本書を通じて、われわれは、宗教改革の時代や現代などのある歴史的な時期を分析することによっ て、社会経済的、心理的及びイデオロギー的諸要因の相互関係を取扱ってきた。このような分析の理 論的問題に興味をもっ読者のために、私はこの付録で、その具体的な分析の基礎となる一般的な理論 的根拠を簡単に論じてみよう。 ある社会的集団の心理的反応を研究するとき、われわれはその集団の成員、すなわち個々の人間の 性格構造をとりあっかっているのである。しかしわれわれが興味をもつのは、これらの人間がたがい にことなっているその特殊性ではなく、その集団の大部分の成員の性格構造に共通する面である。こ のような性格は社会的性格と呼ぶことができよう。社会的性格は、それゆえ必然的に、個人的性格よ りも一般的である。個人的性格を述べるばあいには、個々の人間のパ 1 スナリティ構造を独特なもの としているすべての特性をとりあっかうことになる。社会的性格は個人のもっている特性のうちから、 あるものを抜きだしたもので、一つの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であ り、その集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したものである。もちろんまったくことなっ た性格構造をもつ「例外」は常に存在するであろうが、その集団の大部分の成員の性格構造は、この 中核の変化したもので、この変化は個々の人間のそれぞれことなった出生条件や生活経験の偶然的要 素の結果にすぎない。もしひとりの個人を徹底的に理解しようと思うならば、これらの個人の分化し た要素がもっとも重要なものとなる。しかしある一定の社会的状態において、人間のエネルギ 1 が一 306
るのであるがー・・ーある人間を魔術的性質の持主と考え、その人間にかれの全生活を結びつけ、依存さ せようとする。その相手も一方と同じように行動しているばあいもあるが、それでもけつきよく同じ ことである。それはただこの関係が「真実の恋」の一つであるという印象を強めるだけである。 この魔術的助け手を求める欲求は、精神分析的操作によって、実験ににた条件のもとで、研究する ことができる。分析される人間は精神分析者に深い愛着を感じ、かれの全生活や、すべての行動、思 想、感情を分析者に結びつけることがよくある。意識的あるいは無意識的に、被分析者は自問自答す る。「かれ ( 分析者 ) はこのことを喜ぶであろうか、喜ばないであろうか、このことに同意するであろ うか、それとも私を叱責するであろうか」と。恋愛関係においては、ある人間を同伴者として選んだ という事実が、この特定の選ばれた人間こそ、まさしく「かれ」であるという理由で愛されていると いう証拠となる。ところが精神分析的状態ではこの想像は支持されない。まったくことなった類の 人間が、まったくことなった種類の精神分析者にたいして、同一の感情をいだくようになるからであ る。この関係は愛情ににており、性的欲望さえともなうことがしばしばある。それは本質的に人格化ズ された魔術的助け手にたいする関係である。あきらかに精神分析者の役割は、ある権威をもつひとびカ メ と ( 医者とか大臣とか教師とか ) と同じように、人格化された魔術的助け手を求める人間を満足させの るところにある。 ひとりの人間がなぜ魔術的助け手に束縛されるかといえば、それは原則的には、共棲的衝動の根底 にみられるものと同じ理由からである。すなわち一人でいること、および個人的可能性を完全に表現 193
心理的動機の分析は、その原理の妥当性や、その原理のもっている価値についての合理的判断にかわ ることはできない。もちろん心理的分析は、その原理の真の意味をよりよく理解するのに役にたっし、 ひいてはそれについての価値判断に影響することはあるとしても。 原理の心理学的な分析が示すものは、ある問題を意識し、その解答をある方向に追求しようとする 個人の、主観的な動機である。真実なものでも、虚偽のものでも、思想というものは、もしそれが慣 習的な考えかたと表面だけ一致しているという以上のものであるならば、その思想を考える人間の主 観的な要求や関心によって動機づけられている。主観的な関心には、真理を発見することによって高 められるものと、真理を破壊することによって高められるものとがある。しかしどちらのばあいにも、 ある結論に到達するためには、心理的な動機が重要な契機となっている。さらに一歩進めて、 ナリティの力強い欲求にうらづけられていないような思想は、その人間の行動や全生活にたいし、ほ とんど影響力がないとい一つことができる。 由 宗教的教義や政治的原理を、心理学的な意味を考慮にいれて分析するとき、次の二つの間題を区別自 する必要がある。第一は、新しい教義を創造した個人の性格構造を研究し、かれのパースナリティの代 どのような特性が、かれの思想の独特な方向を生んだのであるかを理解する試みである。具体的には、革 たとえばルッターやカルヴァンの性格構造を分析し、かれらの。 ( 1 スナリティのどのような傾向によ宗 って、あのような結論が生みだされ、あのような教義が作りだされたかが、発見されなければならな い。もう一つの問題は、教義の創造者の心理的動機ではなく、受けとる側の社会集団の心理的動機で
われわれは現代にまでたどりついたが、さらに、ファッシズムの心理学的な意味について、また独 裁制度のもとにおける、およびわれわれの民主主義のもとにおける自由の意味について、論じていく ことにしよう。しかしわれわれのすべての論議が正当であるかどうかは、われわれの心理学的前提の 妥当性によって左右されるのであるから、思考の全体の流れをここで中断して、この章では、われわ れがすでにふれたところの、またこれからさらに論じていくはずの、心理的メカニズムについて、も っと詳細に、またもっと具体的に検討することにしよう。なぜこれらの前提をくわしく検討する必要 があるかといえば、その基礎には、多くの読者にとってまったく縁遠いものではないとしても、やは り説明を必要とするような、いくつかの概念が使用されているからである。それらの概念は、無意識 的ないろいろな力を、またその力が合理化され性格的な習性となってあらわれる通路を、とりあっか っているのである。 この章では、私はとくに、個人心理学や、個人の綿密な精神分析的研究によるさまざまな観察をと りあげたいと思う。もちろん精神分析は、アカデミックな心理学が理想としている自然科学的な実験 方法による接近という点では、まだ理想にまで到達していないが、しかしそれはやはり完全に経験的 方法である。すなわちそれは、検閲されない個人の思考や夢や空想についての、骨のおれる観察に基 礎づけられている。無意識的な力の概念を利用する心理学だけが、個人や文化を分析するさい、われ われがあやまって犯している合理化を、つきやぶることができる。もしわれわれが、ひとが自分では 154
かれは果しない恐怖にみちた世界に放りだされた異国人である。 個人は独りで世界に立ちむかう。 新しい自由は必然的に、動揺、無力、懐疑、孤独、不安の感情を生みだす。もし個人がうまく活動し ようと思えば、このような感情はやわらげられなければならないのである。 2 宗教改革の時代 このようなとき、ルッタ 1 主義とカルヴィニズムがあらわれた。新しい宗教は富裕な上層階級の宗 教ではなく、都市の中産階級や貧困階級の、また農民の宗教であった。新しい宗教はこれらの階級の ひとびとに訴えた。なぜならそれは、これらのひとびとにいきわたっていた無力と不安の感情と同時 に、自由と独立の新しい感情をも表現していたからである。しかし宗教の教義は、経済的秩序の変化 によってひき起された、もろもろの感情を正しく表現したというだけではなかった。その教義はそれ らの感情を促進するとともに、他の方法ではたえられないような不安と戦うための、解決策を提供し た。 新しい教義の、社会的心理的意味の分析をはじめるまえに、われわれの研究方法について、少し説 明しておくほうが、この分析を理解するのに役立つであろう。 宗教的教義や政治的原理の心理的意味を研究するとき、まず第一に心にとめなければならないのは、 心理学的分析はその原理の真理性についての判断は含まないということである。この真理性の問題は、 問題それ自身の論理的構成という面からだけ決定することができる。ある原理や思想の背後にひそむ
すなわち自分の建てた摩天楼のことを考え、かれはいつも建築に非常な興味をもっていたことをふと 思いだす。子どものころ、かれのすきな遊びは、長年のあいだ、積木で遊ぶことであった。そして十 七歳のとき、建築家になろうと思った。このことを父に話したところ、父はやさしい調子で、「もち ろん君の職業は君が自由に選んだらよい、しかし建築家になるという考えは、子どもらしい希望の残 りのように思われるから、私は医学を学ぶほうを希望する」と答えた。子どもは父のいうことが正し いと思って、それ以来、その問題は再び父に話すようなことはなく、当然のこととして医者の勉強を はじめた。遅れてとんできて、道具を忘れた医者については、かれの連想はぼんやりしていて十分で はない。しかし夢のこの部分について話しているときに、分析の時間をいつもの時間から変更しなけ ればならないことがおこった。かれは反対せずに同意したが、じっさいには非常に怒っていた。かれ 冫話しだすと、その怒りが高まってくるのを感じた。かれは分析者が自分勝手だと非難し、おしまい には「ええ、けつきよく私には、私の望むことはできないのですからね」といいだした。かれは自分 の怒りとこの言葉に自分で驚いた。というのはそれまでかれは分析的な仕事について、少しの敵対感 も感じていなかったからである。 しはらくしてから、かれはまた夢をみた。それについてはほんの一部しか覚えていない。かれの父 が自動車事故で怪我をする。かれ自身が医者となっていて、父の面倒をみることになる。父を診察し ようと努力するが、完全にしびれたように感じて、なにもすることができない。かれは恐怖につかれ、 目がさめる。 2 ワ ~
そうであれば、それは論理的には服従ではないということもできよう。しかし心理学的には、かれの いう愛や信仰が、実は服従であることが、かれの思想全体から明らかである。かれは意識的には、神 への「服従」を自発的な愛にみちたものといっているが、かれは無力感と罪悪感にみちている。かれ の神への関係は服従の関係にほかならない。 ( ちょうど、他人へのマゾヒズム的な依存が、意識的には しばしば「愛」と考えられているように ) 。それゆえ、かれが実際に意味していたとわれわれが信じて いることと ( それはもちろん無意識的なものではあるが ) 、かれがロでしゃべることとがくいちがって いても、心理学的分析の立場からは、ほとんど問題とならない。かれの体系のうちにひそむ矛盾も、 かれの概念の意味を心理学的に分析してはじめて、理解することができると考えられよう。 。フロテスタンティズムの教義を分析するとき、私は宗教的教義をその全体系の文脈から、事実それ が意味していたことにしたがって説明した。私は、その重さや意味から考えて本質的にはルッターや カルヴァンの教義と矛盾していないと確信したときには、一見矛盾しているように思われる文章は引 用しなかった。しかし私の説明は、説明に都合のよい特定の文章をえらびだすようなやり方ではなく、自 ルッタ 1 やカルヴァンの全体系と、その心理的基盤の研究にもとづくものであり、したがって、全体代 系の心理学的構造という観点から個々の要素を説明しているのである。 宗教改革の教義のなかで、なにが新しいものであったかを理解しようと思えば、まず第一に、中世宗 の教会神学の本質がどのようなものであったかを、考えなければならない。しかしそれを考えようと すると、「中世社会」とか「資本主義社会」とかいう概念について論じたときと同じような、方法論
ている。人間にとって、なにが善で、なにが悪であるかは、形而上学の問題ではなく、人間性の分析 と、ある条件がもたらす結果とにもとづいて答えうる経験的な問題である。 しかし生命にたいして決定的に対立するファッシストの「理想」のようなものについてはどうであ ろうか。あるひとびとが、他のひとびとが本当の理想にしたがっているのと同じような熱心さで、い つわりの理想にしたがっているという事実は、どのように理解できるのであろうか。この問題にたい する答えは、心理学的考察によってあたえられる。マゾヒズムの現象をみると、人間が苦悩や従属の 経験に引きこまれることのあることがわかる。苦悩や服従や自殺が、生の積極的な目標にたいするア ンティテ 1 ゼであることは疑いない。しかもなおこれらの目標は、主観的には満足すべき魅惑的なも のとして経験されることができるのである。生命に有害なものへのこの誘惑は、なににもまして病理 学的な歪みという名前に価する。多くの心理学者は、快楽の経験と苦痛の回避が人間行為を導くただ 一つの正当な原理であると主張した。しかしダイナミックな心理学によって、快楽の主観的経験は、 人間の幸福という面からみれば、ある行為の価値を十分にあらわしていないことがわかる。マゾヒズ ム的な現象の分析がそのよい例である。このような分析によって、快楽感は病理学的な歪みの結果でモ デ あることがあり、経験の客観的な意味をすこしも実証していないことがわかる。ちょうど毒の甘美なと ( 5 ) ・目 味が、その有機体に及ぼす作用をほとんど実証しないのと同じように。このようにしてわれわれは、 真の理想とは、自我の成長、自由、幸福を促進するすべての目標であり、仮想の理想とは、主観的に は魅惑的な経験 ( 服従への衝動のように ) でありながら、じっさいには生に有害であるような、強迫
おこう。かれは子どものときに、度をこえて厳格な父親に育てられ、ほとんど愛情や安心感を経験し なかったので、かれの。ハ 1 スナリティは、権威にたいするたえまない闘争にさいなまれていた。かれ っぽう同時に、権威にあこがれ、それに服従しようとした。か は権威を憎み、それに反抗したが、い れの全生涯を通じて、かれが反抗した権威と、かれが賞賛した権威とがつねに存在している。ー・ーす なわち、若いころには、父親と修道院の院長たち、のちには、法皇と皇帝とである。かれは極度の孤 独感・無力感・罪悪感にみちているとともに、い っぽうはげしい支配欲をもっていた。かれは強迫的 性格にのみみられるような、はげしい懐疑に苦しめられ、内面的な安定をあたえるもの、この不安の 苦しみから救ってくれるものを、たえず求めていた。かれは他人を嫌い、とくに群集を嫌い、自分自 身をも、人生をも嫌っていた。そしてこの憎悪から、愛されたいというはげしい絶望的な衝動が生ま れた。かれの全存在は恐怖と懐疑と内面的な孤独にみちていた。このようなかれの。ハ 1 スナリティの 基礎によって、かれは心理的に同じような状態にあった社会集団のチャンピオンとなることができた 由 のである。 の 以下の分析方法について、もう一つの注意が必要であるように思われる。個人の思想やイデオロギ代 1 を心理学的に分析することは、つねにそれらの思想や観念が生まれてくる心理的根源の理解を目的革 教 としている。このような分析にたいする第一の条件は、一つの思想の論理的文脈と、その著者が意識 宗 的になにをいおうとしているかを十分に理解することである。しかし、人間は、たとえ主観的には誠 実であっても、無意識的には、かれが信じているのとはちがった動機で動かされていることが多い。
I S B N 4 ー 4 8 8 ー 0 0 6 5 1 ー 5 C 1 0 ろ 6 \ 1 7 0 0 E 定価 ( 本体 1 , 700 円十税 ) 1 9 2 1 0 5 6 0 1 7 0 0 0 走の 三逃 工ーリッヒ・フロム ERICHFROMM 日高六郎 / 訳 著者紹介 工ーリッヒ・フロム 19 年、ドイツのフランクフルト に生まる。八イテルベルク、フラ ンクフルトの大学で社会学、心理 学を専攻し、 1 925 年以後は精神分 析学にも携わり、精神分析的方法 を社会現象に適用する新フロイト 主義の立場に立ち、社会心理学界 に重要な位置を占めた。ナチに追 われてアメリカに帰化し、メキシコ 大学などの教授を歴任。 1 980 年没。 主著は 自由からの逃走 1941 。 人間における自由 1947 。 精神分析と宗教 1 950 。 愛するということ 1956 。 0 00 0 000 三 革命的人間 1 963 希望の革命 1 968 訳者紹介 日高六郎 1917 年生まれ。東大文 学部社会学科卒業、元東大新聞研 究所教授。現在京都精華大学短期 大学部教授。 9 7 8 4 4 8 8 0 0 6 5 1 8 ・ーリッヒ・ム 社 元 現代社会科学叢書創 京 東 東京創元社 カバーデザイン・小倉敏夫