疑問が起こります。お釈迦さまの時代にもそのような疑問を持った人がいました。死すべ きものとしての人間が抱く共通の問いなのでしよう。 これに対して、お釈迦さまは沈黙を守っています。あるともないとも語っていないので す。死後の世界は、あるかないかを探求すべき性格のものではないからです。人間の生き 方として、あった方がいいか、ない方がいいか、あると信じたら幸せか、信じないほうが 幸せか、そうみるべきだから沈黙しているのです。「あるかないか」ではなく、「信じるか 信じないか」と問う世界なのです。 つまり、死後の世界は「空」ということになるのではないでしようか。あると思えばあ るし、ないと思えばない。しかし、そんなあやふやな世界なのかといえば、決してそうで はありません。信じることによって救われる。幸せになれる世界だと思うのです。 わたしの幼稚園の園児が、脳に腫瘍ができて大手術をしました。数か月の入院生活を余 儀なくされましたが、どうやら回復して、再び幼稚園に来られるまでになりました。そう して、再会はじめての日、彼の様子を見に幼稚園に行きますと、 「ねえ、先生、死んだらどうなるんですか」 いきなり質問するではありませんか。待ち構えていたように質問するのには、子ど 218
お釈迦さまの教えは〈死を諦めろ〉 お釈迦さまが、死別ということについて、どう考えておられたかが、実によくわかる話 があります。 お釈迦さまの時代に、クリシャー・ガウタミーという女性がいました。 彼女には、よちょち歩きの可愛い盛りの子どもがいたのですが、あるときこの子が死ん でしまった。そして、あまりの悲しみで気も狂わんばかりに泣き叫んでいた。彼女は子ど しゃえじよう もの死体を抱えて舎衛城の街を右往左往し、 「どなたか、この子を生き返らせる薬をください」 そう叫びながら、街中をうろついていたんですね。 「そんな薬なんてあるものか」 と笑って通り過ぎる者もあれば、同情の目を注ぐ人もいた。そこに、お釈迦さまが現れ て、こうおっしやった。 「女よ。ならば、わたしがその薬を作ってあげよう。そのかわり、原料になる材料をもら ってきなさい」 148
この話はこのぐらいにしておかないと、ますます墓穴を掘ることになりますので、やめ ました。 くえいっしょ ところで、『阿弥陀経』に「倶会一処」という一言葉があります。これは「ともに再び極 楽浄土で会いましよう」ということです。しかしこの倶会一処は、彼岸の浄土の世界だけ のことではなく、此岸のこの現実世界の生き方にも関わっているのです。 わたしの友人が死ぬときに、奥様に「君と一緒で幸せだった」と言ったことは、「浄土 でまた会おう」ということでもあります。ですから、 「この世は仕方ないとしても、あの世に行ってまでつき合わされては、たまったもんじゃ ない。倶会一処なんて、とんでもない」 死 という人がいますが、それではあまりにも寂しいではないですか。わたしたちは、倶会 ね 一処が喜べるような生き方をすべきなのでしよう。 ゅ ま 死んだらどうなるの ? さ と さて次に、死んだらどうなるのかという不安があります。 8 死後の世界はあるのかないのか。どのように調べたら、それが証明できるのか。そんな
にみれば、親のエゴともとれます。 かぐや姫の昇天は、この場合「死別」を意味しています。かぐや姫が月の世界に帰って 行くことは、仏教でいえば、ほとけの世界に帰って行くことであります。自分の子どもが 亡くなる。親は、子どもをどうしても失いたくない。なんとかして、この世に引き止めた いと、そういう気持ちになるものです。しかし、子どもは、ほとけさまの世界に帰って行 くのですから、幸せになるのです。その帰って行く子どもをしつかりと見送ってやればい いじゃないか、それが、仏教の考え方です。 「おまえは、お月さまの世界に帰って行くんだよ」「お浄土に帰って行くのだから、おま えはきっと幸せになるんだね。ほとけさまの世界で幸せにおなり」そう言ってしつかりと 別れる、それが仏教者の別れ方であります。 かわらじぞうわさん さて、仏教で、子どもとの死別に触れたものには『の河原地蔵和讃』があります。 『地蔵和讃』として広く知られていますね。 これは、親より先に死んでしまった子どもが賽の河原で鬼にいじめられているという話で さんず す。賽の河原は、土の旅の途中、三途の川を渡る前のこちら側の岸にあります。仏教に おいて、子どもが親より先に死ぬということは非常に重い罪で、子どもたちは三途の川を
る。だから、悲しいと思うときは悲しいし、嬉しいと思えば嬉しいんだ。それが「空」で す。同じものが見方によって喜びにもなるし、悲しみにもなるんだ。生にもなるし、死に もなる。それが「空」です。 『般若心経』には、 とあります。 これは、人間の根源的な無智迷妄があるわけではなく、また、無智迷妄が消滅するわけ でもない。そして、老死という苦しみもなく、老死という苦しみが消滅するわけでもない という意味です。 老死も「空」であります。 親や夫や子との死別にあったら、しつかりと悲しみなさい。逃げたり避けたりすること なく、みんなが味わっている悲しみをしつかりと悲しめばいいんだ。そうしていっか忘れ るときがきたら、こだわることなく忘れればいい。 死別という悲しみについて、『般若心経』は、このように教えてくれています。 わ 4
のです》 潔よく言ってのけて、死んでしまいましたが、それがまた若々しく感じられるから不思 議というか、皮肉なものですね。 フェッリーニが監督した映画で、「道」という名作がありました。主題曲も大変すばら しく、今でもよく聴きますね。あらすじは、ドサまわりの旅芸人ザンパノという、見るか らに強欲そうな男と、彼にお金で買われた知的障害の清純そうな少女ジェルソミーナの物 語です。二人は貧しくて野宿をしながら大道芸をして旅を続けるのですが、ザンパノとい ののし う男はロうるさい男で、始終ガアガア罵る。彼女は悲しくなって、 ( こんなに役に立たな いのだから、死んでしまいたい ) と思う。あるとき、偶然にも、旅の青年に出会う。彼女 は心の内を青年に話す。彼は話を聞きながら、道端の石ころを掌に載せて、こう一一 = ロうのです。 「この石を見てごらんよ。この石にだって、ここにあるだけで意味があるんだよ。俺たち には解らないけど、神さまがちゃんと置いてくださっているんだよ。だから、理由がある んだ。君だって、ここにいる意味があるのさ」 フェッリーニは、そのように青年に言わせているんです。 わたしたちが推し量ることはできなくても、あらゆるものに存在価値があるというので 178
あります。若さを永遠に保たせようなどと考えること自体、無意味なことですね。 次は家庭のことになります。家庭の中に子どもがいるのは、とても楽しいことです。で 世間で悪さを すが、それゆえに苦労がっきまといます。親の言うことを聞かなかったり、 したり、学校の成績が悪かったり。また、それよりもなお目の中に入れても痛くないほど の子が病気になったり死んだりしたら、親は一変して不幸になってしまいます。親として は、子どもの死に出会うことほど悲しいことはありません。 誌智の一休さんとして、よく知られている一休和尚の逸話です。あるとき一休和尚に、 大店のご主人が、 「めでたいことがありまして、床の間の軸を新調したいので、書をお願いしたい」 と頼みました。そこで一休和尚は即座に 「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」 し 差 と認めました。驚いたのはご主人です。 物 の 「めでたいときに、こんな不幸な文句は掛けられません」 幸「これが嫌なら、こうせざるを得ないな。〈孫死ぬ、子死ぬ、親死ぬ〉とするが、どうだ」 と言ったという話があります。もっとも、この話は、江戸時代の禅僧の仙崖さんの話とめ
そして、三人の子どもたちに次々と話しかけ、最後に再び、 「 ~ めり》かレ」一つ」 と一一一一口って、息を引き取ったということです。 その話を聞いて、わたしは「いい死に方だなあ」と思いました。わたしもできることな ら、こういう死に方をしたいものです。あまりゝ しい話なものですから、人の死に対して失 礼を顧みず、いろんな所で話したりしましたが、ついうつかり話してはならない人にまで 話してしまったのです。 それは女房です。わたしが死ぬとき、女房にこう一一一一口うとします。 「君と一緒で幸せだった。ありがとう」 すると、彼女は、 「なに言ってんのよ。人真似じゃない」 と一言うでしよう。わたしがいくら真実だ、本心だと言ったところで、信じちゃくれませ ん。信じてもらえないままに死んでいくという結果になりかねません。ですから、そのこ とも女房に話したのです。すると彼女は、 「要するに、今なのよね。生きているうちのことが死にもあらわれるんじゃないの」 216
しても伝わっています。 これでは、皆が不幸になってしまいます。やはり、人間、順序よく死ぬ。これが一番納 得のいくことなんですね。 ところが、そう思いどおりにいくとは限りません。親の願いとしては子どもに死んでほ しくない。「死なぬ子三人、親孝行」が理想なんですが、この娑婆世界ではそれすら無理 なことです。それなら「死なぬ子」というのは無理かも知れないが、「親孝行」ならなん とかなるだろうという期待があるかもしれませんが、その期待が却って子どもを駄目にし てしまうことだってあります。また、子どもは子どもで「親孝行したいときには親はな し」と思ったり、「親孝行したくないのに親はおり」と思ったりで、結局、親が元気でい るうちは親孝行などしたがらないものなんです。したがって、「死なぬ子三人、親孝行」 というのは、親から見た一方的な願望なんです。 さて次は「使って減らぬ金百両」です。こんなことが現実にあったら、実に愉快に過ご せるでしようね。世の常として、財産は多くあったほうが楽に暮らせることは確かです。 思いどおりのことが、かなりできます。しかし、その財産は、使わないと効力を発揮しま せん。ただ持っていただけでは役に立ちません。大金持ちがお金の減ることを恐れて、何
う短編小説ですが、あらすじをご紹介しながら、死について考えてみたいと思います。 小説はイワン・イリッチの死から始まります。黒い枠の新聞記事を仲間が見る。 「中央裁判所判事、イワン・イリッチ儀、一八八二年二月四日死去 : ・ : : : 」 彼は同僚からも好かれ、有能で、昇進が約束されている矢先の死でした。しかし、彼の 死を聞いたとき、同僚たちが第一番目に考えたことは、この男の死によってもたらされる 職場の異動のことだったのです。そして次に、 「どこが悪かったのか」 「財産はあるのだろうか」 「海やみに行かねばならないが、遠い」 などと言いながら、法廷に赴く。訃報に接した親しい友人でさえ「死んだのはあの男で あんど あって、俺ではない」という一種の安堵感をいだく。死はあくまで他人事で済まされてい る。ですから、お海やみに行ったときでも、そうした気持ちは消えない。彼と一番親しい 学生時代からの友人であり、かっ職場仲間のイワ 1 ノヴィッチは、 「ひどく苦しみましたか」 と奥様に聞く。 202