「あら、あの子どもたち裸足よ。かわいそうね」 という言葉です。インド人は、その一言葉にものすごく傷ついています。日本の旅行者の ガイドをやっていて、親しくしているインド人の友人がいるのですが、 「もう、日本人のガイドは嫌だ。日本人が大好きなので、大学で日本語を専攻してガイド になったけれど、もうやめようと思っています。いまはイタリア語を勉強しています」 と一一 = ロいます。なぜかとい一つと、 「日本人は、インドにやってきて貧しい人々を見ると、まるで伝染病患者を見るような目 つきで見る。わたしたちは貧しいかもしれないけれど、幸せに生きているんです。なのに なぜ、かわいそうなんて言うのか ! 」 そう、腹を立てているのです。 インドの子どもを「かわいそうに」なんて言うけれど、裸足で遊び回っている活き活き した子どもと、上等の服や靴を身につけて思い鞄を下げて塾通いしている日本人の子ども と、どちらが幸福でしようか。わたしにはインド人の子のほうが幸せに思えます。貧しい ことはかわいそうなんだという日本人の感覚のほうがおかしいですね。 「かわいそうに」という哀れみもキリスト教でいう「裁き」なんだということをしつかり 122
す。刑務所から出てきた健さんが「娑婆の空気はうめえなあ」なんて、一一一一口うんですね。 しかし、仏教でいう「娑婆」は、そういう意味ではありません。刑務所の中も、わたし たちが普通に暮らしている所も、この世界のなにもかも全部が「娑婆」であります。そし て「娑婆」は、〈じっと耐え忍んで生きていかなければならない土地〉という意味です。 にんど しいます。刑務所だけでな 忍ばなければならない所というわけで、意訳して「忍土」とも ) く、普通に暮らしているわたしたちも、じっと耐え忍んで生きていかなければならない土 地にいる、そのように仏教ではとらえています。 ですから、〈彼岸に渡れ〉が、『般若心経』の教えの中心なのです。 ここは忍土 以前わたしは、インドに行ってきました。外務省の外郭団体である国際交流基金の新し い事務所がインドのニューデリーに開設し、記念講演を依頼されたからです。 講演のあとにはディスカッションがあって、そこでわたしは、 「日本では宗教教育は行われていない。だから、日本の教育はだめになっているんだ」 と発言しました。それを聞いていたインドの新聞記者が、講演の記事を書くために、あ
とで取材を申し入れてきました。 「あなたはさっき、日本では宗教教育が行われていないと言ったが、宗教なしにどうやっ て教育ができるのですか ? おかしいですね。いったい、あなたが考えている宗教教育と は何なのですか」 と聞いてきました。わたしはこう答えました。 「日本の学校で先生が教えていること、あるいは親が教えていることは、人に迷惑をかけ てはいけませんよ、ということなんです。これでは到底、宗教教育にはほど遠いでしよう」 「なるほど、そんなことを教えているのですか。それはだめだなあ」 インド人記者は、そう言って納得していました。 しかし、日本に帰ってこの話を同じようにしても、日本人はみんな意味がわからない。 それほど宗教ということがわかっていないのが、日本人だということです。 では、インドで、親や学校の先生がどういう宗教教育をやっているかというと、〈あな 経 た方は、人に迷惑をかけているんですよ〉と教える。あなたは今人に迷惑をかけていて、 若 般その迷惑を許されて生かしてもらっているんだ。だからあなたも、人の迷惑をしつかりと 入耐えなさい、許しなさいと。それが宗教教育というものであります。
入門般若心経 レッテルをはがしなさい。 レッテルをはがせないんだったら、そのレッテルにこだわるな。 それが、「空」ということの意味であると理解してください。 わたしたちはみんな、物事をこちら側 ( 此岸 ) の価値観で見ています。ですから、わた したちが考えている幸福というものも、こちら側の幸福であります。こちら側の幸福は、 欲望が充足されることです。だから、なんとかして欲望を充足させるように、あれこれと ひ 知恵を捻るわけです。それが、こちら側の知恵、損得の知恵なんですね。 でもね、一千万円欲しいという欲望があったら、五百万円得られれば五十パ 1 セントの 幸せ、八百万円あったら八十パーセントの幸せ、一千万円全部得られたら百パーセントの 幸せが、本当に得られるのでしようか ? 人間というのは浅はかなものです。一千万円あれば、次は一億円欲しくなる。それが欲 望というものです。 レッテルを剥がせ インドの民話に、このことを実によく表した話があります。
子だったと、推定されています。二十九歳でお釈迦さまは出家されていますから、そのと き国王は六十五歳から七十歳ぐらいだったのではないかと思われます。昔の六十五歳は、 今とは違いますから、国王は充分年寄りだったでしよう。すると、お釈迦さまは、お父上 を見て「老い」というものを知っていたということになります。また、当時のインドだっ たら、病人も死人もゴロゴロいたと思います。 にもかかわらず、お釈迦さまは、四つの門から出たときに、そこではじめて人生という ものの現実を知ったんですね。 つまり、これは、知り方に問題があったのだろうと、わたしは思うのです。 わたしたちは、老いや病、死というものは、人間の存在の外側から忍び寄ってくるもの だと無意識のうちに思っています。病魔に襲われる、死が訪れるというように、漠然と外 から入ってくるような、そういう認識をもっているのではないでしようか。 ところが、あるときお釈迦さまは気がっかれた。「老」「病」「死」というものは、若い 自分には関係のないことで、いっかやってくるものなのではなく、人間が生きているこの 存在自体に本質的にあるものなのだ。 たとえば、氷が水に溶けるとき、最初は百パ 1 セント氷です。それがだんだんと溶けて
ことであります。すると、これはどういう意味なのか、またそれならどのように渡るのか、 ということが問題になります。 まず、大きな川が流れている、そのようにイメージしてみてください。 その川は流れが激しくて幅の広い、二キロも三キロもの幅があるような川です。当然の ことながら、向こう岸とこちら岸があります。その向こう岸を「彼岸」、こちら側の岸を 「此岸」と名づけます。方の岸と此の岸ですね。 こういうと、ときどき困る方がいます。年配の方で江戸っ子だったりしますと、「ヒ」 と「シ」の区別がっかなし ゝ。どっちが「ヒガン」でどっちが「シガン」なのかわからなく なってしまうんですね。混同して「潮干狩り」を「ヒオシガリ」なんて言います。わたし は大阪人ですが、大阪では「ヒ」も「シ」も、みんな「ヒ」になります。大阪では「質 屋」のことも「ヒチャ」と書いてある。 まあ、そういう方のために、古代インドのサンスクリット語で説明します。 経 しいます。それか サンスクリット語では、こちら側、つまり此岸のことを″サハ〃 若 般ら向こう岸、彼岸は " パ ーラム〃です。 入 わたしたちは、サハーに住んでいます。でも、サハーにいたままでは、問題の解決はあ
それでは、どうやって渡るか ? ということになります。 これがまた難しいようですが、ほとけの智慧で渡ります。 「般若」という言葉は、。、 1 リ語 ( サンスクリット語の俗語 ) の″パンニャー〃を音写し たもので、その意味は「智慧」です。 ( サンスクリット語では〃プラジュニャー ます。 ) 「摩訶」は″マハ〃 で「偉大な」とか「すばらしい」という意味です。ですから、 フルタイトルの『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』は、〈ほとけが説いたすばらしい智慧で彼 岸に渡る真髄を教えたお経〉ということになります。 仏教はもともと古代インドで起こったものです。だから、お経はサンスクリット語で書 かれていて、それが中国に渡り中国語に翻訳されました。中国にはカタカナのような表音 文字はありませんから、たとえば「サハー」という文字は、漢字で「娑婆」と表記される ことになります。そうして、この「娑婆」という一言葉が日本に渡ってきたんですね。 昔の日本の公用語は漢文でした。だから、お経はみんな漢字のままですね。でも、現代 経 人は漢文を読んでそのまま理解することはできません。そうして今では、お経に何が書い 若 般てあるのかサッパリわからん ! ということになってしまったわけです。 あばしりばんが、ち 「娑婆」といえば、わたしが思い出すのは、高倉健さんの『網走番外地』という映画で
みです。 会社や学校での人間関係、親子関係、近所づき合いなど、わたしたちはいろんなしがら みに縛られていて、その人間関係がうまくいかないと非常に嫌な思いをします。人間関係 が嫌で会社を辞めたり、学校へ行けなかったりということがたくさんあります。また、自 分に都合の悪い人だと「嫌な人だ」とか「悪い奴だ」と思ってしまう。そして、ついつい 他人を裁いてしまいます。でも、どんな人でも、みんな神さまが造った人間なんですね。 わたしたちは、そういうところをキリスト教から学ばなければなりません。 仏教では、創造・被創造という考え方はありません。「ほとけさまがお造りになった」 る き 生という考えはせず、「ほとけさまからお預かりしている」と考えます。子どもも、ほとけ て みさまからの預かりものです。子どもからみれば、親をほとけさまからお預りしている。妻 からみれば夫を、夫からみれば妻をほとけさまからお預かりしているんですね。 縁 学校で悪い成績をとってきた子を無理やり勉強させて頭をよくしようというのは、ほと を み ら けさまからお預かりしたはずの子を自分のものだと思っているからなんですね。子どもを し思いどおりにしようとしているんです。わたしはよく、インド旅行に行くんですが、そこ 4 で日本人がよく言うのは、 121