マホメットは、そのように言ったわけです。みんなが固唾を呑んで待っているところで、 マホメットはおもむろに叫んだ。 「お一つ、ーゝ 山よ。こっちへ来い」 ところが山は動かない。じーっと見守っていても全然動かない。しばらく待ってまた呼 びかけます。 「おお 1 山よ。こっちへ来—い」 観衆たちは、なんだ一向に動かないじゃないかと半分失望している。マホメットはこう して三度呼びかけました。そして、最後に、 る き 生「諸君、ご覧のように、わたしは山に向かって動くようにと呼びかけたが、山は動かない。 て みこの上は、わたしが山に向かって歩いていく」 そう言って、スタコラサッサと歩いて行ったのだそうです。自分が歩いて行けば、山は 縁 だんだん近づいてきます。それが、マホメットの奇跡だったんですね。これは、カーライ を み ら ルという人が書いた本にでてくる話で、作り話でしようね。 ー刀 し しかし、この話の言わんとしているところも、仏教の「縁」の考え方に通じます。相手 4 を動かそうとしても動きっこない。だったら、自分が動けばいいのです。自分を変えれば
『般若心経』でいえば、嫌な姑も、反りの合わない上司も、みんなこちらからっくった縁 であります。その関係を相互依存的につくりながらあるのが、人間関係だととらえます。 わたしたちは、もともと苦なんてないのに、嫌な姑とかうるさいお隣さん、というよう に、勝手に自分でレッテルを貼って自分で苦をつくっているのです。 しかし、うまくいかない他人との関係は、うまく変えられる可能生があります。 相手は変えられませんが、自分を変えることはできる。縁は相互依存関係なのですから、 自分を変えれば、縁は変わります。 キリスト教と違って、仏教の人間関係論は絶対的な関係論ではありません。憎い相手が いて苦しい思いをしても、それは今たまたま、そういう関係になっているだけのことなん ですね。だから、嫌いだと思っていた女性をある日突然好きになることもあるわけです。 逆に可愛さ余って憎さ百倍ということもあるんですね。 イスラム教の開祖・マホメットに、おもしろい逸話があります。 あるときマホメットは、奇跡を見せると公一言しました。〇月 x 日にどこそこへ集まれと 呼びかけた。それに期待して、たくさんの民衆が集まりました。そこで、 「あそこにある山。わたしはあの山を移してみせる。動かしてみせるぞ」 126
しいと発想の転換をした、それがマホメットの奇跡の本質です。 ともかく人間関係は「縁」なのだから、自分を変えればいいのだ。そうすれば、見事に 対象も変わる。これが仏教の教えだと理解してください。 でま、、 とのようにして自分を変えるのか ? 六つの完成を目指せ ろくはらみつ しいます。 『般若心経』は六つの実践を教えています。これを「六波羅蜜」と ) 「波羅蜜」は『般若波羅蜜多心経』の「波羅蜜」、「波羅蜜多」の省略形です。「波羅蜜多」 一フご 7 はサンスクリット語の「パ ーラミター」です。前にも申し上げましたが、この「パ ター」という一言葉には、「彼岸に渡る」という意味があります。そして、それともう一つ、 「完成」という意味もあります。 つまり、『般若心経』は〈六つの完成を目指せ〉と、わたしたちに呼びかけているわけ です。では、その六つの完成について、お話しします。 第一番目は「布施」です。これはもう、ご存じですね。 まず、布施は、人に施すことである。そして、施すのは自分の一番大事なものである。 128