いんじゃない、恨むなら親を恨めよ、そういう意味なんです。 子どもを亡くした親が、しつかりと子どもの死を忘れて涙を流さなくなったとき、その 子どもたちは許されます。ですから、子どもと死別した親は「お浄土で幸せになりなさ い」と言って、しつかりと忘れてやることが大事です。いつまでも泣いていてはいけない のだ。それが仏教からのメッセージであります。 ゴムの物差しをうまく使う このかぐや姫の例は、別離は別離でも死別です。しかし、今回与えられたテーマは「巣 子 立ち」ですから、おめでたい別れです。でも、この考え方は同じであります。別れにあっ し たら、しつかりと子どもと別れてやること、それが親の慈悲なんだと思います。涙を流す 預 ことではなく、忘れてあげることを仏教は教えているんですね。 お か子どもとの別れに限らず、子育てのときには、さまざまな悩みに突き当たります。 ま さ でも、そのみの原因は親のほうにあるのではないかとわたしは思うのです。わたした ほちは、ゴム紐の物差しを使って子どもを評価しています。この物差しはゴムですから、伸 びたり縮んだり、自分の都合で勝手にコロコロと変わってしまう物差しです。そこに、原
しつかりと忘れる 「別れ」にはいろいろあります。恋人との別れ、伴侶との別れ、親との死別もあるでしょ う。「子どもの巣立ち」という形の別離もあります。 子どもが巣立っていくとき、親は多かれ少なかれ〈自分はもう誰にも必要とされていな いのではないか〉というような喪失感を覚えます。一つの役目を終えて、気がついてみる と「老い」がそこまで迫ってきている。そんなことで、寂しさを感じ、なにかばーっとし てしまうという人も多いですね。『般若心経』に学ぶ子どもとの別離・巣立ちについて考 えてみたいと思います。 1 ほとけさまからお預かりした子
にみれば、親のエゴともとれます。 かぐや姫の昇天は、この場合「死別」を意味しています。かぐや姫が月の世界に帰って 行くことは、仏教でいえば、ほとけの世界に帰って行くことであります。自分の子どもが 亡くなる。親は、子どもをどうしても失いたくない。なんとかして、この世に引き止めた いと、そういう気持ちになるものです。しかし、子どもは、ほとけさまの世界に帰って行 くのですから、幸せになるのです。その帰って行く子どもをしつかりと見送ってやればい いじゃないか、それが、仏教の考え方です。 「おまえは、お月さまの世界に帰って行くんだよ」「お浄土に帰って行くのだから、おま えはきっと幸せになるんだね。ほとけさまの世界で幸せにおなり」そう言ってしつかりと 別れる、それが仏教者の別れ方であります。 かわらじぞうわさん さて、仏教で、子どもとの死別に触れたものには『の河原地蔵和讃』があります。 『地蔵和讃』として広く知られていますね。 これは、親より先に死んでしまった子どもが賽の河原で鬼にいじめられているという話で さんず す。賽の河原は、土の旅の途中、三途の川を渡る前のこちら側の岸にあります。仏教に おいて、子どもが親より先に死ぬということは非常に重い罪で、子どもたちは三途の川を
といっているのです。識・識・・が、四つの真理です。 苦諦Ⅱわたしたちの人生、生存は苦であるという真理 集諦Ⅱ苦の原因は、尽きることのない欲望なんだという真理 滅諦Ⅱ欲望のなくなった状態が理想の境地であるという真理 道諦Ⅱ苦を滅するには、八つの正しい修行方法によらなけばならないという真理 『般若心経』の解説書はたくさん出版されていますが、それらの本には、この部分の解説 がやたらと長い。「四諦」は、仏教の根本原理といわれているからです。しかし『般若心 経』では、これらもみんな無だとしているのです。 しようろうびようし あいべつりく 「生老病死」 ( 生まれ老い病み死ぬという苦しみ ) 、「愛別離苦」 ( 愛するものと別れなけ おんぞうえく ればならない苦しみ ) 、怨憎会苦 ( 憎いものと会わなければならない苦しみ ) 、求不得苦 ( 欲するものが得られない苦しみ ) 、を ( わたしたちの肉体と精神が苦そのものだ ということ ) 。この世にはこんなにたくさんの苦があって、その原因は愛することなんだ。 自分を愛するから老いや病に苦しみ、家族や友人を愛するから、別れる苦しみがある。だ 般ったら、そんなもの捨てちゃえばいいじゃないか。裸になって、すべて捨ててしまえと、 入そのように四諦は説いている。小乗仏教はそう説いているんですね。だから、出家しかな
5 死という別れをしつかりと悲しむ しもんしゆっゅう 「四門出遊」の読み方 今回は「死という別れを乗り越える」という難しいテーマについて考えるわけですが、 ゝと、わたし わからなくなったときは、お釈迦さまの説かれた教えに立ち戻ってみればいし いつもそのように考えています。 そこで、お釈迦さまは、「死」についてどのように考えておられたのかを手掛かりに考 えてみたいと思います。 そもそも、お釈迦さまが出家する原因になった話として知られているのが、「四門出遊」 の話です。これは、釈迦国の王子に生まれ、死も老いも病もない理想の世界 ( 城の中 ) で 140
「そうよ。わたし、子どもが欲しいのよ。それには正式に結婚して、父親がいたほうがい いでしよ」 「だったら、別れることないじゃない」 「でも、無理して夫婦でいることもないしね」 「子どもはどうするの」 「もちろん、わたしが育てるわよ」 無理して一緒にいることはないというのですから、男たるもの安閑としてはいられない 時代になりました。 いちる でも、一縷の望みはあります。こんなことを言っていた女性が結婚して、子どもが生ま れたので、いっ離婚するかと楽しみにしておりましたら、なかなか別れない。そのうち二 方 人目の子どもまでできて、仲良くやっているんです。まあ、あんな言葉も女性一流の男に き対する牽制球なんでしようね。 っ の わたしは、夫婦という一言葉を聞きますと、すぐに連想することがあるのです。それは昔 夫の思い出とも繋がっているのですが、わたしが五、六歳のころだったと思います。「つな 3 がれ乞食」といわれていた夫婦の話を聞いたことがあります。近くの八幡さまだとか、畑
仏説摩訶般若波羅密多心経・ 4 入門般若心経・ 7 1 ほとけさまからお預かりした子・ 2 幸福の物差し・ 3 夫婦は布施しあうもの・ 4 しがらみを「縁」とみて生きる・ 5 死とい、フ別れをしつかりと悲しむ・ 4 6 老いを愉しむ・い 114
【執筆分担】 ひろさちゃ 入門般若心経 ひろさちゃ ほとけさまからお預かりした子 阿純孝 幸福の物差し 阿純孝 夫婦のつきあい方 ひろさちゃ しがらみを「縁」とみて生きる ひろさちゃ 死という別れをしつかりと悲しむ 阿純孝 老いを愉しむ 阿純孝 病気にこだわることなく生きる 阿純孝 ほとけさまにゆだねた死 ・般若心経全文と般若心経現代語訳は、『ひろさちゃの般 若心経講』 ( ひろさちゃ著・新潮社 ) より転載しまし
夫はその中へ吸い込まれるようにして進んでいく。すると辺りがさっと開かれて、田園が くつろ 広がり、満々と水を湛えた池があり、老若男女は楽しげに寛いでいる。漁夫はそれらの 人々から歓待されて何日かを過ごし、数日後、別れを告げようとすると、 「ここのことは他人に一一一口ってはいけない と口止めされる。ところが、やはり言ってしまうんです。漁夫の村のお役人は、漁夫を カっゝこ 道案内にして、桃源郷への道を辿って行ってみました。ゞ、 しし桃源郷を見つけ出すこ とはできなかった。 こういう大変幻想的で美しい物語ですが、洞穴といい、「他言するな」という禁句とい 探しても桃源郷はなかったということも、これらはすべて現実との繋がりを遮断する 要素なんですね。わたしたちは、こういう幸せを夢見つつ、現実の不幸を癒しているとい うことです。 あるいはまた、幸福は実現不可能と見極めてしまうのはあまりにも消極的ではないか、 人生は切り開いていくべきで、幸福は勝ち取るものだ、また勝ち取れるという見方もあり ます。 黒沢明監督の「七人の侍」という映画が、そうです。そしてあの映画はラストにこそ意
「生かされて生きている」という一言葉がありますが、この「生かされている」ということ に気がつくことではないでしようか。わたしたちは、自分が働き、自分が食べ、自分で生 きていると思っています。だが、そうなのでしようか 幼稚園の園児が、こんな質問をしたことがありました。 「先生、なぜお弁当を食べるとき、手を合わせるの」 「それはね、きみが持って来たお弁当の中身を見たら、わかることだよ。今日は何が入っ ているの ? 」 「うんとね、ご飯、ウインナー、鶏の唐揚げ、それにお野菜。別の入れものにくだものも あるよ」 わたしの子どものころとは、まるで質量ともに違うと思いましたが、それは問題外のこ とですから差し置くとして、 し 「どれどれ、おいしそうだね。この唐揚げは鶏だよね」 差 物 の 「うん、そうだよ」 幸「この鶏は、お弁当になる前は、どうだったの ? 」 「生きていたよ」