444 マンダラと考えることができる。つまり、四つの大陸で構成された私たちの住む小宇宙 をつつみこむ「三千大千世界ーといわれる宇宙の全組織の上に、寿命、功徳、幸運、カ などをはじめとして、過去・未来・現在にわたって集積された善行のすべてをそえて、 応身のマンダラをつくりあげ、ラマや神々にささげていると想像するわけである。 この応身マンダラの上に、神々の浄土を飾る宝飾と、五感の天女たちにみたされた報 身のマンダラをありありと見なさい。この報身の秘密マンダラは報身の神々にささげら れる。 さらに報身マンダラの上には、法身の神々にささげる法身の極上マンダラが観想され る。法身マンダラの供物には、輪廻と涅槃、現象と空が同一であることを知るこのうえ ムドラー シチェなどの見解がおかれている。 なく高いゾクチェン、マ、 マンダラを左手に握り、このような重層的な観想の中に深く沈潜し、深い信をこめな がら、つぎのような詞章を唱えなさい。 オーム・ア 1 ・ 小宇宙と大宇宙のすべてに 七種の宝と神と人の富をみたし 私の身体と徳をそえてささげますゆえ
しかし、それは生き生きと活動している。そこには見るものと見られるもの、主体と対 象の区別はなく、自己とその外の世界にあるものを分ける「二元論」も、働いてはいな い。だから、ここは平安このうえもない状態なのである。この法身から、光が溢れ出て くるようにして、知性的な力が、放射される。それが報身と呼ばれる。法身をよく磨き あげた鏡にたとえれば、そこからやってくる光を、報身ということが出来るだろう。応 身は、この報身から流れ出す。報身の知性力は、たとえば歴史上のシャキャムニのよう に、さまざまな姿をとって、輪廻に迷う者を救うために、ブッダの応身となって、私た ちの世界にあらわれるのである。 つぎの「ニンティクーという言葉は、さらに密教的な色彩の濃い内容をもっている。 あとで詳しく説明するように、密教の全体は、所作タントラ、行タントラ、ヨーガタン トラ、無上ヨーガタントラという、四つのクラスのタントラでできている。このうちの、 無上ヨーガタントラには、マモ ( 母 ) とか、ダーキニー ( 空を行く者 ) などと呼ばれる、 多くの女性の神々が、重要な役目をはたしている。彼女たちは、修行者を助けて、すみ やかに奥深い神秘の体験に、 いざなってくれる。私たちがこれから学んでいく密教の体 系にも、たくさんのダーキニーが登場してくる。そして、彼女たち女神の心は、ゾクチ = ンの状態にある。「ニンティク」とは、そういう彼女たちの心のエッセンス、「心の 滴」を意味している。つまり、「ニンティクーという言葉は、女神の心を通して実現さ
494 赤の三重の衣をまとっている。その頭には、かってサホール国 ( 北インド ) の王がグ ル・リンポチェに賜わったパンデイタの帽子をかぶっている。 ・リンポチェを恐れて、捕えて大きな釜の中で焼き殺そうとした。 サホールの王はグル だが、王が灼熱する釜をのそぎこむと、金剛の身体に変身したグル・リンポチェは、美 ・リンポチ しい蓮の花の上に心地よげに坐っていた。これを見た王は大いに驚き、グル 工にたいする深い信頼をいだくようになり、身にまとっていた衣と帽子をさしあげたの である。この帽子は「ペマ・トン・ドウル ( それを見るだけで解脱を得る蓮花 ) 」とも呼ば れている。 この帽子は二段の折りかえしがついていて、生起次第と究竟次第という二つの瞑想プ ロセスが分かちがたく結ばれていることを象徴している。てつべんの三叉はブッダの三 身 ( 法身、報身、応身 ) を、さらに五つの色が仏陀の五身 ( 法身、報身、応身、金剛身、本性 身 ) を象徴するようになっている。帽子の前面には方便と智慧を象徴する月と太陽が輝 き、ふちどりの青は固いサマヤ戒を表わしている。頂きには金剛ものっていて、これは サマーディ 不動の三昧を、そのまわりの羽根は、グル・リンポチェの見解がさえぎるものもなく この帽子には密教的な象徴がどっさ 高く飛翔していることの印である。こんな具合に、 りつめこまれている。 右手につかんだ金剛を胸のあたりにあて、左手には不死の甘露をなみなみとたたえた
真理の法輪たえることない世界をおあたえください 空性大楽にみちるアカニシタ天に 五つの根源的智慧のしるし五種の堆積をおき おびただしい五感天女の雲をそえてささげますゆえ 報身の世界に参入できますように 清浄なすがた童児の身体に 不減の慈悲あふれる法身の戯れの宝飾を整え 金剛身と心滴が知る浄土をそえてささけますゆえ 法身の世界に参入できますように 「オーム・アー・ る フーム」は、あなたがつくったこのマンダラを浄めるために唱える。 「オームー音でマンダラ上の供物を浄め、「アー」音でこれを法身・報身・応身の三身の さ ムドラー ブッダや神々の供物にふさわしい密教的象徴物に変身させ、「フーム , 音は、想像力を ダかりてこの供物を巨大な堆積に成長させるのである。この詞章ではとくに法身マンダラ についての部分が難解である。「清浄なすがた童児の身体」とは、すべての母胎である マ 心の本然のありようをさしている。心はその本然のありようにおいては、何ものにも染 まることなく、何ものによっても動ずることなく、生ぜず、また減せず、清浄で生き生
34 ゾクチェンの相承系譜 クンツサンポ (Kun-tu-bzang-P0) 法身 (chos-sku)o 未発 力が内蔵されている。 金剛薩垣 (rDo-rje-sems-pa) 報身 (longs-sku)o 何も のにもとらわれず、法身 から自然にたちのぼる純 粋な光の放射力をあらわ し 0 イ
411 金剛薩の瞑想 からは六十四本の光がななめ上方に向けて放たれ、胸の法身輪からは八本の強い光がな なめ下方に、のどの報身輪からは十六本の光がななめ上方に向けて、また頭頂大楽輪か らは三十二本の光がななめ下方に向けて放たれているのをはっきり見とどけなさい。甘 露が頭頂大楽輪をみたす時、あなたは快感にみたされ、行為のもたらした汚れを浄化す る「瓶の灌頂」を得たといわれる。のどのチャクラをみたすと、このうえもない快感に みたされ、煩悩をのそく「秘密灌頂ーを得る。甘露が胸のチャクラをみたす時、特上の 快感をお・ほえ、叡智をはばむ障害をのそく「智慧の灌頂ーを受ける。そして、へそのチ サハジャ ヤクラにまでたどりつくと、あなたは「具生」と呼ばれる甚深の快感を味わい、アーラ ャ識を浄化する「言葉の灌頂」を受けたことになるのである。 これまで、観想を進めながら金剛薩垣の真言を唱えつづけてきたが、ここでそれをや め、四つの灌頂を得たことで、あなたの心の連続体に、応身・報身・法身・本性身とい う・フッダの四つの身体を得る条件がそろったことを知りなさい。できるだけ長く、この 至福の状態にとどまりつづけ、ついでつぎのように唱えなさい。 守護者よ、無知と愚かさゆえに私は サマヤ戒をおかしました ラマ守護者よ、私をお守りください
「高度な報身のボワ」は、生起次第と究竟次第の瞑想に、ともに熟達した人のおこなう もので、これもやはり、恵まれた人のためのボワだと一言える。この人たちは、生きてい るうちに、イェシェの波動パターンの中から生まれてくる神々のイメージに、慣れ親し んできた。そのために、死後の意識の中に発生してくる、これらの神々の姿を熟知して いるので、バルドにおいて、それが光とともに出現したとき、自分の心をそれに同調さ せ、そこに溶け込ませてしまうことがでぎるのた。イ = シ = の運動に自分を一体化でき 法る、という意味で、これは「報身のボワ」と呼ばれるのである。 体「普通人の応身のボワ」は、一般の密教修行者のためのものである。そういう人は、生 るきているうちに、密教の灌頂を受け、サマヤ戒を守った生き方をし、神々の姿を観想す ド」の教えも理解することが 変る瞑想も体験し、また死後の意識の体験にかんする「 ( ル 移でき、いよいよ自分の死を迎えた、という人々である。こういう言葉が残されている。 を 意 卵生の門を閉じ墜落の危険を想起するとき 勇気と純粋なヴィジョンを必要とする、まさにそれがその一瞬 ワ バルドを通過して、つぎの再生に移るとき、卵の中やよくない母胎に、心が飛び込ん でいこうとするのを阻止して、心の中に大いなる慈悲がわきあがってくる、その瞬間を
のために、これは数あるゾクチェンの近代的「テルマーの中でも、もっとも有名なもの となり、たくさんの修行者が、この体系を通してゾクチェンの悟りを得ようと、修行し ている。 「ロンチェンーとは、文字どおりには「際限のない空間ーを、意味している。もちろん ここで言われている「ロン」は、たんなる物理的空間のことをさしているのではなく、 生命体に条件づけられていない、純粋状態の心の様態のことを、さしている。しかも、 「ロンーという言葉には、なんというか、渦巻き状をした運動の感覚が、ふくまれてい る。つまり「ロン」は、心の本然が、ダイナミックな運動をはらんでいる、ということ を、伝えようとしているのだ。しかも、それは中心もなければ境界もなく、限りなく広 大であるために、「チェン ( 大ぎい ) 」と呼ばれる。「ロンチェンーとは、・フッダの心がし めす三つの様態である、法身 ( ダルマカーヤ ) 、報身 ( サンポガカーヤ ) 、応身 ( ニルマナカ ーヤ ) のうちの、法身にあたるものなのである。 ブッダの心の三つの様態をしめす「三身」についての、深い内容を教えることは、ま にだ先にゆずろう。ここではただ、簡単な説明を加えておくだけにしよう。法身とは、 じっさいの思考を超えた、空性の心をさしている。そこには、宇宙のすべてをつくりだす 情報 ( ョンテン ) が内蔵されているが、すべてがまだ未発のままにあって、空間にも、 時間にも、物質にも、意識にも展開していない状態にあるのだ。それは微動だにしない。
524 することなく、またあやまっことなく、今日に伝えられたのは、ひとえにグルから弟子 へと伝えられ、注がれた、教えの伝達のおかげなのだ。私たちは、そのことに感謝しな ければならない。そこで、私たちも、その詞章を唱えてみることにしよう。そして、そ れを理解するために必要な知識を、この場所を利用して、あなたに教えておくことにし よう。 この教えがはじまって間もない頃、私はすでにゾクチェンの相承について、簡単なあ らすじを、あなたに教えておいたのを、おぼえているかい。そのときは、ゾクチェンの 教えが、「勝者の霊感による相承 ( ギャルワ・ゴンパイ・ギ = ウ ) 」と「象徴による持明者 の相承 ( リクジン・ダイ・ギ = ウ ) 」と「人の耳で聴問することによる相承 ( カンサク・ニ = ンクンドウ・ギ = ウ ) 」の、三つのやり方で伝えられたことを、教えた。ここでは、そ れをもっと詳しく説明していくことにしよう。 「勝者の霊感による相承」は、クンツサンボにはじまる。はじまる、と言っても、クン ッサンボ自身には、時間と空間による限定がいっさい存在しないので、そこにははじま りもなければ終わりもない。そのようなあり方で、この・フッダは「はじまりのブッダ」 なのである。 このはじまりの・フッダであるクンツサンボから、すべてのブッダたちの浄土も、そこ で説かれる教えも出てくる。つまりクンツサンポが自性身、法身、報身、応身という四
568 趺坐している。四本のうち二本は胸のあたりで合掌し、残りの右手に白い貝からっくっ た数珠をつまみ、左手には白蓮花の花輪が握られている。その身体は報身のさまざまな ヴァジュラ 宝飾でかざられている。阿弥陀の左側には、あらゆる・フッダの力を一身に集める金剛 手が、青色の静かな菩薩の姿をして坐っている。一面二臂で金剛と金剛鈴を胸のあたり で組んで、報身の宝飾にかざられて結跏趺坐している。観世音菩薩と金剛手菩薩は、輪 廻に迷うものを救うため、今にも立ちあがって動きだしそうだ。 この三人のまわりの青空のようにすんだ空間には、この解脱への奥深い道、ボワを相 承してきたラマたちが雲のようにつどい、すべての生き物たちが輪廻と三悪趣から解き 放たれて、大いなる楽にみちた浄土に休らうようにという願いをこめた優しいまなざし で、生き物たちを見つめている。ヴァジュラ・ヨーギニーであるあなたは、そこで、つ ぎのように唱えなさい。 エマホー 一瞬にして軽々とたちあらわれた清浄このうえもない空間に 全容をあらわした「銅色に輝く聖山」のただなかに立っ 私の身体はヴァジュラ・ヨーギニー 一面二臂のあざやかな赤色の身体に骨器と曲刀を握り