ドイツ - みる会図書館


検索対象: 第2次世界大戦のドイツ戦車
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1. 第2次世界大戦のドイツ戦車

機能美の世界 1 / 35 ミリタリーミニチュアシリース《 103 種》好評発売中 戦車や装甲車、そして自走砲など、軍用車輛の魅力は、やはり機能美にあると言 えるでしよう。より強く、より速く、高性能を追求したメカニズムの魅力。そし′ て、兵士達の使いやすさ、修理や点検などのしやすさを十分に考えぬいた合理性。 無駄なものを一切省いた機能的な姿は、私達の心を魅きつけすにはおきません。 ニチュアシリーズ。第 2 次大戦からの代表的な軍用車輛、 タミヤのミリタリー そして兵士の人形を集めたプラスチックモデルのシリーズです。スケールは 1 / 3 5 の統一スケール。どれも正確な考証をもとにモデル化された精密スケールモデル ばかり。作る楽しさはもちろん、大きさの比較、時代や国によるメカニズム、ス タイルの違いなども知っていただけるでしよう。ぜひコレクションをお楽しみ下 ニチュア、今、 1 03 種。世界でも最も充実したシリーズです。 こリタリー を一 0 タミヤ新カタログ発行 1 978 年度版カタログをご希 望の方は模型店でお求め下 さい。 1 部 350 円。当社直 接お申し込みの場合は送料 込で 450 円。カタログ係迄 田宮模型 新発売 6 圓円 トイツ・フィールドキッチンセット静岡市小鹿 628 〒 422 ドイツ歩兵進撃セット・ 250 円 ドイツ・指揮官セット・ 250 円 ドイツ歩兵突撃セット・ 250 円 ドイツ 37 ミリ対戦車砲・ 250 円 ドイツ 2cm4 連装高射機関砲 38 型・ 350 円 ドイツ・ハノマーク兵員輸送車・ 700 円 ドイツ・ホルヒ 1 a 軍用乗用車・ 500 円 ドイツ・ 4 輪装甲車 Sdkfz222 ・ 450 円 ドイツ・ハンティンクタイガー・ 800 円 ドイツ・パンサー中戦車・ 800 円 ドイツ・タイガー I 型戦車・ 800 円 00 ・ 00 を ドイツ・四号対空戦車メ ーベルワーケン・ 1200 円

2. 第2次世界大戦のドイツ戦車

PANZERKAMPFWAGEN 35 ( t ) / 38 ( t ) 35 t) 戦車 Pz. Kpfw. 35 t) 円 39 年 3 月にドイツがチェコスロパキ アを占領したとき、チェコには多数のす ぐれた戦車があった。それがこれから述 べる 35 ( t ) と 38 ( t ) 戦車で、ドイツ陸軍はこ れらの戦車とその生産設備をすべて接収 ドイツ陸軍は当時、これらよりすぐれ たⅢ号、Ⅳ号戦車を生産してはいたか、 まだその数もじゅうぶんではなく、戦車 師団の定数も不足していたので、そのま ま戦車師団で使うこととした。これらの 戦車は、当時ドイツ戦車師団の主力であ 6 2 った I 号、Ⅱ号戦車より武装が強力だっ たばかりでなく、技術的にも多くの特徴 を持っていた。そしてドイツ軍が、その 後のポーランド侵攻、対フランス戦で大 きな戦果をあげた陰には、これらチェコ 製戦車の活躍を見逃すことができない。 とくに西部戦線における電撃戦には、 第 6 、第 7 戦車師団がチェコ製戦車で装 備されて活躍したことは有名である。 35 ( t ) 戦車は、四 34 年から 35 年にかけて S- II という名称でスコダ社において開発 され、のちに T- Ⅱと呼は、れた。そしてチェ コ陸軍に LtVz 35 として採用になり、 円 35 年から 38 年にかけて生産が行われた 重量は田 . 5 トン、最大装甲厚 25mm の車 体には、 3.7 cm の KwK 34 ( t ) 砲が装備され ているが、この砲は操作性や射程におい てドイツ戦車の 3.7 cm 砲よりすぐれてお り、当時としては世界水準を上回るもの であった そしてドイツのチェコ占領後問もなく pz. Kpfw. 35(t) として採用されたが、 (t) と はチェコのドイツ語 tzeco のイニシャル をとったもので、ドイツで使われた外国 製兵器にはこの例が多くみられる。 ドイツ軍に徴用されたのは 200 輛以上 といわれ、その大部分は第 6 戦車師団に 配属されて、ホーランドやフランスへの Pz. Kpfw. 38 ( t )

3. 第2次世界大戦のドイツ戦車

ERKAMPFWAGEN Ⅵ 期型。第 501 重戦車大隊に属していた 1943 年春、チュニジアにおいてイギリス軍に捕獲され、 TIGER テストを受けるティーケル戦車初 Ⅳ号戦車ティーケル Pz. Kpfw. Ⅵ Tiger (VK4501) 第 2 次大戦のドイツ戦車のうち、最も 有名なのがこのティーゲルである ティーゲルの出現にあたっては、ヒト ラー総統が円年 5 月 26 日に開かれた 議の席で「戦車師団の将来の主力戦車は Ⅳ号戦車より大型のものを装備しなけれ ばならない」と発言したことが、デビュ ーの直接のきっかけになったといわれて いるが、実際にはもっと深刻な現実から その実戦配備か強行され、それかのちま でも尾を引くことになった 先にも述べたように、すでに西部にお ける戦闘で、フランスのシャール B 型や イギリスのマチルダ戦車と戦ったドイツ 戦車は、その武装と装甲か敵よりも劣る ことが明らかになっていた。戦車に対す る理解の深かったヒトラーはその点をは やくも認識して、それが 5 月 26 日の発言 になったと思われるが、ヒトラーのこの 、、予感 " は、独ソ戦の開始とともに現実の 問題としてクローズアッフされることに なった は歯か立たなかった ので、正面からの戦車戦ではドイツ戦車 砲をつみ、装甲、機動力もすぐれていた また装備していなかった長砲身の 76 . 2mm T 34 と K V - 」は、当時のドイツ戦車か ー戦車であった ふつかったのであるこれか T 34 と KV ドイツ戦車隊が予想もしなかった強敵に ったが、それから数日のうちに各戦線で がソ連領になだれこんて独ソ戦かはしま すなわち、円年 6 月 22 日、ドイツ軍

4. 第2次世界大戦のドイツ戦車

PRE-HISTORY グロス・トラクター I のボギー式転輪とリー フ・スプリング。 < ドイツ戦車前史 され、歩兵部隊の多くか車輛化されて、 行われ、、、ライヒタートラクター (Leich- その 7 コ大隊は装甲車を巧台も保有した ter traktor ; 軽トラクター ) と呼は、れた この装甲車は装甲兵員輸送車で、乗員の グロストラクターは、重量 20 トンで、 ドイツは第一次大戦で敗北したのち、 ほかにに名の兵士を乗せられた。歩兵は 7.5cm 砲げのほか、機関銃を周囲の防 ベルサイユ条約で軍備に大幅な制限がっ 歩かなけれは、役に立たないという考えか 御用に 3 挺取りつけていて、速度は 20km けられ、陸軍は兵員数万名で、戦車は 強かった時代に、この考えは全く新鮮で / h と低速だったが、車体は水密構造で水 一台も持ってはならないということにな あった 上でも走れるというもので、一方、ライ った 円 26 年になると、ドイツにとっては願 新ドイツ国防軍 ( ライヒスヴェーア ) ヒタートラクターは 9 トン , 3.7cm 砲ー ってもないチャンスが到来した 門を積むという条件で、メーカーとの契 は、円 20 年一月から発効したこれらのき 第 2 次大戦が終ってしばらくするまで 約は円 27 年 3 月に行われた ひ、しい条件のもとで発足したが、そこは 公表されなかったが、このときドイツは また、同時に装輪戦車と呼はれた高性 ドイツのこと、あらゆる手段を使って将 ソ連と秘密協定を結んで、ポルガ河流域 能の装甲車の開発も始まったか、これは 来の強力なドイツ軍の建設に向って努力 のカサンにある試験場で、ドイツか保有 車輪か 8 コと田コの高速車でタイムラー が払われた。初代の陸軍総司令官フォン・ してはならない航空機と戦車の開発・実 ゼークト大将は、先見の明と創造力にす ・ペンツとフッシンク N A G 両社が契約 験を始めている。ラッパロ協定と呼ばれ している ぐれた人物で、円 26 年までの在任中に るこの密約は、米・英・仏連合国の眼を 「将来のヨーロッパの戦闘は、機動力と これらの車車兩に関する記録は、現在で くぐって、装甲車車兩の基本試験を行うに はあまり残っていないが、ドイツ戦車の 柔軟な反応力が勝負を決する」として、 は絶好であった 歴史のうえで欠かすことができない存在 連合国占領軍の規模が縮小され、ドイツ こにいたって、陸軍兵器局 ( ヘーレ なので、概略を紹介しておこう 軍に対する監視の目もやわらいでいくの スワッフェンアムト ) は、ラインメタル、 にテンポを合わせて、機動力を重視した クロストラクター クルッフ、ダイムラー・ペンツの 3 社に 本格的な訓練や組織の編成を進めていっ それぞれ独自に大型戦車を 2 台ずっ開発 ダイムラー・ペンツか手がけた田 . 5cm する契約を与え、これらの車輛を、、グロ 砲装備の車で、車体のアレンジは第一次 第一次大戦時は、敗戦国の武装解除、 (Gross traktor; 大型トラ ストラクター 大戦の戦車、それもイキリスの重戦車の 軍隊の解体とはいっても、第 2 次大戦の クター ) と呼んだ 流れをくんでいた ように徹底したものではなく、警察や国 ターレットはうんと前につけて視界も 境バトロールには装甲車を持っことが許 また、軽車車兩についても同様な契約か た 6

5. 第2次世界大戦のドイツ戦車

第意 訓出 領されなければ大量に輸出されてチェコ いて、乗心地はよかったといわれる Morerzugmitte135(t): 牽引車に似てい 製戦車の名声をあけられるところてあっ / くリエーション るか、車体の天井部まで切欠いて、大型 の装輪式火砲の牽引や兵員・弾薬の輸送 Pz. Kpfw. 38 ( t ) ( 3.7cm ) (Sd. Kfz. 140 ) : 乗員は車長、射手、運転手、ローター に使われた 兼無線手の 4 名からなり、装甲は最大て ドイツ軍の占領後に量産か発注され、円 25mm 、エンジンは水冷直列 6 気筒のフラ 42 年までに台か造られ、ホーランド 38 ( t 戦車 Pz. Kpfw. 38(t) 作戦や円 40 年のフランス作戦では重要な カ製 7700cc ガソリン・エンジンを後部に この戦車を手に入れたことは、ドイツ 働きをした。後者ては、第 7 と第 8 戦車 収め、駆動はシャフトをとおして前部の にとってチェコスロパキアという国に占 師団て合計 228 台ものこの戦車が使用さ スフロケットに伝えられてキャタヒラー 領した以上の価値があったといわれるほ れている を動かしていた。つまり、 35 ( t ) の後輪駆 どてある ドイツ車か最初に発注したのは、 CKD 動に対して前輪駆動になっているわけて、 この戦車は、 TNHP- S という呼称て c 社のフラーク、工場て生産準備中だった T このほうが走行時の操縦などか確実て安 K D 社 ( チェコ・コルペン・ダネク社の略 ) 定しているというのが理由であった N HP S の 0 台そのままのものて、その の手て設計され、円 38 年にはチェコ陸軍 後生産はヒッチか上げられ、最高ては月 変速機は 5 速て、ロードホイールは片 向けに生産か開始される寸前にあった 産 40 台にも達した 側に 8 コあり、 2 コすつがヘアになって 会社名ものちにはポ 同社はこの戦車をその前にスイスやイラ リーフスフリングにとりつけられ、それ ーリシェ機械会社とドイツ ッシ・マ ンなどにも輸出していて、ドイツ軍に占 がまたタンテムに 2 コすっ組合わされて 名に改められ、この戦車の生産が終った 65

6. 第2次世界大戦のドイツ戦車

, ぃ粤淞ーを三 気管を上へ上けていて、ドライバーの前 円 42 年以後も基本的には同し自走車輛の S 型 : 最初スウェーテン向けに輸出を予 面装甲は全部 25mm 厚になっているといわ シャシーの生産を続けている 定していた 90 台の車車兩がこれで、輸出契 この戦車には次の種類の型かある れる。シャシー番号は 03 刀から 0475 。 約はドイツ軍の占領前に行われていたか、 A 型 : 円 39 年に最初に発注された型で、 E 型 : 円 40 年秋からの生産型で、Ⅲ号 H その後スウェーテンは同し車輛を Strv. ドイツの要求に合わせるため乗員数を 3 型やⅣ号 E 型と同様に装甲を大幅に強化 M / の呼称でライセンス生産すること している。前面装甲は 25mm の装甲板 2 枚 名から 4 名に増加している。最大装甲厚 で話しがつき、 39 年月には 9 0 台分の部 は 25mm 。シャシー番号は 00 田から田 50 を合わせて 50mm 、側面は 15mm 2 枚を合わ 品をドイツ軍用に生産する兪令が出され B 型 : ドイツの 2 次発注分で、シャシー せて 30mm となったか、外観からはほとん ど区別がつかない。 番号は田引から 0260 S とはスウ工ーデンの頭文字をとった C 型 : 第 3 次発注分て、外観がすこし異 このため、重量はⅡトンとなり、 もの。シャシー番号は田田から田 90 なる。初期の生産車は対フランス作戦に の車輛にはドイツ製の 3 . 7 cm 砲が装備さ G 型 : 円年末からの生産型で、 E 型や 間に合っている。シャシー番号は 02 引か れた。シャシー番号は 04 76 から 0750 F 型に似ているか、装甲板は 25mm や 15mm F 型 : 円年に造られ、 E 型とほほ同し ら 0370 を 2 枚重ね合わせたものではなく、はし D 型 : 詳細は不明だか、 たが、後部に排煙孔をつけていない。 部の車輛は排 めから 50mm と 30mm の厚さに造られたもの イギリスの戦争博物館におかれている 38 ( t ) 戦車。車体銃のマウントが失 われている。砲塔キューボラの前方にある円筒型のものはペリスコープ 第い : 第

7. 第2次世界大戦のドイツ戦車

製作はバルバロッサ作戦の前から着手さ れていたとはいうものの、円 42 年 4 月に は早くも実車が走行をはしめ、その年の 8 月には実戦部隊に生産型が配備される という超スヒードふりであった さらに、ティーゲルに続いて V K 3002 という新型車か開発された。 7 . 5cm の L / 70 砲を積んだこの戦車は、 T 34 の長所を採 り入れたうえに性能も優秀なもので、円 43 年春から実戦部隊への配備がはしまっ ている これか、バンテルと呼ばれる傑作戦車 で、両戦車の投入によって東部戦線ては 円 43 年から再びドイツが戦車の質のうえ ではリードを保つようになった。しかし、 量のうえでは常にソ連にリードされっ放 しで、その後どの戦線においてもドイツ は数のうえで劣勢な戦闘を強いられるこ とになった ティーゲルとバンテルは、ロードホイ ールを内外のニ重式とし、ティーゲルで は差動トランスミッションに新機軸を出 したあたりは、他国の追従を許さなかっ たが、両車とも記録的な短時間で開発さ れたのと、重量か計画より田トンほどオ ーバーしたこともあって、実戦に投入さ れてしばらくは不具合の続出に悩まされ 一方では、 Pz. Kpfw. ⅢとⅣの改良も急 ヒッチで進められ、円 42 年には 5 cm の L/ 60 砲装備の Pz. Kpfw. Ⅲ、長砲身の 7.5 cm L / 43 を装備した Pz. Kpfw. Ⅳが出現し、後 者はその後ドイツ戦車のなかでも非常に 多数が使用され続けた。しかし、前者は Pz. Kpfw. Ⅲの車体が 5 cm 以上の砲を積む ことか無理だったため、円 42 年以後は大 きな活躍はできす、わすかに低速の 7.5 cm 砲を装備して支援戦車として用いられ、 円 43 年暮頃までにはほとんど姿を消して いる また、 Pz. Kpfw. 38 ( t ) はその後多くが改 造されて各種自走砲のペースになった この頃からはまた、。駆逐戦車 " ( 」 agd ・ panzer) とか、、対戦車自走砲 " ( panze ・ ger) と呼ばれる新しいタイフの車車兩が次 第に数多く造られるようになった。これ らは、突撃砲か低初速砲を備えていたの ー 0 北ア第リカの に対して、高初速砲を備え、車体は pz. Kpfw. ⅢとⅣのほか、バンテルやティ ゲル、それに Pz. Kpfw 38 ( t ) までも利用 している このように、矢っき早に改良と新型車 の生産か行われたうえ、戦車の生産も急 ヒッチで上り、円 43 年には円年の 2 倍 になって、 43 年 4 月には最高点に達して いる しかし、ドイツがいかに頑張っても、 米・英・ソ 3 国を敵にまわしては、生産 台数はとうていおよばず、そのうえ東方 と西方の両戦線で戦闘か行われたため戦 カか分散して数の劣勢をことさらひどく してしまった こうして、個々の戦闘では数のうえで 劣数でも、敵に大きな損害を与え有利な 戦いを展開したことも多かったか、損耗 の補充が間に合わなくなってきた。その うえ、西部戦線では四 42 年以降は敵に制 空権をとられたので、北アフリカでは敵 の戦闘爆撃機によって多数のドイツ軍車 輛か撃破されたのも大きかった 43 年に入ると状況はさらに悪化した それは、ドイツ戦車の優秀さや戦車師団 の実力と戦果とは関係のない面から出て きたのである

8. 第2次世界大戦のドイツ戦車

師団は戦車 2 コ大隊からなる一コ連隊と 自動車化歩兵 3 コ大隊が普通となった これては一見戦車師団の火力は弱まった かにみえるか、実際は pz. Kpfw. ⅢとⅣの 火力か大きいので、総合力ではむしろま さっていた 円年には、この中から第 5 軽師団 ( の ちの第幻戦車師団 ) と第巧戦車師団が北 アフリカへ送られ、これか有名なドイツ ・アフリカ軍団の中心となる また、同し円年には、 6 月 22 日から バルバロッサ作戦と呼はれるソ連への大 侵攻作戦が開始されるが、モスクワを目 前にしての退却で戦車師団は初めて無敗 の記録を破られる この頃の主力戦車は 5cm 砲を積んた Pz. Kpfw Ⅲで、ドイツ戦車のほほ半数かこの 戦車で占められていたが、ソ連にはドイ ツの無敵戦車隊を打ち破れる戦車か完成 していた 7 . 62cm 砲を備えた T 34 と KV ーかそれ で、最初の数カ月はドイツ軍に有利に戦 闘か展開したにもかかわらす、火力と装 甲にまさるソ連戦車か本格的に戦場に投 入されると戦勢は逆転したのてあった この苦境を打開するため、急きょ開発 されたのか 8 . 8 cm 砲を積み、厚い装甲を 施した Pz. Kpfw. Ⅵティーゲルて、原型の

9. 第2次世界大戦のドイツ戦車

PANZER AT WAR 想である。 歩兵を自動車で運ぶという考えで設立 された自動車輸送歩兵部隊を核として、 トルツへといわれた戦 新たにノヾンツア 車部隊用に、新たにふたつの小型訓練用 戦車 Pz. Kpfw. I と pz. Kpfw. Ⅱが設計さ れて部隊配備され、それに続く主力戦車 としては別に軽戦車と中戦車か開発され 軽戦車は、高速の徹甲 (AP) 弾を発 た 射して敵装甲車を撃破するのが主な目的 で、、中隊指揮官車 (zugfuhrerswagen ; 略 して (w)" と呼ばれて、連合国の目を逃 れていた。また中戦車は、支援射撃用に 低速の大口径弾を発射するように計画さ れ、、、大隊指揮官車 (BataiIlonsfuhrerwag- en , 略して BW ) と呼は、れた これらは、円 39 年以降はそれぞれ P z. Kpfw. Ⅲ ( Ⅲ号戦車 ) およひ Pz. Kpfw. Ⅳ ( Ⅳ号戦車 ) と呼ばれるようになったか、 円 39 年にホーランドやノルウ工ーへ侵攻 したころはまだこれらの車輛は数か非常 、てを、い言 0 、をこ、ま , ー - に少なく、戦車の主力は Pz. Kpfw. I と II 電撃戦発動、 1940 年夏、フランスに進攻する 38 ( t ) 戦車 に頼っていたのか実情てあった この、、劣勢〃を補ったのが、チェコ製 第 2 次大戦におけるドイツ戦車 の Pz. Kpfw 35 (t) と Pz. Kpfw. 38 (t) で、 円 39 年にドイツがチェコスロパキアを占 領したときに完成していたものを量産さ 第 2 次大戦でドイツ戦車が連合車を圧 行われた そして、円絽年に LK Ⅱ軽戦車の設計 せて、その後も重用した 倒したウラには、第一次大戦て連合軍に 遅れをとったことに対する深刻な反省が をした有数の戦車テザイナーであるホル さて、円 35 年月日には、有名な戦 車師団 (Panzer Division) か誕生し、ます マー技師はスエーデンでその後継型とい あったことを忘れてはならない。 えるランスペルク M- 幻というタイフを 3 コ師団か編成されたか、これにはグー 円年から絽年までの第一次大戦にお いては、イキリスか投入した、、タンク〃 デリアンの思想が大きく生かされ、各師 開発している 円 26 年になるとソ連とのあい 団は戦車部隊のほか自動車化歩兵、偵察 はこう着した西部戦線のさん壕戦に革命 さらに だに秘密のラッパロ条約が結ばれてグロ 部隊、突撃工兵、それらを支援する砲兵 をもたらしたが、ドイツはタンクの開発 部隊の混成で、他の師団と関係なく独立 にも、タンクの戦場での運用にも遅れを ストラクターとライヒタートラクターと して作戦する能力を持っていた。また いう重と軽の両戦車の開発とテストか本 とり、敗戦時までにその遅れをとり戻す 格的に開始されている れに加えて空からはユンカース Ju87 急降 ことができなかった 下爆撃機か戦車の攻撃に先行して敵陣に ヒトラーの卒いるナチスが円 33 年に政 円 20 年のベルサイユ条約ては、ドイツ 権をとると、ベルサイユ条約を無視して 攻撃を加えられるように仕組まれていた は戦車の生産も保有も禁止されたか、 20 これは、円 30 年代後半としては全く驚 ドイツ軍の大拡張と再編成が始まったか、 年代の後半に入ると、早くも戦車戦術の 嘆に値するものて、当時のイギリスやフ このとき生きたのは、円 20 年代からクー 理論研究が活発に行われるようになり、 ランスの陸軍かまた第一次大戦時代と変 ダミイ戦車を使ってその研究かさかんに デリアンとルツツ両将軍か抱いていた構 ゝ い 7 5 6

10. 第2次世界大戦のドイツ戦車

これは、常に数倍の敵を相手にしなが らよく戦ったロンメル将軍指揮下のアフ リカ軍団に最もよく現われている。 数の劣勢ということは、つまり生産数 が少なかったということだが、生産記録 を調べると台数ではイキリスよりも少な アメリカに比べると 3 分の一以下で、 ソ連とも大体同じ位の差がある。これを 合計すると 7 対一以下になる。このうち、 とくにアメリカの対日戦に振り向けられ 1943 年春、北アフリカに登場したティーケル戦車 たものを除いても 5 対一以上にはならな のほか、それぞれ強力な戦車部隊を持っ まず、燃料や補用部品の不足が目立ち い。つまり、 ドイツ戦車師団は 5 倍の敵 2 コ師団からなるヘルマン・ゲーリング はしめ、続いて優秀な戦闘員の補充がう を相手にしたといってよいのかも知れな 軍団があり、またバンツアー・レーアも まく行かなくなって戦力が低下した。そ 円 43 年には師団に格上げされていた のうえ、通信・連絡網が悪くなり、その 次に、戦車そのものの性能についても このうち、陸軍の戦車師団の番号は、 後は資材不足で戦車の生産が落ち、最後 多くの誤解がある。高性能というのは裏 第一から第 27 まであったか、第田、第 22 、 は工場が爆撃されて決定的なダメージを を返せば生産に時問がかかり、コスト高 第 27 の 3 コ師団は円 43 年に東部戦線で全 受けることになった で、乗員にも高度の技術か要求され、整 減したままであり、第絽師団は解散して このなかにあって、最後に出てきた強 備も修理も時問と手問がかかるというこ しまっている。これとは別に、第Ⅱ 6 師 力な戦車は、ティーゲルを改良したティ とになりやすい。ドイツ戦車は全くその 団と円 43 年に師団に昇格したバンツア ーゲルⅡ ( ティーゲル Ausf. B とも呼ばれ 代表であった ・レーア ( 教導 ) 師団があり、差引きす る ) である。 そのうえ、ドイツ人の凝り性の性格を ると戦車師団は全部で 25 コになる。 これは、長砲身の 8.8 cm 砲を積み、装 反映して設計や開発は徹底的に納得のゆ ただ、この時期になると、戦車や要員 甲も厚く戦闘力は驚異的なものがあった くところまで追求しなけれは生産に入ら の補充の関係で、師団の編成は各師団こ が、重量が 70 トンもあるため機動力は落 ないという気風かあったし、初期には部 とに大きく異なっているが、戦車 2 コ大 ち、道路や橋で通過できない個所が続出 品や機構の共用化も技術陣が拒否してい 隊、自動車化歩兵 4 コ大隊というのか標 し、結局はじゅうぶんな台数が供給され た 準である ないままに終ってしまった。 その良い例が、 Pz. Kpfw. ⅢとⅣで、大 ドイツ戦車師団はいつも 一方、この巨大なタイガーⅡと同時に きさかそう違わないこの 2 台の戦車は、 このように バンター II や E シリーズといった新世代 劣勢を強いられてきた。確かに、ポーラ 一台で問に合ったかも知れず、部品の共 ンドやバルカンへ侵入した頃は圧倒的た の戦車群の構想も立てられた 用化も相当できたはすだが、事実は全く ったが、円 40 年における西部戦線でも英 これは、シャシーや部品を共用化した 逆で、 2 台が別々に設計され、開発され、 仏軍のほうか戦車の保有台数では多かっ うえで、それぞれ特長ある一連の戦車群 生産されている。大戦中期になって共用 を造るというもので、技術や用兵上は非 、北アフリカでも英米軍はほと 化の重要性が理解されたときは時すでに んどドイツ側の 2 ~ 3 倍の戦車を保有し 遅かった 常に興味深いものではあったか、ドイツ 軍がほとんど全戦線で守勢に立ち、戦車 ていたし、円年にソ連へ侵攻したとき 悪いことには、最高司令部てはこれと もこれに対抗するソ連の戦車はドイツ軍 の消耗が激しくなるいつほうの状勢下で は別に、大口径砲と重装甲を施した大型 は実現は不可能で、大戦末期には生産か 戦車の要望が強かった。このため、マウ の 4 倍であった 容易で、工数も少なくて完成する突撃砲 それでもなお、戦車師団が対等または スや E 田 0 の開発に力が注がれたか、 それ以上の戦闘を続けられたのは、戦車 んなマンモス戦車の何分の一の工数と予 の生産が急増している。 算でティーゲルやパンテルかしゅうぶん 円 44 年はじめには、陸軍の指揮下に 25 の性能がすぐれていたのはもちろんだか、 の戦車師団があり、このほかに親衛隊指 その戦術と乗員もすぐれていたことを拳 できたはすであった 揮下の 8 コの s S 戦車師団があった。 , げなければならない。 ー 6 0