481 チュウ の世界に存在するものと考えている。そこでは、知覚の仕組みそのものに、魔がやどる ことになる。魔はこうして、幻魔 ( ギャルゴン ) となって、人をおびやかすことになる のだ。そうなると、人々はもはや魔のとりことなり、心は少しも安らぐことがない。そ ういう人々の心理をあてこんで、偽の悪魔払いが横行するのだ。そういう者たちは、こ とあらば、「ああ、そこに、その上に悪霊がいる。おお、下にも悪霊がいる。あれは、 魔物だよ。こちらにも恐ろしい霊がいる。私には見える。あなたの後ろに、それ霊がい る。私がそれを殺してやろうーなどと、もったいぶって、おおげさな悪魔払いをはじめ ては、人々をあざむこうとするのだ。 そのうちに、こういう魔は人々の心の奥深くに住みつくようになり、ときどきトラン スに陥りやすい女性などに、憑くようになる。魔に憑かれた女性は、神の声のお告げだ と言って、ものごとにつぎつぎと断定を下していく。「私は神である。私は霊だ。私は おまえの父親の霊だ。母親の霊だ」などと語りだす。それどころか、ときには、自分は ダルマの守護神であるとか、神であるとか、ロ走るようになり、 いいかげんな予言を下 して、人々の心を支配してしまおうとすることさえあるのだ。魔はしばしばラマにも忍 び込み、ラマは信者の心に忍び込み、ついには国家にも忍び込むようになる。こういう 現象が、いまのような時代には、よくおこる。魔の力が外在化して、あたかもそんなも のが実在しているかのような錯覚をあたえ、そしてその力が猛威をふるうようになるの
る。 修行に入ることを困難にするこの八つの条件は「無暇」の条件といわれている。とり わけこの中でも、地獄・餓鬼・動物という三悪趣に生まれると、修行はまず不可能であ る。動物は愚かさに、餓鬼は飢えと渇きに、地獄の住人は暑さや寒さの苦しさに心をお おわれつくしているからである。 昔のチベット人は「未開の人々」という言葉で、チベット世界の辺境であるロカタな ど三十二の地方に住む部族の人々のことを意味していた。未開の社会に住む人々は、そ の生活のすみずみまで、彼らの宗教に支配されている。他の部族の人々を毒矢で殺して 首を狩ったり、たくさんの生き物を殺して、その血や肉を神霊にささげることを求める 宗教である。たしかにその未開な宗教が、彼らの自然に調和した生活を守っているのは 事実だけれど、殺生や供犠をつづけているかぎり、三悪趣に生まれる原因をつくってい ることには変わりない。 何百年も生きつづける神々の生活は、一見するとこれ以上の至福はないように思われ る。しかし、神々に生まれることも、無暇の一つなのである。神々は眠るがごとき深い 瞑想の中に、安らいつづけ、その境地が絶対だと思いこんでいるため、かえって心を解 放する究極の道を閉ざされている。何百年も生きて、彼らが前の生で積み重ねてきた徳
151 輪廻 こがし ) を食べる。お茶は中国で採れるが、そのときにはたくさんの虫を殺さなければ ならない。 この茶を運搬するのに、中国のタルツェドウ地方では、人力に頼っている。 人が重い荷を背に負って苦しんで運搬してこなければならないのだ。チベットへ入ると、 今度はヤクやロバがその苦しみを肩がわりする。いずれにしても、茶を飲むという楽し みが、ほかの生き物には苦しみの条件をつくりだしているのである。 ツアイ ( だってそうだ。小麦の種をまくために、人々は大地をすきかえす。そのとき 地中の虫たちは地面に投げだされ、それをカラスたちがついばみにくる。畑をつくるた めに、沼を干上げれば、水中にいた動物たちはみんな死んでしまう。こういう連鎖のこ とを想うと、ツアンバを口に運ぶときには、それが虫のだんごのように、思えてくるは ずだ。どんな幸福も、苦しみの条件となることをまぬかれない。 人間にとって、生まれること、年をとること、病気になること、死ぬことの四つは、 必ず直面しなければならない大きな苦しみである。まず生まれる苦しみについて。密教 の口頭伝授は、人間の誕生の過程を次のように描き、教え伝えてきた。この世界には胎 生、卵生、湿生、自生という四つのタイプの生まれ方があり、この中で私たちは胎生に よって生まれてきた。バルド ( 中有 ) に入った心 ( 意識 ) が、女性の胎内で結合した精 液と経血の中に入りこむことが、その出発点になる。バルドの意識が人に生まれてくる かどうかは、その意識の過去の行為が決定する。
る。生きているうちには、魅力たっぷりで、人々を引きつけていたとしても、死体にな ってしまえば、もうみんなは、おそましいもの、恐ろしいものとしてしか、扱わなくな る。ふつうの人々は、そういう死体が、すでに生きている者のうちに、巣くっているこ とが、見えないのだ。だから、生ある状態に執着をいだき、いったん死の敷居をこえて しまえば、同じものが、ひどくおそましいものに、思えてくるのだ。 そこで、人々は大急ぎで、あなたの死体の処理にとりかかる。あなたにあんなに大事 にしてもらっていたのに、もう近くに置いておくのもいとわしいとばかりに、さっさと 死体は土に埋め、川に沈め、墓地に運び込んでしまうのだ。あなたは、もう誰一人親し いものもいない状態で、バルドへの旅に出なくてはならない。あなたが、たよりにでき るのは、もはやダルマの教えだけだ。 、つこうに定かなものでないことは、あなたもよく知っているだ 富や権力の運命が、し ろう。しかし、他人の富や、他人の権力のことだと、それが無常であることは、よくわ かるのに、ことが自分の問題となると、なかなかそのクリアーな認識が、発揮できない もので、いったん手に入れた富や権力を手離したくなくなってしまい、自分だけは例外 たと思い込んで、それに執着をおこすのだ。この世界に、例外などはない。すべての富 と力は、あなたが手に入れたものも含めて、すべてが無常なのだ。それは法則だ。その 法則を、逃れることはできない。
312 おまえは犬を見たのだ。そして、そのときおまえの心にわきあがったすばらしい慈悲の 力によって、おまえの目は完全に正しい視力をとりもどし、私を見ることができるよう になったのだ。信じられないと思うのだったら、私を肩にのせて、人々のところへ行っ てみるがいい」 アサンガはマイトレーヤを右肩にのせて、人々の集まるところへでかけ、彼らにこう たずねた。「私の肩のところには、何がありますか」。人々は答えた。「何もないよ」。少 しだけ心の目の開いた老女だけが、こう答えた。「あなたの肩には、腐った犬の死体が ハュル ( 歓喜の神々の国 ) 」にと のっているよ」。マイトレーヤはアサンガを「ガンデン・ もない、そこで『五つのマイトレーヤの教え』を伝えた。こうして、人の世界には、ア サンガによって、大乗仏教の貴重な教えが、伝えられたのである。 まちがったおこないや思考を浄化するのに、憐れみと慈悲の瞑想にまさるものはない。 それが覚醒への扉を開いてくれる。さまざまな瞑想が、可能だ。それら無数の瞑想を通 して、あなたは自分の心に、強烈な慈悲を植えつけることができなければならない。 生き物たちの苦しみに、深い憐れみをいだく心を得たあなたは、他の生き物たちが幸 福になり、さらにはブッダの真理に触れることができるようになった姿を見たら、さそ かし心が喜びにみたされることだろう。四無量心の瞑想の四番目のテーマは、限りない 喜びの心である。
ラマとバルドで出会う希望だけは抱いたままで 世界でもっとも貴重なものは、しばしばこの世の表面からは隠され、ふつうの人には、 見えないものである。なにげないものの中、人々から誤解を受けているものの中に、真 実の宝物が存在することがあるのだ。注意深く、努力しなければ、それは見つからない。 ところが、その反対に、世間に向かってはでやかに自分を演出しているものの多くは、 偽物で、ふつうの人々は、簡単にそれにひっかかってしまう。世間的に高い職業につい ていたり、生まれがいし 、と言われたり、そういう人の外面のはでさに、人々の目は、こ やすくあざむかれてしまう。 あなたが、前世から結ばれていた、ほんとうの師を見つけなければならない。そうい 導う師の名前を聞いただけで、身の毛が立ってしまい、彼に出会っただけで、あなたの人 神格まで大きな変化を受けてしまう。そんな真実のラマを探しださなくてはならない。 精 ミラレ。ハの伝記には、真実の師を探しだすことの意味について、たくさんの興味深い AJ 解言が、語られている。若きミラレバに向かって、 = ンマ派のすぐれたラマであったロン の トン・ラガは、こう語った。「おまえが前世から結ばれているラマ、そのラマは南チベ ットのドヲルン寺院にいて、偉大なる翻訳者として知られている人、その名前はマルバ だ。あなたは彼を訪ねなければならない」。その名前を耳にした瞬間、ミラレバの心に、
89 人に生まれる がっきる時、神々は知るだろう。神々の瞑想は涅槃にはいたらず、ふたたび輪廻の苦し みの海におちていかなければならないことを。 仏教思想に耳をかそうとせず、排撃しようとさえする宗教や哲学や主義にかたくなな 人々もかわいそうだ。たとえ真理の近くこ 冫いたとしても、そこに真理があることに気づ かずに終わってしまうからだ。二十五年もの間ブッダに仕えて身のまわりの世話をして いたスナクシャートラという男は、ブッダの説く教えにまったく興味をもってはいなか った。そのため長い間ブッダのそばで暮したのに、その心には解放への種子がまかれず じまいに終わったという。心が逆転していれば、目の前にどんなにすばらしいものがあ っても見えないのである。 このような八つの無暇にはばまれることなく、真理の入口へたどりつけた人々は幸せ だ。そんな人々はつぎのような有暇のための十の条件に恵まれているのである。まず、 このうち五つの条件は修行者自身に関わるものである。 人間に生まれたこと。人間の身体は真理にめぐりあい、それを理解し、修行をつ うじて心の解放にたどりつくための、かけがえのないよりどころである。もしもあ なたが人間の身体を得ることがなく、三悪趣の中でもいちばん恵まれている、動物 に生まれたと考えてごらん。動物はたしかに美しい身体をもち、とぎには完璧な能
390 ちばん重要なことは、あなたの心にしつかりと菩提心の種子が蒔かれ、それが大きな樹 木に成長をとげて、人々に休らいを与えることのできる、気持ちのよい木陰となってい ることができるかどうかだ。菩提心が欠けていると、どんなに浄化の修行を積んで、ど んなに瞑想に巧みであったとしても、生者ばかりか死者にとっても、なんの助けにもな らないのだ。本当に、心の底から愛と慈悲の感情がわいてくるようでなければならない。 優しい表情をして、優しい言葉をかけて、いかにもそれらしいムードを出していても、 その人の心の奥底から、強烈な愛と慈悲の感情がほとばしってくるのでなければ、そん なものはただのいやらしい偽善にすぎない。 鳥のように空中へ浮遊したり、岩を通り抜けたり、千里眼を持っているという修行者 はたくさんいる。しかし、もしもそれらの「超人」に、菩提心が欠けていれば、そんな ものはただの見せ物で、人々を本当に救う力などは持たないのだ。「超人ーは、並の人 を越えて菩薩へ向かうかわりに、ヨーガ修行を積んで「魔物」にたどりついていく。そ ういう「超人」は、人であることを越えようとして、人として生まれたことの持つ、も っとも貴重な宝をむしろ失っていくのだ。そんな力がなんだと言うのだ。たとえそんな 力を持たなくとも、菩提心が豊かに芽生えている人には、豊かな実りがもたらされる。 宝はすべて、内側に隠されてあるものだ。 だから、仏性はつねにわかりやすい形で存在しているとは、限らないのである。人々
237 ミラは雹を降らせて、里人を苦しめた。 ミラはもどって、教えを乞うた。マルバが答 える。「おまえはそのぐらいの手柄を立てたぐらいで、わしが艱難辛苦のすえに、イン ドから運んできたダルマを、学びとれると思っているのか。ダルマを学びたいのなら、 まず、呪術を口タク・ラカの人々に差し向けろ。彼らはニャルロンからやってくる、わ しの弟子たちの邪魔をしているからな。それがみごとにできたなら、わしはナロー 偉大な法をおまえに伝えもしよう」 そこで、今度もまた、 ミラは呪術で雹を降らせた。彼はマルバのもとに帰り、ダルマ を求めた。マルバはそれを聞いて、彼をあざ笑った。「はつはつはつ。おまえが犯した その程度の罪が、わしの知るところの神聖な教えに値すると思うのか。大馬鹿者め。こ のダルマは、ダーキニーの炎のようなもの、わしは生命の危険を犯して求めてきた。お 導まえの使う呪術程度のものが、それに値するなどと思ったら、大間違いだ。おまえはヤ の ルトクの人々の被害をうけた畑を元通りにして、ひどい目にあったラカの人々に、つぐ 神 とないをしなければならない。それができたら、わしはおまえにダルマをあたえよう。で 解きないのなら、もうわしの前にはあらわれるな」 の マル。ハはミラをひどくしかりつけた。絶望に打ちひしがれたミラは、ただ位くばかり や - 」っこ 0 翌日、マルバがやってきて言った。「きのうはすまなかった。気にするな。教えない
三十の心からなる戒め 貧しい人々からたくさんの寄進を集め、 みごとな仏像や記念の建物を建て、気前よく布施することは、 他の人々に、善の土台の上に罪を積ませる因となる。 自分の心を善となすこと。これこそ、私の心からなる戒めだ。 みずから偉大であろうとして、他人にダルマを説き、 たくらみを弄して、富貴な人や素朴な人を、自分の取り巻き にする。粗大なる実体に執着する心は、驕り高ぶった心を生 む因となる。 遠大なる計画をもたないこと。これこそ、私の心からなる戒 めだ。 631 商売や高利貸しのような偽りに汚れた行為をおこない、 誤った手段で蓄積した富を、大いなる供養にささげることも できようが、貪欲によって手に入れた善は、世俗の八法を動 かす因となる。 欲望を捨てることを修得する。これこそ、私の心からなる戒