謡子は、武と能理子の交際に関して、伏原が金銭的な代償と引き替えに約束を守ってくれた ものと単純に信じ込んでいる。娘に対しても甘く考え過ぎている。だが、果たして実際には彼 おもわくどお 女の思惑通りに事が運んだのだろうか。 現に能理子は親の目をかすめて、つい最近まで武とっき合っているではないか。 じゃあく その裏には能理子自身の意志とは別に、伏原の邪悪な意志が働いてはいなかったたろうか ? 実の息子ならともかく、赤の他人の武に、伏原が人並みの父親らしい配慮をしたとはどうし がん ても考えられなかった。ことに常子の供述によると、伏原は自分が癌とわかってからは、すっ すさ ふくしゅう かり荒みきった性格になり、過去の罪を告発することで、淡路剛造や相良道海に復讐しようと していたという。 謡子が伏原に会ったのは、時期的にはほぼその頃なのである。それだけに、謡子の申し出を すんなり承知したということが、かえって滝には不自然に感じられてならなかった。 下 「わたしにとって人に一一一一口えない秘密というのは、いま話したことだけ。それ以外には、伏原 村 との間には何一つ疚しいことはなかったわ。それたけは信じてちょうだい」 謡子はタイフラーの氷片をかき回しながら、妙にしんみりした口調になった。 殿 湯 「それなのに、主人ときたら、結婚以来、すっとわたしのことを不貞な妻のように白い目で 見つづけて来たんですからね。剛造にわたしを責める資格なんて、これつ。ほっちもないのよ。 背信行為だったら、あの人にだって : : : 」 やま ひ か やくそく
162 うす 即身仏の発掘調査には関心が薄いのだろうか。 はな 滝は香代子たちから離れて謡子のそばに近づいた。 「やあ : : : 昨夜、別荘へいらしたんですってね ? 」 「ええ、七時過ぎにね。弥勒寺はわたしの生まれた実家だから、こういうときには義理でも にいばん 顔を出さないわけこよ 冫。いかないでしよう。それに、主人の新盆でもあることだし : : : 」 謡子はきちんと正座したまま、視線をそらし気味に答えた。 「まあ、それは表向きの話でね。東京であんなわしいことがあったたけに、しばらく避暑 がてら静養したいと思ったというのが本音よ。それはそうと、滝さんはわたしを迎えに出てい た能理子に、別荘の外で会ったんだそうね ? 」 「偶に鋼 ~ 〕わせしたんです」 と そういえば、能理子と別れて社員寮に落ち着いてまもなく、入れ違いにタクシーが近くで停 まる気配がしたのを滝は思い出していた。能理子と怪遍路を見かけた見かけないでやり合った ことは、彼女が話さなかったらしく、謡子は何も知らないようすだった。 「ところで、能理子ちゃんは、どうしました ? 」 「ああ、あの子なら夏風邪をひいて気分が勝れないというもんですから、今日の法要は失礼 べっそう させて別荘にやすませてありますわ。滝さんにくれぐれもよろしく伝えてほしいって : 「そりやいけないですね」 なっかぜ むか ひしょ
・。ハッグごとどこかへ運んでいってしまいました 、え、明くる朝、主人がまたポストン わ。預かってもらうのにふさわしい人を思いついたからと言って : : : 」 「奥さん : : : 」 じんもん 滝と香代子に尋問のお株をわれて、所在なけに煙草を吸っていた大曾根警部が膝を乗り出 した。 「そのふさわしい人というのは、もしかしたら淡路家の謡子夫人のことだったんじゃありま せんか ? 伏原さんが謡子夫人や娘の能理子さんと、ひそかに会っていた節があるんですがね。 そのことで何かお気づきになったことはないですか ? 」 いかが 「さあ : : : そのことでしたら、あちらの奥さんに直接お尋ねになってみたら如何でしょ う ? 」 お はなづら 「まあ、あなたの口から話し辛いというのはわかりますけどね。私が腑に落ちないのは、謡 下 子夫人のことはさておき、な。せ伏原さんが能理子さんと・ : 村 「それも、あちらの奥様にお聞きになった方がいいかと思いますわー 呪 から 山 いままで協力的だった常子は、質問者が大曾根警部に代わったとたん、にわかに殻を閉じた むだ 湯ようにそらそらしく、態度を硬化させた。警部がなおもねばってみたが無駄だった。 かのじよ 常子の思わせぶりな口ぶりから見て、彼女はその点についてもうすうす何かを知ってはいる かたく らしいのだ。だが、頑なに語りたがらないのである。 こうか たばこ ひざ
ぐずぐずしているうちにお腹の子を始末できなくなり、彼女は実家で私生児の男の子を生ん 「それが武君だったんですか ? 」 「そういうことね。常子さんのお父さんというのは、仙岳荘で風呂番をしていたものだから、 その縁であの人は女中として働くようになったのよ。女手で赤ん坊を育てながらだから、ずい ぶん人に = 一一口えない苦労をして大変だったでしようね。でも、そのうち伏原と : : : 」 「じゃあ、伏原さんは子連れの常子さんと : : : 」 謡子はうなずくと、 「伏原が結婚したのは四十近くになってからたから、まあ晩婚としてのハンディはあったこ とになるけど、何も子持ちの女中といっしょにならなくてもと、当時大師村ではずいぶん評判 だったようよ。これで、能理子と武さんが兄妹だと言った意味がのみこめたでしよう ? 下 一一人は同じ父親の血を引く、母親違いの子供たちというわけだった。 村 滝はいま一人、相良道海の息子の信也も、同様の兄弟ではないかと言いかけてあわててその 山一 = ロ葉をのみこんだ。 湯それにしても、津島の女関係のルーズさには舌を巻くほかはなかった。常子には武を生ませ、 謡子には能理子を妊らせた。おまけに、他の別な女とのあいだにできた信也は、相良道海の養 子に押しつけているのである。 ヾ - 」 0 えん ばんこん
「ちょ、ちょっと。剛造氏に奪われたその娘さんというのは、現在の淡路家の奥さんーーあ ようこふじん の謡子夫人のことですか ? 」 さえぎ 滝がまたしっとしていられなくなって津島の話を遮った。 娘時代の謡子には恋人がいたにもかかわらず、兄の道海がその仲を無理やり引き裂いて剛造 といっしょにさせたということは彼も知っていたが、まさかそのかっての恋人が伏原欣作たっ たとは初耳だった。 「そう、淡路夫人に納まって何食わぬ顔をしているが、その人にも裏切られたって、欣作さ んは眼みがましく言ってましたよ」 しゃべ うちわ 津島はそこまで喋ってから団扇の音を。ハタ・ハタたてると、 「はい、お待ちどお」 と、焼き上がったホルモン焼の串を、皿に盛って滝の前に置いた。 滝はさっそくそれをほおばりながら、串の一つを仁王部長刑事の方に差し出したが、彼はに べもなく手をふって、 「それからどうしたんだね ? 」 と尋問を続けた。 「そうせかさねえで下せえよ」 、フるお 津島はコップのビールでロを潤して話をつづけた。 ひ
212 「な・せそのことを、もっと早く我々に連絡して下さらなかったんですか ! 」 大曾根警部が咎めるように険しい口調で言った。 「申し訳ないとは思っています。でも、昨夜はそれどころじゃありませんでしたもの。これ までずっと胸にわだかまっていた疑いを切り出すきっかけがなくて、腫れ物に触るようにして いただけに、何はともあれあの子の口から、すべての真相を聞かずにはいられなかったからで すわ。親としては当然のことしゃありませんかしら ? 」 「なるほど、それで昨夜、能理子ちゃんを : : : 」 「問いつめた結果、お嬢さんは何もかも告白したんですか ? 」 滝につづいて大曾根警部が聞いた。 「あの子の犯したことを、一通り話してくれました。わたしの膝に顔を埋めて、泣きじゃく りながら打ち明けてくれたんです。ドライなようでも、やはり十三歳の娘ですわね。一晩しゅ かただ う能理子の肩を抱き髪を撫でながら懺毎を聞いてやりましたけど、昨夜ほどあの子がおしく 感じられたことはありませんでしたわ ひとみ なみだぬ 謡子の瞳がいつのまにか涙で濡れていた。彼女の涙を滝ははじめて見た。 かわいそう 「可哀想な能理子。あの子があんな恐ろしい罪を犯したというのも、もとはといえばわたし が悪かったんですわ。他人の寄り合い世帯のような淡路家の家族の中に育って、独り・ほっちで さび どれほど寂しい思いをしつづけてきたかしれないのに、わたしが今日まで何一つ母親らしい接 とが かみな ひざ もの
がかしら ? 捜査はその後、順調に進んでいますの ? 」 ひとごと たんたん 謡子の口調は、まるで他人事を聞いているかのように淡々とし過ぎていてそらそらしかった。 「ええ、まあ、だんだん見通しがついてきたようですよ」 滝は頭をかきながらも、悪びれずに答えた。 ねら 「今度は、兄の命が狙われているというじゃありませんか。それなのに、幽海上人の入定墓 れいたた ざた の発掘調査を強行するなんて気巡い沙汰だわ。大師村の御三家は、上人の霊に祟られていると いうのに : : : 兄には何とか止めるようにと忠告したんだけど、どうしても予定通り進めると言 い張って聞かないんですもの」 「僕もその関係者の一人だから、そう言われると、耳が痛いですがね。それはまあともかく うかが として、今日は奥さんに・せひお伺いしたいことがあって来たんですよ」 「何かしら ? むろん、あの事件にかかわりのあることだわよね ? 」 下 謡子は着物の袂から、細長い象牙のシガレット・ホールダーを取り出すと、卓上の大理石の 村 ケースから鷦草を取って、おもむろにつめながら小首をかしげた。幼女のようにあどけないし 山ぐさだった。 殿 湯 「プライ・ハシイに立ち入ることなんで、はなはだお聞きし辛いんですが : : : 」 「持って回った言い方をしないで、おっしやってごらんなさいよ。だいたいの見当はついて いますけど : : : 」 たもと ぞ、つなリ づら ゅうかいしようにんにゆ、フじようば たくじよう
194 ル・ガンの弾丸がわりの力。フセルを、浴室の窓の外に落としてしまったことだ。謡子夫人が服 ぜんそくやく 用していた、例の喘息薬のビリべンザミンだよ。信也君はプラスチックの弾丸を切らしたもの ぬすだ だから、離れへ行った際、謡子夫人がいなかったのをこれ幸いに、それをこっそり盗み出した んじゃないのかな」 滝は昨日、弥勒寺の壜獻で香代子とともに試した実験の結果を、大曾根警部に物語った。 「あれは、モデル・ガンの弾丸の代用品たったのか ! 」 あぜん 大曾根警部は唖然とした顔つきになった。 「それじゃ、いま一つのミスはフ 「道海さんに目撃されてしまったことだよ。浴室の窓から出たところか、あるいはニレの木 をよじ登るところだったか、そのどちらかはわからないが、ともかく姿を見られてしまったん かいへんろ 「あれは怪遍路を目撃したんじゃなかったのか」 「だからさっき、道海さんが偽証したとそう言ったのさ。あの晩、筧久造は淡路家に現れた りはしなかったんだよ。玄関から外に出た道海さんは、予期もしなかった信也君の姿を発見し ぎようてん て、さそかしびつくり仰天したに違いない。むろんそのときは時間的にいってまだ事件を知る 前の話たから、単なる不審の念に過ぎなかったたろうが、その直後に浴室で剛造氏の死体が見 わ つかったことで、もしやという疑いが湧いたんしゃないたろうかね。 ちが
たわけだろう。そういえば運転手の田辺義作を除くと、この家もとうとう女ばかりの家族にな ってしまった。 グレート・ビレニーズのポスとお手伝いの西川三保に迎えられると、滝と香代子は玄関わき の応接間に通された。 かろ あわ まもなく、夏物の淡い色の和服を着た淡路謡子が、軽やかにスリツ。ハの音をたてて入ってき この前、離れで会ったときは、事件直後のショックで床に就いていたが、今日はかなり気分 えりもと しろはだ おんなざか がよさそうだった。着物の襟元からのそいた抜けるような白い肌に、女盛りの色香がほんのり ろう ようばう と匂っている。それでいて細っそりと﨟たけた容貌は、相変わらず能面のように冷ややかな表 主月・こっこ 0 「兄が大師村へ帰ったとき、能理子もいっしょにくつついて、避暑に行ってしまいましたの で、この家もいっぺんに寂しくなりました」 ひじか 肘掛け様子に腰をおろした謡子は、翡翠の帯留にしなやかな指をちょっとあてるしぐさをし ながら一一一一口った。 父親の死にいつまでもくよくよとこだわらず、さっさと、、ハカンスを楽しみに出かけてしまう あたりが、いかにもカラッとしていて現代っ子の能理子らしい めいわく 「主人の事件のことでは、滝さんにまでたいぶご迷惑をおかけしているようですけど、 にお さび にしかわみほ と」 っ ひしょ
はんそう じようざい 建築会社に正式に設計を依頼したり、残りの半分の浄財を集めるため、地元を奔走していたわ。 ところが、剛造は最近になって本堂の再建には反対だと言い出して、寄付をきつばり断わって しまったのよ。 事件当夜、剛造と兄とが食事の後に密談をしたのは、その話し合いもあったんだそうよ。 まになって、剛造の醵金がフィになったとあっては、兄の立っ瀬がないわね。地元の檀家に対 しても、面目丸つぶれでしよう」 「では、そのことで、道海さんが剛造氏に腹を立てていたとおっしやるんですか ? ? 」 ふんまん 「腹を立てていたのは事実だわ。離れに来てわたしに貭懣をぶちまけていたくらいですもの。 : たた、剛造のまわりには、身 でも、そのために殺意まで抱いたかどうかは知りませんよ。 内だけでもわたしをふくめて少なくとも三人は、あの人を憎んでいた人間がいたということは、 覚えておいてもらいたいわね」 ひばう 謡子がなぜ義理の娘ばかりか、実の兄まで誹謗するようなことを、臆面もなく話す気になっ たのか、滝には彼女の真意がまるで掴めなかった。 へんほう ちが かのじよろう 謡子をこうした女に変貌させた原因は、むろんいろいろあったに違いない。だが、彼女の﨟 ひふ たけた皮膚の下には、人間のそれではなく爬虫類の冷ややかな血が流れているのではないかと、 滝はそんな疑いさえふと抱いたほどだった。 そのとき、ドアの外に人の気配がしたのを、香代子が耳ざとく気づいて滝に注意した。缶か きよきん はちゅうるい おくめん