッキムやカリンポン、ダージリンに滞在中は、ほとんど孤独な 瞑想の日々がつづいた。 一九六一年、突然、ダラムサラのダライ・ラマから、ニンマ派最高のテルトンである きドウンジョン・リンポチェの代理として日本へおもむくよう要請がくだる。四十歳にな え ったケツン・リンポチェは東京に着き、以後約十年間にわたって、東洋文庫の研究員を ま 著務めるかたわら、全国七つの大学でチベット語や仏教哲学を講ずる教師の生活を送り、 その間にたくさんの日本人チベット 学者を育てるのに力をつくした。 一九七〇年、ふたたびインドにもどったケツン・リンポチェは、ダラムサラにあるチ
37 はじめに ヴィマラミトラ (VimaIamitra) ニンティク体系は、グ ル・リンポチェの口頭伝 授によるものと、ヴィマ ラミトラの口頭伝授によ るものとの、二系列でで きている。ゾクチェン・ タントラのもっとも重要 な 17 タントラ (rgyud- bcu-bdun) のほとんど は、彼によって翻訳され グル・リンポチェ (Padmasambhava) チベットに仏教を定着さ せるのに決定的な役割を はたしたウッディヤナの ニンマ派、カギュ グル。 派ではチベット仏教の祖 として、敬われている。 0
492 の真理に到達することができるのだよ」 ゾクチェン思想のチベット への定着に決定的な働きをした、偉大なる翻訳僧ヴァイロ ーチャナは、政治抗争の犠牲者となり、後半生をチベット中央部を離れて、流浪の生活 冫かくまわれていたことがある。 を送っていたが、一時期、東チベットの王妃のもとこ、 ・ミフアム・ . ゴンポを弟子として、彼にグル・ヨ そこでヴァイローチャナはパンゴン ガを教えた。このとき、すでにミフアムは八十歳を越す老人で、修行もおぼっかないよ うな弱り方だった。しかし、ミフアムは自分の体を縛り、道具を使って首を固定して、 瞑想の修行をおこなった。のちにミフアムはゾクチ = ンのヨーガ「テクチ = ウ」にまで 成功し、これによって身体を光の微粒子に変え、最高の仏性を実現できたのである。 このように、ゾクチェンでは、ほかの仏教のシステムにくらべても、ラマの存在に大 きな意味があたえられているのだ。あなたの心の連続体に叡智 ( イ = シ = ) の働きが、 自然とわきあがってくる状態を実現できるためには、通常の思考をこえて、ラマとの深 いつながりが必要とされるのだ。これから説明していくグル・ヨーガは、そのつながり を実現するための、もっとも有力な方法をあたえる。このヨーガは、①集会の観想、図 七支の供養、③四つの灌頂、という三つの部分でなりたっている。
第、、イ ( 冫、ゞ、こ」い チェチョー 仏教全体の基礎となっている。 さまざまに展開していった。八守護神の儀軌と成就法はチベット はじめグル・リンポチ = によってチベットにもたらされ、その後 など八つの守護神がいる。八守護神の体系 (bka'-brgyad) は、 = ンマ派には、チ , チョー (che mchog) やプルバ (Phur-pa)
臣ガルトンツェンの外交手腕を利用して、 中国とネノ 。、ールから、それそれの王女を マ妃として迎えることに、成功した。この ギふたりの王女は、いずれも仏教徒だった。 彼女の影響によって、ラサを中心にして、 、誕お寺や、土地の女神の怒りを鎮めるため 、ノ」王の「祠」がつくられた。こうして、チベ をットの土地に仏教が普及する礎が、築か れたのであった。 それから五代のちの、チソンデウッ工 ッ ン ン王のとき、ウッディャナ地方の名高い ソ の密教行者パドマサイ ( ヴァが、チベット ツに招かれた。このとき、サムエの壮麗な チ寺院が建立され、そこにグル・くド ンバヴァによって、金剛界マンダラが現 出し、「カギ工 ( 八種の守護神 ) 」をはじ めとする、密教のさまざまなイニシェー