の上にたち、そして組織の最小単位による真の、純粋な、積極的共同と管理を保証することのできる 多くの分権によってのみ可能であろう。 人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に にかりたてているもの 社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望ーー孤独と無力感 を克服することができる。人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械 の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまった という事実である。あらゆる権威主義的組織にたいする勝利は、デモクラシーが後退することなく攻 撃にでて、かって自由のために戦いつづけたひとびとが心のうちに抱いていたような目標を、現実化 するところまで前進するときにのみ可能であろう。デモクラシーは、人間精神のなしうる、一つの最 強の信念、生命と真理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を、ひ とびとにしみこませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝っことができるであろう。 第七章注 ( 1 ) アンナ・ハルトック (Anna Hartoch) の報告 (). Gay, A. Hartoch, L. B. Murphy 共同によるサラ ・ローレンス (Sarah Lawrence) 幼稚園の子どもについてのケ 1 ススタディをふくむ近刊書 ) によれ ノ・テストで検査したところ、子どもが自分たちの自発性 ば、三歳から五歳までの子どものロールシャツ、 を保とうとする試みによって、子どもと権威的な成人との間に主要な衝突がひき起されることがわかった。 ( 2 ) 親しさの商業化を雄弁に語る一つの例として、私は Fo ミ代誌の "TheHoward Johnson Restaurants" 0
るとすれば、人間の生活がどんなものになるか、想像してみることができるであろう。 自発的な活動がなぜ自由の問題にたいする答えとなるのだろうか。われわれは先に、消極的な自由 はそれだけでは個人を孤独にすること、個人と世界との関係は、疎遠な信頼できないものとなること、 かれの自我は弱められ、断えずおびやかされることを述べた。自発的な活動は、人間が自我の統一を 儀牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な 実現において、かれ自身を新しく外界にーー人間、自然、自分自身にーー・ー結びつけるから。愛はこの ような自発性を構成するもっとも大切なものである。しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消す るものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保の うえに立って、個人を他者と結びつけるような愛である。愛のダイナミックな性質はまさにこの両極 性のうちにある。すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ、合一を導きーーしかも個性 は排除されないのである。仕事もいま一つの構成要素である。しかしその仕事とは、孤独を逃れるた一 シ めの強迫的な活動としての仕事ではなく、また自然との関係において、一方では自然の支配であり、 一方では人間の手で作りだしたものにたいする崇拝や隷属であったりするような仕事でもなく、創造モ デ 的行為において、人間が自然と一つとなるような、創造としての仕事である。愛や仕事についていえと ることは、官能的快楽の実現であれ、共同体の政治的生活への参加であれ、すべての自発的な行為に自 ついていえる。それは自我の個性を確保すると同時に、自我を人間や自然に結びつける。自由に内在 する根本的な分裂ーー個性の誕生と孤独の苦しみーー・は、人間の自発的な行為によって、より高い次
えていたすべての絆から解放されて、孤独となった近代人の無力と不安についてである。われわれは 個人がこの孤独にたえられないことをみた。かれは孤独な存在として、外界とくらべて徹底的に無力 であり、したがって外界を深く恐れており、またこの孤独のために、かれにとっては世界の統一性は 破れ、いかなる方向も見失われている。それゆえかれは、自分自身や人生の意味や、またついにはか れの行動を導くことのできるすべての原理についての懐疑におしひしがれている。無力も懐疑もとも に人生を麻痺させる。そしてひとは生きるために、自由、消極的な自由から逃れようとする。かれは 新しい束縛へとかりたてられる。この束縛は第一次的な絆とはことなるものである。第一次的な絆は、 権威や社会集団によって支配されているが、個人は完全にそれから分離しているわけではない。逃避 はかれの失われた安定を回復することはなく、ただ分裂した存在としての自我を忘れさせるだけであ る。かれはその個人的自我の完全性を犠牲にして、新しいはかない安定をみつける。かれは孤独にた えられないので、自我を失う道を選ぶ。このようにして、自由 : からの自由ーーは新しい束縛一 シ へと導く。 われわれの分析の結論は、自由は不可避的に循環して、必ずや新しい依存に導くということになるモ デ だろうか。すべて第一次的な絆から自由であることは、個人を非常に孤独な孤立したものとするから、と かれは不可避的に新しい束縛に逃避しなければならなくなるものだろうか。独立と自由は孤独と恐怖自 と同じことであろうか。あるいは、個人が独立した自我として存在しながら、しかも孤独ではなく、 世界や他人や自然と結びあっているような、積極的な自由の状態があるのだろうか。
市民の文化ではなく、富裕な貴族とプルジ , アの文化であった。かれらは自分の経済的活動と富とに よって、自由の感情と個性の自覚とをもった。しかし同時に、これらの同じひとびとが失ったものが ある。それは中世の社会機構があたえていた安定感と帰属感とである。かれらはいっそう自由になっ たが、また同時にいっそう孤独になった。かれらはその力と富とを用いて、生活から快楽の最後の一 滴をもしぼりだそうとした。しかしそうするためには、かれらは大衆を支配するために、また同じ階 級の競争者を抑えるために、肉体的な拷問から心理的な操縦まで、あらゆる残酷な手段を用いなけれ ばならなかった。すべての人間関係はカと富をえようとする、この恐しい死活の争いによって毒され た。同僚との協同一致ーーあるいはすくなくとも、自分と同じ階級の人たちとの協同一致ーーーは冷淡 な空々しい態度とかわった。他人はたんに使用し操るべき「物」とみなされ、自分の目的のためには、 他人を残虐に破壊した。個人ははげしい自己中心主義と、カと富へのあくことのない欲望とのとりこ となった。その結果、自分自身にたいする健全な関係も、安定感や信頼感もまた毒された。自分自身 もまた、他人と同様に、自分にとって利用すべきものとなった。ルネッサンス資本主義の力強い主人 公たちが、果してよくいわれるように、幸福と安心にみちたものであったかどうかは疑わしい。新し い自由は、かれらに二つのことをもたらしたように思われる。力の増大した感情と、それと同時に孤 ( 6 ) 独と疑惑と懐疑主義との増大、そしてーーその結果として , ー・ー不安の感情の増大である。これと同じ 矛盾がヒ = 1 マニストの哲学的著作のうちにもみられる。人間の尊厳と個性と力を強調すると同時に、 ( 7 ) かれらはその哲学のなかに不安と絶望とを表現した。
( ルトを引用すれば「イタリアにおいてまず最初に、 ( 信仰と幻想と子どもじみた好みとから織られ た ) このヴ = 1 ルが消えていった。国家やその他この世のすべてのことを、客観的にとりあっかい、 考察することが可能になった。同時に主観的な面も、それにつれて強調されるようになった。すなわ ち、人間は精神的な意味で個人となり、自分自身もそのように自覚した。ちょうど、かってギリシャ 人が野蛮人からみずからを区別し、またアラビア人が、他のアジア人種が自分をたんに族の成員と ( 4 ) してしか知らなかった時代に、自己を個人として感じていたように」。この新しい個人の精神につい て、プルックハルトの述べるところは、前章でわれわれが第一次的絆からの個人の脱出とよんだこと がらである。人間は自己や他人を、個人として分離した存在として発見する。またかれは自然を、二 つの点で自分から分離しているものとして、すなわち理論的実際的に征服すべき対象物として、また、 その美しさを享楽すべき対象物として発見する。かれはまた、現実的には新大陸の発見により、精神 的にはダンテが「世界こそわが祖国」といったときの、そのようなコスモポリタンの精神の発展によ ( 5 ) 自 って、世界を発見する。 の ルネッサンスは富と力にみちた上層階級の文化であり、新しい経済力の嵐によってもりあげられた代 革 波のいただきに立っていた。富もあたえられず、集団を支配する力ももたない大衆は、以前にもって 改 いた安定の状態を失い、ときには諂われ、ときにはおびやかされ、つねに力あるものによって操られ宗 利用される、組織のない群集となってしまった。新しい専制政治が新しい個人主義とならんであらわ れた。自由と専制、個性と無秩序は、離れがたく絡みあっていた。ルネッサンスは小さな商店主や小
由の最初の行為であり、最初の人間的な行為である。神話では、罪とは形式的には神の命令に反逆す ることであり、物質的には知恵の木の実を食べることである。自由な行為としての反逆は理性のはじ まりである。神話は最初の自由な行為について、いろいろな結果を語っている。人間と自然との本来 的な調和は破られる。神は男と女とに、また人間と自然とに戦争を宣一言する。人間は「個人」となる ことによって自然から分離し、人間の方向へと一歩踏みだした。かれは自由の最初の行為を犯してし まった。神話はこの行為から生ずる苦悩について強調する。自然を超越し、自然や一対の相手からひ き離され、人間は丸裸の恥ずかしい姿であることに気がつく。かれは独りぼっちで自由であるが、し かもまた無力でなにものかを恐れている。新しく獲得した自由は呪いとなる。かれは楽園の甘い絆か らは自由である。しかし自己を支配し、その個性を実現することへの自由はもっていない。 「 : : : からの自由」は、積極的な「 : : への自由」とは同じものではない。人間の自然からの脱出 は非常に長い過程である。かれは自分がぬけだしてきた世界に、まだ強く結ばれている。かれは依然 として自然の一部であり、住んでいる土地や太陽や月や星や木や花や動物や、また血縁によって結ば れている人間集団などの一部である。原始宗教は人間が抱いていた自然との一体感をあらわしている。 自然は生のあるものも生のないものも、すべて人間的世界の一部である。いいかえれば、原始人はま だ自然的世界の一部であるということもできよう。 これらの第一次的絆は、原始人の十分な人間的成長を妨げ、理性や批判力の発達を阻害している。 それは自己や他人を、ただ氏族という社会的宗教的協同体の一員であるという点で知りあうだけで、
さと生産性とをもっているならば、他者との新しい親密性と連帯性が生まれるであろう。この内面的 強さと生産性とは、外界との新しい関係が成りたっための前提である。 分離と個性化の進む一歩一歩が、自我の成長と対応しているならば、その子どもの発達は調和のと れたものとなろう。しかしながら、実際にはこのようなことは起らない。個性化の過程は自動的に起 るのに反し、自我の成長は個人的社会的な理由で、いろいろと妨げられる。この二つの傾向のズレが、 たえがたい孤独感と無力感とを生みだし、そしてこの孤独感と無力感とが、今度は逆にのちに逃避の メカニズムとしてのべるような、心理的メカニズムを生みだすことになる。 人間の歴史もまた、系統発生的には、個性化と自由とが成長していく過程として、特徴づけること ができる。人間は強制的な本能から一歩自由になることによって、人間以前の段階から脱出する。本 能とは、遺伝的な神経学上の構造によって決定される特殊な行動様式をさすとすれば、それは動物の性 義 ( 3 ) 世界にはっきりとみられるものである。発展段階の低い動物であればあるほど、自然への適応やすべ多 の ての行動が、本能的反射的なメカニズムによって支配されている。ある種の昆虫にみられる周知の社由 AJ 会組織は、まったく本能によって作りだされている。それに反し、発展段階が高い動物であればある 放 ほど、生まれたばかりのときには、その行動様式は可塑的なものであり、肉体的な適応はより不完全 の である。この発展は人間において頂点に達する。人間は生まれたばかりのときには、すべての動物の個 うちで、もっとも無力なものである。人間の自然への適応は、本質的には学習過程にもとづいており、 4 本能的な規定にもとづいているのではない。「本能は : : : より高等な動物、とくに人間においてはた
間を動かす原動力として考えたホップスのようなひとでさえも、これらのカの存在を、利己心の論理 的帰結として説明した。すなわち、人間は平等であり、幸福を求める同じような欲求をもっている。 しかもすべてのひとびとに同じように満足をあたえるだけの富はない。それゆえ人間は争わざるをえ ず、また現在もっているものを、将来も楽しもうとして力を求める。しかしホップスの描いた人間像 は時代遅れとなった。中産階級が、古い政治的宗教的支配者の権力をしだいに破壊していくにつれて、 また人間が自然を征服することに成功するにつれて、そして何百万というひとびとが経済的に独立し ていくにつれて、人間は世界も人間も本質的に合理的な存在とますます信ずるようになった。人間性 の暗い悪魔的な力は、中世あるいはそれ以前の時代に追いやられた。そしてそれらの力は、知識の欠 如によるとか、欺瞞的な王侯や僧侶の狡猾な陰謀によるとかと説明された。 ひとびとはあたかも、ながいあいだ噴火をやめている火山をみるかのように、これらの時代をなが ? めていた。ひとびとは近代デモクラシ 1 の完成が、すべての陰険な力を拭いさってしまったと、なん題 の疑いもなく信じきっていた。いわば世界は、近代都市の明るく照明された街路のように、輝かしく的 安全なものに思われた。戦争は前世紀の最後の遺物であり、あと一回の戦争ですべての戦争は終わる ものと考えられていた。経済的危機も周期的にきはしたけれども、それもなお偶然と考えられていた。 ファッシズムが台頭してきたとき、大部分のひとたちは、理論的にも実践的にも準備ができていな自 かった。いったい人間がこのような悪への傾向やカへの渇望、このような弱いものの権利の無視や服 従への憧れをもっことができるなどとは信ずることもできなかった。ただわずかなひとたちだけが、
てさることを知った。人間は自然の束縛からますます自由になった。いまだかって聞いたことも夢想 したこともないほど、自然の力を支配した。人間は平等になった。かっては人類の統一を妨げる自然 の城壁であった、階級や宗教の羞異は消えさり、人間はたがいに人間として認めあうことを知った。 世界からは神秘的な要素がますますなくなっていった。自己自身を客観的に眺めるようになり、幻想 的な目で眺めることはすくなくなった。政治的自由もまた発展した。台頭する中産階級は、その経済 的地位の力によって、政治的権力を征服することができ、その新しく獲得した政治的権力によって、 経済的に進歩しうる可能性を増大させた。イギリスおよびフランスの大革命やアメリカの独立戦争は、 この発展をしるしづける一里塚である。政治的自由の進歩は、近代的民主国家において、その頂点に 達した。そこでは人間の平等と、自分の選んだ代表によって政治に参加するという平等の権利とが、 その基本的な原理となっている。だれでも自分自身の利益にしたがって、しかも同時に国民の共同の 繁栄を考慮しつつ、行動することができると考えられた。 一言でいえば、資本主義はたんに人間を伝統的な束縛から解放したばかりでなく、積極的な自由を 大いに増加させ、能動的批判的な、責任をもった自我を成長させるのに貢献した。 しかしこれは、資本主義が発展する自由の過程に及ぼした一つの結果であり、それは同時に個人を ますます孤独な孤立したものにし、かれに無意味と無力の感情をあたえたのである。 ここで最初にとりあげるべき要素は、資本主義経済の一般的特質の一つとしての、個人主義的活動 の原理である。すべての人間が、整然とした明らかな社会組織のなかで、一定の固定した位置をもっ 124
おこう。かれは子どものときに、度をこえて厳格な父親に育てられ、ほとんど愛情や安心感を経験し なかったので、かれの。ハ 1 スナリティは、権威にたいするたえまない闘争にさいなまれていた。かれ っぽう同時に、権威にあこがれ、それに服従しようとした。か は権威を憎み、それに反抗したが、い れの全生涯を通じて、かれが反抗した権威と、かれが賞賛した権威とがつねに存在している。ー・ーす なわち、若いころには、父親と修道院の院長たち、のちには、法皇と皇帝とである。かれは極度の孤 独感・無力感・罪悪感にみちているとともに、い っぽうはげしい支配欲をもっていた。かれは強迫的 性格にのみみられるような、はげしい懐疑に苦しめられ、内面的な安定をあたえるもの、この不安の 苦しみから救ってくれるものを、たえず求めていた。かれは他人を嫌い、とくに群集を嫌い、自分自 身をも、人生をも嫌っていた。そしてこの憎悪から、愛されたいというはげしい絶望的な衝動が生ま れた。かれの全存在は恐怖と懐疑と内面的な孤独にみちていた。このようなかれの。ハ 1 スナリティの 基礎によって、かれは心理的に同じような状態にあった社会集団のチャンピオンとなることができた 由 のである。 の 以下の分析方法について、もう一つの注意が必要であるように思われる。個人の思想やイデオロギ代 1 を心理学的に分析することは、つねにそれらの思想や観念が生まれてくる心理的根源の理解を目的革 教 としている。このような分析にたいする第一の条件は、一つの思想の論理的文脈と、その著者が意識 宗 的になにをいおうとしているかを十分に理解することである。しかし、人間は、たとえ主観的には誠 実であっても、無意識的には、かれが信じているのとはちがった動機で動かされていることが多い。