権威 - みる会図書館


検索対象: 自由からの逃走
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1. 自由からの逃走

汝を救おうとするであろうと。あらゆる怠慢と疑いとをもった個人的自我を、徹底的な自己放棄によ ってとりのぞくならば、自己の無意味さの感情から解放され、神の栄光に参加することができるであ ろう。こうして、ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専 制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完 全な服従と、自我の滅却とを要求した。ルッタ 1 の「信仰」は、自己を放棄することによって愛され ることを静信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし、個人の絶対的な服従を要求す る原理と、多くの共通点をもっ解決方法である。 ルッターが権威を恐れ、また権威を愛したことは、かれの政治的信念にもあらわれている。かれは 教会の権威に反抗し、新しい有産階級ーーーその一部は聖職者の階層制度における上層階級であったー ーにたいしては憤りにみち、また農民の革命的な傾向をある点までは支持していたが、しかもかれは 皇帝という世俗的権威にたいする服従を、熱烈に要請していたのである。「権威をもった人間がたと え悪虐で無信仰であっても、その権威と力とは善なるものであり、神からあたえられたものである。 ・ : それゆえ、権力の存在するところ、権力の栄えるところ、権力は存在し、存在しつづける。それ は神の命令し給うところである」。またかれはいう。「神は、たとえどんなに正当なものであろうとも、 群集に暴動を許し給うよりも、どんなに悪虐なものでも、支配を存続させるほうを選び給うであろう。 : ・君主はどんなに暴君であっても、依然として君主たるべきである。君主は、かれが支配者として 臣下をもたなければならないからには、ときには少数のものを殺さざるをえないこともありうる」。

2. 自由からの逃走

この発展の原因は非常に複雑多様であるので、ここでくわしく論ずることはできない。私はほんの 二、三のものだけをとりあげよう。君主制や国家のような、権威の古い社会的シンポルの衰退は、個 人的な権威である両親の役割に影響を及ぼした。若い世代が両親から尊敬するようにと教えられた権 威が弱体を暴露したとき、両親もまた威信と権威とを失った。もう一つの要因は、変化した条件、と くにインフレのもとでは、古い世代は困惑するばかりで、すばしこい若い世代よりも新しい条件にう まく適応できなかったことである。こうして、若い世代は古い世代に優越を感じ、年上の人間やその 教えをもはや真面目に受けることができなくなった。さらに中産階級の経済的破綻は、両親から子ど もの経済的将来の保護者としての役割を奪った。 下層中産階級の古い世代はますます怨みと憤りを感ずるようになったが、それは消極的なものであ った。それに反して、若い世代は行動に突き進んでいった。かれらの経済的地位は、かって両親がも っていたような、独立した経済的存在にたいする基礎が失われたので、いっそう悪化した。職業市場 は飽和状態になり、医者や弁護士として生計をたてる機会は庫かしかなかった。戦争で戦ったひとび とは現実に受けているよりも、より多くのものを要求する権利があると感じていた。とくに何年間も 命令することになれ、まったく自然に権力をふるうことになれていた多くの若い将校たちは、書記や 行商人になることをいさぎよしとしなかった。 増大する社会的不満は外部へ反射することになり、それは国家社会主義の重要な源泉となった。す なわち旧中産階級の経済的社会的運命を認識するかわりに、その成員は自己の運命を意識的に国家と

3. 自由からの逃走

性質の意味は、服従を希望しない人間にとっての意味とはまったくことなっている。権威主義的性格 にとっては、行動は、 それに打ちかちたいとは思っているがーーー根本的な無力感に根ざしている。 この意味における行動とは、自己よりも高いなにものかのために行動することを意味する。それは、 神、過去、自然、あるいは義務の名における行動でありえても、けっして未来の、まだ生まれないも のの、カのないものの、人生そのものの名における行動とはならない。権威主義的性格は、優越した 権力によりかかって、かれの行動力を獲得する。この権力は、攻撃もできず、変化させることもでき ない。かれにとっては、カがかけているということが、つねに罪や劣等感のまちがいのないしるしで ある。そして、もし信じている権威が弱点をあらわすと、かれの愛と尊敬とは、軽蔑と憎悪とにかわ る。かれは、他のより強い力に助けられていると感じないかぎり、現存の権力を攻撃できるような 「攻撃精神」はもっていない。 権威主義的性格のもっ勇気とは、本質的に、宿命やその人間的代表者や「指導者」などが決定した ことがらを、たえしのぶ勇気である。不平をいわずたえしのぶ勇気である。たえるということ、これ がかれの最高の美徳である。それは苦脳を終らせようとしたり、苦悩を減少させようとする勇気では ない。宿命を変えることではなく、それに服従することが、権威主義的性格の英雄主義である。 かれは権威が強く、命令的であるかぎり、それを信している。かれの信念は結局かれの疑惑に根ざ しており、その疑惑を補償しようとしている。しかし、もし信仰とは、現在潜在的に存在しているこ とがらが実現されるということの確信を意味するならば、かれは信仰をもっていない。権威主義的哲 190

4. 自由からの逃走

となった。人間は教会の支配を、そして絶対主義国家の支配をなげすてた。外的な支配を廃止するこ と、それだけで、個人の自由という宿望を獲得するために、必要であるばかりでなく、十分な条件で あるように思われた。 〈第一次〉世界大戦は最後の戦いであり、その結着は自由のための最終の勝利であると、多くのひ とびとは考えていた。現存のデモクラシーはみたところ強化され、また古い君主政治に新しいデモク ラシーがかわった。しかしわずか数年たつうちに、ひとびとが数世紀の戦いでかちえたと信じている 一切のものを否定するような、新しい組織が出現した。人間のすべての社会的個人的生活を、たくみ に支配するようになったこの新しい組織の本質は、ごく少数のひとびとは別として、すべてのひとび とが、自分で支配することのできない権威へ服従することであった。 最初のうちは、多くのひとは、権威主義的組織の勝利の原因は少数者の狂気にあり、それゆえかれ らの狂気は、やがて没落するにちがいないと考えて安心していた。また、なかにはおつにすまして、題 イタリア人やドイツ人たちはデモクラシ 1 の訓練にまだ十分な年月を経ていないので、かれらが西欧的 理 のデモクラシーという政治的な成熟にまで到達するのを待ちさえすれば、それで大丈夫だと信ずるも のもあった。またもう一つの一般的な幻想はーーおそらくこれがなによりも危険だったのであるが : ヒットラ 1 のような男たちは、ただ権謀術策だけで、国家の巨大な機構を支配する権力を獲得し自 たのであり、かれらやかれらにしたがうものたちは、ただカずくで支配しているのであり、またすべ てのひとびとは、ただあざむかれ、おびやかされたがために、意志のない存在になっているにすきな

5. 自由からの逃走

的気分にみたされ、それは農民一揆や都市の革命運動となってあらわれた。福音は、かって原始キリ スト教が奴隷や労働者のためにしたのと同じように、かれらの希望と期待とを表現した。そして貧し いものが自由と正義を求めるように導いた。ルッタ 1 は権威を攻撃し、福音の言葉をその教えの中心 とした。そしてそのかぎりでは、かっての福音主義的宗教運動と同じように、これらの反抗的な大衆 に訴えたのである。 ルッターはかれにたいする大衆の忠誠を受けいれ、かれらを支持したが、しかしそれには限度があ った。農民が教会の権威を攻撃するだけでなく、またかれらの運命の向上のために、小さな要求をす るだけでなく、それ以上にでしやばるようになると、かれはかれらと絶縁しなければならなかった。 かれらは革命的な階級へと発展し、あらゆる権威をくつがえし、中産階級が強い関心をもって維持し ようとした社会秩序の根底までも破壊するような脅威をあたえた。中産階級は、すでにのべたような 困難にもかかわらず、そのもっとも下層のものでさえも、貧困階級の要求にたいしては、守るべき特 権をもっていた。それゆえ、貴族や教会や独占の特権ばかりでなく、かれら中産階級自身の特権まで も破壊しようとする革命運動にたいしては、はげしい敵意をもっていた。 中産階級の位置は、非常に富裕な階級と非常に貧しい階級との中間にあるので、その反作用も複雑 で多くの点で矛盾したものである。かれらは法律と秩序とを維持しようとしたが、しかもかれら自身 は台頭する資本主義によって、はげしくおびやかされていた。中産階級のうちでもっとも成功したも のでさえも、少数の大資本家とくらべれば、富も力も物の数ではなかった。かれらは生きるために、

6. 自由からの逃走

が労働者階級のうちには存在しないということではない。しかしそれは下層中産階級に典型的なもの であって、労働者階級ではこの同じ性格構造を同じように明瞭に示したものは、ほんの少数であった。 しかし一、二の特性、たとえば権威とか節約へのはげしい尊敬などは、よりおだやかな形ではあったが、 労働者階級の大部分の成員のうちにもみることができた。他方、俸給生活者の多くのものーーおそら くは大多数・・・ーーは、独占資本主義の勃興に参加せず本質的にはそれによらておびやかされた「旧中産 階級」の性格構造よりも、むしろ筋肉労働者 ( とくに大工場における ) の性格構造に、よりいっそう ( 3 ) 類似していたように思われる。 下層中産階級の社会的性格は一九一四年の戦争前からずっと同一であったことはたしかであるが、 戦争後の諸事件によって、ナチのイデオロギーが強くうったえていったまさにその特性、すなわち服 従の追求と権力の渇望ということを強化したこともたしかである。 一九一八年のドイツ革命以前の時期に、すでに旧中産階級の下層や小規模な独立した実業家や職人 の経済的地位は傾きつつあった。しかしそれはまだ絶望的ではなく、それを安定させる多くの因子が理 、い の あった。 ム 君主政治の権威はゆるぎないものであって、それによりかかり、それと一体となることによって、ズ 下層中産階級の成員は安全感と自己満足的な誇りとを獲得していた。また宗教や伝統的な道徳の権威ナ がまだしつかりと根を張っていた。家族はなおゆり動かされず、敵対的な世界における安全な避難所 5 であった。個人は安定した社会的文化的組織に属し、そこで自分の明確な地位をもっていると感じて

7. 自由からの逃走

って困惑と不安が生まれた。しかしそれと同時に、意志と人間の努力の役割を強調する傾向も、ます ます強くなっていった。ルネッサンスの哲学や中世末期のカトリック教義は、自己の経済的地位によ って、カと独立の感情をもつようになった社会層の精神を反映したものと考えられよう。それにたい し、ルッタ 1 の神学は、教会の権威に反抗し、新しい有産階級に憤りを感じ、資本主義の勃興によっ て脅威にさらされ、無力感と個人の無意味感とに打ちひしがれた、中産階級の感情をあらわしていた。 ルッターの体系は、カトリック的伝統とことなるという意味で、二つの面をもっている。その一つ は、。フロテスタント国家でルッタ 1 の教義が解釈されるばあい、他の面よりいっそう強調されるもの である。それはルッタ 1 が宗教的問題で人間に独立性をあたえたことを指摘する。すなわちルッタ 1 が教会からその権威をうばって、それを個人にあたえたこと、またかれの信仰や救済観は、主観的個 人的な経験であって、そこでは、責任はすべて個人にあり、個人が自分で獲得できないものを個人に あたえてくれるような権威とは、少しも関係がないということを指摘する。もちろんルッターやカル ヴァンの教義におけるこのような面を賞賛することには十分理由がある。というのはそれらの教義は 近代社会における政治的精神的な自由が発展する一つの源泉であるから。とくにアングロ・サクソン 諸国では、この発展はピ = リタニズムの思想と密接に結びついているのである。 近代的自由のもう一つの面は、個人にもたらされた孤独と無力とである。そしてこの面も独立の面 と同じように、やはり。フロテスタンティズムをその源泉としている。本書は主として、重荷や危険と しての自由を問題とするのであるから、意識的に一面的な見方をして、ルッタ 1 やカルヴァンの教義

8. 自由からの逃走

個性の幻影 これまでのところで、私がしめそうと試みたのは、一般的には近代的産業組織における、特殊的に はとくにその独占的局面におけるさまざまの要因が、無力感や孤独感、不安や動揺を感ずるパ 1 スナ リティを発達させているということであった。私はドイツの特殊な条件を論じたが、それこそはドイ ツの人口の一部分のなかに、さきに私が権威主義的性格として述べた性格に訴えるような、イデオロ ギ 1 や政治的実践を豊かにそだてる土壌となったのである。 しかしわれわれ自身についてはどうであろうか。われわれ自身のデモクラシ 1 は、たんに大西洋の 彼方のファッシズムや、あるいはわれわれ自身の階級のなかの「第五列」によっておびやかされてい るだけであろうか。もしそうだとすれば、事情は重大ではあってもまだ危機とはいえまい。しかしフ アッシズムの脅威を国の内外を問わず真剣にとりあげても、もしわれわれが、われわれ自身の社会に おいても、個人の無意味と無力さという、どこででもファッシズム台頭の温床となるような現象に直 面していることをみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。 このような考えは、あらゆる外的な束縛から個人を解放することによって、近代デモクラシ 1 は真 の個人主義を完成したという通念と対立するものである。われわれはどのような外的権威にも従属し ていないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。そしてわれわれ 266

9. 自由からの逃走

よく抵抗するための前提である。歴史が進むにつれて、ルッタ 1 の教えはさらに遠くまで影響を及ぼ した。いちど個人が自分の誇りと尊厳との感情を失うと、かれはおのずから中世的思考の特徴であっ た感情を失うようになった。すなわち、人間と、その精神的な救済と、またその精神的な目的とが、 人生の目的であるという感情である。そしてかれは一つの役割をひきうけて、自分の生活を、自分の 外にある目的、たとえば経済的生産力とか資本の蓄積とかいう目的のための手段とするような準備を ととのえることになった。経済的問題に関するルッターの見解は、典型的に中世的であった。それは カルヴァンよりさらに中世的であった。かれは、人間の生活が経済的目的のための手段とならなけれ ばならないという思想を、嫌悪していたかもわからない。しかしかれの経済的問題に関する考えが伝 統的であったとしても、一方、個人の無価値を強調したのは対照的で、人間はただ世俗的な権威にし たがうばかりでなく、経済的成果という目的のためにもその生活を従属させなければならないという 方向へ、道を開いたのであった。この傾向はこんにちでは、ファッシストにおいて頂点に達した。か れらは人生の目的は「より高い」権力や指導者や、また民族共同体のために、犠牲になることである と強調している。 カルヴァンの神学は、アングロ・サクソン諸国にたいし、ちょうどルッタ 1 の神学がドイツにたい 、レッタ - すると同じような重要性をもっていたのであるが、本質的には、神学的にも心理学的にも と同じ精神を示している。カルヴァンもまた、教会の権威やその教義を、盲目的に受けいれることに 反対したが、宗教は、かれにとっては、人間の無力さに根ざすものであった。すなわち自我の否定と

10. 自由からの逃走

はこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保証するものであると考えている。しかし思想 を表現する権利は、われわれが自分の思想をもっことができるはあいにおいてだけ意味がある。外的 権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめ て、恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。あるいは少くともそれに近づ きつつあるだろうか。本書は人間的な要因をとり扱うのであるからこの問題を批判的に分析すること こそその仕事である。そうすることによって、われわれはこれまでの諸章に脱落していた糸を拾いあ げることができる。近代人にたいする自由の二面性を論じたとき、現代において、個人の孤独と無力 を増大させている経済的諸条件を指摘した。すなわちその心理的結果を論じて、この無力は権威主義 的性格にみられる一種の逃避を導くか、あるいは孤独となった個人が自動人形となり、自我を失い、 しかも同時に意識的には自分は自由であり、自分にのみ従属していると考えるような強迫的な画一性 に導くことを示した。 もちろんここではごくいちじるしい二、三の例をあげる余裕しかないけれども、われわれの文化が この画一性の傾向をどのように促進しているかを考察するのは大切なことである。自発的な感情の抑モ 圧、ひいては純粋な個性の発達の抑圧は、非常に早い時期に、じっさいには子どもの最初の訓練ととと もにはじまる。といっても、それは、教育の真の目標が子どもの内的な独立と個性、また成長と完全自 、訓練はどうしても自発性の抑圧を導くことになるというのではない。 性とを促進することであるのに このような教育によって、成長する子どもにおしつけられているように思われる束縛も、実際には成