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検索対象: 自警録 心のもちかた
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1. 自警録 心のもちかた

炻実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられ る。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲ま おう さい ) 」うたかもり なくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁 おう の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳が あった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づい おう ても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがた めである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。 すわ 理想があれば手なり足なりに現れる。かの子に坐らなければ理想が行われぬというは、 下手な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、 っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるな ら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもては、理想の実現せられぬところは どろまう ない。泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちて ぬす いると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盜む気はなくと も欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。 聖書に「人を憎むは人を殺すなり」〔ヨハネ三の一五〕という意味が書いてある。人を憎む のは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴は嫌な奴だ、早く死ねばよいという からだ ここち きやっ

2. 自警録 心のもちかた

か、こんにち日々の新聞に見ることを考えれは、今後五年こは ) ゝ ( ( し力なる新熟字、新思想が世 そうぞう ふつかっ に行わるるかは想像出来ぬ。よし新熟語が必すしも新思想を表さなくとも、旧思想が復活す ることであるとするも、一たび死んだ思想が再び蘇生し来たりて人心を動かすのであること ( 日らかである 勝敗は長年月を経て始めて決定す 僕はつねに失望する人を慰めんとするとき、あるいは自ら失望し落せんとするとき、み すから励まして、「マア十年待て」といっている。ついこの間もしばらく会わなかった友人が 来訪し、こ、つい、つことをいった。 「僕の友人で一時世にもて囃され、名望一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜ん だとき、なるほど僕を褒める声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達 したのであろう。二、 三カ月経てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には黽者のごと ひひょう き批評を受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサ しゅんかんき イクル ( 循環期 ) は十年は出ない。 七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五カ年にな るが、彼のいったごとき傾向が現れんとしつつある」 しんしよう と。これは尋常の人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非 常の人物であるならば、彼に対する誤解も五年七年では済むまい。あるいは百年二百年もっ 0 はや

3. 自警録 心のもちかた

302 第二十六章理想の実現は何処 大車の前に垂れ下げた肉片 僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、ま けんしゃ やまとへん た日本でも大和辺あるいは東京でもときどき見る大車というものがある。すなわち大に曳か せて荷を運ぶ小さな車である。これは大の使用法として理想に適したものとは思われぬ。大 はうぼう けんこっ というものはその肩骨の構造から考えても、車を曳くようにできておらぬが、とにかく方々 で行われている。 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、大にかせて用を達している。しかるに大が たた このときに肉でも与えると動き 空腹になるとなかなか動かぬ。擲っても叩いても動かない だす。そこで悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の 上から大の鼻さきへぶらさげる。大はこれを食おうと思いワンといって動きだす。いくら動 くら進んでも いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、い 肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかと いう考えをもっている。

4. 自警録 心のもちかた

勝手次第に意味をとる。ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方に よってははなはだもっともでない実行に現れることが間々ある。たとい商亠冗人でも役人でも、 しんしんこ、つげき 書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。はなはだしきは人身攻撃をする ゅうしようれつばい 者もある。して彼らの理由を訊せば、人間が世の中にいる以上は、優勝劣敗の原則にしたが い競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、 学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をす たお : : しかなる手段方法をも用いる、嘘をついてもかまわぬというは、優勝劣敗 る。敵を殪すこは ) 処あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。 何 僕はたびたび耳にすることであるが学校で試験のとき、狡猾をやる学生がある。それを呼 現 び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。試験に不正を行ったのは一つの理想より出た 実 S ことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこう 理こうだとあわれげな話をする。してみると君が試験に狡猾をしたのは、親孝行のためにした 章というのか、「そうでござります」という。こういうことは間々ある。 あやま くちぐせ 十愛国忠君などということを口癖にいう人にはこれが実行の翻訳を誤る人が多い。愛国だと 第 いってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人 がある。 こくすいしりぎ 明治二十年ごろ、国粋主義のさかんなとき、途中で外国人の婦人に唾を吐きかけた学生が かって

5. 自警録 心のもちかた

かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念す るならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるも のではない。国家も社会もイニシアチプがあるものではない。人あって初めて問題も起こり 改良も行われるのである。 ) 一うしゃ 我々も、よし富豪者にあらすとも、また一方、労働者にあらすとも、お互い所有する財産 一んしよう あるいは戸彳がいかに僅少であっても、その用法については大いに思慮を要することで、金 いさィ一 ろぼう を路傍の土芥のごとくみなすのはいかにも欲がなく潔よく聞こえるが、また丁寧に考えると 小ところ おの 金は決して己れの物ではない。社会共有のもので、自分の懐に入っている間とても、なお あすか 一時社会から預ったようなものである。いわば依託金のごときものであるからして、これを ろうひ レ一カい 無意味に浪費しすなわち土芥同然に取り扱うことははなはだ屋しからんこととも言える。あ 神 どかいし レ一物 精えて言葉咎めをするの意ではないが、金を土芥視するのも宝珠視するのも、要は人として金 貴に対していかなる態度を保つかにあるから、物件所有者の精神いかんを明らかにして、初め 富 あんねい て決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧進 おまっか しようけんこうたーこうおんうた 六歩は覚束ない。昭憲皇太、后の御歌に、 第 持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり たノ、一′ル

6. 自警録 心のもちかた

ひんこうはうせい あるいは道徳を語る人でも同じことである。あの人は品行方正の人だとか、まことに正し しようしん がお い曲った事のない人だとか言われると、すぐさま君子顔になって、他人を見るに小人をもっ てして、世ことごとくれり我独り澄めり底の考えに逆上する。かく言う僕も他人より賛辞 を受けたことはないが、上に挙けた例の一部にあたっているかも知れないと思えば、この辺 が筆を止めるところであろうか。僕にしてかくのごとき弱点はさらにないという自信がさら のばせ に鞏ければ、もっと大胆に論じたいが、自分で顧みて折々は逆上そうになったこともあった。 終りに述べる僕の実験談は普通に言う逆上るのとは違うけれども、その性質においては同じ であるし、かっ僕に取っては逆上の訓戒としてしばしば記慮にのばる経験であるから、恥を 晒してここに述べよう。 一円の小遣いを一円の財布に投じた経験 僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の土 こづかいせん 産として大様金一円貰ったことがある。そのころ僕の小遣銭は一週間に二十銭と定まってい たからして、一円紙幣を手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の たいきん 頭に第一に浮かんだ問題は、この大金を沁るべき相当な財布を得ることであった。ただちに ふくろものや 袋物屋に走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、 ただ それを取ることに定めて、値を糺すと一円ということであった。すなわち懐中に持参の一 かた かえり 力いちゅう みや

7. 自警録 心のもちかた

米国で僕の深く印象された米人の理想 過般渡米の日、数多の著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々 に直接あって、その人物に触れ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心 に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。 おうごんすうよ、 あだな おちい しやしせいたくへいカ、 いわゆる黄金崇搨物質的の米国などと綽名されてあるこの国民が奢侈贅沢の弊害に陥る傾 かんげん とみ 向が割合いに少ない。換言すれば一方には巨万の富を積みながらこれに安んじないで、なん きまえ なりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気前と精力は、この国民の大いに 買ってやるべき気象である。 ど、つはう ふうき ゅ・つ - わノ、 びんぼう びんーうにん わが同胞はだいたいにおいて貧乏であるから、富貴の誘惑なるものを知らない。貧乏人が 金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心 ゅうわく 理的作用もその誘惑もよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人 は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に較ぶれば、米国人は確かに日本 人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。 最も貴ぶべき青年時代の理想 ほろ 世界を動かすものは思想である。暴力で一時国を建てることもできるし、国を亡ばすこと もできる。産業で国を建てることもできるし、産業で国が廃頽することもある。学芸によっ きしよう あまた

8. 自警録 心のもちかた

120 - 一うとく はたあ 多数に擁せられ新政厚徳の旗を揚ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも あた 分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し能わぬ。 ーうせきがく なすのよいち びわうた また某碩学がかって那須与一〔十二世紀〕の琵琶歌を聞き、さめざめと泣き出したとき、 かたわら 傍の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞 ふよまた り、矢を放った時、敵も味方もをたたいて賞賛したこの勲を聞き、泣くとはその意を 得ぬと詰ったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉 は顧みぬとしても、全源氏軍の名誉をただ一身に荷って弓を引いたときの心はいかであった しようたん ろう。命中したればこそ敵も味方も賞歎したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心 の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪えぬと。実に見る人が しよしん 見れは、何人の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信、自己の意志を 貫徹することの容易ならぬことが察せらる。 善事の背後にも敵がある よいち おうぎねら なすの ついでに加えて述べたきことは、与一〔那須〕の場合にも彼が扇を覗うあいだには、必す へいけがた 彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは平家方のみでなかったであろう。ま た奥州より出て来たあの明士が、御大将の眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果 ほうもの ぎりよう そこな 報者だと羨んだものもあったろう。また彼の技倆を疑える者は、彼が遣り損えばよい、自分 うらや だれ

9. 自警録 心のもちかた

さす 話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位階を授けらるるとか、 しよくん あるいは叙勲せらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラー〔 Schiller 1759 ー 1805 〕 のいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその実を選ぶ者とは別種の者に数えるが至当で あろう。花も採り実も取る者はついに物も根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安も危 くするものであろうと思う。 今日いすれの国においても財産の安固を保障しない法律はない。法律にそむかぬ以上は如 かさ とみちくせきせんゅう 何なる方法によって、如何なる額に嵩まるとも富を蓄積占有することを許すがために、富む 者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。 この富む者はややもすれ は己れの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、ど この法典を見ても財産の権利は明らかに載っている。かっ偉大なものである。 神 精しかるに財産の義務なるものは、わすかにその負掫する税額ぐらいに止まって、その額も 貴重い重いと言いながら権利に較ぶれば、案外に軽いものと思われる。ことに法文の読みよう 宀〕田 すいぶん こうしつ によっては、義務を忌避する道も随分ある。ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる口実をもっ 六て財産の義務をことごとく負掫しないものがある。現に我々が仮りに所得税の負担額を較べ 第て見ればただちに判るであろうが、わすか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の だいしん あまた ・うまう一マつかく 何々大臣、あるいは何々爵にして市内市外に許多の高甍宏閣を構えている人よりも以上の租 たす たいしんちそ 囲税を払っている例すらある。そんなら、彼ら大尽は地租の目の下に多額の負担ありやと尋ぬ おの しやく もと

10. 自警録 心のもちかた

こうかっ 広闊なる、読む者をして知らす知らす神よりも悪魔を尊敬する念を起こさしむる。ゆえに英 文学を論ずるものは、『失楽園』を批評するにあたり、ミルトン〔 J. Mil ton 〕の神をけなし、ミ あが またこの悪魔の姿は実に堂々たる風飛で、吾人の崇拝に ルトンの悪魔を崇めぬものはない あたい 値するように写してある。ことに彼が天帝に反かんとする豪胆のこと、また大敗を受けても 再び事を挙げんとする勇気のごときは、読者をしていよいよに尊敬を払わしめる。 しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張る ことの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考 かえる からだ えを起こした後は、固有の偉大なる身驅があるいは蛙となり、あるいは鳥となり、あるいは へび 蛇となり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるご とに一歩すつ小さくなり、堕落する順序が現れている。 正僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の堕落の階段が秩序的に現れているがごと のく感する。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見 気 る。 怖 せんぜん しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと蓄されているものが、漸々に働く 章 おな ことを称すると同じく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種子が含ま 第 まんえん れているある一種の病原が存し、この種子が年とともに蔓延するものである。ミルトンの悪魔 もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からす受けていたが、一たび野心という病いの たね