汝を救おうとするであろうと。あらゆる怠慢と疑いとをもった個人的自我を、徹底的な自己放棄によ ってとりのぞくならば、自己の無意味さの感情から解放され、神の栄光に参加することができるであ ろう。こうして、ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専 制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完 全な服従と、自我の滅却とを要求した。ルッタ 1 の「信仰」は、自己を放棄することによって愛され ることを静信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし、個人の絶対的な服従を要求す る原理と、多くの共通点をもっ解決方法である。 ルッターが権威を恐れ、また権威を愛したことは、かれの政治的信念にもあらわれている。かれは 教会の権威に反抗し、新しい有産階級ーーーその一部は聖職者の階層制度における上層階級であったー ーにたいしては憤りにみち、また農民の革命的な傾向をある点までは支持していたが、しかもかれは 皇帝という世俗的権威にたいする服従を、熱烈に要請していたのである。「権威をもった人間がたと え悪虐で無信仰であっても、その権威と力とは善なるものであり、神からあたえられたものである。 ・ : それゆえ、権力の存在するところ、権力の栄えるところ、権力は存在し、存在しつづける。それ は神の命令し給うところである」。またかれはいう。「神は、たとえどんなに正当なものであろうとも、 群集に暴動を許し給うよりも、どんなに悪虐なものでも、支配を存続させるほうを選び給うであろう。 : ・君主はどんなに暴君であっても、依然として君主たるべきである。君主は、かれが支配者として 臣下をもたなければならないからには、ときには少数のものを殺さざるをえないこともありうる」。
ぐれた強さの表現である。もし私が人を殺す力をもっているならば、私はかれより「強い」のである。 しかし心理学的な意味では、カへの欲望は強さにではなく、弱さに根ざしている。それは自我がひと りで生きていくことが不可能であることを示している。それは真実の強さがかけているときに、二義 的な強さを獲得しようとする絶望的な試みである。 「カ」という一言葉は二様の意味をもっている。第一には、それはなにものかにたいする力の所有で あり、他人を支配する能力を意味する。第二には、それはなにかをする力を所有すること、能力があ ること、潜在的能力のあることである。後者の意味は支配とは無関係である。それは能力という意味 における熟達を意味する。無力というときも、われわれはこの意味で考える。すなわち他人を支配す ることのできない人間を考えず、したいと思うことのできない人間を考える。こうして力とは、支配 か能力かの、二つに一つを意味する。それは同一どころか、おたがいに相容れない性質である。無能 力という言葉は、たんに性的領域だけではなく、人間能力のあらゆる領域に用いられるが、それは支 配へのサディズム的努力を導くものである。個人が能力ある程度に応じて、すなわち、自我の自由と 統一性との基礎の上でかれの潜在的能力を実現できる程度に応じて、かれは支配する必要はなくなり、 したがって権力のあくなき追求といったことはなくなる。支配という意味における力は能力の逆であ る、ちょうど性的サディズムが性的愛情の逆であるように。 サディズム的およびマゾヒズム的性質はすべてのひとびとにみいだされる。一方の極には、全人格 がこのような性質で支配されているひとびとがあり、他方には、それらが支配的でないひとびとがい 180
競争に勝利をえたことから直接に生まれた。他人から尊敬されたり、他人を支配したりすることは、 財産があたえた支えをさらに強化し、不安な自我の後楯となった。 財産や社会的名声をほとんどもたない人間にとっては、家族が個人的威光をあたえる源であった。 そこでは個人は「なんらかのもの」と感ずることができた。かれは妻や子供をしたがえ、舞台の中心 となることができた。そして単純にも自分の役割を自然の権利と考えていた。かれは社会的世界では 無に等しいが、家庭では国王であった。家族のほかに、国家的な誇り ( ョ 1 ロツ。ハではしばしば階級 的誇り ) がまた重要な意味をあたえた。個人的には無に等しくても、自分の属している集団が、同じ ような他の集団よりも優れていると感ずることができれば、それを誇ることができた。 弱体化した自我をささえるこのような要素は、本章の最初で述べた諸要素、すなわち現実の経済的 政治的自由や、個人的創意にたいする機会や、合理的啓発の増大というようなものとは区別されなけ ればならない。これらの要素はじっさいに自我を強め、個性や独立性や合理性を発展させる。それに 反し、支えとしての要素はたんに不安や懸念を埋めあわせることを助けたにすぎない。それらは不安 や懸念を根絶させたのではなく、それらをおおったのである。そうして個人が意識的に安定を感ずる ようにしむけたのである。しかしこの意識的な安定感は表面的なもので、支えが存在するかぎり、持 続するものにすぎなかった。 宗教改革から現代までの、ヨ 1 ロツ。ハおよびアメリカの歴史をくわしく分析してみると、「 : : : か らの自由から、 : への自由へ」という進化のなかに、このような二つの矛盾した傾向が平行してい 138
すなわち圧倒的に強いカの象徴という意味をもっている。かれは「運命が私の生誕地としてイン河畔 の。フラウナウを指定したことは、私にとって幸運であった」という叙述で自叙伝をはじめている。さ らにつづけて、この国がドイツ人全体にとってあまりに狭くなったときにのみ、必然がドイツ人に 「土地と領土を獲得する道徳的権利」をあたえることになろうから、そのとき全ドイツ人は一つの国 家に統一されなければならないといっている。 一九一四年から一九一八年までの戦争における敗北は、かれにとっては「永遠の審判による当然の 処罰」である。他民族と混血するような民族は「永遠の摂理の意志にたいして」、あるいはかれがほか のときにいっているように「永遠の創造者にたいして罪を犯しているのである」。ドイツ人の使命は 「宇宙の創造者」によって定められている。天は人間に優越する。というのは、さいわいなことに、 ひとは人間を馬鹿にすることはできるが「天は買収されえない」から。 神、摂理、運命よりもおそらくヒットラーを感銘させる力は自然である。人間にたいする支配を自 然にたいする支配で置きかえることが、最近四〇〇年間の歴史的発展の動向であったのに、ヒットラ理 1 は、ひとは人間を支配でき、また支配しなければならないが、自然を支配することはできないと主 ム 張する。私はすでに、人類の歴史の発端はおそらく動物の馴化ではなく、劣等民族の支配であったとズ チ いうかれの言葉を引用した。かれは、人間は自然を征服することができたという考えを嘲笑し、「『観ナ 念』以外には自由にできるなんの武器ももっていないのに」、自然の征服者になることができると信 じているひとびとを嘲っている。かれは人間は「自然を支配しているのではなく、自然の法則と秘密
となった。人間は教会の支配を、そして絶対主義国家の支配をなげすてた。外的な支配を廃止するこ と、それだけで、個人の自由という宿望を獲得するために、必要であるばかりでなく、十分な条件で あるように思われた。 〈第一次〉世界大戦は最後の戦いであり、その結着は自由のための最終の勝利であると、多くのひ とびとは考えていた。現存のデモクラシーはみたところ強化され、また古い君主政治に新しいデモク ラシーがかわった。しかしわずか数年たつうちに、ひとびとが数世紀の戦いでかちえたと信じている 一切のものを否定するような、新しい組織が出現した。人間のすべての社会的個人的生活を、たくみ に支配するようになったこの新しい組織の本質は、ごく少数のひとびとは別として、すべてのひとび とが、自分で支配することのできない権威へ服従することであった。 最初のうちは、多くのひとは、権威主義的組織の勝利の原因は少数者の狂気にあり、それゆえかれ らの狂気は、やがて没落するにちがいないと考えて安心していた。また、なかにはおつにすまして、題 イタリア人やドイツ人たちはデモクラシ 1 の訓練にまだ十分な年月を経ていないので、かれらが西欧的 理 のデモクラシーという政治的な成熟にまで到達するのを待ちさえすれば、それで大丈夫だと信ずるも のもあった。またもう一つの一般的な幻想はーーおそらくこれがなによりも危険だったのであるが : ヒットラ 1 のような男たちは、ただ権謀術策だけで、国家の巨大な機構を支配する権力を獲得し自 たのであり、かれらやかれらにしたがうものたちは、ただカずくで支配しているのであり、またすべ てのひとびとは、ただあざむかれ、おびやかされたがために、意志のない存在になっているにすきな
ほかならない。指導者と大衆という問題は、画家と色彩の問題と同じく、とるにたらないものである」。 もう一つの本のなかでゲッ。ヘルスは、サディズム的人間が自己の対象に依存するさまを正確に描い ている。すなわち、サディズム的人間は他のだれかにたいして力をもたないかぎり、どんなに弱く空 虚に感ずるか、またこの支配力がどんなにかれに新しい力をあたえるかを描いている。「ひとはとき に深い意気消沈にとらえられることがある。ひとは再び大衆の前にでるときにのみそれを克服するこ とができる。民衆はわれわれのカの泉である」。 ナチスが指導と呼ぶ、民衆にたいする特殊な権力については、ドイツ労働戦線の指導者ライ (Ley) が明瞭な説明をあたえている。ナチスの指導者に要求される資質と指導者教育の目的とを論じて、か れはつぎのように書いている。「われわれはこれらの人間が、指導する意志、主人となる意志、 ・ : われわれは支配すること いえば支配しようとする意志をもっているかどうかを知りたいと思う。 ・ : われわれはこれらの人間に、生きた存在を完全に支配してい を欲し、支配を享楽したいと思う。 るという感情をあたえるために、乗馬を教えるであろう」。 ま、教育目的についてのヒットラ 1 の公式のうちにも存在する。かれはいう、 権力の同じような強調ー 生徒の「全教育と発達は、他人にたいし絶対的に優越しているという確信をあたえるように導かれる べきである」と。 ほかの箇所でかれが、少年は反抗することなしに不正に堪えるように教育されなければならないと おそらくはーーーもはや読者にとっては不思議ではないであろう。この矛盾 主張している事実は、
知識をあたえる。マゾヒズム的絆は逃避である。個人的自己は解放されたが、しかしかれの自由は実 現できないのである。それは不安、疑惑、無力感によってうちのめされている。自己は「第二次的 絆」のなかに安定感を求めようとする。それはマゾヒズム的絆とも呼ぶべきものであろうが、しかし この試みは成功するはずがない。個人の解放ということは逆転できないのである。意識的には個人は 安全であり、なにかに「属して」いるように感じることができよう。しかし根本的にはかれはかれの 自己喪失になやむ無力なアトムにすぎない。かれと、かれがしがみつく力とは、けっして一つになる ことはない。根本的な対立が残り、それとともに、たとえ意識的でないとしても、マゾヒズム的な依 存に打ちかち、自由になろうとする衝動が残る。 サディズム的衝動の本質はなんであろうか。ここでもまた、他人に苦痛をあたえようという願望が 本質なのではない。サディズムの形にはさまざまのものが観察できるが、それはただ一つの本質的な 衝動にまでさかのぼることができる。すなわち他人を完全に支配しようとすること、かれをわれわれ の意志にたいして無力な対象とすること、かれの絶対的支配者となること、かれの神となり、思うまズ まにかれをあやつることである。かれを絶滅させ、かれを奴隷にするのは、この目的のための手段でカ メ ある。そのもっともきびしい目標はかれを悩ませることである。なぜなら他人を支配する力として、の 避 他人に苦痛をあたえ、自己防禦できないものに苦悩をしのばせる以上のことはないからである。他人逃 ( 6 ) ( あるいは他の生物 ) を完全に支配することの快楽、これがサディズム的衝動の本質である。 他人にたいして完全な支配者となろうとするこの傾向は、マゾヒズム的傾向とはまったく反対のよ 175
を、自然を支配したと同じように合理的に支配しなければならない。これにたいする一つの条件は、 少数ではあっても大きな経済力をふるい、その決定によって民衆の運命を左右し、しかもかれらにた いする責任はかえりみないようなひとびとの、かくれた支配力をとりのぞくことである。われわれは この新しい秩序を民主主義的社会主義と名づけることができる。しかしその名称は問題ではない。問 題はひとびとの目的に奉仕する合理的経済組織を確立することにある。こんにち大部分のひとびとは、 経済機構の全体を支配する力をもっていないだけでなく、かれらは自分のたずさわっている特殊な仕 事においても、純粋な創意や自発性を発展させる機会をほとんどもっていない。かれらは「雇われ て」いて、命令される通りに動くこと以外、かれらには期待できない。国家全体が経済的社会的なカ を合理的に支配する計画経済においてのみ、個人はその仕事のなかで、責任をもち創造的な知性を働 かすことができる。問題は純粋な活動の機会が個人に回復されること、社会の目的とかれ自身の目的 とが、観念的にではなく現実的に一致すること、またかれが、それが人間の理想からして意味と目的 とをも 0 ているからこそ、その仕事に責任を感じ、積極的に努力と理性とを注ぐことである。われわ れは人間の駆使を能動的知的な共同によっておきかえ、形式的な政治的領域から経済的領域にいたるモ デ AJ まで、人民の、人民による、人民のための政府という原理を発展させなければならない。 経済的政治的組織が人間の自由を促進させるかどうかという問題は、政治的経済的観点だけからは自 答えられない。自由の実現の唯一の標識は、個人が自分の生活および社会の生活の決定に積極的に参 加しているかどうか、しかもこれがたんに投票という形式的な行為によってだけでなく、日々の活動
いなや、二人にとって、まったく予想しなかったようなことが起るであろう。男は絶望的になり、う ちのめされ、でていかないでくれと哀願する。彼女なしには生きていけぬといい、どんなに愛してい るかなどという。通常、女は自己主張の勇気をなくし、夫を信じようとし、決心をひるがえして、と どまる。するとまたやりとりが始まる。男は古い行動をくりかえし、女はいっしょに暮すことに困難 を感じ、爆発し、男がまた絶望し、女がとどまる。このようなことが何度もくりかえされるのである。 何千何万という結婚やその他の人間関係がこの循環をくりかえしている。そしてこの魔術的な循環 は断ちきられることがない。彼女なしに生きていけないといったとき、男はうそをいったのであろう か。愛についていえば、すべてはその愛とはなにを意味するかということにかかっている。彼女なし には生きていけないという言葉についていえば、文字通りではなくても、ともかく完全に真実である。 あるいはすくなくとも、かれの掌中にあって頼りない存在と思われるよう かれは彼女なしには、 な人間なしには生きていけない。ただこの関係が破れそうなときにだけ、愛の感情があらわれる。他 のばあいには、サディズム的人間は、かれが支配していると感じている人間だけをきわめてはっきり と「愛し」ている。妻でも、子でも、助手でも、給仕でも、道行く乞食でも、かれの支配の対象にた いして、かれは愛の感情を、いや感謝の感情さえもっている。かれらの生活を支配するのは、かれら を愛しているからだと、かれは考えているかもわからない。事実はかれはかれらを支配しているから 愛しているのだ。かれは物質的なもので、賞賛で、愛を保証することで、ウィットや光彩ある才気で、 関心を示すことによって、他人を買収している。かれはあらゆるものをあたえるかもわからない
度は私はお前からほしいものをとってもよいはずだ」。サディズム的衝動のもっと攻撃的な形は次の ような二つの形で合理化される。「私はひとからきずつけられた。ひとをきずつけようとする私の願 いは復讐にほかならぬ」。あるいは「最初になぐりつけたのは、私や私の友人がきずつけられる危険を ふせぐためだったのだ」。 サディズム的人間と、かれのサディズムの対象との関係において、つぎのことがみのがされること が多い。それゆえそれはここでとくに強調してもよいであろう。それはサディズムの対象へのかれの 依存である。 マゾヒズム的人間のばあいには、はっきりした依存がみられるが、サディズム的人間のばあいには、 それが逆になっているとわれわれは期待しやすい。かれはこのように強く支配的であり、かれのサデ イズムの対象はこのように弱く屈従的であるからには、強者がかれの支配するところのものに依存し ているとは考えられないかもわからない。しかし、綿密に分析すると事実はそうである。サディスト ム はかれが支配する人間を必要としている。しかも強く必要としている。というのはかれの強者の意識ズ は、かれがだれかを支配しているという事実に根ざしているから。この依存はまったく無意識的であカ メ るかもわからない。こうして、たとえば、ある男はその妻をひどく残酷にとりあっかい、くりかえし、の いつでも家をでていってもよろしい、またそうしてくれたほうがありがたいといっている。ときには逃 妻はひどくいためつけられ、家をでることさえあえてできない。それで二人とも、けつきよく男のい 3 うことが真実であると信じている。ところがもし妻が勇気をふるいおこして、家をでると宣一一 = ロするや