つらぬ 刊ら着ようにいたるまで一々明白した意思を表示し、かっこれを貫かんとすれば、たいていの したてや こわ 仕立屋または細君は必す手に余すであろう。三度食う飯さえも強い柔かいがある。この浮世 を渡るに飯の炊きようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の 二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。 僕の信するところでは、世の中のことは判然たる意志をもっ必要のないことが多い。換言 どじよう たくあん すればどちらでもよいことが多い。物を食うにもでも鰌でもよい、沢庵でも菜葉でもよ みそしる く、また味噌汁の実にしても芋でも大根でもよい。たた特別なる場合、たとえは来客とか病 すいこう 気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂行するも必要だが、たいていの場合に はどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接す とんしやく ることを一々数えたてれは、自分が頓着しなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には 非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと無 とんしやく あまた 頓着というは語弊もあるが、自分から関係せす、関係深い人に譲りて差支えないことが数多 ある。ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という所以である。 譲られぬところはあくまで固守せよ 譲って世を渡れとは説くものの、事によりては一歩も抂げられぬこともある。しかしてま たかく大切な事柄については一歩だも決して抂ぐべきことでないと思う。僕はどこまでも抂 はっきり なつば らいきやく
物を評するにも、その時の感情を挿はさんで、彼に関することならば、なにごとも曲解する 傾きがあった。してこの曲解に対して、わが輩が一々弁護したところが、最後の反対論とし て、 しりうだんし 「だってもリンカーンという人は非常な醜男子でしたもの」 と、あたかも彼の容貎の醜なりしことが、最大の罪悪でありしがごとく述べた。 これほど明らかにロに出さなくとも、これに負けないほどの不合理な理由から、人の批評 あまた 想をしたり、歴史の事実を判断するものは許多ある。なかんすく無学な者か、あるいは少し あやま 田 ばかりの学問があってもことさら婦人の仲間に多いと思う。婦人が往々にして身を誤っなど き せき ひつぼう し は、これと同じ筆法より、人を判断するからである。あるいは一席の歌を聴いて、その声が 正 と ついに蓄 善ければその音声のために感情を動かされて、他のことにはなにも眼をくれない、 情 おん ようす ひとくち 感音器の代用たるべき者のために身を誤ったりする。一口にいういわゆる「様子がいい」人、 潔すなわち木偶同然の者のために身を誤るのはすなわちこれである。 章また相応なる位置にある立派な人でも、かたわらにいる者のために、おべんちゃらをもっ おついしよう 十て、あるいは御追従をもって、その感情をやわらげられて、判断力を失うことは歴史にたく 第さんある。一身を誤る理由の多くあるうちにも感情ほど大なる力はおそらく少なかろう。 学者の説によれは人類の進歩は思想において発達するとともに、感情はいよいよくなる という。ことごとくこの議論には敬服はせられぬけれども、議論にあらすして実際において、
とろ なんしゅうおう 我が南洲翁〔一八二七ー七七〕もややおなじ境遇にあるの時、同じ意志を吐露した。翁が 田原坂の戦いのころ、た山〔良・鹿児島〕県令に寄せた書翰に印く、 そうろう こうせつ せひきよくちよく 「もはや時勢も止に至り候てはさらに言語ロ舌をもって是非曲直を争いければ、腕カ あいはんそうろうわナ のほかこれなかるべし。しかし天下の事は成敗利全をもって相判じ候訳 ( ー こはこれなく、小 なおう そうろう 生は正をもって起こり、正をもって斃るること始めよりの目的に候。ワシントン、那波翁 〔ナポレオン〕云々は中々小生の事にあらす、万一不柤既れを原野に曝し藤原広嗣 ひんびよう あしかがたかうじ 〔 ? ー七四〇〕等とその品評を同じゅうするも足利尊氏〔一三〇五ー五八〕と成るを望まざ るなり」 まっと 義務を完うするところに成功あり この思想はただ戦のみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほ ど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に 達せんがためには、 いかなる方法も用いようし、また失敗を免れるためには、 ) 、 し力なる事を も庫らない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞ めい とうと やと聞くと、多くは名利である。この成功あるいは具体的に言えば名利を貴ぶの結果として、 人格を測るにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、 「あの人は近ごろたいそう成功しました」 ら まぬか
しゅんさ たわらに巡査がいるでなし、しかもポストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかっ マサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、 強一ようゆう を一やくしよう 容昜に逆上せぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も享有すべきものと思った。 前ニ例より帰納する感情の危険 もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒ぎもなく、政治上の腐敗もな く、自治の精神が完全無欠に発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会におい ても、拳骨の撲り合いが会場の戸口で二、三度あったというし、またボストンの公園地にお ける会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高 じて来て、財羅に終ったかも知れない。あらゆる黽の多い米国のことであるから、数 む 警百の人の集まったときには随分不体裁はあり得ることである。して不体裁なことのみをなら 上べ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他 山の礫を捕え来たって、自国の璞玉に比してみすから快とするの愚なることを信ずるから、 章 みが 五常に他山の石を藉りて自分の玉を磨くの用に供したいと思う。 第そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞とともに顧み き、一う たいことは、一時の激昻に駆られて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情 を交えることは危険である。むろん感情と一口に言っても高尚な感情もあるが、言うまでも れき レ一ら ていさい さわ / てっぽう
いの 4 つおと 知遇のためには命を堕すとか、その他数多くの catchword 〔キャッチワード〕のためにその 用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならす、一身の上についても、実 に詰まらぬことに逆上する傾向が多いことを目撃もし、また恥すかしながら自分が経験した ことがたくさんある。 きんまんか たとえば永く浪人しておった人が、仕官の途につき久しぶりでを手にすると、金満家に なったような気がして、一月分の月給で友人を招いて一晩に飲んでしまう。来月分も来々月 ついしよう 分も飲んでしまって、招待したお客の追従言葉を聞いてますます得意になって、しはらくた つうちにかえって一身およびその位置に対して不名誉を来たしてしまうことは、わが輩知人 のうちにも折々見た。あるいは会社員であると社長さんから大いに信頼のお言葉を頂戴する おれ あっ か、役人であれば上官から重大な秘密を洩らされでもすると、俺より信用厚き者はないよう む レ一うりよう 警な気がして、すぐにその態度が変わり昨日まで同僚交際であった者を急に見下したり、に ごうまんそんだい 上わかに傲慢尊大になる場合も僕はしはしば見た。あるいは学問をしている者でも、は じめのうちは遜に、あれも知らぬ、これも知らぬと思いつつ、研究三にない時は最 章 さす 五も尊敬すべきときであるが、あの学位を得たとか、その学位を授けられたとかいうと、自分 第かいかにも偉い者にでもなったように、人の前でも何もかにも物知り顔をしておるさまは、 しても見苦しいものであるし、かっ近づく者にも、学問とはこんなな見気のするもの 四かと思わしむる場合もしばしばある。 一の - っ か ちょうだい
298 ほ、つとうむすこ 一、幼少のときにある放蕩息子が身をあやまって、自分のみならす大勢の人に迷惑やら心 配をかけたのをみて、婦人関係は深くルしむべしと決心した。年経たる今日において、 はたしてこの思想どおり身を処しておるか。 いかなる誘惑があるとも、 一、賭博のよろしくないことはつくづく親の話によって承知し、 へ 賭博などには手を出すまいぞという思想を抱いた。 年経た今日において、はたして幼少 うんぬん の思想にかなう行いをするか云々。 というように、問題を掲けていちいち実際と、思想というか理想というか、かっておのれ の心の、向上したときに抱いた考えと引きくらべてみると、年経るにしたがって、むしろ堕 落したことを発見する者が多くなかろうか。読者のなかには、僕のいうことがはなはだ子供 らしい、迂遠なことだ、世渡りの道を知らぬとなじる人もあろう。僕も甘んじていわゆる世 渡りの道に疎きことを自信する。僕の世渡りの道と考えることは、低い標準の上に立って行 くよりも、高い程度の所にぶら下がってゆくことにしたいと日ごろ念じている。 主義を抱ける者の世渡りの覚悟 くわだ 一種の思想をもって世渡りを企てる者は、同じ思想を抱いている人のうちにはもっともよ く受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あ いんしよう るいはなんの思想をも抱かすに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ印象を与え カカ
243 第十九章言葉の心 こともできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でな おとしい く、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たつぶりの文句や人を陥れる 言い振りや、人に無礼する語を用いることははなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生 きんしん まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゅえ、一層このことを感じ、また世には僕みた ような人もあるだろうと思 . い、所感の一端を述べたのである。 いやみ
らすというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取引あるいは政治の党派論のごときはもっ ともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者 / 一うしんしんしん しんしん おうようめい も道心と人心と区別して説いたそうである。道心は人心のその正を得たる心と王陽明は説い しんよく たが、正を得るとは、人欲のまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところである と田 5 、つ きやっかんてき すなわち客観的に冷静にものの理を求むる心である。これに反し、人心とは道心のその正 がでんいんすい を失ったところで、我田引水的に勝手しだいの理屈を案する心理動作で、自己の感情により て万事を判断する心である。自己の希望がものの理と符合すれはよいが、なかなかそう甘く ゆくことが少ないから、結局感情に駆られて為すことは、理に背くこととなりやすい さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注 しんしん一一うげき ひきよう 意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、人身攻撃のごとき、あるいは卑法なる おらい しんびん 言葉に陥って、自己が弁護せんとする議題をもかえって損われ、加うるにおのれの人品まで おうおう 下劣にすることは往々にして見ることである。理屈において負けたならば、一本参ったと綺 レ一ろ 麗に敗ければ男らしくもあり、かえって自分の主張に泥をつけないものとなるに、おのれの 議論が弱いときには、その弁護に感情を含まして、みすばらしい論法など振りまわす。よし 皮肉をもって一時勝利を得るにしても、その実は敵に敗けたものである。 あっこうぞうごん ことを論するにあたり、悪口雑言をはさむのは、理は尽きて、自己の主張の論拠のなきを 0 せい ) てこな
こともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗の理由は薄弱なりとしても、自分の 受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵 の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々しく弁解する労を取るだ しかのみならす けの価値がない。加之時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にか けることはない ことに自分をよく知らぬものが、壱批評することは、当を得ないことが 多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。 きゅうきようおち、 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境に陥衣服にも窮している、ど きゅうきようおちい うか助力を乞いたいと訴えたが、彼がその窮境に陥ったことの説明として世間はすべて自分 を誤解したといったから、僕は彼の談を遮り、世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しな 度 態ければよいではないか。 す世間とは君を知らぬ人の講いである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意 に介するに及はぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、 あい 譏三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛 章憎の念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を 第何とも思わぬといった。 はなしさえぎ
168 婦人子供のみならす、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性 きたうれ の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来す憂いはない。ゆえに一 般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経たり、あるいは若い者でも おちい 少し思慮を深く用うる者であれば、この過ちに陥ることは少ない。必すしも、世間通りに従 だくだく ・小うちょう う理由はない もしなにもかも唯々諾々と、世の風潮によるならば、進歩することはなくな おしうつ る。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷るのが、自分のためかっ世間のためで あんねい あろう。すなわち社会の安寧はそれで持って行く。 世の中の人に心を合せけん水と魚とを見るにつけても しかるに何事についても消極的に世に処すれば、どれほど広き世間もただただ狭苦しくな るのみで、 しやくすん 世の中が四尺五寸になりにけり五尺のからた置き所なし と嘆くにいたるであろう。 好き嫌いで人を判断する過誤 きら さしみ 刺身の嫌いな者は医師よりいかに刺身の消化よきこと、滋養分の多きことを説かれても、 何とかけちをつけて毒でもあるかのごとくけなす。これに反し酒の好きな者は医師がいかに ちょう その害を説くも、百薬の長なりと頑張って聴かぬものが多い。心の好き嫌いと物の善悪を混 さしみ あやま しようぶん せまくる