と。 囲なことを頭で理解したって、本物の平等心が身につくことなんかありえない、 平等心の瞑想は、「賢者の宴会」とも呼ばれる。賢者が宴会を開くときには、この世 界にありとあらゆる者を、招待する。富んだ者も貧しい者も、高い地位にある者も恵ま れぬ者も、カの強い者も弱い者も、正しい生き方をしている者も不善をなしている者も、 すぐれた能力の者も劣った者も、すべてを分けへだてなく、もてなす。こういう風に、 宇宙の〈ちり〉にいたるまで、平等な慈悲を注げるようになれたら、すばらしい。そう なるまで、瞑想を続けなさい。 こうしてあなたの中に、広い平等の心が生まれてくるようになったら、今度はその平 等の心をもって、この世界にありとあらゆる生き物のことを想像して、そのすべてが深 深とした、そして広々とした愛の空間につつまれている様子を、ありありと見ることが できるような、心の訓練をはじめるのである。 その空間にみちている愛の感覚を実感するためには、つぎのように考えていくとよい 人の親は子供を育てるときに、その子供が将来、親の愛情に恩を感じてくれるかどうか、 そんなことにはまったく無頓着に、どんな困難でもがまんして、その子供が気持ちよく、 幸福で、優しさにつつまれた状態で育っことができるように、自分のすべて、身体と言 葉と意識のすべてをつくして、自分を儀牲にしてくれるものである。そのことを考えな がら、あなたはすべての生き物が、今の生と来世とにわたって、幸福で困ったことがお
心、がまえ うことができるのだ。 その反対はどうか。『ドウワ・ルン』という本の言葉を引用しておこう。 尊敬の心をもたない者 病気でもないのに、かぶりものをとらない者 傘や杖や武器を手ばなさない者 頭に布を巻きつけている者に 教えを説いてはならない へりくだった気持ちで、魂のネクターを飲みほすようにして、あなたは教えに耳を傾 けなくてはならない。
276 顕密あわせて、仏教のあらゆる側面に精通していた、偉大なアティーシャはつねづね、 どんな修行よりも帰依こそがもっとも重要なものだと、まわりの者たちに説いていた。 そのために、人は彼のことを「帰依のパンデイタ」と呼んでいたそうだよ。 帰依の大切さを、あるお経には、こう説いている。 ・フッダに帰依した者は 正しい道を歩む修行者 ほかの神々のもとに 帰依を求めたりしない ダルマに帰依した者は まちがった考えを抱かない サンガに帰依した者は 外道の考えを友としない 鋭い知性をもった人々の中には、三宝に帰依はしているのだけれど、それらを象徴表 現した仏像とか、聖なる教えを記したお経などを、うやうやしくあっかうのをいやがる 人たちがいる。そうしたものは、描かれたものだし、書かれたものだから、たんなる象
ていくと、そこには同じ恐ろしい者たちがいつ。よ、 をしした。美女たちが南に行くと大変な 目にあうと言っていたのは、このことだなと思った彼は、それでも中に進んでいった。 すると、そこには回転する鉄の輪が人の頭にくいこんで、脳みそをけずっているではな いか。彼は脳みそをけずられている人にたずねた。 「あなたはいったいどんなことをして、こんな苦しみをなめているのですかー 赤い目の男は答えた。 「私はかって母親の頭をけりあげるという罪をおかしたため、今こうしてその報いを受 けています。あなたのように徳のある人が、どうしてこんな所にきたのですかー 彼は考えた。自分も母親の頭をけりつけたのだから、ここで同じ報いを受けなければ ならない 、と。するとその時、天空から「縛られた者を解き放ち、解き放たれた者を縛 りあげよ」という声が響いたかと思うと、鉄の輪が彼の頭にうなりをあげて襲いかかり、 脳みそを砕きはじめた。その苦しみはたとえようもなかったが、彼の心には、ここにい る自分と同じ罪をおかした者たちへの深い憐れみの心がっきあげてきて、「ここにある 者たちの罪がすべて私の中にのりうつり、その者たちすべての苦しみを私一人で味わえ ますように」という祈りをささげた。するとその瞬間、鉄の輪は空中に消え去り、「鉄 発 の家」の苦しみも消えていったという。 心の覚醒を求める者にとって、自己を犠牲にして利他をおこなうことは欠くことので
した善のストックがなければ、願いはいっこうにかなえられることはないだろう。 昔、一人の修行者が、山中の小屋で、孤独な瞑想に打ち込んでいた。彼は、自分の命 をけずるようにして、守護神「ダムチェン」の瞑想をおこなっていたのだ。その成果あ ってダムチェンはまるで生きている人のように、彼の前に出現し、彼と言葉を語るまで になった。ところが、そんなに瞑想は進んだはずなのに、その修行者の心には、 うに達成の徴があらわれてこなかったのである。ダムチェンの神が、彼に話しかけた。 いくらお 「お前は過去に、満足な布施の功徳を積んでこなかっただろう。そのために、 前ががんばってみても、わしが力を注いでみても、お前に達成をつくりだすことがでぎ ないのだよ」。ある日、その修行者はたくさんの僧や修行者たちといっしょに、お堂の 中にいて、人々からの施しを受けていた。僧や修行者たちは、自分の前におかれた小さ るな鉢に、トウクパ ( スープうどん ) をもらっていた。その時、彼の前にふたたびダムチ さ エンの神があらわれて、こう言った。「今日は、わしもがんばって、ようやくお前に達 を成の徴をやることができたが、お前にはわかったかな ? 」。修行者はロをとがらせた。 「トウクパをもらうぐらいのことは、私だけではなく、みんなも同じようにしてもらっ ダ ン ていたことでしよう。なんでそれが、達成なのです ? 」。そこで、ダムチェンが語った。 マ 「なんにもわかっていない。わしの努力によって、お前のもらったスープにはたっぷり の油が入っていたはずだ。わしがお前にあげることのできる達成とは、そのぐらいのも
の者にとって、死は行為の因果を教える最良の教師であるーにはちがいないけれど、も うその時では遅いのである。閻魔王の使者が到着し、バルドの光の中に入っていく時も、 誰一人助けてくれるものはいない。 この時、死にゆく者を助けてくれるのは、ただ真理への帰依とその修行だけである。 どうして身体が元気で力もあるうちに、それをしてこなかったのかと、死にゆく者の心 はくやんでもくやみきれない思いでいつば、だ。 あなたがどんなに気立ての良い人だったとしても、世の中には、そういうあなたをう らやんだり、ねらったりしている、潜在的な敵が、一人や二人はいるものだ。あなたが 豊かな暮しをしていれば、それをねらっている泥棒がいるだろうし、かわいがっている 立派な家畜たちに、舌なめずりしている狼だっている。たくさんの富や幸福をもってい ればいるほど、あなたはそれで不幸を味わうことになる、可能性をもっているわけだ。 ナーガールジュナが、「なにかを獲得し、それを守り、増やしていこうとするのに悩ま され、富というものは、際限のない苦しみの源泉であると知れ」と語っているのは、ま 廻ったくこういう現実をさしているのだよ。 また、 ミラレバもこう衄っている。 はじめ、富は得た者を幸福にし、得られなかった者を嫉妬深くする
こんな姿に生まれついたのだと語りだした。ブッダは怪魚に、不善の行為を告白し悔い 改めるための祈りの詞章を教え、怪魚は深い信をこめてその祈りをささげ、自分の罪を 浄化することができたという。怪魚は死んで神に生まれ変わったのだ。 いくらあなたが真面目にし もう少しつづけよう。馬鹿話にうつつをぬかしていると、 ゃべる時があったとしても、人はまた冗談ばっかりとまともに受けとってくれなくなる。 貪りの心をいだけば、何をやっても望みどおりにいかず、かえっていやなことばかり起 こるようになるだろう。他を害する心の持ち主は、恐怖や懊悩に心ふたがれ、また誤っ た見解に心おおわれた者は、いつも逆立ちして歩いているようなもので、ゆったり調和 のとれた生活は望めない。 ところで、私たちの中のある者は気候温暖で恵まれた土地に生まれてくるのに、ある 者は厳しい気候とやせた大地に生まれてくる。そのことに意味があるとしたら、それは 不善の行為の果が第三のタイプとして、生まれてくる環境にあらわれてくるからである。 殺害をおかした者はまったく不毛の土地に生まれ変わってくるだろうし、盗みをおか 果した者は、穀物の種子をまいても霜にすっかりやられ、木々には果樹が実らず、たえず 飢餓にさらされる土地に生まれてくることになろう。邪淫の者はズブズブとぬかるんだ 腐った土地に生まれてくる。嘘は不信におおわれた場所に、争いごとをまねくおしゃべ りは何をやっても途中でゴタゴタが起きる環境に、また粗暴なののしり言葉はゴッゴッ
156 歩いていくのを 覚悟しなくちゃいけないよ また病の苦しみも耐えがたいものである。私たちの身体は地、水、火、風という四つ のエレメントの協合でなりたっている。この四大工レメントの協合関係のバランスが崩 プラーナ れると、《風》や胆汁や粘液などの状態が悪くなり、さまざまな病の苦をつくりだすこ とになる。身体や感覚器官がおかされて、さしもの元気な人でも、病床に倒れるのであ る。こうなれば、権力者も乞食も同じ、みなただの人である。にがい薬を飲まされ、ど んな格好で寝てもどうにも苦しいばかり、夜も昼も床についているのでさまざまな妄想 が脳裡をよぎり、怒りつぼくなってくる。自分の苦しみを誰もわかってくれないように 思えるのだ。死の恐怖にうちひしがれて、自殺してしまう者さえいる。とにかく何事も 自分のカではできなくなってしまうのである。 死を間近にひかえた者は、不安と孤独感に苦しむ。自分のまわりを友人や家族の者が 心配そうにとりまいているが、永遠の別れの苦しみは、ただ自分一人で耐えなければな らないのである。いくら富をもっていても、学問があっても、名声があったとしても、 死の旅立ちにはなんの役にも立たないのである。生きている間に不善ばかりおかしてい た者は、死後自分は三悪趣におちるのかと気づいて悲しい気持ちになるだろう。「不善
307 発菩提心 たから、何にもまして、あなたは愛と慈悲の瞑想を深めていくことが、大切なのだ。 この瞑想を深めて、それがあなたの心の連続体に深く浸透するようになさい。あなたは ますます謙虚な人柄になり、すべての生き物のため、自分には何ができるだろうと、そ のことばかりを考えるようになる。そして、それを通して、あなたは偉大な大乗菩薩の 修行の道に、入っていけるのだ。 ある大乗教典には、こう書いてある。「仏性を得ようと思うならば、たくさんのダル マをおこなうことは不要で、ただ一つのダルマを学びさえすればよい。それは何かと言 えば大慈悲の心である。あらゆる生き物に慈悲を抱く者のもとには、掌にすべりこむよ うにして、。フッダのあらゆる教えがたやすくおとずれる」 昔、ゲシェ・トイハのところに、一人の出家者が訪ねてきた。この出家者は、「三兄 弟ーと呼ばれたラマとラマ・カムルンの弟子だった者だ。トイハは彼にたずねた。 「三兄弟の一人ポトワは、いま何をしている」 「ポトワ先生は、たくさんの出家者でできたサンガのために、ダルマを語っていらっし ゃいますー 「それはすばらしい。それこそ、第一の仕事だからね。では、もう一人の兄弟ゲシェ・ プチュンワは、何をしている 「ゲシェ先生は、自分でもたくさんの捧げものをし、また他の人々の捧けものもあわせ
93 人に生まれる ションがおこなわれた。ヴィマラミトラのような、すぐれたゾクチェンの師もやっ てきた。 , 彼らインドの成就者たちは、チベット人の中から、すばらしい翻訳者を育 てた。中でもヴァイローチャナの活躍は特筆にあたいする。彼はチベットにゾクチ エンの教えが定着するのに、決定的な働きをしたのである。こうして育てられたチ べット翻訳官たちは、多くのお経、タントラ、論書などを、精力的に翻訳した。ま サンガ たそのころ、チベット人の中から、はじめて七人の出家者があらわれて、僧伽の基 礎をつくった。チベットに仏教の光が、つよく射しはじめたのだ。 私たちが今、こうしてブッダの教えの説かれる土地に生まれつくことができたの は、このような成就者や学者や翻訳者たちの慈悲と努力のおかげなのだ、というこ とを、忘れてはいけない。 3 教えを理解する知性に恵まれたことも大切である。教えを受けとり、修行をとお してそれを自分の内で育んでいける器になることができたからである。 4 汚らわしい行為に手を染めないでいられる。死刑執行人や娼婦などに生まれつい たら、本人が望むと否とにかかわらず、誤った行為を重ねて真理からそっぽを向く ことになってしまう。 5 ブッダの教えに信をいだいたこと。せつかく人間の身体を得、。フッダの教えの説 かれている地に生まれても、それに信をいだくことがなかったらなんにもならない。