軽くしてもらうためです。軽くなるとどうなるか。 「あっ、かるくなった」 あかるくなるのです。明るくする、これも布施です。 あるとき、わたしの妻が、友人に電話していました。その友人は長いことリュウマチを 患っていて、最近は、首までガクガクするのだそうです。それを見舞っての電話なのです カ 「ねえ、あなた、なにも役に立たなくなったなんて、気に病むことはないのよ。あなたが いるだけで、みんなの救いなんだからね」 しい言葉だと思いました。 と慰めているのです。〈いることが救いだ〉なんて、 どうせ、ひろさちや先生から聞いた言葉に違いないのですが、わたしはまともに女房の 方 言葉に感心するほどお人好しではありませんので、ちょっと皮肉交じりに、 あ 「ほ , んとにいゝ き し言葉だなあ。とすると、ばくがここにいるだけで君にとって救いなんだよ っ のな」 夫 と言いますと、意外にも素直に 「もちろんそういうことになるわね」 107
と説いているのです。生きとし生けるものすべてにほとけの性質がある、ということは、 誰でもほとけになれる可能性を秘めているということになります。 ですが、そう簡単に成仏できるものでもありません。深く自己を見つめてみると、それ がよくわかります。そういう限界状況を認識したのが、源信や親鸞の言葉なのです。そし て、それが一変して、ほとけの救いを覚知する働きになる。親鸞聖人の《善人なおもて往 生をとぐ、いかにいわんや悪人をや》という言葉も、そうした経緯をあらわした言葉だと 思います。 阿弥陀さまの救済は、無差別平等の慈悲です。ですから、善人、悪人という区別はあり ません。あるとすれば、人間のほうが勝手にそう思っているだけなのです。だから、悪人 死 は救われないとしているのは人間の考えで決めていることであって、ほとけさまの考えで ね はありません。そして、自分は悪人だと自覚したとき、ほとけさまの救いの受皿がちゃん ゅ と用意されていることに気づくのです。 ま さ この「悪人」とは、刑を受けるような一般的にいう犯罪者のことではありません。犯罪 と 者はおおむね自分を悪人だとは認めたがらないものです。ですから、ここでいう悪人は懺 8 海できる人ということでしようか。 209
「そうよ。わたし、子どもが欲しいのよ。それには正式に結婚して、父親がいたほうがい いでしよ」 「だったら、別れることないじゃない」 「でも、無理して夫婦でいることもないしね」 「子どもはどうするの」 「もちろん、わたしが育てるわよ」 無理して一緒にいることはないというのですから、男たるもの安閑としてはいられない 時代になりました。 いちる でも、一縷の望みはあります。こんなことを言っていた女性が結婚して、子どもが生ま れたので、いっ離婚するかと楽しみにしておりましたら、なかなか別れない。そのうち二 方 人目の子どもまでできて、仲良くやっているんです。まあ、あんな言葉も女性一流の男に き対する牽制球なんでしようね。 っ の わたしは、夫婦という一言葉を聞きますと、すぐに連想することがあるのです。それは昔 夫の思い出とも繋がっているのですが、わたしが五、六歳のころだったと思います。「つな 3 がれ乞食」といわれていた夫婦の話を聞いたことがあります。近くの八幡さまだとか、畑
「ばあちゃん、お寺さんが来てくれたでエ。はよう、死ねや」 おばあちゃんがいる部屋に向かって大声で叫んで、外へ遊びに行ったそうです。 ずいぶんと酷いことを一一 = ロうなと思って、おばあちゃんの部屋に入って話を聞いた。する と、そのおばあちゃんは、 「あれは孫だけが言っている言葉じゃない。息子夫婦がこれみよがしに意地悪ばかりして は『はよ、死んだらええのに』といつも言っているんです。わたしは、生きているのが情 けない。生きていく気力もないんだ」 とサメザメと泣かれたというんですね。こういうとき、どうやってそのおばあちゃんを 慰めてあげればいいんですか ? わたしはご住職に、そう聞かれました。 難しい問題ですね。 なぜなら、おばあやんは娑婆 ( こちら側の世界 ) に住んでいるわけです。そうすると、 根本的な解決方法、解決能力はないことになるからです。 また、ある意味では「おばあちゃん、はよ死ねや」といったお孫さんを怒っても、仕方 かないでしょ , つ。 「おまえ、なんてこと言うんだ。年寄りに言うべき言葉じゃないだろう」
なんていうことになりかねません。こうなりますと生命のことを真面目に考えられなく なります。 蓮如上人が《我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず》とおっしやられ るように、死の意味を真剣に考えたほうがよさそうですし、この事実を素直に受けとった しいと思うのです。 ところが、ここに問題があるのです。蓮如上人の言葉を大多数の人々は「まったくその とおりだ」と納得しているようですが、それは錯覚であって、本当のところ決して言葉ど おりに素直に受け取ってはいないのです。心の底では違った解釈をしていませんか。 花山勝友先生は、こうだと言っています。 〈人や先、人や先、我は後、ずうっと後〉 このようにしか死のことを考えていない。「わたし」抜きだというのです。人間の死は、 誰にでも訪れるものだと理解できても、そこに自分を入れることを拒むのです。 論理学の三段論法に当て嵌めて見ますと、 < 君は人間である。人間は死すものである。 故に、 < 君は死すものである。「これは正しい」と認めることはできます。反対できるな にものもありません。嫌でも事実は事実として認めざるを得ません。そして、 < 君が人間 200
して座席を占領することができる。なぜならば、以前は、座っている前に老人が来ると、 立たねばならないという意識が働いた。それが証拠に、立たない青年は寝たふりを装った。 ーシートができたら、堂々としていられる。 ( あなたの席はちゃんとあち しかし、シルバ らにあるではないですか。座りたければ、どうぞあちらに行きなさいよ ) と思うことがで きるからです。 つまりこれは、社会の中で老人に別枠を設け、対処しようということで、老人に対する 本当に人間的な接し方とはいえないのではないでしようか。 数年前、「濡れ落葉」という一言葉が流行りました。わたしは、この言葉を聞いたとき、 どういう意味なのかさつばり解りませんでしたが、定年退職して家にいる夫のことをいう のだそうです。 定年退職した人を落葉にたとえるのですから辛辣ですが、それに輪をかけて「濡れ落ち 葉」というのです。枯れた落ち葉なら、風が吹けばすぐ動きますが、濡れていると、べっ たりと地面にくつついて動かない。それと同じように、家にべったり居座って、縦のもの を横にもしない。 、つつと、つ そんなことですから、奥様を手足のごとく使いたがる。だから、奥さんは鬱陶しくてし 162
「あら、あの子どもたち裸足よ。かわいそうね」 という言葉です。インド人は、その一言葉にものすごく傷ついています。日本の旅行者の ガイドをやっていて、親しくしているインド人の友人がいるのですが、 「もう、日本人のガイドは嫌だ。日本人が大好きなので、大学で日本語を専攻してガイド になったけれど、もうやめようと思っています。いまはイタリア語を勉強しています」 と一一 = ロいます。なぜかとい一つと、 「日本人は、インドにやってきて貧しい人々を見ると、まるで伝染病患者を見るような目 つきで見る。わたしたちは貧しいかもしれないけれど、幸せに生きているんです。なのに なぜ、かわいそうなんて言うのか ! 」 そう、腹を立てているのです。 インドの子どもを「かわいそうに」なんて言うけれど、裸足で遊び回っている活き活き した子どもと、上等の服や靴を身につけて思い鞄を下げて塾通いしている日本人の子ども と、どちらが幸福でしようか。わたしにはインド人の子のほうが幸せに思えます。貧しい ことはかわいそうなんだという日本人の感覚のほうがおかしいですね。 「かわいそうに」という哀れみもキリスト教でいう「裁き」なんだということをしつかり 122
でも、このおばあちゃんは、そんなことちっとも考えずにやってきたんですね。孫にそ う言われるまで、何も気がっかずにノホホンと生きてきたんじゃないでしようか。自分も 。 ( 今まで育てて 命の布施をすべきなんだということなど思いもしなかったかもしれない やったのに、どうしてそんなに酷いことを一言うんだと思うと、悲しくてしようがない。 ) そんなふうに考えていれば、おばあちゃんはますます孤独になり、絶望感にさいなまれる ばかりです。 だからといって「早くお迎えに来てください」と祈るのも、違うんですね。思いのまま にならないことを思いどおりにしようとすれば、これもまた苦になります。 このおばあちゃんにも、寝たきりのそのままでできる布施があります。これは、わたし たちにもできる布施です。 わたしが一番大事だと思っている布施、「和言愛語」の布施です。周りを明るくするに こやかな笑顔と、優しい愛の一言葉。これは誰にでもできます。 経 おばあちゃんは、いつも面倒をみてくれる嫁にちょっと笑顔の布施をすればいいんです。 若 般「すまないねえ」と優しい言葉をかける。孫が勉強しなさいと親に怒られたら、 「お父さんは、あんなことを言ってるけどね。おまえと同じで、小学校のときは全然勉強 入
して、さて女房に頼ろうとしたら、離婚を迫られたというケースが増えたと新聞が報じて います。 「ふろ、めし、ねる」という短い言葉の中に含まれている意味は、妻にしてみれば、大変 なことなんですね。「ふろ」という言葉が妻に要求していることは、単に風呂を沸かして おくことだけではないのです。風呂掃除は充分にできているか、石鹸はちびていないか。 湯加減はどうか。下着と浴衣は調えられているか、寒い冬には下着が温められているか、 そういう意味が含まれての「ふろ」の一言なのです。 「めし」とは、昨日の残り物であってはいけません。またタ飯は会社で食べた昼飯と同じ であってはならない。かといって、毎日、会社に電話して「昼ご飯は何にしたの」なんて 聞くわけにいきません。だから、察するんです。勘を働かさないと務まりません。それに です。夏はビ 1 ルに冬は熱燗。しかもタイミングよく出てこないといけない。 「ねる」だって、単に布団が敷いてあるだけではいけない。まして朝起きたままの形が残 っているようだったら落第。蝉だって、抜け殻にもう一度潜り込むなんてことしません。 シーツは糊が利いていて、布団はよく乾燥してあり、フカフカでないといけません。 ということですから、いや、こう断定してはいけません。そうであれば、ぐらいにして 104
それでは、どうやって渡るか ? ということになります。 これがまた難しいようですが、ほとけの智慧で渡ります。 「般若」という言葉は、。、 1 リ語 ( サンスクリット語の俗語 ) の″パンニャー〃を音写し たもので、その意味は「智慧」です。 ( サンスクリット語では〃プラジュニャー ます。 ) 「摩訶」は″マハ〃 で「偉大な」とか「すばらしい」という意味です。ですから、 フルタイトルの『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』は、〈ほとけが説いたすばらしい智慧で彼 岸に渡る真髄を教えたお経〉ということになります。 仏教はもともと古代インドで起こったものです。だから、お経はサンスクリット語で書 かれていて、それが中国に渡り中国語に翻訳されました。中国にはカタカナのような表音 文字はありませんから、たとえば「サハー」という文字は、漢字で「娑婆」と表記される ことになります。そうして、この「娑婆」という一言葉が日本に渡ってきたんですね。 昔の日本の公用語は漢文でした。だから、お経はみんな漢字のままですね。でも、現代 経 人は漢文を読んでそのまま理解することはできません。そうして今では、お経に何が書い 若 般てあるのかサッパリわからん ! ということになってしまったわけです。 あばしりばんが、ち 「娑婆」といえば、わたしが思い出すのは、高倉健さんの『網走番外地』という映画で