と、たとえ生起次第や究竟次第の高度な瞑想をしても、けっして「イ = シ = 。が体得さ れることはない。そのかわりに、この世界の奥底にひそんでいる魔の力を呼び覚まして しまうことになる。 昔、チベットの山中で、たった一人で修行にはげんでいる行者の岩窟に、泥棒が忍び こんだという。明かりがないので、泥棒は手さぐりで、金目のものはないかと、探しま わった。行者のほうはそれに気がついていたから、息をひそめて泥棒の近づくのを、待 っていたそうだ。泥棒が近づくと行者はその腕をひねりあげて、頭を三度つづけざまに なぐり、なぐるたびに帰依の文句を一句ずつ、大声で唱えたのである。「ブッダに帰依 する」でゴッン。「ダルマに帰依するーでまたゴッン。「サンガに帰依するーで、三つ目 のゴッン。行者は泥棒を三度なぐって放してやった。その晩は雨が降っていたので、泥 棒はおおいそぎで近くの橋の下に駆け込み、考えた。 「帰依するところが三つしかなくて、三つぶたれるだけですんでよかったな」 泥棒は、帰依の文句を思い出して、ロに唱えてみた。 「・フッダに帰依する、ダルマに帰依する、サンガに帰依する、か」 すると、折しもこの泥棒に危害を加えてやろうと、橋の下に集まってきた魔物たち、 この帰依の言葉を聞いて、一目散に逃げて行ったそうだ。帰依は魔物よりも強し、とい うお話だな。
276 顕密あわせて、仏教のあらゆる側面に精通していた、偉大なアティーシャはつねづね、 どんな修行よりも帰依こそがもっとも重要なものだと、まわりの者たちに説いていた。 そのために、人は彼のことを「帰依のパンデイタ」と呼んでいたそうだよ。 帰依の大切さを、あるお経には、こう説いている。 ・フッダに帰依した者は 正しい道を歩む修行者 ほかの神々のもとに 帰依を求めたりしない ダルマに帰依した者は まちがった考えを抱かない サンガに帰依した者は 外道の考えを友としない 鋭い知性をもった人々の中には、三宝に帰依はしているのだけれど、それらを象徴表 現した仏像とか、聖なる教えを記したお経などを、うやうやしくあっかうのをいやがる 人たちがいる。そうしたものは、描かれたものだし、書かれたものだから、たんなる象
るのである。仕事や用事で、どこかほかの土地にでかけなければならないときにも、あ なたは自分の家にあるとぎと同じように、帰依を続けなさい。どこにいても、あなたは 「ロンチェン・ニンティク」の帰依の文句を唱えるのを、やめてはいけない。あるいは、 仏教の教えのシステムすべてに共通する、つぎのような帰依の文句を、唱えるとよい ラマに帰依します ブッダに帰依します ダルマに帰依します サンガに帰依します 帰依の心を、始終保ちつづけていることができれば、最高だ。たとえば、夜眠るとき、 あなたは自分の胸のチャクラの場所に、「集会樹」につどう神々の姿を観想し、自分の 心をそれに溶け込ませたまま、静かな眠りにつくようにしなさい。これが、最初からは 依難しいようだったら、ラマと三宝が深い慈悲のカで、あなたのそばにあることを思い あなたの耳のところに安らっていてくれる様子を想像しながら、眠りなさい。 目覚めているときにも、帰依の心を持続させる訓練をつづけなさい。お茶を飲んだり、 食事をするときにも、目の前に「集会樹」をありありと観想し、まずそれに想像力の中
これから、私たちは密教の加行に入っていこう。密教の加行は、帰依、発菩提心、金 剛薩垣の瞑想、マンダラ供養、チュウ、グル・ヨーガの六つの修行でなりたっている。 この六つの瞑想修行をくりかえし深めていくことによって、はじめてゾクチェンの世界 への扉が開かれる。そしてそれらすべての出発点が、これから学ぶ帰依にある。 密教でおこなわれる帰依は重層的な意味をもっている。まずそれは普通の仏教と同じ、 ブッダとダルマとサンガ ( 僧伽 ) の三宝に対しておこなわれる帰依であるが、同時にそ イダム れはラマ・守護神・ダーキニーという密教修行の三つの柱に対する帰依でもあり、また ツア ティクレ 《管》《風》《心滴》という私たちの身体を構成していゑ三つの純粋な基体への帰依で 依あり、さらにまた法身・報身・応身という、ブッダの三つの身体への帰依でもある。存 在世界はいくつもの異なる層でできている。密教の帰依は、この存在世界のもっとも奥 深い真理にむかってなされるから、おのずからこういう重層的ななりたちをもつように 幻なっているのである。まあ、しかし、それについての詳しい説明はあとまわしにして、 1 帰依
254 する信の力を強くする。と、こんなふうに信と真実のめざめとはきってもきれないつな がりにあるのだ。 その昔、タクボ・リンポチェがミラレバの許を去る前に、師にこうたずねたと言う。 「ジェッン ・ミラ、私はいつ、人々にダルマを説くことができるようになるでしよう」 これにたいしてミラレ。ハが答えた。 「ある日、おまえにも覚醒のときがきて、そのときにはこの世の一切のものが以前とは おやじ 異なる姿で見えてくるだろう。そうすると、おまえの老い・ほれた父親のようなこのわし が、現実のブッダそのものだという確信が生まれてくるだろう。その時から、おまえは 人々にダルマを説くようになるだろうさ さて、帰依そのものにもその力に応じて、すぐれた帰依、中くらいの帰依、ささやか な帰依という三つほどのちがったタイプがある。ささやかな帰依というのは、地獄・餓 鬼・動物の三悪趣の苦しみを知って、なんとか自分はそういう苦しみを逃れて、人や神 の幸福な状態を得たいという願いをこめてする帰依をいう。これにたいして、たとえ神 に生まれようと、輪廻にあるかぎり苦しみから逃れられないことを知って、この輪廻を 出た解脱の状態に安らぎたいという願いをこめて帰依をおこなうなら、それは中くらい の力をもった帰依であるといわれる。しかし最もすぐれているのは、この広大な苦しみ の海に沈んたすべての生き物が心の解放を得ることを願ってする帰依である。もちろん
いの生き物のためにある。それは、まず、ラマと三宝のための捧げものとしてだけ、意 味をもつようになるのだ。こういう訓練をつづけていると、眠っているとき、恐ろしい 夢を見たときにも、夢の中ですぐに帰依をおこなうことができるようになる。そうする と、死後・ハルドの状態に入っていったときにも、恐ろしい光の体験の中で、帰依をおこ なうことができるようになる。だから、あなたの生命が失われようとしているときにも、 この帰依の心をやめてはいけないのだ。 昔、インドのある仏教徒が、敵対していたヒンドウ ー教徒に捕えられ、「おまえがそ の帰依の文句を唱えるのをやめたら、殺さないでいてやろう。でも、やめなければ、こ の場で殺してしまうそ」と、おどされた時のことである。その仏教徒はそれにたいして 「言葉で唱えるのはやめても、心で唱えるのはやめない」と答えて、その場で、たちど ころに殺されてしまったという。これほどの心構えがあったら、すばらしい 帰依の心がないと、 いくら高度な瞑想技術にたくみになったところで、真実はわから ずじまいだ。ラマと三宝にたいする「外の帰依」と、密教の神々や「ツアルン ( 神経生 っしょになってはじめて、密教の 依理《管》と《風》 ) 」にたいする「内の帰依」とが、い 帰瞑想技術のようなものも、たんなる技術であることをこえて、真理の目覚めに役立つ、 ほんもののダルマの道具となることができるのである。そうでないと、密教の修行は、 人をとんでもない場所に連れていってしまう。だから、くれぐれも帰依は大切なのだ。
密教の加行に入ったあなたに必要なのは、輪廻に迷うものすべてのためにおこなう、こ の最もすぐれた帰依であることはいうまでもない。 そこでこれから、どうやってその帰依の瞑想修行をおこなうか、その説明に入ってい くことにしよう。前にも言ったように、密教の帰依は重層的にできていて、一度にい つもの異なった次元のものに帰依をおこなう。仏教にはさまざまな教えと修行の体系が あるけれど、そのどれもに共通しているのは、ブッダとダルマ ( 仏法 ) とサンガ ( 僧伽 ) の三つにたいする帰依である。この三つへの帰依は、仏教全体の基礎であって、密教も その例外ではない。 密教はそれからさらに、ラマ・守護神・ダーキニーの三つにたいして深く帰依する。 ラマは過去・未来・現在にわたるあらゆるブッダたちを一身に集めた、ブッダの本性と 異なるところがない存在である。このラマにあなたの身体・言葉・意識のすべてをささ 依げていくのである。もちろん顕教でも師にたいする尊敬は説いているけれど、タントリ ックな修行でラマのはたしている重要性とは比較にならない。 プルバやハヤグリーヴァ ( 馬頭ヘルカ ) やマ、 ーカーラ ( 大黒 ) などの守護神たちは、 恐ろしい忿怒の形相をしている。彼らは飲血の神 ( ヘルカ ) とも呼ばれ、誤った自我の
270 いつどこにいても、帰依の集会樹と離れないでいる心をもっことが大切だ、とラマた これは尊敬を ちは説いてきた。歩く時は右肩の上のあたりに集会樹を観想するとよい こめてそのまわりを右回りするという意味だ。坐る時には頭上に観想して祈りをささげ るのである。食事やお茶の時は、のどの所に集会樹を観想して、それに供物をささげな さい。寝る時、集会樹を胸の中におさめれば、あなたは光の中で眠りにつくことができ るだろう。 こうしてあなたはラマ・守護神・ダーキニーという密教修行の三本の柱、《管》《風》 《心滴》という金剛身の三つの基本、本体・自性・抱摂力という心の本性の三つの様態 に帰依し、これから先の瞑想修行の中で、その帰依を完全なものにしていくわけである。 それと同時にあなたは・フッダ ( 仏 ) ダルマ ( 法 ) サンガ ( 僧 ) という、仏教全体の基礎で ある三宝に帰依し、日常の暮しの場面場面で心をひきしめて、三宝への帰依を磨いてい くことが大切だ。 まず・フッダに帰依してのちは、この輪廻の中にいる神々をよりどころとするのはやめ なさい。どんなに力の強い神霊であっても、最終的にはあなたをこの輪廻から救いだせ ないからである。またダルマに帰依してのちは、他の生き物たちをけっして苦しめては いけない。たとえ夢の中でも、他の生ぎ物に害意をいだいてはいけない。さらに・フッダ の精神共同体であるサンガに帰依してのちは、心の美しい人たちだけを友とし、ラマや
はずして、ツアツアを元通りにした。 かくして三人が、つぎの生で王様となる幸運を与えられたと、この民話は語っている。 三人というのは、ツアツアをはじめに作って奉納した男、つぎにそれに靴底をかぶせて やった男、そしてそれをはずした男の三人である。心の単純さが、彼らをよい人生に導 いていったのだと言える。仏性の種子は、どんなかたちでも、人の心に蒔かれていくも のなのである。 帰依によって、自然と不善から遠ざけられていくと、 ~ 則に言った。そればかりか、帰 依によって、すでに積み重ねられてしまったカルマの堆積物でさえ、消されていくのだ。 自分の父親を殺したアジャータシャツル王は、そののち深く三宝に帰依することによっ て、七日間灼熱地獄を体験するだけで救われた、という話もある。また、恐ろしい三つ の罪をおかし、そのために即座の死に見舞われたデーバダッタは、地獄の熱の中でブッ ダの教えに、深い帰依の心をおこし、こう叫んだという。「私はこれより、骨の髄まで ブッダに帰依します」。この言葉のおかげで、彼は独覚ルバチェンに生まれ変わること 依ができたのである。 その反対で、ラマと三宝への帰依をおこたったり、自分の帰依の祈りに疑いをもった りすると、たとえどんなに輪廻を離れようという気持ちが強くとも、心の解脱を得よう とする決心がどんなに強くとも、嘘の才能にだまされ、精神を弱らせ、間違った考えに
ダルマの悪口を言う人、密教の神々をあざ笑う人などを友としてはいけない。 それに、ブッダに帰依したからには、どんなにちつ。ほけな仏像でも・フッダそのものと 思い、そまつにせず心をこめて信をそそぎなさい。ダルマに帰依してからは、教えが記 してある書物は、どんなきたない紙きれでも曇りない心であっかいなさい。またサンガ に帰依してのちは、黄や赤の僧衣の切れ端を見たら大事にひろいあげて、敬いの心であ つかうことが大切である。チベット仏教の考え方では、これらすべての帰依の基本が、 ラマにたいする敬いの心から生まれるのである。ラマは生きた人間で、しかもその生き た人であるラマとの精神の絆をとおして、私たちは真理に開かれていくのである。だか らラマの言葉に注意深く耳を傾け、その言葉に忠実に従って生きていくことを、心がけ なければならない。 とくに密教の修行に入ってからは、帰依をおこなう対象である「集会樹」の中心にい るグル ・リンポチ = は、まさしくあなたのラマの真実の姿なのであると、考えることが できるようにならなければいけない。 ラマの身体はサンガであり、その言葉はダルマ、 依その心は・フッダそのものなのだ。そうやっていつでも、現実と真理の間を自在にゆきき できる精神を、つくりあげる必要がある。 帰依をおこなってのちは、あなたの心に生まれる喜びも苦しみも、善も不善も、すべ てをラマを中心とするこの「集会樹ーに、打ち明けていくようにするとい