1 925 年に試作されたグ ロス・トラクターのプ ロトタイプ。 このうち、ラインメタルのものか最も 射角もよかったが、さらに後部にも機銃 グロストラクターⅢ 有望視され、円 30 年からテストか開始さ つきのターレットかあり、これで敵のさ これも 7 . 5 cm 砲をつけ、全体のアレン れた。車は重量 8 . 5 トンと軽く、エンジ ん溝を越えたときに銃撃をあひせること ジは前 2 者に似ている。クルッフ社の製 ンは前部においてターレットと戦闘室を を考えていた 作。 後部においたのか特長で、走行装置と車 そして、エンジンは前後の乗員室の中 問にあり、 300 田の航空工ンジンで、前 体の外形は同社が造ったグロストラクタ これらは、生産型ではロ mm の装甲板を 後の連絡はエンジンの右側をとおってで ー II とよく似ていた つけることになっていたが、原型であっ 工ンジンを前へおくというアレンジは、 きた たので車体はすべて軟鋼で造られ、 6 台 今日では歩兵戦闘車車兩い c v ) などで それだけ車体の容積か大きかったわけ の組立てはすべてラインメタル社で集中 実用化しているが、当時としては極めて で、フロファイルをできるだけ小さくす る今日の戦車とは考え方が全く違ってい して行って、秘密洩れを防ぐ体制をとっ 斬新な設計で、乗員は 4 名、 3 . 7 cm の L/ た。このため、車体は外側を水密構造に 45 砲を備え、 13mmæ甲板をつけていたあ 円 28 年夏に完成したこれらの車は、 ー 0 幸い連合国に知られすにテストまで完了 たりもよく似ているし、毒ガス対策も施 するだけで、そのまま水上走行ができ、 そのために専用のスクリューまでを車体 したか、折悪しく円 29 年から 30 年にかけ されていた 後部の下につけていた て、ドイツが非常に悪性のインフレに悩 そして、計画ではロ台の先行生産型で この戦車の設計者は、今日のホルシェ まされたため、兵器の生産も大幅に削減 ーコ中隊を編成して部隊テストを行い、 社の創設者であるフェルティナント・ホ され、その余波を受けて生産型はついに 289 台か発注されることになっていたか、 ルシェ博士であった 発注されすしまいに終った 円 32 年には旧式化したとされ、計画はす べて放棄された ライヒタートラクター クロストラクター II これは、グロストラクターについても 一方、ライヒタートラクターは、ライ 同しであるが、これらの戦車は速度が遅 3 種類の同シリースのなかて最も有名 ンメタルとクルッフの両社に 3 台すっ原 いのと、指揮官かターレットではなく車 なのかこの II 型で、ラインメタル・ホル 型が発注された。このうち、 2 台はター 体内に収まって作戦するようになってい ジーク社の製作てある。主砲は 7 . 5 cm だ レットつきの戦車であったか、のちに一 たので、視界が悪く、陸軍が要求する新 か短く、後部にはやはり機銃用ターレッ 台すっターレットを外して弾薬や武器運 しい仕様に合わなくなったためである。 トをつけていた。工ンジンは 250 田で、 搬用としたものに変更されている。 速度は 40km / h 。 ドイツ戦車の、、紀元前 ' ' の物語である。
EXPERIMENTALS VK 2001 ( Rh ) ラインメ タル・ポルジーク案 は、片側にツイン式のポキイ 4 コをそれ < 試作または計画のみに終った戦車 ぞれバネ・ビームで支えたもので、駆動 円 34 年一月には、前述のグロストラク は前部スフロケットで行われた。ただし、 VK2001 原型車 ターの原型を開発する決定が行われたか、 原型の砲塔には砲を装備しなかった 同時に次期中型戦車の開発も決まってい ドイツは、 I 号と II 号両、、訓練″戦車 の戦車は増加試作車 3 車兩か作られたとこ のあと、本格的な、、戦闘〃戦車を造る予 る。 ろで中止されたが、この 3 車兩は Nb. Fz. と 両者の差はスヒードや車輛の形などに 定だったことは前に述べたが、その完成 呼ばれ実戦に参加している には時間がかかった はほとんどなく、実にこの武装の準備の V K 2001 ( K ) : クルッフ社の案で、実車 差で、計画呼称 VK2000 と呼ばれた それには、いろいろな問題か横たわっ は造られなかったか要求仕様に最も合致 ていたからである。ます、重量は 24 トン 要求仕様は、主な兵器メーカーや開発 したもので、砲塔などは初めから 5 cm 砲 会社に送られているか、まだ円 34 年のこ 以上になってはならなかった。これは、 を積むように計画されていた。そのため ドイツ国内の橋の強度によって制限され となのでカムフラージュのため BW ( 大 ではないが、この砲塔は小改修してⅣ号 隊指揮官車の略号 ) という呼称がつけら たもので、もちろん、車体の幅や高さな 戦車に採用され、クルッフかこの生産を れている。なお、 VK 2000 とは「装軌式 ども道路の条件によって最大値が規定さ 受注するきっかけになっている 式作車、重量 20 トン」の略である VK 2002 (MAN) : MAN 社か提出した計画 れた 各社から提出された設計の主なものは 次に問題となったのは、主砲の口径で で、 VK 20 田より車体かひとまわり大き 次のとおりであった ある。ルツツとグーデリアン両将軍は 5 い。実車は製作されなかった VK 2001 ( Rh - B) : ラインメタル・ポルジ cm 砲を主張したが、軍需省は歩兵の対戦 M KA : V K 2000 系の計画は一台も BW 戦 ーク社の案で、四 34 年末には軟鋼で造ら 車中隊がすでに使用中だという理由で、 車の生産に結びつかなかったが、四 35 年 れた原型が完成し、クンメルスドルフ試 3 .7cm の PaK35 / 36 砲の採用を主張した にクルッフ社か提出した ZW の原型 M K 験場で軍のテストを受けている。 VK 2000 もちろん、 5 cm 砲では開発費も維持費 A は軍の強い関心を集め、これをベース も桁違いに高くなるので、最後は砲塔と では、この車だけ実車が造られたわけで に生産型の開発まで進むことになった ターレットのリングは将来 5 cm 砲の装備 あるが、サスペンションは要求仕様と違 MKA は、車体構造はもちろん、サスペ も可能にしておくということで落ちつい ってラインメタル社がグロストラクター ンションから砲塔まで、のちのⅣ号戦車 たが、これはあとになってみると、非常 や商業用トラクターに使っていた標準型 に非常に近いものになっていて、サスへ に賢明な決定であった を転用してあった ンションは走行車輪をへアにしてリーフ , のサスへンション ニ = ロ 1 イ 6
PANZERKAMPFWAGEN Ⅳ の品、一 のる 行け 型を 号タ 「引′イ おう -1 。、フカ 末に軟鋼で作られたラインメタル・ホル 装や装甲の強化の要求を受け入れる許容 Ⅳ号戦車 Pz. Kpfw.IV ジーク社製の VK 20 田 ( Rh B ) である 力があったため、次々に改良か行われて 軍の BW 要求仕様に合わせて開発され、 第 2 次大戦のドイツ戦車の中では最も 戦闘力を向上させ、ティーゲルやパンテ 円 35 年から 36 年にかけてテストされたか、 多く生産され、終戦まて主力として活躍 ルか現われてからも、数的には最後まて 同時に円 35 年にはクルッフ社にも中型戦 した代表的戦車である ドイツ戦車師団の主力の地位にあった Ⅲ号戦車とともに開発に着手され、戦 車の開発か発注されている これには、Ⅳ号戦車か生産性か高く、 この設計案には、同社が ZW 軽戦車の 車部隊、機械化歩兵部隊の進撃のさいの 構造、艤装もオーソドックスで信頼性か 要求仕様に合わせて提出していたいくつ 火力支援を主な任務とする重戦車的な目 高かったことか大きな原因であり、その かの画期的な技術かもりこまれ、その M 的に製作された。このため、Ⅲ号戦車よ 戦歴はソ連の T 34 、アメリカの M 4 とな K A 原型には BW のときに同社か造った りひとまわり大型で、厚い装甲、強力な らふ第 2 次大戦のベストスリーの一角を 砲塔と武装をとりつけ、サスへンション ェンジンとともに、じゅうふんな機動力 占めている はシンフルで、専門家の問てはすでに も与えられていたので、のちに起った武 この戦車の原型になったのは、円 34 年 / 0
PRE-HISTORY グロス・トラクター I のボギー式転輪とリー フ・スプリング。 < ドイツ戦車前史 され、歩兵部隊の多くか車輛化されて、 行われ、、、ライヒタートラクター (Leich- その 7 コ大隊は装甲車を巧台も保有した ter traktor ; 軽トラクター ) と呼は、れた この装甲車は装甲兵員輸送車で、乗員の グロストラクターは、重量 20 トンで、 ドイツは第一次大戦で敗北したのち、 ほかにに名の兵士を乗せられた。歩兵は 7.5cm 砲げのほか、機関銃を周囲の防 ベルサイユ条約で軍備に大幅な制限がっ 歩かなけれは、役に立たないという考えか 御用に 3 挺取りつけていて、速度は 20km けられ、陸軍は兵員数万名で、戦車は 強かった時代に、この考えは全く新鮮で / h と低速だったが、車体は水密構造で水 一台も持ってはならないということにな あった 上でも走れるというもので、一方、ライ った 円 26 年になると、ドイツにとっては願 新ドイツ国防軍 ( ライヒスヴェーア ) ヒタートラクターは 9 トン , 3.7cm 砲ー ってもないチャンスが到来した 門を積むという条件で、メーカーとの契 は、円 20 年一月から発効したこれらのき 第 2 次大戦が終ってしばらくするまで 約は円 27 年 3 月に行われた ひ、しい条件のもとで発足したが、そこは 公表されなかったが、このときドイツは また、同時に装輪戦車と呼はれた高性 ドイツのこと、あらゆる手段を使って将 ソ連と秘密協定を結んで、ポルガ河流域 能の装甲車の開発も始まったか、これは 来の強力なドイツ軍の建設に向って努力 のカサンにある試験場で、ドイツか保有 車輪か 8 コと田コの高速車でタイムラー が払われた。初代の陸軍総司令官フォン・ してはならない航空機と戦車の開発・実 ゼークト大将は、先見の明と創造力にす ・ペンツとフッシンク N A G 両社が契約 験を始めている。ラッパロ協定と呼ばれ している ぐれた人物で、円 26 年までの在任中に るこの密約は、米・英・仏連合国の眼を 「将来のヨーロッパの戦闘は、機動力と これらの車車兩に関する記録は、現在で くぐって、装甲車車兩の基本試験を行うに はあまり残っていないが、ドイツ戦車の 柔軟な反応力が勝負を決する」として、 は絶好であった 歴史のうえで欠かすことができない存在 連合国占領軍の規模が縮小され、ドイツ こにいたって、陸軍兵器局 ( ヘーレ なので、概略を紹介しておこう 軍に対する監視の目もやわらいでいくの スワッフェンアムト ) は、ラインメタル、 にテンポを合わせて、機動力を重視した クロストラクター クルッフ、ダイムラー・ペンツの 3 社に 本格的な訓練や組織の編成を進めていっ それぞれ独自に大型戦車を 2 台ずっ開発 ダイムラー・ペンツか手がけた田 . 5cm する契約を与え、これらの車輛を、、グロ 砲装備の車で、車体のアレンジは第一次 第一次大戦時は、敗戦国の武装解除、 (Gross traktor; 大型トラ ストラクター 大戦の戦車、それもイキリスの重戦車の 軍隊の解体とはいっても、第 2 次大戦の クター ) と呼んだ 流れをくんでいた ように徹底したものではなく、警察や国 ターレットはうんと前につけて視界も 境バトロールには装甲車を持っことが許 また、軽車車兩についても同様な契約か た 6
についても後で述べるⅢ号戦車のように I 号戦車 Pz. Kpfw. I グデーリアンの考えに反して 3 . 7 cm 砲か ドイツがベルサイユ条約を破棄し、再 採用されたのである。 軍備を公式に 言してから初めて装備し 軽戦車のほうは、兵器局の要求仕様に た戦車で、最初の目的は訓練用として開 そってラインメタル、 M A N 、クルッフ、 発された ヘンシェ丿レ、ダイムラー・ペンツの 5 ネ土 しかし、ドイツ陸軍の戦車勢力を短期 が設計案を提出し、結局クルッフの L K 間に増強するために円 35 年から実戦部隊 A 功く採用され、砲塔と車体上部はダイ に配備され、第 2 次大戦の初期に大いに ・ペンツが担当することとなった ムラー 活躍した。また大戦中期以後は、自走砲 そして、円 33 年貶月には 3 輛の走行原 や牽引車、そして本来の目的であった訓 型が発注された。この製作はヘンシェル 練用に使われた 社が受持ったが、この下請け作業は「教 この戦車の出現のまえには、グロス 育」のことを考えて数社に分散されてい ( 重 ) ・トラクターとライヒター ( 軽 ) ・ト る。設計から生産までを一社に任せきら す、生産も何社に分けるのか現在の西ド ラクターという名前で 2 種類の戦車を極 イツ政府の発註のやり方だが、この頃か 秘のうちに開発しているが、これらは第 一次大戦の戦車と同様に、車長が車室の らすでに同し方式がとられていたわけで 奥に座っているため、機動性を重視する ある この一号車は円 34 年 2 月 3 日に完成し、 ことになったドイツの作戦方針に合わす 円 33 年にいたって陸軍兵器局は機銃 2 丁 テストの後に 7 月にはクルッフ社に対し をターレットに装備した 5 トンの軽戦車 て巧 0 車兩の生産契約が行われた。原型の の要求仕様をメーカーに対して示してい LKA ーヨはロードホイールか 4 コで、コイ る ル・スフリングを使用し、 リターン・ロ これに対してグテーリアン将軍などは、 ーラーは 3 コであったか、 これら生産車 新しいドイツ陸軍は武装、装甲、機動力 は外部ガーダーに第 2 ロードホイールか で当時の世界のレベルをはるかに抜いた 結合され、バネはレ 4 の楕円型スフリン 戦車で機甲師団を編成することを考えて グを用いている。 いたので、最初はこの軽戦車に気乗りう そして、名称は LaS (Landwirtschaft- すであった。彼の考えでは、軽戦車とい licher Schlepper; 農業用トラクターの略 ) えども 5 cm 砲と A P ( 徹甲 ) 弾を持ち、 となって、軍用車車兩であることさえ秘密 中戦車は 7.5cm 砲、重量 20 トン、軽戦車 にされていた。最初の車は部隊配備にな が偵察と機動戦を行い、中戦車がその火 ったときは一 A LaS クルッフと呼ばれた カ支援と突破を行うということにあった か、エンジン出力が不足で車体も短いの で問もなく改良され、一 B LaS マイと名 しかし、ドイツか再軍備をするにあた づけられ、円 35 年末から生産された って、できるだけ短時間で数をそろえる ことか重要で、また戦車要員の訓練やメ この一 A LaS は 2 人乗りで右寄りにと りつけられたターレットは手動で全周旋 ーカーのレベルアッフの間題などからみ ても、軽戦車からスタートするのが好都 回ができ、 7 . 92mm の M G ロ機銃を 2 丁装 備していた 合であり、さらに主砲も新しく開発する よりも、すてに陸軍が装備していた 3 . 7 工ンジンはクルッフ製の M 305 空冷水 cm 砲を採用したほうか兵器の共用や生産 平対向 4 気筒ガソリン・エンジンで排気 上からは有利だということから、中戦車 量 3 . 5 2 、変速器は 5 速乾燥板式 z F ア
Ⅲ号 L 型戦車。砲 塔後部の雑具箱の 下かくびれている のは、砲塔にある 後方用司占視ロの視 界を妨げないため : 円 43 年に鉄道の軌道上を走れるよう の生産ラインのあいだに入れて造られた から 7 田 75 までの H 型。 に改造した型で、キャタヒラーの下に鉄 このうち、 E 型の一部の後期型は細部 指揮車で、大戦中にすっと続けて生産さ 道用の車輪が張り出していて、東部戦線 か戦車の G 型と同じになっていたし、 H れている。最初のロットはシャシー番号 で少数か鉄道の防衛に用いられた 603 から 60370 までの D ー型 (Typ 3c/ZW) 型は最初は 3.7 cm のダミイ砲をつけてい クロッサー・ / くンツアーベフェールスヴ たが、のちには戦車の」型とほとんど同 で円 38 年から 39 年の生産、次はシャシー ーケン III/Gr PzBefWg. Ⅲ (Sd. Kfz. しになって、いる 番号 605 田から 60545 までの E 型で、円 39 266 , Sd. Kfz. 267 , Sd. Kfz. 268 ) : 戦車 さらにその後には円 42 年から 43 年にか 年中期から円 40 年まで生産、最後は 700 田 しいーー 上の写真と同じ車体 てあるか、防楯の装 甲板かはすされてい この装甲のつけ 方からスペースド アーマー式の増加装 甲てあったことがわ 5 8
・ペンツの生産ラインが稼動した円 43 年 一月からで、 M N H とヘンシェルではそ れから 2 カ月後に完成しはじめた。これ らの型は、 80mm の装甲板をつけ、キュー ホラは砲塔の右につき、マズル・プレー キはダブル・バッフルとなっていた D 2 型は、このほかキューホラは円筒 型でビジョン・ポートがあり、砲塔の側 面にはガン・ポート兼用の薬莢投出孔が っき、無線士用の機銃用に、、郵便受型〃 の垂直フラッフかあり、運転手用にはビ ション・フラッフがついていた 乗員は 5 名で、ドライバー、無線手、 射手、装てん手、車長で構成されていた ペリスコーフは 2 コで、運転手と無線手 が使い、砲塔は油圧で回転するが、手動 でも動かせた 工ンジンは車体後部に、変速器とクラ ッチは前部にあったが、潜水はできなか った ・スカートはキャタヒラー上 部を保護するため、円 44 年 2 月からとり つけられたが、実戦では外しているもの もあった D 型は、円 43 年 7 月以降は生産か中止 されたが、ヘンシェルだけは 43 年 9 月ま で生産を続け、終りの頃の車輛はいろい ろ改修されて A 型と共通点も多くなって いる バンテルが実戦に参加したのは、円 43 年 7 月、クルクス攻撃のツイタデル作戦 のときであったが、まだ工ンジンのオー バーヒートや機械の故障に悩まされてい 前ページ上の写真と同じ車体。車体前面向って左側のハッチはサプ・マシンカンの銃眼 砲塔や車体につけられた箱型のものは戦闘重量と等しくするためのテスト用パラスト
Kfz. 182 ) : VK4503 ( H ) をベースにした て、機構的にはティーゲル E 型の後期型 この車は、予定より 3 カ月遅れて円 43 年 と同じものが数多くあり、強力な新型戦 月に完成したが、この間にバンテルⅡ 車を短期問に量産を始めたいというドイ との共用、大幅な設計変更などの問題か ツの苦心のあとをあちこちにみせていた 持ち上って関係者をやきもきさせた ティーゲル E 型後期型やバンテルと同 ティーゲル B 型の生産型は車体だけは じものとしては、エンジン、キューホラ、 工ンジン・カバーがあり、全鋼製ロード 円 43 年 2 月に完成していたが、残りは設 ホイールはティーゲル E 後期型と同じで 十が進まないため隣りの生産ラインで組 あった 立てられていたティーゲル E 型だけがど また、車体の装甲は厚い部分は 150mm んどん完成していくという有様が続いた もあり、全体に E 型より厚く、主砲の防 そこで、ポルシェの車体用に造られたヴ 楯は小型の円錘型のサウコフ ( 豚の頭 ) ェクマンの砲塔 50 コがまずとりつけられ、 と呼ばれるもので、車体の機銃はポール その後の生産型は生産が容易なクルッフ マウント式。転輪は E 型と並べ方か異り、 設計の砲塔をとりつけた。これらの砲塔 車輪の交換、氷の凍結、泥のつまりなど は、その注文メーカーの名前をつけてポ の問題を防ぐには E 型のものより有利で ルシェ砲塔、ヘンシェル砲塔と呼は、れて あった。 いる 円 44 年秋には、バンテルの項でも述べ B 型はまた、ティーゲルⅡともケー たように、砲塔つき戦車は円 45 年には 2 クスティーゲル ( 英語ではキング・タイ 車種にしほ、られることになり、 ガー ) 、連合軍ではロイヤル・タイガーと ノヾンテル G 型とティーゲル B 型がその対象車に選 呼ばれて非常に恐れられたが、共用部分 ばれたが、ティーゲルの最初の設計がた が多いため外形はバンテルによく似てい 一三ロ ( 教導戦車師団・ 1944 年春北フランス ) Pz. Kpfw. VI Tiger Ⅱ 7 3 8
3 初期の電撃戦におけるⅣ号 D 型戦車。当初は突破支援用 の戦車として開発され、当時は数が少なかった 車の主砲がいっへんに、、旧式″化してし まったため、 G 型からに予定されていた 長砲身砲を急きよ繰り上げて装備する必 要に迫られたためである。 このため、生産ラインでは同じ F 型で ありながら、長砲身と短砲身の両方のも のが流れる時期があり、前者は主として 東部戦線、後者は北アフリカ戦線へ回さ れた。もっとも、間もなくほとんど全部 が長砲身の F2 型となり、一部の短砲身 型もあとから長砲身に換装され、北アフ リカにもこれが出現したが、火力の弱い イギリス戦車にとっては大変な強敵で、 イギリス軍は、、 MK. 4 ・スペシャル〃と呼 んでこの戦車を恐れた Typ 7/BW/Pz. Kpfw. Ⅳ Ausf. G ( Sd. Kfz. 161 / 1 ) : G 型はⅣ号戦車のな かでも生産台数が最も多く、生産中にも 重要な変更がかなり行われている。 ます、主砲は初期のものではマズル・ プレーキがシングル・バッフル式で F 2 型と同じだったが、問もなくダブル・バ ッフル式となり、砲塔の前と横にあった 装てん手用のビジョン孔は廃止され、 部は射手用のものも廃止した 砲塔は屋根が補強されて田 mm が mm と なり、外からはわからないが内部は大幅 な変更を受けた。また、生産の途中で F 2 型の砲塔をつけたり、後期には短砲身 の KwK 40 砲を装備したものもあったか、 これは新型の生産が問に合わなかったの と、旧型が在庫して他に使い場所がなく なったためと思われる。 いものを標準としたほか、技術的にも構 防備を固めている。 円 42 年後半からの G 型は、主砲を L / 43 シャシー番号は 84000 にまで達したが、 造的にもいくつかの大きな変更をしてい に代ってさらに砲身の長い L / 48 とし、 42 メーカーは F 型と同様にクルップのほか、 年 7 月からは前部に 30mm 装甲板を追加し る。 砲塔と車体の前部に 30mm 鋼板を最初か て溶接またはポルト締めしたものが一部 ーベルンゲンベルケとフォマークの 2 ら追加したのもこの型からで、一部の車 社が加わっていて、間にだいぶ欠番があ 造られている。また、 43 年一月から、キ 輛では砲塔の前に V 型のスプラッシュ・ ューボラに田 0 mm の装甲をつけ、ハッチ プレート ( 跳弾 ) という板を溶接して、 Typ 7/BW/Pz. Kpfw. Ⅳ Ausf. H を一枚にしたものが出現し、車体と砲塔 ( Sd. Kfz. 161 / 2 ) : 主砲を 7.5cm の KwK 小銃弾などの直撃を避けている。 の側面には、、シュルツェン″と呼ばれる 駆動スプロケットは、 8 本スポークか L / 48 に統一し、キューボラも田 0 の厚 スカート板がついてパズーカ砲に対する
最初の生産型パンテル D 型。固定式の車体銃 はなく、車体前部向っ て左のハッチから無線 手がサプ・マシンガン を使った には 44 トンを越しはじめるということに スチール・ホイールがつき、砲塔は非常 なっナ に前に位置し、車体側面には脱出ハッチ すでに VK3002 (MAN) のバイロット・ を持ち、外部燃料タンクは火炎時には射 モテル 2 台をテスト中に、ヒトラーの命 出でき ( これも T 34 と同し ) 、ドライバー 令で装甲板は 60mm から 80mm に厚くなり、 は砲塔の中に坐って油圧で遠隔操縦がで これで 35 トンを越すことが確実になると、 きるようになっていた 工ンジンは予定のマイバッハ HL210 をホ このタイプは木製のモックアップが造 アアッフしたマイバッハ HL 230 に換装し られ、走行原型の製作か始まったか、途 なければ出力不足だということになった 中で調査団が MAN の設計を採用する決定 そのうえ、変速器もクラッチもフレーキ をしたため、原型は完成することはなか も最初のものでは重い車体にマッチしな った いのでより大型なものが必要になった これは、 MAN の設計のほうかオーソド 新しい AK7 ーー 200 変速器は優秀で、ニュー ックスで、当時の陸軍とドイツの戦車技 トラル・ターンや片側旋回ができたか、 術の実情に沿っていたためである 車体か重いため最大速度は 45km / h 以上は VK 3002 (MAN): この設計も T34 の影響 出なかった を強く受けてはいるが、サスへンション はトーションバーを使い、砲塔と 7 . 5 cm ノくリエー、ンヨン の L / 70 砲は前に開発した VK 45 田 ( H 2 ) Pz. Kpfw. ンテル Ausf. D (Sd のものを流用した。砲塔は T 34 より車体 Kfz. 1 7 1 ) : バンテルは最初、円 43 年 5 月 の後方に位置していた までに 250 台生産される予定だったか、 この戦車の生産は、ドイツ戦車のなか ことか緊急を要したので、ヘンシェル、 で最優先の指定を受け、先行生産型の製 ダイムラー・ペンツ、 M N H 各社の生産 造から量産ラインの準備までが他の戦車 を全部バンテルの生産に切換えて、 600 を押し除けて進められている 台と修正された。最初の生産車は M A N パンテルという名が決まったのもこの 社で円 42 年Ⅱ月に完成し、 20 台までは V 頃で、シャシーやサスへンション、それ K 2002 ( MAN ) 原型とほとんど同じで 60 とロードホイールの設計には陸軍兵器局 mm の装甲板をぬけ、主砲の L / 70 はシンク の主任技術者であるクニークカンフ博士 / ヾッフルのマスル・フレーキをつ か直接あたり、キャタヒラー、ホイール、 け、指揮官キューホラは砲塔の最後部の トーションバーなどの部品は数社が共同 左にあり、エンジンはおそらくまだマイ して責任を持って製作を引受けている バッハ HL 2 たったと思われる ( この 20 トーションバーは全部同しで互換性が 台は一時、 Ausf. DI と呼は・れた ) 。 ある。しかし、意外な伏兵だったのは重 標準の D 型 ( 一時は Ausf. D 2 と呼ばれ 量増加であった 35 トンをすこし越すて た ) か完成しはしめたのは、ダイムラー いどと考えたのは全く甘い期待で、最後 1 4 1