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検索対象: 自由からの逃走
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1. 自由からの逃走

フロムはもっとも興味のある仮説を提出する。すなわち、歴史を動かす力ははたしてなにかという問 題である。フロムによれば、それは社会経済的条件、イデオロギ 1 、そして最後に社会的性格である。 この社会的性格 social character という概念を新しく提出したところに、本書の大きな魅力がある。 このことは、付録の「性格と社会過程」のなかにくわしいが、そのなかで三人の巨人的な思想家を引 用しているところに注意されたい。すなわち、マルクス、ウェ 1 およびフロイトである。 ( も っともマルクスについては、似而非マルクス主義の立場として引用しているが、しかしフロムのマル クスにたいする関心は、なみなみならぬものがある ) 。いうまでもなく、歴史を動かす最終的な、あ るいはとくに有力な要因として、社会経済的なものを考えたものはマルクスであり、イデオロギ 1 的 なものを考えたものはウェ 1 1 であり、人間の奥深い根源的な衝動 ( そこから。 ( ースナリティの概 念が、そして社会的性格の概念が生まれる ) を考えたものはフロイトであろう。フロムは、決定的に そのどれが最終的要因であると断定はしない。かれはもしそういいたければ、その三者のからみあい こそ歴史を決定すると主張したかったのであろう。しかしそのような主張はしばらく保留するとして も、フロムがとくに注意を喚起しようとしたのは、社会経済的要因とイデオロギ 1 とならんで、歴史 において演ずる社会的性格の役割であった。 従来マルクシズムにおいては、社会を構成する二つの要素は、上部構造と下部構造としてしめくく られていることは指摘するまでもない。それは社会経済的要因とイデオロギ 1 的要因ということもで きよう。ウェ 1 ハ 1 がマルクスと対決したのも、まさにこの二つの要因が、歴史のなかで働く力の比 3 引

2. 自由からの逃走

てつぎのような方法で作用する。すなわち、人間は外界の変化にたいして、自分自身を変化させるこ とによって対処し、そしてこれらの心理的要因が、こんどは逆に、経済的社会的な過程の形成を助長 する。経済的な力は有力なものであるが、心理的動機としてではなく、客観的な条件として理解され なければならない。心理的な力も有力なものであるが、歴史的に条件づけられたものとして理解され なければならない。さらに思想も有力なものではあるが、社会集団の成員の性格構造全体に根ざした ものとして理解されなければならない。しかし経済的、心理的、イデオロギ 1 的な諸力は、相互に依 存しあっているにもかかわらず、それぞれある独立性をもっている。このことは経済的な発展に関し てとくに真実である。それは、自然の生産力とか技術とか地理的要素とかいう客観的な要素に依存し、 それ自身の法則にしたがって生起していく。心理的な力についても、同じことがいえることをわれわ れは指摘した。すなわち、心理的な力は生活の外的条件によって形成されるのであるが、それはまた それ自身の力学をもっている。すなわちそれは、形はかえられるが、けっして根絶することはできな い、人間的欲求の表現である。イデオロギーの分野でも、論理的法則や歴史の経過のうちに獲得され た、伝統的な知識の有機体に根をおろした、それ自体の運動法則がみられる。 われわれは、この原理を、社会的性格という一一 = 〔葉でもう一度述べることができる。社会的性格は、 社会構造にたいして人間性がダイナミックに適応していく結果生まれる。社会的条件が変化すると社 会的性格が変化し、新しい欲求と願望が生まれる。これらの新しい欲求が新しい思想を生み、ひとび とにそれらの思想をうけいれやすいようにする。これらの新しい思想が、こんどは新しい社会的性格 326

3. 自由からの逃走

重であった。しかしこの二つの要因のほかに、第三の要因として、社会的性格が登場するのである。 このフロムの主張がはたしてどの程度有効的であるかどうかは、今後の課題にゆずるとしても、その芻 重さは決して簡単に否定できないであろう。たとえば戦後のわれわれの一つの問題は、新しく輸入さ れたイデオロギーに、日本人的な社会的性格が容易においついていけなかったところにあることを思 いだすだけで十分である。 こうしてフロムは、自由は決して心理学的な問題だけではなく、社会経済的、あるいはイデオロギ 1 的条件と十分に結びつけて、とりあっかわなければならないと考えているが、しかし本書のねらい はいうまでもなく自由の心理学的側面を分析することにある。そのくわしい分析をここでくりかえ す必要はないが、問題の重点は、ルネッサンスおよび宗教改革以来、人間を従来の束縛から解放して きた自由の原理と、人間に孤独感と無力感とをあたえる否定的な側面とが、からみあっていたことを 指摘するところにある。その結果人間は、自由の重荷にたえかねて、積極的にナチズムのような全体 主義イデオロギ 1 を希求することさえ、あえてするようになる。それゆえ自由が重荷となるようなと ころでは、それがデモクラシ 1 社会においてであっても、ナチズムやファッシズムの心理的な温床は 存在するのである。 この中心的なテ 1 マとならんで、本書にはいたるところに興味深い、あるいは注意を必要とする主 張がふくまれている。たとえば、ルッタ 1 やカルヴァンの教義を、権威主義的な性格とむすびつくも のと解釈して、そのなかに人間の自由や平等にたいする否定的な要素を指摘しているところなどは、

4. 自由からの逃走

達することのできなかったカである。こういったカやそのほかのさまざまな力がなかったならば、近 代的な商工業組織の社会的経済的な要求にしたがって行動しようとする原動力は、あらわれなかった であろう。 こうして、本書で提出した立場は、フロイトの考えとはちがっている。フロイトは歴史というもの を、社会的には規定されない心理的な要素の結果であると説明したが、われわれはそれに強く反対す る。また社会過程における動的な要素の一つである人間的な要素の役割を無視するような理論にも、 強く反対する。このような批判は、社会学から心理学的問題を、はっきりと排除しようとする社会学 的理論 ( デュルケムおよびデュルケム学派 ) にたいしてだけむけられるのではなく、多少とも行動主 義心理学の色彩を帯びた理論にもむけられる。これらの理論は、みな一様に、人間の性質にはそれ自 身の動的な運動は存在せず、心理的な変化は、新しい文化様式に適応するための新しい「習慣」の発 ? 達という一一 = ロ葉で理解されなければならないと仮定している。これらの理論は、心理的要素をとりあげ題 てはいるが、同時にそれを文化様式のかげに引きいれてしまう。ただ動的な心理学ーー・その根底はフ的 理 ロイトが築いたものであるがーーだけが、口先だけでなく、人間的要素に重点をおくことができる。 固定した人間性というものはないとしても、われわれは人間性を無限に可塑的なものと考えたり、み一 ずからの動的な心理的運動を発展させることなしに、どのような外的条件にも適応できるものとみた自 りすることはできない。人間性は歴史的進化の所産ではあるが、ある種の固有なメカニズムと法則と 2 をもっている。そしてそれを発見するのが心理学の課題である。

5. 自由からの逃走

競争に勝利をえたことから直接に生まれた。他人から尊敬されたり、他人を支配したりすることは、 財産があたえた支えをさらに強化し、不安な自我の後楯となった。 財産や社会的名声をほとんどもたない人間にとっては、家族が個人的威光をあたえる源であった。 そこでは個人は「なんらかのもの」と感ずることができた。かれは妻や子供をしたがえ、舞台の中心 となることができた。そして単純にも自分の役割を自然の権利と考えていた。かれは社会的世界では 無に等しいが、家庭では国王であった。家族のほかに、国家的な誇り ( ョ 1 ロツ。ハではしばしば階級 的誇り ) がまた重要な意味をあたえた。個人的には無に等しくても、自分の属している集団が、同じ ような他の集団よりも優れていると感ずることができれば、それを誇ることができた。 弱体化した自我をささえるこのような要素は、本章の最初で述べた諸要素、すなわち現実の経済的 政治的自由や、個人的創意にたいする機会や、合理的啓発の増大というようなものとは区別されなけ ればならない。これらの要素はじっさいに自我を強め、個性や独立性や合理性を発展させる。それに 反し、支えとしての要素はたんに不安や懸念を埋めあわせることを助けたにすぎない。それらは不安 や懸念を根絶させたのではなく、それらをおおったのである。そうして個人が意識的に安定を感ずる ようにしむけたのである。しかしこの意識的な安定感は表面的なもので、支えが存在するかぎり、持 続するものにすぎなかった。 宗教改革から現代までの、ヨ 1 ロツ。ハおよびアメリカの歴史をくわしく分析してみると、「 : : : か らの自由から、 : への自由へ」という進化のなかに、このような二つの矛盾した傾向が平行してい 138

6. 自由からの逃走

性に応じて行動することは、経済的必要という見地からも、実際に利益があった。またそれは心理的 な満足もあたえた。というのはこのような行為は、この新しいパ 1 スナリティの欲求と不安とに応え るものであったから。この原則をもっと一般的な言葉でいえば次のようになろう。社会過程は、個人 の生活様式を決定することによって、すなわち他人や仕事にたいする関係を決定することによって、 個人の性格構造を形成する。新しいイデオロギ 1 はーー宗教的なものであれ、哲学的なものであれ、 あるいはまた政治的なものであれーーーこの変化した性格構造から結果するのであり、またそれに訴え るものである。このようにして、それは新しい性格構造を強化し、充足し、固定化していく。新しく 形成された性格特性は、こんどは逆に経済的発展を促進させる重要な要素となり、社会過程に影響を 及ぼしていく。新しい性格特性はもともとは新しい経済力の脅威にたいする反作用として発達したも のであるが、やがて徐々に新しい経済的発展を促進強化する生産的な力となっていくのである。 第三章注 ( 1 ) 「資本主義社会」にたいして「中世社会」とか「中世の精神」とかいうとき、それは理念型としていっ ている。現実にはもちろん中世が突然ある一点で終り、近代社会がもう一つの点ではじまるというような ことはない。近代社会の特徴となっているすべての経済的社会的な力は、すでに十一一、十三、十四世紀の 中世社会のうちに発達していた。中世後期には資本の役割が増大しつつあったし、都市における社会階級 間の反目もつのっていった。歴史において常にそうであるように、新しい社会体制のすべての要素は、そ の新しい社会体制がとってかわる古い社会体制のうちにすでに発達していた。しかし、近代的要素が中世 110

7. 自由からの逃走

しかしここ数十年間における資本主義の独占的傾向の増大は、人間的自由にたいする二つの傾向の 比重を、変えてしまったように思われる。個人的自我を弱めようとする要素が強くなり、個人を強め る要素が比較的弱くなった。個人の無力感や孤独感が増大し、あらゆる伝統的な束縛からの「自由」 がいっそう強く叫ばれるようになり、個人の経済的成果にたいする可能性はせばめられている。かれ は巨大な力におびやかされている。これらのことは、ちょうど十五世紀、十六世紀の状況と多くの点 でにているのである。 このような発展の重要な要素は独占資本の力が増大したことである。われわれの経済組織の一部に 資本が集中するということ ( 富の集中ではない ) は、個人の創意や勇気や知識にたいして、成功の機 会を封じてしまうことであった。独占資本が勝利をえた部門では、多くの人間の経済的独立が破壊さ れた。戦う人間、とくに中産階級の大部分のものにとっては、戦いは人間の創意や勇気にたいする信 頼感が、無力感や頼りなさにおきかえられる不条理への戦いという性格をおびてきた。社会全体を支 配するかくれた巨大な力は、少数のグル 1 プによって行使される。そして、その決定に社会の大部分 の運命はかかっている。一九二三年のドイツのインフレーションや一九二九年のアメリカの恐慌は、 不安の感情を増大し、自分の努力で前進していく希望や、成功の無限の可能性を信ずる伝統的な信念 をこなみじんにしたのである。 小規模なあるいは中程度の実業家は、優越した資本の圧倒的な力によって、本質的にはおびやかさ れているとしても、ときには利潤を獲得し、その独立を維持していくこともできたであろう。しかし

8. 自由からの逃走

以上に、また愛するもののために自己をすててしまうこと以上に、「愛」のあかしとなるものはない と考えられている。実際には、それらのばあい、「愛」とは本質的にはマゾヒズム的な思慕であり、 その人間の共棲的要求に根ざしている。もし愛とは、ある特定の人物の本質にたいする、熱情的な肯 定であり、積極的な交渉を意味するのであれば、またもし愛とは当事者二人の独立と統一性とにもと づいた人間同士の結合を意味するのであれば、マゾヒズムと愛とは対立するものである。愛は平等と 自由に基礎づけられる。もしそれが、一方の側の服従と統一性の喪失とにもとづいているのならば、 いかにその関係を合理化しようと、それはマゾヒズム的な依存にほかならない。サディズムもまたし ばしば愛のよそおいのもとにあらわれる。もし当人のために支配するのだと主張されるならば、ひと を支配することも愛の表現とみえよう。しかし本質的要素は支配の享楽にほかならない。 ここで一つの疑問が読者の胸にうかぶかもわからない。ここでのべられたようなサディズムは、権 力への追求と同一のものではあるまいかと。答は次の通りである。すなわち他人を傷つけ、苦しめよ うとする、いっそう破壊的な形のサディズムは、カへの願望と同一のものではないが、逆に力への願ズ カ 望はサディズムのもっとも重要な表現であると。この問題はこんにちさらに重要になっている。ホッ メ プス以来、ひとは力を人間行動の根本的動機とみてきていた。しかし次の数世紀は、力をおさえようの 避 とする合法的かっ道徳的な要因にいっそう重点をおくようになった。ファッシズムがおこってくると、逃 力への欲望やその権力にたいする信念が新しく高まった。数百万のひとびとがカの勝利に印象づけら れ、これを強さのしるしと考えた。たしかに人を支配できる力は、純粋に物質的な意味では、よりす

9. 自由からの逃走

本書を通じて、われわれは、宗教改革の時代や現代などのある歴史的な時期を分析することによっ て、社会経済的、心理的及びイデオロギー的諸要因の相互関係を取扱ってきた。このような分析の理 論的問題に興味をもっ読者のために、私はこの付録で、その具体的な分析の基礎となる一般的な理論 的根拠を簡単に論じてみよう。 ある社会的集団の心理的反応を研究するとき、われわれはその集団の成員、すなわち個々の人間の 性格構造をとりあっかっているのである。しかしわれわれが興味をもつのは、これらの人間がたがい にことなっているその特殊性ではなく、その集団の大部分の成員の性格構造に共通する面である。こ のような性格は社会的性格と呼ぶことができよう。社会的性格は、それゆえ必然的に、個人的性格よ りも一般的である。個人的性格を述べるばあいには、個々の人間のパ 1 スナリティ構造を独特なもの としているすべての特性をとりあっかうことになる。社会的性格は個人のもっている特性のうちから、 あるものを抜きだしたもので、一つの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であ り、その集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したものである。もちろんまったくことなっ た性格構造をもつ「例外」は常に存在するであろうが、その集団の大部分の成員の性格構造は、この 中核の変化したもので、この変化は個々の人間のそれぞれことなった出生条件や生活経験の偶然的要 素の結果にすぎない。もしひとりの個人を徹底的に理解しようと思うならば、これらの個人の分化し た要素がもっとも重要なものとなる。しかしある一定の社会的状態において、人間のエネルギ 1 が一 306

10. 自由からの逃走

といったような生命のない蔭でもない。人間性は人間進歩の産物である。しかしそれはまた、固有の メカニズムと法則とをもっている。人間性のなかには、固定した変化しない要素がある。それは生理 学的に規定された衝動を是が非でもみたそうとしたり、孤立や精神的な孤独を極力さけようとするも のである。われわれは、個人は一定の社会に特有な生産と分配の組織にもとづく、一定の生活様式を 受けいれなければならないことを知った。文化への動的な適応過程において、個人の行動と感情とを つき動かす数多くの強力な衝動が発達する。これらの衝動を、個人は意識するときもしないときもあ る。しかしどのようなはあいにもその衝動は強力であり、ひとたびそれができあがれば、その満足を 要求する。それらはこんどは逆に社会過程を形成していくうえに、強力な影響力となる。経済的、む 理的、イデオロギ 1 的要素が、どのように働きあっているか、またこの交互作用について、一般的な 結論がどの程度まで導きだせるかという問題は、のちに宗教改革とファッシズムを分析するばあいに ? ( 8 ) 論議されるであろう。その論議はつねに本書の主要テーマをめぐる中心点となるであろう。すなわち題 他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてま的 たかれがますます「個人」となれはなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のな かで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の ( 9 ) 安定感を求めるか、どちらかだということである。