II 号 A 型戦車の砲塔前面。 X 印 2 つは第 6 戦車師団のマークだか、 これはイギリス側て書いたもの 多いが、これは敵の目をあざむくためだ ったと思われる。 Pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. H と M(Sd. Kfz. 121 ) : これらはⅡ号戦車の最終型だが計 画のみに終っている。工ンジンを 200 田 のマイバッハ HL-P とし、装甲を 30mm に 強化し、轍距を拡げ、砲塔は 3 人を収容 できるように大きくし、最大速度は 65km /h を出せるようにする計画であった 式作は円年 9 月から開始され、 42 年 7 月から生産に入る予定であったか、 れは中止されて II 号戦車の生産自体も間 もなく終了している。 Pz. Kpfw. Ⅱ ( フラム ) (Sd. Kfz. 122 ) : 火焔放射戦車への改造型で、円 39 年に計 8/LaS138/Pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. E(Sd. 画がたてられ、同年に 3 台、翌 40 年には 中頃まで約 500 車兩が生産されているが、 Kfz. 1 2 1 ) : E 型は D 型と似ているが、キ 85 台が Pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. D と E を改造し すでに完全に旧式化したこの戦車かこれ ャタビラがハーフトラック類に用いられ て造られている。これは東部戦線で火焔 ほどまでも造られたのは、円年以降に たゴムバッドつきのニードル・ローラー 放射戦車が必要になったためで、その要 機甲師団を 26 コ師団に大拡張するには、 ・べアリングつきとなり、これにともな 望を満たすため戦車としては性能が必ら 新型のⅢ号やⅣ号戦車を造っていたので って駆動スプロケットや車輪も変更され すしも良くなかったこれらの戦車をあて は生産が間に合わなかったためである。 ている。シャシー番号は 278 田から 28000 。 F 型の後期のものには、砲塔後部に格納 ることになったものである 箱を追加したほか、ダミーの運転手バイ 円 39 年のポーランド作戦終了後に、そ 放射装置は車体前部左右の小さなター サーとヒストル・ホートをつけたものが れまでの主な生産車は前面に 20mm 装甲板 レット 2 コにノズルをつけ、 2 ~ 3 秒の を追加して厚さを 35mm としたので、この 部分の形が変っている また円 40 年末からは、 F 型と同じキュ ーボラを追加したものが多くなったので、 外観からだけでは各型の識別が非常に難 かしくなった 9/LaS 100/PZ. Kpfw. Ⅱ Ausf. E(Sd. Kfz. 121 ) : Ⅱ号戦車の最終生産型で、実 戦の経験を生かし、また偵察能力を向上 する改良が多く施されている。 前面装甲の厚さは最初から 35mm となっ たのはもちろんのこと、側面の厚さも 20 mm に増強され、ビジョン・フロックが 7 コもついたキューボラか新設されている。 ただ、重量が 9 . 5 トンにも達したため、 スヒ。ードが少し落ちたが、防弾を優先す るためには止むを得ないとされた 生産は円年 3 月からはじまり、 42 年 1 0 0. ↑ターレットを下からみたところ コ - 冫ンタ ース・キューホラ→ 0 26
6/LaS138/Pz. Kpfw. II Ausf. D(SG Kfz. 1 2 1 ) : 高速戦車を開発するため、ダ イムラー・ペンツ社か円 38 年に試作した もので、車体を全く新しくし、ハッチ類 は当時開発中だったⅢ号戦車を小型化し たものに改められ、乗員は 3 名から 4 名 に増加している。 また、サスペンションもトーションバ ー式となり、ロードホイールが大型化す るなど、大幅に改良されているが、砲塔 は C 型までと同じものであった 7/LaS 100 / pz. Kpfw. II Ausf. C (Sd. Kfz. 1 2 1 ) : c 型は B 型までと基本的には 同じもので、エンジン冷却とか視察ポー ドライバー用の 50mm 装甲ガラスなど か改められているにすぎない。生産は、 円 38 ~ 39 年で、シャシー番号は 260 田か ら 270 田。 しかし、連合軍の本格的な反撃が開始 また、砲塔がいくらか設計変更された され、また独ソ戦がはじまるといちどに ほか、車体前部はすこし拡げられて運転 その弱点をさらけ出し、円年から 42 年 室が広くなった。このため重量は 8 . 9 ト の東部戦線では手痛い損害を受けている。 ンに増大している。シャシー番号は 2 Ⅱ 0 ーから 23000 。 / ヾリエーション この頃になると、Ⅱ号戦車の生産工場 l/LaS 100 / Pz. Kpfw. II( 2cm) (Sd. は M A N のほか、フアモ、 MIAG 、ヴェク Kfz. 121 ) / Pz. Kpfw. II Ausf. a 1 マン、ヘンシェルも加わっている れがマイバッハ H L 57 工ンジンをつんだ 4/LaS 100 / Pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. A(Sd. 最初の生産型で、円 35 年の生産。ロード Kfz. 121 ) : これがⅡ号戦車の最初の量産 ホイールはポキー式にガーダー式ビーム 型で、ドライバーのバイサーか新しくな リーフ・スフリングをとおしてとりつ っている けられ、車体前端は円形になっている。 シャシー番号は 230 田から 24000 。 シャシー番号は 200 田から 20025 。 5/LaS100/Pz. Kpfw. II Ausf. B . A I/LaS 100 / Pz. Kpfw. II Ausf. a2(Sd. 型とほとんど同じで、この後の C 型も大 きな違いはない。緒戦で大活躍したのは Kfz. 12D : 全体は引型に似ているが , この型と C 型である。シャシー番号は、 却系統の細部とエンジンルームが変更さ 240 田から 260 田。 れている。円 35 年の完成で、シャシー番 号は 200 凵から 20025 。 1/Las 100 / pz. Kpfw. II Ausf. a3 . 円 36 年に造られた追加先行生産型で、キ ャタヒラを改良し、サスペンションを強 化し、冷却系統を改良している。シャシ 一番号は 20026 から幻 000 。 2/LaS 100 / Pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. b: れも円 36 年に造られた型で、エンジンを パワーアッフした H L 62 とし、キャタヒ ラを改良、駆動歯車やスフロケットを新 しくしている。 このため、重量は 7.9 トンに増加して いるが、装甲はまだ図 . 5mm のうすいまま である。シャシー番号は幻 000 から 2 Ⅱ 00 。 b 型は a 型とは車体前部が丸く膨らん でいるほか、車体後部は角形の空気排出 グリルをつけて延長していることか違っ ている 3/LaS 100 / pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. c(Sd. Kfz. 121 ) : 円 37 年に造られた大幅改良型 で、サスペンションとガーダーが変った ほか、小型のボギーは大型の円板形ロー ドホイールとなり、以後の型はすべてこ の型式に統一されている。 ーイ第 し c 0 Ⅱ号戦車の防楯内側。上の写真で中央につき出しているのがテレス コープの接眼部。下も同じで、左側には 20g 砲、右側には M G 34 の 支持架が装着されている 25
1 944 年、フランスにおける s s 第 2 戦車師団第 1 2 戦車連 隊 " ヒトラー・ユーケント " 所属のⅣ号 H 型戦車 い第ン第を Ⅳ号戦車の生産に専念し、 J 型を造った Panzer Ⅳ / 70 ( A ) (Sd. Kfz. 162 / 1 ) : 大戦末期になると、フォマークか開発し このタイフはドイツ降伏のときまで生産 たⅣ号駆逐戦車かすぐれた攻撃力を持っ か続けられ、この戦車の最初の項で説明 したように、 DKW 500 cc 工ンジンを外し ていることから、ヒトラーはⅣ号戦車の て撚料タンクを増設し、射手用以外の砲 後者の例としては、牽引金具をⅢ号」 塔のビジョン・ホートを廃止し ( 生産を 型と同し側板と一体に張り出したものに 容易にするため ) 、砲塔は手動で動かす しているのか拳げられる。 生産を円 44 年 7 月に中止して、完成した ようになっている。 すべてのⅣ号戦車もこれに改造すること ただ、基本的には H 型と同しで、側面 を強く要求した。しかし、この頃月産 300 のスカート・フレートは残されている。 台に達していたⅣ号戦車は、部品メーカ もっとも、後期型では車体部分のスカー ーに相当の先行発注が行われていて、す トは太いワイヤで編んだ網に代えられ、 ぐに駆逐戦車に切換えることは不可能で リターン・ローラーは 4 コから 3 コに減 あったので、生産中止は 45 年 2 月とし、 っており、さらに排気系統が簡易化され、 その間に完成したⅣ号戦車はアルケット 金具の多くはⅢ号戦車とかなり共通化さ 社が設計した車体上部構造をつけ、主砲 れている
1 940 年冬、独ソ戦にそ なえて訓練中のⅢ号 E 型戦車。塗装はターク ・クレーの車体に大き な白フチっきの数字を 書いた当時の標準的な もの と また前端のハッチは一部の車輛では円形 のものになっている。円 37 年から 38 年に かけては 5 台が改造されて 7.55 砲装備 の Stuk auf Fgst . KPfw. Ⅲ (stuG Ⅲ ) となっている。シャシー番号は 602 田か ら 60 幻 5 。 Typ 3a/ZW/Pz. Kpfw. Ⅲ Ausf. C. 円 37 年から 38 年に Typ2 / ZW と並行して 台造られた型で、サスペンションを変 えて、内側の 2 組の車輪を半楕円形リー フスフリングで結合し、前後の車輪は独 立の半楕円形リーフスフリングに支えら れている 1942 年、北アフリカにおける第 1 5 戦車師団第 5 戦車連隊のⅢ号 G 型 シャシー番号は 603 田から 60 引 5 。 戦車。主砲は 42 口径 50 mm 砲を装備している Typ 3b/ZW/Pz. Kpfw. Ⅲ Ausf. D ンションにはトーションバーを採用して Sd. Kfz. 141) : Ⅲ号戦車の最初の生産型 /ZW と同し仕様に直されて、Ⅲ号 D 型と いるか、これは同し年に同社か DB9 とい で、円 38 年に同型式の指揮車輛とともに 呼ひ名まで変えられている。ドイツ側の うトンのハーフトラックのほかⅡ号戦車 30 台すつ造られた。サスへンションは C 公式記録によると、このとき前面装甲は の D 型と E 型に採用して好成績だったた 型とすこし変って、前後の車輪へアの半 30mm になったことになっているか、写真 めで、以後のⅢ号戦車はすべてトーショ 楕円形スフリングは上へ折曲げてとりつ で判断する限りは一部の車車兩、それも、 ンバーを標準とするようになる けられている。また、燃料タンクはそれ 元は Typ 2/ZW であった。シャシー番号 ZW 38 にはこのほか、前面と後面の装甲 までの型が 2 コだったのを 3 コに増設し は 602 幻から 60225 の中に多かったよう たので、燃料容量はに 52 から 2502 に を 30mm に増強し、運転手のバイザーと車 である 体機銃のマウントを再設計している。し 増加している ホーランド作戦では、初期の zw 型原 かし、これらの改修で重量が増加したた 前面の装甲は最大で 30mm と厚くなり、 型と改良型がすべて参加しているが、Ⅲ め、エンジンは 320 田の HL に 0 TR V 型 キューホラに装甲も施された 号戦車という呼称が採用されたのはちょ 貶気筒Ⅱ , 900CC のものとなり、デフには シャシー番号は 602 幻から 60255 。 うどこの円 39 年 9 月である 並行生産された指揮車車兩は、 TYP3c 新型のフレセレクターっきシンクロメッ ZW 38/Typ 4/ZW/Pz. Kpfw. Ⅲ Au シュ式のもの、変速器には前進田速・後 ZW と呼はれるもので、 Typ 3b/ ZW が部 sf. E コ 938 年にダイムラー・ペンツか提 退 4 速のバリオレックス SRG 328 ー 5 を 隊配属になったとき、初期の Typ 2ZZW 出した大幅改良型で、 zw 38 と呼ばれた と 39/ZW のサスへンション、エンジン、 初期の ZW 型では、半楕円形リーフスフ つけた サスペンションは、走行車輪か片側に 装甲およびキューボラを改修してほほ、 3b リングか不評であったことから、サスペ
最初の生産型パンテル D 型。固定式の車体銃 はなく、車体前部向っ て左のハッチから無線 手がサプ・マシンガン を使った には 44 トンを越しはじめるということに スチール・ホイールがつき、砲塔は非常 なっナ に前に位置し、車体側面には脱出ハッチ すでに VK3002 (MAN) のバイロット・ を持ち、外部燃料タンクは火炎時には射 モテル 2 台をテスト中に、ヒトラーの命 出でき ( これも T 34 と同し ) 、ドライバー 令で装甲板は 60mm から 80mm に厚くなり、 は砲塔の中に坐って油圧で遠隔操縦がで これで 35 トンを越すことが確実になると、 きるようになっていた 工ンジンは予定のマイバッハ HL210 をホ このタイプは木製のモックアップが造 アアッフしたマイバッハ HL 230 に換装し られ、走行原型の製作か始まったか、途 なければ出力不足だということになった 中で調査団が MAN の設計を採用する決定 そのうえ、変速器もクラッチもフレーキ をしたため、原型は完成することはなか も最初のものでは重い車体にマッチしな った いのでより大型なものが必要になった これは、 MAN の設計のほうかオーソド 新しい AK7 ーー 200 変速器は優秀で、ニュー ックスで、当時の陸軍とドイツの戦車技 トラル・ターンや片側旋回ができたか、 術の実情に沿っていたためである 車体か重いため最大速度は 45km / h 以上は VK 3002 (MAN): この設計も T34 の影響 出なかった を強く受けてはいるが、サスへンション はトーションバーを使い、砲塔と 7 . 5 cm ノくリエー、ンヨン の L / 70 砲は前に開発した VK 45 田 ( H 2 ) Pz. Kpfw. ンテル Ausf. D (Sd のものを流用した。砲塔は T 34 より車体 Kfz. 1 7 1 ) : バンテルは最初、円 43 年 5 月 の後方に位置していた までに 250 台生産される予定だったか、 この戦車の生産は、ドイツ戦車のなか ことか緊急を要したので、ヘンシェル、 で最優先の指定を受け、先行生産型の製 ダイムラー・ペンツ、 M N H 各社の生産 造から量産ラインの準備までが他の戦車 を全部バンテルの生産に切換えて、 600 を押し除けて進められている 台と修正された。最初の生産車は M A N パンテルという名が決まったのもこの 社で円 42 年Ⅱ月に完成し、 20 台までは V 頃で、シャシーやサスへンション、それ K 2002 ( MAN ) 原型とほとんど同じで 60 とロードホイールの設計には陸軍兵器局 mm の装甲板をぬけ、主砲の L / 70 はシンク の主任技術者であるクニークカンフ博士 / ヾッフルのマスル・フレーキをつ か直接あたり、キャタヒラー、ホイール、 け、指揮官キューホラは砲塔の最後部の トーションバーなどの部品は数社が共同 左にあり、エンジンはおそらくまだマイ して責任を持って製作を引受けている バッハ HL 2 たったと思われる ( この 20 トーションバーは全部同しで互換性が 台は一時、 Ausf. DI と呼は・れた ) 。 ある。しかし、意外な伏兵だったのは重 標準の D 型 ( 一時は Ausf. D 2 と呼ばれ 量増加であった 35 トンをすこし越すて た ) か完成しはしめたのは、ダイムラー いどと考えたのは全く甘い期待で、最後 1 4 1
間が落ちないように周りに保護レールを 改造はダイムラー・ペンツの手で行われ、 なり、ロード・ホイールが一コ増やされ この車は車高か匚 4 m つけている 引台か造られた るとともにアイドラー・ホイールはすこ これを使用したのは、 NSKK ( 国家社会 し高い位置に上げられ、車体前部も変速 と低く、うしろに軽トレーラーを牽引す 主義者自動車部隊 ) である 機の改良にともなって僅かに上へ上った ることもできた クライナー・ノヾンツアーへフェールスワ Pz. Kpfw. I ( A ) シュレッ / く一 : それま 機銃の防楯は内側式に改められている。 ーケン (Sd. Kfz. 265 ) / K 1 pz. BfWg 生産は円 35 年から開始され、 I 号戦車 で使用されていたートンのハーフトラッ (Sd. Kfz. 265) : Kpfw. I の A 型と B 型を としては最も多く造られた。シャシー番 クに代って登場した回収車で、 円 40 年か 改造して指揮用としたもので、一 K ー B 、 ら一部の機甲部隊に配備されている。シ 号は 478 から田 500 まで。 Pz. Kpfw. I (Sd. Kfz. 101 ) Ausf. A/ 2 K ー B 、 3 K ー B の 3 種類があり、 B 型の リーズとしては先の弾薬輸送車のバリエ シャシーを用いたもの ( 約 200 台 ) が最 B フラム : A 型と B 型の少数を改造して 一部は Ausf. A のシャ ーションである 火焔放射戦車としたもので、このため右 も多く用いられた シーを使っているが、これでは出力不足 これは、装甲車輛部隊の指揮官か部 側の機銃が外され、ターレットには放射 で牽引力が不充分だとわかり、その後の 隊と行動をともにするために造られたも 用燃料タンクがつけられている。 多くは Ausf. B のシャシーを利用してい ので、最初の数台は角型のターレットを 円年に北アフリカ戦線に登場したか、 持っていたが、それ以後は固定式の角型 東部戦線でも使用されたと思われる。 ドライバ ファールシュレワーケン I のものになっている。乗員は 3 名で、室 Pz. Kpfw. I (A) ムニチオンス・シュレ ーの訓練用に Ausf. A と B を改造して造 内には地図テープルーコのほか、 Fu 6 と ッパー (Sd. Kfz. 1 1 1) : これはターレッ られた車輛で、ターレットと車体上部は Fu 2 の無線セットが一コすすあり、バッ トを外して天井にカバーをつけて、弾薬 全部外され、一部はクロスカントリー時 テリー充電用には専用のモーターがあっ 輸送車としたもので、円 39 年に造られた にオープン式の戦闘室に搭乗している人 1 号 B 型戦車初期の電撃戦では活躍し。たが、独ソ戦開始の頃から第一線から退いた
Pzkpfw. Ⅳ ausf J Pzkpfw. V ausf A Pzkpfw. V ausf D Pzkpfw. Ⅳ ausf H 25 . 99 5 Pzkpfw. Ⅳ ausf G 25 . 0 5 43 . 0 5 45 . 5 5 23 . 5 5 7 田 5 3330 ( 含シュルツェン ) 2680 400 3520 2450 400 0 . 89 8860 8860 3270 3270 2995 2995 560 560 3920 3920 26 円 26 円 660 660 0 . 85 0 . 90 マイ / ヾッ / 、 H L 0 T R M ン / 、 HL に 0P30 -7 イノヾ マイノヾッ / 、 HL230P30 650 700 730 730 7 田 5 3330 ( 含シュルツェ 2680 400 3520 2450 400 0 . 89 kgs 引 / 400 / 貶 0 マイ / ヾッ / 、 H L に 0 T R M 6630 2880 2680 400 3520 2450 400 0 . 84 kgs 引 / 400 / に 0 マイ / ヾッ / 、 H L 貶 0 T R M 300 680 300 470 300 470 80 30 20 80 30 30 x 7 . 5 c m k wk 40 ( L 48 ) 2 x MG34 87 / 引 50 60 40 80 45 >< 7 . 5 c m k w k 42 ー X MG34 79 / 2500 50 30 20 50 30 30 X7.5cm kwk40(L43) 2 x MG34 87 / 2250 80 40 45 ー x 7 . 5 c m k w k 42 2 x MG34 79 / 4200 80 30 20 80 30 30 X7.5cm kwk40(L48) 2 x MG34 87 / 田 50 38 30 2200 600 に 00 320 4 0 30 2200 600 田 00 幻 0 45 . 7 35 引 0 ロ 00 9 38 30 2200 600 に 00 2 田 46 35 引 0 ロ 00 Pzkpfw Ⅵ圧ヘンシェル砲塔 Pzkpfw. E. 100 69.8 0 . 0 5 6 Pzkpfw. V ausf G Pzkpfw. Maus 田 7 . 998 6 Pzkpfw. Ⅵは ) E 56 . 9 5 44 . 8 5 286 8690 ( 含ます主砲 ) 3755 ( 含 ツェン ) シ・ユノレ 4480 3090 3320 485 570 4 貶 0 4900 2790 引 75 800 00 に 02 kgs 73 / 800 / 52 マイノヾッ / 、 HL230P30 マイ / ヾッ / 、 HL230P30 700 860 8860 3270 2995 560 3920 26 円 660 0 . 8 7 マイ / ヾッ / 、 H L 230 P 30 700 730 659 3670 3630 570 5880 2335 Ⅱ 00 8450 3705 3000 470 3605 2822 725 に 04 kgs 63 / 725 / ロ 0 マイノヾッ / 、 H L 230 P45 ダイムラー MB509 田 80 4200 ( 含増加タンク ) 200 田 0 田 0 240 200 200 x . 8c m k wk 44 x 7 . 5 c m k w k 44 MG151 / 20 ′べンツ 650 534 700 貶 00 L.n 8 8 8 8 -8 80 50 40 田 0 45 ー A 7 . 5 c m k w k 42 2 xMG34 82 / 4200 田 0 80 0 80 A 8 . 8 c m k w k 36 2 A MG34 92 / 3920 200 に 0 丐 0 240 200 200 ー x ロ . 4cm k wk または 丐 . 0cm k wk または貶 . 8c m k w k 2 xMG34 2 x MG34 84 / 5850 35 2500 850 00 ロ 0 20 30 4500 720 2000 田 6 46 35 ロ 00 ロ 7 45 . 4 35 2300 790 貶 00 田 0 23 30 0
のに業をにやしたヒトラーがポルシェ社 に検討を命したが、木製モデルが造られ ただけで中止になった シュッノレムティーケノレ / シュッノレム / くン ツアーⅥ / シュッルムモーゼル : ヘンシ ェル社の車体に 38cmRW 引ロケット弾発 射機をつんで、市街戦で敵陣を撃破する ことを狙ったもので、絽台ほどが改修さ れ、円 44 年末から一部が実戦に投入され このほか、街路の障害物除去用にドー ザー・プレードをつけたもの、 42cm 臼砲 げを積んだ自走砲、砲塔を外してライ ンメタル 24cm K4 重野砲 2 門を前後につ めるようにした車車兩が計画されたが、実 車が完成したものはなかったといわれる 0 、 ドライバー・シート : 正面上がバイサー、中央が操向用ハンドル、 その下の糸巻き状のものがヘンシェル L600C 操向機から駆動輪につ ながる伝動軸である。シートの両側はティスク・プレーキ兼緊急用 左はしのレバーはプレーキ・ロック。シー ステアリンク・レ′ヾー ト右のケースはトランスミッション・ギャポックス。 0 0 0 砲塔前部左側の砲手席 : 正面が双眼式 TZF. 9b 照準器。その下のハ ンドルは手動式砲塔旋回装置。左側の時計状のものは砲の指向角を 示すインデイケイター。そして右にたてに走っているのが俯仰角を 示すエレベーション・スケールである。左はしは砲手用パイサー 1 0 8
OF THE SECOND WORLD WAR GERMAN TANKS 第 23 : Y ー 500 PubIished by SUNDAY ART PUBLICATIONS 雑誌 7594 ー 3
工ンジン部の上に短い橋梁をつけたもの 捕獲したソ連製の 76.2mm 野砲を積んでマ 火焔放射を 80 回ほどできた。火焔の到達 がフランス戦線で用いられている。 距離は 35 m で、乗員は 2 名、武装は M G ルダー II と呼ばれた Pz. Kpfw. Ⅱシュウイムノくンツアー 34 を一挺だが車体は重量Ⅱトンに達し、 Ⅱ号戦車を利用しては、このほかヴェ ギリス本土上陸作戦に備えて、上陸用パ 外観も他の戦車とは大きく変っていた スべなど数種類の自走砲が造られたが、 ージから発進し、水上を走行して敵地に しかし、火焔の到達距離が短かかった 末期にはⅡ号戦車のシャシーはこれらの 上陸する水陸両用戦車で、実際にこの作 ため、年に 0 台を造る計画は中止さ 車輛用専門に造られる状態となっていた 戦のため A 大隊というのが編成されてバ れ、問もなく残った車車兩の多くは自走運 フリュッケンパンツアー 2 : これは b 型 ージからの作戦訓練まで行われている。 搬車に改造されてしまった のシャシーを利用した架橋車車兩で、マギ この水陸両用戦車の実物は、浮き袋を ルス社が原型一台を完成している。これ 自走砲車 . さきの D / E 型と上記のフラ 車体内側につけ、時速田 km で水上走行か 円 40 年にはⅡ号戦車の砲塔と ムのシャシーを利用して造られた車輛で、 とは別に でき、エンジン周りは耐水構造になって いた。水陸両用への改造キットは 50 セッ ト以上が発注されて、一部では完全な車 が出来ていた VK 901 / Pz. Kpfw. Ⅱ nA(Pz. Kpfw. Ⅱ Ausf. G): Ⅱ号戦車の高速重装甲型と して開発された新型だが、残念なことに 少数しか生産されていない。 軍のこの戦車への要求は、重量田トン 以内、前面装甲は 30mm 、速度 60km / h とい うことで、円 38 年 6 月に VK 9 田という呼 称で開発がはじまった。作業は MAN とダ イムラー・ペンツ両社によって行われ、 円 39 年末に完成した原型は VK601 ( 後の I 号戦車 C 型 ) に似てキャタヒラーの幅 が広く、サスペンションは強化されてい て、砲塔はⅡ号戦車の標準のものだった が ーに KwK 38 2 cm 砲を積んでいた しかし、エンジンは 200 田のものが必要 であったにもかかわらず図 5 田のマイバ ッハ H L 45 であったため、最大速度は 50 km/h しか出なかった。それでも強力な戦 車の不足にあえぐ陸軍からの強い要望で、 円 40 年月には 75 台の先行生産車か発注 になっているが、実際には年から 42 年 にかけて少数が完成したにとどまった VK 1601 / Pz. Kpfw. II nA (pz. Kpfw. II Ausf. J): これは円 39 年貶月に開発か 発注された型で、 D 型と並行して作業か 進められ、狙いは可能な限り厚い装甲を 施すことであった このため、 MAN とダイムラー・ペンツ ー調石も一 Ⅱ号 c 型戦車の車体内部。上の写真では左か前方て駆動装置、ドラ イバー・シートかみえる。下は右か前方で、戦闘室、マイ / 、ツハ・ 工ンジンなどの様子がわかる 2 /