PANZER AT WAR 想である。 歩兵を自動車で運ぶという考えで設立 された自動車輸送歩兵部隊を核として、 トルツへといわれた戦 新たにノヾンツア 車部隊用に、新たにふたつの小型訓練用 戦車 Pz. Kpfw. I と pz. Kpfw. Ⅱが設計さ れて部隊配備され、それに続く主力戦車 としては別に軽戦車と中戦車か開発され 軽戦車は、高速の徹甲 (AP) 弾を発 た 射して敵装甲車を撃破するのが主な目的 で、、中隊指揮官車 (zugfuhrerswagen ; 略 して (w)" と呼ばれて、連合国の目を逃 れていた。また中戦車は、支援射撃用に 低速の大口径弾を発射するように計画さ れ、、、大隊指揮官車 (BataiIlonsfuhrerwag- en , 略して BW ) と呼は、れた これらは、円 39 年以降はそれぞれ P z. Kpfw. Ⅲ ( Ⅲ号戦車 ) およひ Pz. Kpfw. Ⅳ ( Ⅳ号戦車 ) と呼ばれるようになったか、 円 39 年にホーランドやノルウ工ーへ侵攻 したころはまだこれらの車輛は数か非常 、てを、い言 0 、をこ、ま , ー - に少なく、戦車の主力は Pz. Kpfw. I と II 電撃戦発動、 1940 年夏、フランスに進攻する 38 ( t ) 戦車 に頼っていたのか実情てあった この、、劣勢〃を補ったのが、チェコ製 第 2 次大戦におけるドイツ戦車 の Pz. Kpfw 35 (t) と Pz. Kpfw. 38 (t) で、 円 39 年にドイツがチェコスロパキアを占 領したときに完成していたものを量産さ 第 2 次大戦でドイツ戦車が連合車を圧 行われた そして、円絽年に LK Ⅱ軽戦車の設計 せて、その後も重用した 倒したウラには、第一次大戦て連合軍に 遅れをとったことに対する深刻な反省が をした有数の戦車テザイナーであるホル さて、円 35 年月日には、有名な戦 車師団 (Panzer Division) か誕生し、ます マー技師はスエーデンでその後継型とい あったことを忘れてはならない。 えるランスペルク M- 幻というタイフを 3 コ師団か編成されたか、これにはグー 円年から絽年までの第一次大戦にお いては、イキリスか投入した、、タンク〃 デリアンの思想が大きく生かされ、各師 開発している 円 26 年になるとソ連とのあい 団は戦車部隊のほか自動車化歩兵、偵察 はこう着した西部戦線のさん壕戦に革命 さらに だに秘密のラッパロ条約が結ばれてグロ 部隊、突撃工兵、それらを支援する砲兵 をもたらしたが、ドイツはタンクの開発 部隊の混成で、他の師団と関係なく独立 にも、タンクの戦場での運用にも遅れを ストラクターとライヒタートラクターと して作戦する能力を持っていた。また いう重と軽の両戦車の開発とテストか本 とり、敗戦時までにその遅れをとり戻す 格的に開始されている れに加えて空からはユンカース Ju87 急降 ことができなかった 下爆撃機か戦車の攻撃に先行して敵陣に ヒトラーの卒いるナチスが円 33 年に政 円 20 年のベルサイユ条約ては、ドイツ 権をとると、ベルサイユ条約を無視して 攻撃を加えられるように仕組まれていた は戦車の生産も保有も禁止されたか、 20 これは、円 30 年代後半としては全く驚 ドイツ軍の大拡張と再編成が始まったか、 年代の後半に入ると、早くも戦車戦術の 嘆に値するものて、当時のイギリスやフ このとき生きたのは、円 20 年代からクー 理論研究が活発に行われるようになり、 ランスの陸軍かまた第一次大戦時代と変 ダミイ戦車を使ってその研究かさかんに デリアンとルツツ両将軍か抱いていた構 ゝ い 7 5 6
についても後で述べるⅢ号戦車のように I 号戦車 Pz. Kpfw. I グデーリアンの考えに反して 3 . 7 cm 砲か ドイツがベルサイユ条約を破棄し、再 採用されたのである。 軍備を公式に 言してから初めて装備し 軽戦車のほうは、兵器局の要求仕様に た戦車で、最初の目的は訓練用として開 そってラインメタル、 M A N 、クルッフ、 発された ヘンシェ丿レ、ダイムラー・ペンツの 5 ネ土 しかし、ドイツ陸軍の戦車勢力を短期 が設計案を提出し、結局クルッフの L K 間に増強するために円 35 年から実戦部隊 A 功く採用され、砲塔と車体上部はダイ に配備され、第 2 次大戦の初期に大いに ・ペンツが担当することとなった ムラー 活躍した。また大戦中期以後は、自走砲 そして、円 33 年貶月には 3 輛の走行原 や牽引車、そして本来の目的であった訓 型が発注された。この製作はヘンシェル 練用に使われた 社が受持ったが、この下請け作業は「教 この戦車の出現のまえには、グロス 育」のことを考えて数社に分散されてい ( 重 ) ・トラクターとライヒター ( 軽 ) ・ト る。設計から生産までを一社に任せきら す、生産も何社に分けるのか現在の西ド ラクターという名前で 2 種類の戦車を極 イツ政府の発註のやり方だが、この頃か 秘のうちに開発しているが、これらは第 一次大戦の戦車と同様に、車長が車室の らすでに同し方式がとられていたわけで 奥に座っているため、機動性を重視する ある この一号車は円 34 年 2 月 3 日に完成し、 ことになったドイツの作戦方針に合わす 円 33 年にいたって陸軍兵器局は機銃 2 丁 テストの後に 7 月にはクルッフ社に対し をターレットに装備した 5 トンの軽戦車 て巧 0 車兩の生産契約が行われた。原型の の要求仕様をメーカーに対して示してい LKA ーヨはロードホイールか 4 コで、コイ る ル・スフリングを使用し、 リターン・ロ これに対してグテーリアン将軍などは、 ーラーは 3 コであったか、 これら生産車 新しいドイツ陸軍は武装、装甲、機動力 は外部ガーダーに第 2 ロードホイールか で当時の世界のレベルをはるかに抜いた 結合され、バネはレ 4 の楕円型スフリン 戦車で機甲師団を編成することを考えて グを用いている。 いたので、最初はこの軽戦車に気乗りう そして、名称は LaS (Landwirtschaft- すであった。彼の考えでは、軽戦車とい licher Schlepper; 農業用トラクターの略 ) えども 5 cm 砲と A P ( 徹甲 ) 弾を持ち、 となって、軍用車車兩であることさえ秘密 中戦車は 7.5cm 砲、重量 20 トン、軽戦車 にされていた。最初の車は部隊配備にな が偵察と機動戦を行い、中戦車がその火 ったときは一 A LaS クルッフと呼ばれた カ支援と突破を行うということにあった か、エンジン出力が不足で車体も短いの で問もなく改良され、一 B LaS マイと名 しかし、ドイツか再軍備をするにあた づけられ、円 35 年末から生産された って、できるだけ短時間で数をそろえる ことか重要で、また戦車要員の訓練やメ この一 A LaS は 2 人乗りで右寄りにと りつけられたターレットは手動で全周旋 ーカーのレベルアッフの間題などからみ ても、軽戦車からスタートするのが好都 回ができ、 7 . 92mm の M G ロ機銃を 2 丁装 備していた 合であり、さらに主砲も新しく開発する よりも、すてに陸軍が装備していた 3 . 7 工ンジンはクルッフ製の M 305 空冷水 cm 砲を採用したほうか兵器の共用や生産 平対向 4 気筒ガソリン・エンジンで排気 上からは有利だということから、中戦車 量 3 . 5 2 、変速器は 5 速乾燥板式 z F ア
PRE-HISTORY グロス・トラクター I のボギー式転輪とリー フ・スプリング。 < ドイツ戦車前史 され、歩兵部隊の多くか車輛化されて、 行われ、、、ライヒタートラクター (Leich- その 7 コ大隊は装甲車を巧台も保有した ter traktor ; 軽トラクター ) と呼は、れた この装甲車は装甲兵員輸送車で、乗員の グロストラクターは、重量 20 トンで、 ドイツは第一次大戦で敗北したのち、 ほかにに名の兵士を乗せられた。歩兵は 7.5cm 砲げのほか、機関銃を周囲の防 ベルサイユ条約で軍備に大幅な制限がっ 歩かなけれは、役に立たないという考えか 御用に 3 挺取りつけていて、速度は 20km けられ、陸軍は兵員数万名で、戦車は 強かった時代に、この考えは全く新鮮で / h と低速だったが、車体は水密構造で水 一台も持ってはならないということにな あった 上でも走れるというもので、一方、ライ った 円 26 年になると、ドイツにとっては願 新ドイツ国防軍 ( ライヒスヴェーア ) ヒタートラクターは 9 トン , 3.7cm 砲ー ってもないチャンスが到来した 門を積むという条件で、メーカーとの契 は、円 20 年一月から発効したこれらのき 第 2 次大戦が終ってしばらくするまで 約は円 27 年 3 月に行われた ひ、しい条件のもとで発足したが、そこは 公表されなかったが、このときドイツは また、同時に装輪戦車と呼はれた高性 ドイツのこと、あらゆる手段を使って将 ソ連と秘密協定を結んで、ポルガ河流域 能の装甲車の開発も始まったか、これは 来の強力なドイツ軍の建設に向って努力 のカサンにある試験場で、ドイツか保有 車輪か 8 コと田コの高速車でタイムラー が払われた。初代の陸軍総司令官フォン・ してはならない航空機と戦車の開発・実 ゼークト大将は、先見の明と創造力にす ・ペンツとフッシンク N A G 両社が契約 験を始めている。ラッパロ協定と呼ばれ している ぐれた人物で、円 26 年までの在任中に るこの密約は、米・英・仏連合国の眼を 「将来のヨーロッパの戦闘は、機動力と これらの車車兩に関する記録は、現在で くぐって、装甲車車兩の基本試験を行うに はあまり残っていないが、ドイツ戦車の 柔軟な反応力が勝負を決する」として、 は絶好であった 歴史のうえで欠かすことができない存在 連合国占領軍の規模が縮小され、ドイツ こにいたって、陸軍兵器局 ( ヘーレ なので、概略を紹介しておこう 軍に対する監視の目もやわらいでいくの スワッフェンアムト ) は、ラインメタル、 にテンポを合わせて、機動力を重視した クロストラクター クルッフ、ダイムラー・ペンツの 3 社に 本格的な訓練や組織の編成を進めていっ それぞれ独自に大型戦車を 2 台ずっ開発 ダイムラー・ペンツか手がけた田 . 5cm する契約を与え、これらの車輛を、、グロ 砲装備の車で、車体のアレンジは第一次 第一次大戦時は、敗戦国の武装解除、 (Gross traktor; 大型トラ ストラクター 大戦の戦車、それもイキリスの重戦車の 軍隊の解体とはいっても、第 2 次大戦の クター ) と呼んだ 流れをくんでいた ように徹底したものではなく、警察や国 ターレットはうんと前につけて視界も 境バトロールには装甲車を持っことが許 また、軽車車兩についても同様な契約か た 6
第 2 次世界大戦のドイツ戦車 GERMAN TANKS OF THE SECOND WORLD WAR SUNDAY ART TOKYO
Pz. Kpfw. I Ausf. A を除く ) 、 前音 5 スフロ らずに、戦車は歩兵を支援するか騎兵の 加して威力を加えている。 ケット駆動方式、スケルトン式ショート 代りという意見が支配的だったのとは大 この頃のフランスやベネルックス 3 国 ヒッチ鋳鋼履帯などの進歩したものがド の戦車は、火力も機動力もはるかに見劣 きな違いであった。 イツ製のどの戦車にも採用されている りしたうえ、前述のようにドイツ軍ほど そのうえ、円 36 年から 39 年にかけてス ペインの内戦に、、志原頁兵″を投入してフ 組織も経験も積んでいなかったため、不 マイバッハ製のエンジンは水冷のガソ 落を豪語したマジノ線も数週間のうちに リツックリーク戦術を実地に試してみた リン式で、軽量で高出力を誇り、出力重 結果、その教訓を生かして戦闘力は大幅 突破され、屈伏する以外に方法かなかっ 量比は田 / t もあった。このうち、小型 に向上された の Pz. Kpfw. I Ausf. B と II は直列 6 気筒、 この期問には新型戦車の開発も行われ これが、円 38 年から 39 年のオーストリ 中型の pz. Kpfw. ⅢとⅣは V 型貶気筒と アとチェコスロパキアで実行されて、戦 ていたか、生産に入ったものは一台もな 大きさと出力をほほ 2 倍にしている。そ い。 DW と呼ばれる革命的な重戦車や V 車師団は目を見張る急速進撃をしてみせ して、ステアリング機構は前の 2 台か単 たのだったが、このときは戦う相手が弱 K 30 田シリーズと呼は、れる Pz. Kpfw. Ⅳの 純クラッチ・プレーキ式を採用している 後継候補車の試作もこのなかに入るか、 過ぎたため、世界の関心を呼ぶにはいた のに対し、あとの 2 台は遊星歯車型のク 生産に入らなかった理由のひとつには、 らなかった ラッチ・フレーキ式となっている pz. Kpfw. ⅢとⅣの大量産に設備も人間 ドイツ軍がポーランドへ侵攻して、第 また、この頃のドイツの戦闘部隊の特 も総動員していた状況では、開発の余力 2 次大戦の火ぶたが切られた円 39 年 9 月 徴として、アメリカをはしめ、イキリス も時間的余裕もなかったことか拳げられ 一日には、その戦車師団は 6 コ師団あっ やフランスの列国がそろって採用した、、歩 る。 兵戦車〃はなく、その代りに有名なシュ それにも増して重要なのは、陸軍が Pz この 6 コ師団は、第一から第 5 の各師 ツルムケシュッツと呼はれる突撃砲戦車 団と東フロイセン戦車集団で、ポーラン Kpfw. ⅢとⅣ、それに Pz. Kpfw. 38 ( t ) の性 が円 40 年から次第に多量に投入されてい 能に満足していて、やや旧式化した Pz. ドを一挙に攻め落したあとは西へ移動し、 る。これは、最初は Pz. Kpfw. Ⅲのシャシ Kpfw. I とⅡでさえも第一線部隊からあ 円 40 年 5 月日、フランスとフランター ーを流用していて、砲の旋回角が小さい スに向けて果敢なフリツックリーク作戦 まり苦情かこなかったことてある ため戦車の分類には入らないが、歩兵の それほど、当時のドイツは近隣諸国の 支援用に多数か用いられ、陸戦ては重要 を展開している 水準を越えた優秀な戦車を持っていたわ この大作戦の直前には、騎兵師団を編 な役目を果していることは附記しておく 成変えした軽機械化師団 4 コが編成され、 けで、これはドイツ空軍がメッサーシュ 必要かある 各々が第 6 、第 7 、第 8 、第 9 師団に昇 ット Bf 田 9 戦闘機やハインケル He Ⅱー フランス作戦が終了したのちには、 Pz. 爆撃機に当時全く満足していたのと相通 格して、戦闘に参加しているが、これら Kpfw ⅢとⅣが多量に補給された関係も するところかある 師団の主装備はチェコ製の Pz. Kpfw. 35t ) あって、戦車師団の大幅な組織変更か行 この頃のドイツ戦車は構造や部品の共 と Pz. Kpfw. 38 ( t ) でその装備定数は先の われている 通化も大幅に進んでいて、溶接鋼板、マ 6 コ師団に比べて少なかった 具体的には、それまての戦車師団の戦 しかし、一方では新鋭の Pz. Kpfw. Ⅲと イバッハ製工ンジンと変速器の組合わせ 車の保有台数をほほ半分にして、師団の Pz. Kpfw. Ⅳの両戦車が少数だが実戦に参 ( ただしクルッフ製のエンジンをつけた 数を 2 倍にしたもので、 これによって新 た た 1942 年春、ロ シアの農村を 進むⅢ号戦車 の部隊
たって生産工数はバンテルの 2 倍もかか ることが明らかとなり、実際にはバンテ ル G 型に生産か集中される形となった それでも、ティーゲル B 型は月産田 0 台から 5 台にふやすことが計画された が、 44 年 8 月に 84 台を記録したあとは降 下して 45 年 3 月にはわすか 25 台に落ちて いる ティーケル B 型は、東部戦線では円 44 年 5 月、西部戦線では円 44 年 8 月から姿 を現わしているが、重量か 68 トンで第 2 次大戦の実用戦車のうちで最も重く、機 動力も、、重戦車 " のため思うに任せない うえ、エンジンの寿命か短く、 トランス ッションの故障か多いのが悩みであっ た。しかし、この戦車か実戦化された頃 ケーニクス・ティ ーケノレのスチー ) レ ・リムの転輪キ ャタピラーの / ヾタ ーンもよくわかる ケーニクス・ティ ーケルの前部にあ るスプロケット・ ホイール。頑丈な 尖頭型のホルトに 注意 からドイツ軍は防戦いつほうのことか多 くなったのて、機動力の不足はそう重大 な問題にならすにすんた シャシー番号は 2800 田から 280404 / ヾリエーション BfPzWg. ティーケル Ausf. B . これは、 無線器とアンテナを追加した指揮官車で、 少数だけ造られた 自走砲計画 : B 型をベースにした Pz 」 g. ティーケル B 型 ( Sd. Kfz.1 86 ) が 70 台ほ と、造られた。これは重量 76 トンで、第 2 次大戦の装甲戦闘車車兩としては最も重い。 ャークト・ティーゲルと呼はれ、円 44 年 巧 0 台発注されている 7 イ 3
PANZERKAMPFWAGEN Ⅳ の品、一 のる 行け 型を 号タ 「引′イ おう -1 。、フカ 末に軟鋼で作られたラインメタル・ホル 装や装甲の強化の要求を受け入れる許容 Ⅳ号戦車 Pz. Kpfw.IV ジーク社製の VK 20 田 ( Rh B ) である 力があったため、次々に改良か行われて 軍の BW 要求仕様に合わせて開発され、 第 2 次大戦のドイツ戦車の中では最も 戦闘力を向上させ、ティーゲルやパンテ 円 35 年から 36 年にかけてテストされたか、 多く生産され、終戦まて主力として活躍 ルか現われてからも、数的には最後まて 同時に円 35 年にはクルッフ社にも中型戦 した代表的戦車である ドイツ戦車師団の主力の地位にあった Ⅲ号戦車とともに開発に着手され、戦 車の開発か発注されている これには、Ⅳ号戦車か生産性か高く、 この設計案には、同社が ZW 軽戦車の 車部隊、機械化歩兵部隊の進撃のさいの 構造、艤装もオーソドックスで信頼性か 要求仕様に合わせて提出していたいくつ 火力支援を主な任務とする重戦車的な目 高かったことか大きな原因であり、その かの画期的な技術かもりこまれ、その M 的に製作された。このため、Ⅲ号戦車よ 戦歴はソ連の T 34 、アメリカの M 4 とな K A 原型には BW のときに同社か造った りひとまわり大型で、厚い装甲、強力な らふ第 2 次大戦のベストスリーの一角を 砲塔と武装をとりつけ、サスへンション ェンジンとともに、じゅうふんな機動力 占めている はシンフルで、専門家の問てはすでに も与えられていたので、のちに起った武 この戦車の原型になったのは、円 34 年 / 0
油圧クラッチ・プレーキが配置されてい ルフレンデ 30 ジンバル・マウントに載せ 特殊型 たか、これらの多くはⅣ号戦車と共通で られ、外側に角型の装甲フレームがつい Ⅲ号戦車は生産車を改造または転用し ていたか、それ以降の型はクーゲルフレ あった て次のように多数の特殊装備型があった 工ンジン室はもちろん戦闘室とは別に ンテ 50 ホール・マウントに変更され外観 Pz. Kpfw. Ⅲ Ausf. F/G/H ウンテル なっていて、中間に防火ができる隔壁が も変っている ワーセン・タウヒパンツアー : イギリス あり、エンジンはそのうしろの車体後部 前部の 2 人の乗員のためにビジョン・ 本土上陸作戦用に考えられた潜水戦車で、 の真中に収まり、撚料タンクとバッテリ フ、ロックつきの側面バイザーかとりつけ 車体はシーリング材を使って完全に水密 ーか両側におかれ、ラジェーターはエン られているほか、車体下面に側面脱出扉 構造とし、砲塔のハッチは内側から密閉 が設けられていたが、 M 型以降は生産を ジンのうしろに 2 コ並べられていた でき、主砲や機銃孔、それにキューボラ 砲塔は手動で動き、射手がクランクを 容易にするためこれらは全部廃止された にはコム製カバーをつけて上陸直後に火 回して動かしたが、装嗔手でもできるよ 乗員の残りの 3 名は砲塔内にあり、車 薬で吹きとは、せるようにした うになっていて、 2 人が同時に操作する 長と射手は砲塔の壁にとりつけられたシ そのほか、砲塔と車体の継ぎ目は空気 と砲塔が速く回るようになっていた。車 トに坐っていた。しかし、砲塔と車体 与圧式のゴムチューフ、をつけ、エンジン 長と射手には砲塔の回転位置と目標位置 を区切るケージはない。これら 3 名の乗 の吸気部分もシールされ、砲塔の上に を示す装置かついていた 員用にはまた、側面に横開きの扉のほか、 無線器は、大戦中のドイツ戦車に共用 m のシュノーケル・チューフかとりつけ ヒションとヒストル・ホートがついてい られた。シュノーケルからエンジンの吸 だった Fu 5 かーコで、アンテナはバネつ たが、ヒストル・ホートのほうは後期型 ・排気ができるようにしたほか、乗員室 きで車体の右に立っていて、押し倒され ては廃止されている。車体の下面には駆 の換気、侵水する海水の排出のほか、海 ても元の位置に戻すことができた 動シャフトかとおり、前方にはキアホッ 上の艦船との無線連絡ができるようにア クスとタイムラー・ペンツ / ウイ丿レソン 「、軍て 」」カく アチ たツ スエ ギ面 《一イ側 5 3
4 もこ心舅 Ⅲ号 M 型に火焔放射器を装備したⅢ号 M 型 ( F 1 ) 火焔放射戦車。砲 塔前部にスモーク・ディスチャージャーがつけられている ンテナかついていて、今日の一部の重戦 部隊用に改造された弾薬輸送車で、戦闘 くことができた。燃料は田 50 宅ほど積め、 車と水中走行性能では引けをとらないも 室にあたる部分には弾架が立てられ、 ー 3 秒続けて停止する普通の放射方法 2 のだった 部はスカート・アーマーもつけていた で 70 回から 80 回の放射ができた もちろん、英仏海峡を渡るには専用の ーⅢ : 砲塔を外して一般牽引 ただ、のちには有効距離が短いのか難 ュレッ / 、 舟艇を必要とした。この舟艇は、上陸地 と物資運搬に用いられた型で、車体の上 点となったが、初期には大いに威力を発 点に近づくと前方のランフを海底へ下ろ には木製のフラットホームが設けられて 揮した。乗員は 3 名で、共軸機銃はその して、戦車を水中へすべりこませようと いた。これは大戦後半に東部戦線で用い まま装備してあり、敵には外観だけでは られて重宝かられている。この戦線では、 いう計画で、 F 、 G およひ H 型などが改 普通型戦車と見分けで難かしくしてあっ 普通の車輛では泥沼や雪田にはまりこん 造されて作戦の実行時期を待っていた た ただ、前端には装甲板を追加してス で動けなくなることが多かったが、オス しかし、ゼーレーべと呼ばれたこの作戦 ヘースド・アーマーにしてあり、無線器 トケッテン式キャタヒラーをつけると非 はついに実行されす、残った戦車は円 に Fu 2 を一セット追加してあった。重量 常に有用であった。もっとも、この改造 年に東部戦線でフ、ク河の渡河に用いられ は 23 トン。 型は緒戦の頃にも一定数が戦車工場や補 マイネラウムパンツアーⅢ : これは、車 ている。このときシュノーケルは 3 m の 給廠に配備されて、動かない戦車を移動 体位置を高く上げたうえ補強した地雷除 鋼管に代えられ、排気管は別に上へ延長 去車で、砲塔はなく、長くて高いキャタ するのに使われたらしいが、後半では旧 されていたという 式化した戦車を改造して別の用途に当数 ヒラーの形で容易に識別できた Pz. Kpfw. Ⅲ Ausf. M(FI) フラム / くン F 型を 改造して一台が造られたことが知られて ツアーⅢ ) (Sd. Kfz. 141 / 3 ) : 円 43 年初 が使用されたものである。 めからヴェクマン社が M 型を改造して火 ベルケパンツアーⅢ : これは装甲回収車 いる 焔放射戦車としたもので、合。 ピオネールバンツアープーケンⅢ : 砲塔 への改造型で、砲塔を外し、牽引道具を 計田 0 台か 造られ、主に東部戦線で用いられた を外し、まわりに木製のデッキをつけ、 つけ、必要に応して工具や物資の運搬に 車には 5 cm 砲に類似した長さ匚 5 m の その上に架橋装置や工作道具を積んだも も使われた。クレーンは持っていなかっ 放射管がタレットから突き出し たが、四 44 年に旧式車を利用して田 0 台 ので、Ⅲ号戦車が第一線から引退したあ らホンフで火焔用の燃料を噴射して、最 とに多数が造られた 以上が造られたという。 大で 70m 、有効範囲で 45m 先の目標を焼 ムニチオンスパンツアーⅢ : 同しくエ兵 アイセンパーン・ワーケン Pz. Kpfw. 5 /
本文 : 中島日出矢 テ・一タ作製 : 後藤仁 写真解説 : 高見吾郎 表紙絵 : 石橋謙ー イラスト : 浅海正太郎岡林麻美 図面 : 富岡吉勝岡林麻美三田悠児 レイアウト : 平田和雄 INDEX ト、イツ戦車前史 Pre-History ドイツ戦車の搭載兵器 Equipments I 号戦車 Panzerkampfwagen I 12 Ⅱ号戦車 Panzerkampfwagen II 22 Ⅲ号戦車 Panzerkampfwagen Ⅲ 40 35 ( t ) / 38 ( t ) 戦車 Panzerkampfwagen 35 ( t ) / 38 ( t ) 香取宏之 Ⅳ号戦車 Panzerkampfwagen IV く 70 Ⅵ号戦車ティーケル Panzerkampfwagen VI Tiger V 号戦車 / くンテル Panzerkampfwagen V panther ティーケル II 型戦車 Panzerkampfwagen Tiger 11 試作戦車 Experimentals 14 6 〉 テータ Characteristic 15 2 > 第 2 次大戦におけるドイツ戦車 panzer atwar く 94 <112 > ( 136 〉 1 5 6 >