505 グル・ヨーガ 告白こそ最もすぐれた告白であるといわれるゆえんでもある。 四つめは、嫉妬を制圧する「讃歎」の支分である。何を讃歎するのか。多くのブッダ たちが輪廻に迷うものたちのために真理の法輪を回してくれたこと、すぐれた心の完成 をめざす菩薩たちが修行をとおしてすばらしい達成を得たこと、たくさんの生き物たち が善をおこない、徳を集積していること、また覚醒を求めるあなた自身の修行など、そ れらすべてを心の底から喜び、讃めたたえるのである。 二諦が集積した すべての善に讃歎をおしみません 二諦とは、 いうまでもなく世俗の真理と仏教の説く真理の二つをさしているが、世俗 の世界で真理だとされているものが、仏教の真理の世界へもってくるとまるで価値のな いものになるなどということはありえない。 日常の生活と宗教生活の二つの場で、それ それ真理とされているものをつうじて善をおこなう必要は、仏教の九乗のすべてに説か れている。自分と他人を区別せず、他の者の善に嫉妬しない、 この讃歎があたえるもの は限りなく大きい 五つめは真理の法輪を回してくださいという「懇願ーの支分である。私たち輪廻に迷
のカの支配がはじまるときではないだろうか。 この世に、灯明が存在しているということが、大事なのだ。私たちすべての教師であ るシャキャムニは、生まれは王家の王子であったのに、その安楽を捨てて、出家者の暮 しに入った。彼にしたがったアルハット ( 羅漢 ) たちも、あらゆる所有を捨てて、鉢と 杖だけを頼りに、生きた。どんなに疲れていても、彼らは馬やラ・ハに乗ろうなどとは、 これつ。ほっちも考えなかった。・フッダご自身、動物の背に乗ることはなかった。少しで も生き物に、苦しみを与えたくなかったからだ。そういう心を持って、生きている人が ある、というだけで、世界には希望が残される。魔の力に、世界中が飲み込まれてしま うのを、阻止することができる。 ラマや修行僧は、あらゆる生き物たちに、差別なく慈悲を注ぎ、彼らの避難場所、帰 依の場所となることができなければならない。とはいうものの、この世界にある生き物 は、それそれがちがったカルマを背負っているので、慈悲の行為をおこなうにしても、 それそれのカルマのちがいを見分けて、それに見合った対応を、おこなわなければなら 撼オし たとえば、ラや修行の僧たちの生活を支えている信者たちなら、ラマを見れば「私 たちを守って下さい、助けて下さい」と言うだろうが、この世のあるものを害しようと している魔や神たちだと、ラマや修行者を見れば、かえって怒りを燃やして、「やつつ
40 ロンチェンパ (kLong-chen-rab-'byams-pa 1308 ~ 1363 ) ゾクチェンはさまざまなテルマ (gter-ma 埋蔵体系 ) をつうじて相 承されてきた。「北のテルマ (byang-gter) 」「南のテルマ (lho-gter) 」 などと並んで、ロンチェンパの確立したニンティクの体系がその中でも とりわけ有名である。ニンティクの歴史はグル・リンポチェにまでさか のぼる。 8 世紀チソンデウッェン王の招きでチベットを訪れ、密教の移植に決 定的な役割を果たしたグル・リンポチェは、年若くして死んだ王の娘ペ マサルをョーガのカで蘇生させ、のちに彼女に密教「ダーキニーの心滴 (man-ngag-mkha'-'gro'i-snying-thig) 」の灌頂をさずけた。こののち、 グル・リンポチェはこのニンティクの教えを人々の目から隠して、埋蔵 ーで人の世界におけるニンティクの相承はとだえてし の教えとした その間、この教えは「ダーキニーの象徴による相承」をとおして、ダ ーキニーたちに守られてきた。一時、テルトン・べマ・レデル (Padma-Ias-'bral) によって再発見されたものの、完全には伝えられず、 ふたたびダーキニーの世界に閉ざされてしまう。 これを完全に再発見したのが、ロンチェンパである。神秘の霊感の中 で、ダーキニ ドルジェ・パクモ (rDo-rje-phag-mo) カ : 彼にニンテ イク体系の灌頂をあたえたのである。 うしてロンチェンパによって確 立されたニンティクの体系が、 18 世紀ふたたびジグメ・リンパの宗教的 霊感をつうじて新たなよみがえりをおこなって、「ロンチェン・ニンテ イク」の体系として広く知られるようになったのである。 ドウンジョン・リンポチェ「ニンマ派史」から
324 の状態は、「旅をすること」の状態だ、と言われているわけである。 「旅立ちを望む」こととじっさいに「旅をすること」の二つが一つになって、日常の世 界における発菩提心を、かたちづくっている。 これがすべての出発点になる。このような修行からはじめて、たゆむことなく修行を 続け、ついには真理に心の目が開かれてくる、より深い修行の段階 ( トンラム ) に、踏 み込んで行くことができる。このトンラムの体験の中で、純粋な心の本性を体験し、二 元的思考を離脱した状態の心にあらわれてくる、空性の「イェシェ ( 原初的な叡智 ) 」の 働きを知ることができるようになるとき、そこに「真理の世界における発菩提心」が、 生まれてくる。 この「真理の世界における発菩提心」は、儀礼によって獲得できるものではない。そ れはただゾクチェンの瞑想によって、実現できる。しかし、あなたはまだ初心者だから、 すぐにそこに到達することはできない。まず「世俗における発菩提心」の修行から、は じめなければならない。そのためには、私たちのラマに誓願をたてるために、観想によ る儀礼をおこなう必要がある。 いったん自分の心に植えつけはじめた発菩提心の種子を そこねることなく、それをぐんぐんと大きく成長させていくために、この発菩提心の修 行は、いつでもどこでも、しよっちゅう続けていなければならない。そのやり方は、こ
ドウク・ペマ・カルポが語っている。 人の生は囲いの中に閉じ込められた家畜のようなもの 一瞬ごとに死に近づいていく 今日できることをいつも明日にのばしては 人は死の床でうめき続ける生を送る 私たちは膝の上に蛇をのせている臆病者のようにして、あるいは髪の毛に火がついた 美人のようにして、追い詰められた状態を生きているのたから、修行にとりくむのを、 先へ先へとのばしていることはできないのだ。思いたったら、すぐにでも、日常の活動 の一切を停止して、ダルマの修行に入るのがいい 。世俗の世界の仕事は、水の上の波の よ、つこ、 冫たえまなく押し寄せてくる。そして、それにかまけているうちに、あなたは貴 重な時間を失っていくのである。 すべては私たちの決心次第なのだ。世俗の仕事は、私たちがやめようと思えば、その 発とたんに停止する。そう思わなければ、際限なくあなたの時間を食べ続ける。 ロンチェン。ハがつぎのように語っている。
360 死を絶対の孤独に向ける このカダム派の教訓は、ダルマの修行者は、所有にとりかこまれた日常の世界を離れ、 さらには生への執着を離れ、さらには死の時にあってこの世へのいっさいの気がかりを ここに衄られている 離れるという、なかなか壮絶な心意気をしめしている。たしかに、 ことは、正しいと思う。私たちは、今自分が暮らしている、安楽で豊かで幸福な生活を と考えがちだ。そういうものを捨て 捨てることなしに、ダルマの修行もできればいし いかにもおっくうだからだ。そこで、こ て、勇気をもって、困難に出かけていくのは、 んなことを考える。「他の人たちだって、けっこううまくやっているじゃあないか。そ うして見ると、あのラマはたしかに良いラマだ。な。せって、あのラマはダルマと世俗の 暮しを、上手に結婚させているからな」。しかし、ダルマと世俗の暮しを、完全にうま く両立させるなどということは、本当には不可能なことなのだ。 その二つをうまく両立させようというのは、先が二つに別れた針で縫い物をしようと いうようなもの、同じ器に火と水を一緒に注ごうというようなもの、反対方向に走り去 ろうとしている二頭の馬にまたがろうとする上うなもの、いずれにしても、不可能な甘 い考えにほかならない。 日常の人間が、シャキャムニ・ブッダをしのぐことなどできな いが、このシャキャムニにしても、ダルマの追求と日常の世俗生活を一緒くたにするこ
527 グル・ヨーガ 私がこの世界を去って 二八年ののち 三界の神の領域に知られる あらゆる教えの至上のエッセンスが インド大陸の東にすむ 人にあって人にすぐれた ジャ王と呼ばれる者のもとに かくれもなくあらわれる またルー。 トラ山の頂上に ランカ島の王のごとき 劣った生物たちの友のもとに ラクナドルジェによってもあらわれる こう語ったのち、ブッダは入滅なさったそうだ。そして、この予言のとおり、マ、 アヌ、アティの三つの仏教の教えが、地球上に出現した。 まず、マハ ーヨーガがあらわれた。ブッダが入減して二八年ののち、ジャ王の夢に七
この世界のあらゆるものは、たがいに依存しあって存在している。何ひとっとしてそ れだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定 した実体をもつものなど、一つもないのである。ところが、私たちは言葉を使ってこの 現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私で あるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差 異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる。しか し、 いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をも っているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひら 常めいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏みこんでしまう。でも固定した 「私ーなんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるという 無 のだろう。言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とはちがう、こわばった 世界をつくりあげる力をもっている。私たちはそこで固定した「私」に執着するように 無常
ラマとバルドで出会う希望だけは抱いたままで 世界でもっとも貴重なものは、しばしばこの世の表面からは隠され、ふつうの人には、 見えないものである。なにげないものの中、人々から誤解を受けているものの中に、真 実の宝物が存在することがあるのだ。注意深く、努力しなければ、それは見つからない。 ところが、その反対に、世間に向かってはでやかに自分を演出しているものの多くは、 偽物で、ふつうの人々は、簡単にそれにひっかかってしまう。世間的に高い職業につい ていたり、生まれがいし 、と言われたり、そういう人の外面のはでさに、人々の目は、こ やすくあざむかれてしまう。 あなたが、前世から結ばれていた、ほんとうの師を見つけなければならない。そうい 導う師の名前を聞いただけで、身の毛が立ってしまい、彼に出会っただけで、あなたの人 神格まで大きな変化を受けてしまう。そんな真実のラマを探しださなくてはならない。 精 ミラレ。ハの伝記には、真実の師を探しだすことの意味について、たくさんの興味深い AJ 解言が、語られている。若きミラレバに向かって、 = ンマ派のすぐれたラマであったロン の トン・ラガは、こう語った。「おまえが前世から結ばれているラマ、そのラマは南チベ ットのドヲルン寺院にいて、偉大なる翻訳者として知られている人、その名前はマルバ だ。あなたは彼を訪ねなければならない」。その名前を耳にした瞬間、ミラレバの心に、
534 いて、この教えを受けるにふさわしい神と、認められたのである。ヴァジュラバ 神々の世界におりた。そして、アディチッタがあらゆる条件をそなえていることを見て とると、彼に象徴を用いた「王者の方法ーによって、すべての灌頂と口頭の伝授をあた えたのであった。このとき彼は、『神秘の教えの十の伝授 ( メンガク ) 』『七つの灌頂』 『五つの伝授』をはじめとして、あらゆるタントラの開示と秘密の伝授を受けた。ヴァ ーニはアティの教えの伝達にかんする全権を、アディチッタに手渡したのであ ジュラ。、 る。 驚異にみちたこの教えのエッセンスが 神々の三つの世界に知られるようになったからには さらにはブッダの心のすぐれた生まれ変わりが出現して 人間の世界の中央にも広まっていくことができるように アティの教えは、このようにして、神々の世界にまでは達することができた。 いよいよ、その教えは、人間の世界に達することになる。それはどのようにして、お