個人主義 - みる会図書館


検索対象: 自由からの逃走
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1. 自由からの逃走

の利益で売れるのかは、市場の予測できない法則が決定したのである。新しい市場のメカニズムはカ ルヴィニズムの予定説と似たものがあるように思われる。カルヴィニズムの予定説は、個人は善良に なるようにあらゆる努力をしなければならないが、果して救われるかどうかは、かれの生まれる以前 にすでに決定されていると説いている。市場の時代は、人間の努力の生産物を審判する時代となった。 この事情のなかでもう一つ重要なのは、競争の役割が増大したことである。たしかに競争は、中世 社会にまったくなかったわけではない。しかし、封建的な経済組織は協同の原理にたち、競争をふせ ぐ掟によって、規制され編成されていた。資本主義の発生とともに、これらの中世的原理は、個人的 企業の原理へと次第に変っていった。だれも自分でつき進み、自分で運命を試さなければならない。 かれは泳がなければ、溺れるほかはない。他人は協同の仕事をいっしょにやる仲間ではなく、競争の 相手となった。そしてしばしば、食うか食われるかの岐路にたたされた。 資本や市場や個人的競争は、たしかに十六世紀には、そののちの時代ほど、重要なものではなかっ た。しかし近代資本主義の決定的な要素は、個人にたいする心理的影響とともにすべて十六世紀まで に準備されていたのである。 われわれはいま当時の状態の一面をのべたが、もう一つの面が存在する。すなわち資本主義は個人 を解放したということである。資本主義は人間を協同的組織の編成から解放し、自分自身の足で立っ て、みずからの運命を試みることを可能にした。人間は自己の運命の主人となり、危険も勝利もすべ て自己のものとなった。個人の努力によって、成功することも経済的に独立することも可能になった。 0

2. 自由からの逃走

市民の文化ではなく、富裕な貴族とプルジ , アの文化であった。かれらは自分の経済的活動と富とに よって、自由の感情と個性の自覚とをもった。しかし同時に、これらの同じひとびとが失ったものが ある。それは中世の社会機構があたえていた安定感と帰属感とである。かれらはいっそう自由になっ たが、また同時にいっそう孤独になった。かれらはその力と富とを用いて、生活から快楽の最後の一 滴をもしぼりだそうとした。しかしそうするためには、かれらは大衆を支配するために、また同じ階 級の競争者を抑えるために、肉体的な拷問から心理的な操縦まで、あらゆる残酷な手段を用いなけれ ばならなかった。すべての人間関係はカと富をえようとする、この恐しい死活の争いによって毒され た。同僚との協同一致ーーあるいはすくなくとも、自分と同じ階級の人たちとの協同一致ーーーは冷淡 な空々しい態度とかわった。他人はたんに使用し操るべき「物」とみなされ、自分の目的のためには、 他人を残虐に破壊した。個人ははげしい自己中心主義と、カと富へのあくことのない欲望とのとりこ となった。その結果、自分自身にたいする健全な関係も、安定感や信頼感もまた毒された。自分自身 もまた、他人と同様に、自分にとって利用すべきものとなった。ルネッサンス資本主義の力強い主人 公たちが、果してよくいわれるように、幸福と安心にみちたものであったかどうかは疑わしい。新し い自由は、かれらに二つのことをもたらしたように思われる。力の増大した感情と、それと同時に孤 ( 6 ) 独と疑惑と懐疑主義との増大、そしてーーその結果として , ー・ー不安の感情の増大である。これと同じ 矛盾がヒ = 1 マニストの哲学的著作のうちにもみられる。人間の尊厳と個性と力を強調すると同時に、 ( 7 ) かれらはその哲学のなかに不安と絶望とを表現した。

3. 自由からの逃走

機は、個人主義が多すぎるということにではなく、個人主義が空虚な殼になってしまったということ に原因がある。自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、また成 功やその他どんなことにおいても、なにも弁解する必要のない生活が行われるような社会、また個人 が国家にしろ経済機構にしろ、自己の外部にあるどのような力にも従属せず、またそれらに操られな いような社会、最後に個人の良心や理想が、外部的要求の内在化ではなく真にかれのものであって、 かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を表現しているというような社会にまで、デモクラシーが 発展するときにのみ可能である。これらの目標はこれまでの近代史のどのような時代にも、十分に実 現されることができなかった。すなわち、それらは多くイデオロギ 1 的な目標にとどまらなければな らなかった。その理由は、純粋な個人主義の発展を約東する物質的基盤がかけていたからである。資 本主義はこの前提を創りだした。生産の問題は , ーー少くとも原則的にはーー解決された。そしてわれ われは、経済的な特権を求める争いが、もはや経済的貧困によってうながされることのない豊富な未一 間ーー組織された社会 来を思いうかべることができる。こんにちわれわれが直面している問題は、人 の成員としてのーーーが社会的経済的な力の主人となって、その奴隷であることをやめるように、それモ デ AJ らの力を組織化することである。 由 私は自由の心理的側面を強調した。しかし私はまた、心理的間題は人間存在の物質的基盤や、社会自 の経済的、社会的、政治的構造からひきはなすことができないことを示そうとした。この前提からし て、積極的な自由や個人主義の実現もまた、個人が自我の実現という意味において自由になることの

4. 自由からの逃走

において、仕事において、他人にたいする関係においてもなされているかどうかということである。 近代の政治的デモクラシ 1 は、もし純粋に政治的な領域に限定されるならば、一般の個人の経済的無 カからでてくる諸結果を十分に防ぐことはできない。しかし生産手段の社会化というような純粋に経 済的な概念もまた十分ではない。私はここで社会主義という言葉を、国家社会主義においてーー戦略 的な方便のためにーー用いられたような欺瞞的な意味に使おうとは思っていない。また私は社会主義 が欺瞞的な言葉となったロシアを忘れることができない。というのは、生産手段の社会化はすでに実 施されているけれども、じっさいには強力な官僚制が巨大な人民大衆を操っているからである。これ は必然的に、たとえ政府の支配が大多数の民衆の経済的利益に有効であろうとも、自由や個人主義の 発達を妨害する。 こんにちほど、言葉が真理をかくすために悪用されることはかってなかった。協調のうらぎりは宥 和とよばれ、軍事的侵略は攻撃にたいする防衛としてカムフラ 1 ジ = され、弱小国家の征服は友好条 約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は国家社会主義の名のもとにおこなわれる。デモクラシー 自由、個人主義という言葉もまた、この悪用の対象となる。デモクラシーとファッシズムとのちがい の真の意味を明らかにする一つの方法がある。デモクラシ 1 は個人の完全な発展に資する経済的政治 的諸条件を創りだす組織である。ファッシズムはどのような名のもとにしろ、個人を外的な目的に従 属させ、純粋な個性の発展を弱める組織である。 デモクラシ 1 実現の条件を確立する最大の困難の一つが、計画経済と各個人の積極的な共同との矛 300

5. 自由からの逃走

ていた中世の封建制度とは反対に、資本主義経済のもとでは、個人は完全に自分自身の足で立っこと になった。かれがなにをするか、またそれをどのようにするか、成功するか失敗するかということは まったくかれ自身のことがらとなった。この原理が個性化の過程を促進させたことは明らかで、近代 文化の光栄ある側面の、重要な項目の一つとして常にとりあげられる。しかし「 : : : からの自由」が ますます進展していくとき、この原理は個人間のすべての紐帯を断ちきり、その結果、個人は同僚か ら孤立し分離したものとなった。この発展は宗教改革の教えによって準備されたものである。カトリ ック教会では、個人の神にたいする関係は教会の一員であるということに基礎をおいていた。教会は 個人と神とを結ぶ媒介であり、一方に人間の個性を制限しながら、他方個人を集団の構成部分として、 神に立ち向わせた。ところがプロテスタンティズムは個人をただひとり神に向わせたのである。ルツ タ 1 の意味における信仰は、まったく主観的な経験であり、またカルヴァンにおける救済の確信もこ れと同じ主観的な性格のものであった。個人は神の前にひとりで立たされると、圧倒感に襲われ、完由 全な服従によって救済を求めざるをえなくなった。心理学的には、この精神的個人主義は経済的個人る 主義とそれほどことなったものではない。どちらのばあいにも、個人は完全に孤独であって、孤立しお た状態で、神とか競争者とか、また非人間的な経済力とかいう、優越したカに立ち向うのである。衲人 にたいする個人主義的な関係は、人間の世俗的活動における個人主義的な性格にたいして、心理的準近 備となった。 この経済組織の個人主義的性格は、争う余地のない事実であるが、この経済的個人主義が影響して

6. 自由からの逃走

ていたことをみいだした。われわれは利己主義が、真の自我にたいする肯定と愛、すなわち、あらゆ る能力をもった具体的な人間存在全体にたいする肯定と愛との欠如にもとづいていることを示そうと した。近代人が行動するとき、その関心のもととなっている「自我」は、社会的な自我である。それ は本質的には、個人にたいして外から予想される役割によって構成されており、実際には、社会にお かれた人間の客観的な社会的機能を、たんに主観的に偽装したものにすぎない。近代的利己主義は真 の自我の欲求不満にもとづいた貪欲であり、その対象は社会的自我である。近代人は自我の極端な主 張を特徴としているようにみえるが、実際には、かれの自我は弱められ、全体的自我の一部分ーー知 性や意志カーーーに縮められ、 1 スナリティ全体の他の部分をしめだす結果になっている。 そうはいっても、自然をますます征服した結果、個人的自我もいっそう強くなったのではなかろう か。ある程度それは真実であろう。そのかぎり、それは個人の発達の積極的な側面であり、われわれ もそれを見逃そうとは思わない。しかし人間は、自然を支配する点ではいちじるしく進んだが、社会 はそれが作りだしたさまざまの力を、統制することができないでいる。生産組織は技術的な観点から は合理化されたが、社会的な観点からは、非合理的なものをともなっている。経済的危機や失業や戦 争が人間の運命を支配している。人間はみずからの世界を建設した。工場や家屋を建て、自動車や衣 服を作り、穀物や果実を栽培した。しかしかれはみずからの手で作った生産物からは疎隔されてしま った。かれは実際にはもはや、かれが打ちたてた世界の主人ではない。逆に、人間の作った世界が人 間の主人となった。その主人の前に人間は頭をさげ、できるだけ愛想をいい、ごまかしている。自分 134

7. 自由からの逃走

れは理想とはなんであるか、批判的に分析しなければならない。こんにち一般に、理想とはその達成 が物質的獲得を含まないような目標、人間が自己主義的な目的を進んで犠牲にしようとするようなも のと考えられがちである。これは理想についての純粋に心理的なーーまたその点で相対主義的な 概念である。この主観主義的な見方では、自分をより高い力に従属させ、同時に他人を制圧しようと する欲求にかられているファッシストも、人間の平等と自由のために戦う人間とまったく同じように、 一つの理想をもっていることになる。このような論拠では、理想の問題はけっして解決されない。 われわれは真の理想と仮想の理想とのちがいを認識しなければならない。それはちょうど真実と虚 偽とのちがいと同じような根本的な差異である。真の理想にはすべて一つの共通したものがある。す なわちそれらは、まだ実現されてはいないとしても、個人の成長と幸福という目標にとってのぞまし ( 4 ) いものを求めようとする欲求を表現している。この目標になにが役立つかは、われわれは必ずしも知 っていないかもわからない。また個々の理想が、人間の発展にたいしてどのような機能をもっている か、意見の一致しないことがあるかもわからない。しかしだからといって、われわれはなにが生命を 促進し、なにが妨害するかを知ることができないと主張する相対主義を承認することにはならない。 われわれはどの食糧が衛生的でどれがそうでないか、必ずしも知っていない。しかもなおわれわれは、 毒を識別する方法はなにもないとは結論しない。同じように、もしのぞむならば、精神生活にとって なにが有害であるかを知ることができる。われわれは貧困、脅迫、孤独が生命に有害であり、自由に 役立ち、自分自身であることの勇気と強さを促進するすべてのことが、生命に有益であることを知っ

8. 自由からの逃走

にさせ、そしてひとびとを全宇宙を形成するかの秩序のなかの一片の塵にさせる」。 ゲッペルスはかれのいう社会主義について、同じような定義をくだしている。すなわち「社会主義 者であることは、我を汝に服従させることである。社会主義とは全体のために個人を犠牲にすること である。 個人を犠牲にし、個人を一片の塵、一個の原子におとしめることは、ヒットラーによれば、人間の 個人的な意見や利益や幸福を主張する権利を放棄することを意味する。この放棄は「個人が自らの個 人的意見や利益の主張を放棄する」政治的組織の本質である。ヒットラーは「非利己的なこと」を称 賛し、「ひとびとはみずからの幸福を追求することにおいて、ますます天国から地獄へ墜落する」と教 える。自己を主張しないように個人を教育することが教育の目的である。すでに学童は「正当に叱責 されたときに沈黙するだけでなく、必要なばあいには不正をも黙って耐えることを学ばなければなら ない」。ヒットラ 1 は自分の窮極の目標について次のように書いている。すなわち「民族国家におい ては、民族的人生観は、ひとが大や馬や猫をよりよく飼育することなどに気をつかわず、むしろ人類理 そのものの向上に気をつかうというあのより貴い時代、あるものは知りつつだまって断念し、他のも ム のは喜んですべてをあたえ、喜んで犠牲を払うような時代の実現に、最後には成功しなければならなズ ナ い」 この文章はいささか意外である。ひとは「知りつつだまって断念する」というタイ。フのあとに、そ の反対のタイプ、すなわちおそらくは指導するとか責任をとるとか、あるいはなにかそのようなこと

9. 自由からの逃走

度、学校、教会、新聞、劇場を支配する力をもち、それによって自分の思想を、すべての人間にあた える力をもっからである。さらにまた、これらの支配階級は、非常に多くの特権をもっており、下層 階級はたんにかれらの価値を受けいれたり、まねたりしようとするだけでなく、かれらと心理的にも 合一しようとする傾向をもっているからである。 以上われわれが主張したことは、資本主義的生産様式が人間を超人間的な経済的目的のための道具 とし、。フロテスタンティズムによってすでに心理的に準備されていた、禁欲主義と個人の無意味の精 神とを増大させたということである。しかしこの主張は近代人が犠牲的態度や禁欲主義によってでは なく、極端な利己主義と自利の追求によって動かされているように思われる事実と矛盾する。客観的 には自己以外の目的に奉仕する召使いとなりながら、しかも主観的には、自分の利益によって動いて いると信じている事実を、一体われわれはどのようにして解決できるであろうか。。フロテスタンティ ズムの精神と、近代的な利己主義の信条とをどのように和解させることができるであろうか。。フロテ スタンティズムは非利己的なことを強調するのにたいし、近代の利己主義はマキアヴルリの言葉を かりれば、利己主義こそ人間行動のもっとも強力な原動力であり、個人的利益の追求はどんな道徳的 考慮よりも力強く、人間は自分の父の死を見るよりも、財産を失うことのほうがたえられないと主張 している。この矛盾は、たんに非利己的であることを強調することが、奥底に横たわっている利己主 義をかくすためのイデオロギ 1 に過ぎないと考えることによって、説明できるであろうか。もちろん、 それもある程度まで正しいが、これが十分な解答であるとは思われない。答がどのような方向にある 130

10. 自由からの逃走

れて、個人は変化するだけである。 以前の心理学者がうけいれていたいわゆる人間の基本的本能と同じく、フロイトの人間性について の考えも、本質的には近代人にみられるもっとも重要な衝動についての考察であった。フロイトにと っては、どのような文化における個人も「人間」であって、近代人に固有な感情や不安も、人間の生 物学的構造にもとづいた永遠の力とみなされていた。 われわれはこの点について、数多くの反証をあたえることができる。 ( たとえばこんにち、近代人 に多くみられる、敵意の社会的基盤とか、エディ。フス・コン。フレックスとか、婦人におけるいわゆる 去勢コン。フレックスなど ) 。しかし私は、とくに重要な例をただ一つだけつけ加えたいと思う。とい うのはそれは社会的存在としての人間の概念一般とかかわりがあるからである。 フロイトは個人というものを、つねに他人との関係においてとらえている。しかしフロイトの考え る対人関係は、資本主義社会の個人が、他人にたいしてもっている独特な経済的関係ににている。各 人はみずからの危険をおかして、自分自身のために個人主義的に働くのであり、もともと他人と共同 して働くのではない。しかしかれはロビンソン・クル 1 ソ 1 ではない。かれは他人を、顧客として、 使用人として、あるいは雇主として、必要とする。かれは買い、売り、あたえ、受けとらなければな らない。商品であれ労働市場であれ、市場がこれらの関係を調整する。こうして、元来は孤独で自足 的な個人が、ある目的にたいする手段として、他人との経済的関係にはいっていく、売りかっ買うた めに。人間関係についてのフロイトの考えは本質的にはこれと同じである。すなわち、個人は満足を