かけたまま背中を丸めて、老人は訊ねた。 「初めはお祖父さんのことばかり話していたの」と、ネリーは答えた。「病気のときもお祖父さ んの話ばかりで、譫言にまで言っていたわ。でも病気が少しよくなったら、また昔の話になって : そのときアゾルカの話も出たのよ。いつだか町はずれの河のほとりで、子供たちがアゾルカ を繩で縛って溺らせようとしていたのを、ママがお金を出して子供たちからアゾルカを買いとっ たんだって。お祖父さんはアゾルカを一目見ると、げらげら笑ったそうよ。でもアゾルカはすぐ 逃げ出して、そしたらママが泣いたもんだから、お祖父さんはびつくりして、アゾルカを連れて と来た人には百ループリやるって言ったの。三日目にアゾルカが連れられてきて、お祖父さんはそ 人のひとに百ルー。フリやって、それからアゾルカを可愛がるようになったんだって。ママはとって にもアゾルカを可愛がって、同し寝床で一緒に寝たそうよ。アゾルカは前は道化役者に連れられて さる ら いた大だから、とても利ロで、背中にを乗せたり、鉄砲を撃ったり、いろんなことができたん 虐だって : : : ママが家出をしたとき、お祖父さんはアゾルカを自分の家に置いて、いつも一緒に連 れて歩いていたのね。だから道でアゾルカを見つけたとき、お祖父さんもその辺にいるなって、 すぐ分ったんだって : 老人がアゾルカの話に期待していたのは、そんなことではなかったとみえて、老人の表情はだ んだん陰気になっていった。そしてもう何も訊こうとしなくなった。 「それで、その後お祖父さんにはもう会わなかったの」と、アンナ・アンドレーエヴナが訊ねた。 「ううん、ママが少しよくなりかけた頃、私またお祖父さんに逢った。お店に。ハンを買いに行っ たの。そしたらアゾルカを連れて歩いてる人がいるから、よく見たらお祖父さんなの。私、道 497 なわ おぼ
呼び始めた。大は身動きもせずに床に横たわり、鼻面を両足で隠して、見たところ熟睡している ようだった。 「アゾルカ、アゾルカ ! 」と、老人は独特の震え声でもぐもぐと言った。「アゾルカ ! 」 アゾルカはびくりとも動かなかった。 「アゾルカ、アゾルカ ! 」と老人はもういちど悲しそうに繰返し、杖で大をゆすぶったが、大は 相変らずの恰好である。 りようひざ 杖が老人の手から落ちた。老人は体をかがめ、両膝を突いて、両の手でアゾルカの鼻面を持ち とあげた。かわいそうなアゾルカ ! 大は死んでいた。老衰のためか、飢えのためか、主人の足も 人とで、声も立てずに死んでいったのだった。老人はぎくりとして、アゾルカがすでに死んでしま クしのあいだ大を見つめた。それからかって忠僕であり友人で たったことを理解できないように、ト あお らあったものに静かに体をかがめ、その死んだ鼻面に自分の蒼ざめた顔を押しあてた。一瞬の沈黙 。やがて哀れな老人は体を起した。顔はひどく蒼白 虐が流れた。私たちはみんな感動していた : く、全身は熱病の発作のように震えていた。 「あくせえ作ればいい」と、思いやりの深いミ = ラーがなんとかして老人を慰めようと口を開い はくせい ードル・カルロヴィ た。 ( あくせえとは剥製のことだった ) 「上等のあくせえ作ればいい。フョ チ・クリーガーさん、すてきなあくせえ作ります。フヨードル・カルロヴィチ・クリーガーさん、 あくせえ作る名人です」と、床から杖を拾って老人に手渡しながら、ミ = ラーは繰返した。 「そう、わたし、すてきなあくせえ作ります」と、ご本人のクリーガー氏が前に出て来て、つつ あいづら ましく相槌を打った。それは痩せてひょろ長い、人のよさそうなドイツ人で、もつれた髪の毛は
私が質問すると、お祖父さんはとっても喜んだわ。だから私しよっちゅう質問して、お祖父さん はなんでも説明してくれたし、神様のこともたくさん話してくれた。勉強をしないで、アゾルカ と遊ぶこともあったわ。アゾルカは私が大好きになったの。アゾルカに棒を跳び越すのを教えて やったら、お祖父さんは笑って、私の頭をやたらに撫でてくれたわ。でもお祖父さんはめったに しやペ 笑わなかった。とってもよく喋るかと思うと、急に黙ってしまって、なんだか居眠りをしてるみ たいなんだけど、目はあいてるのね。そうやってタ方になると、夕方のお祖父さんはとってもこ わくて、とっても年寄りに見えてくる・ : ・ : それからこんなこともあったわ。私が訪ねて行くと、 とお祖父さんは椅子に坐ってじいっと何か考えていて、なんにも聞えない。アゾルカがそばに坐っ せきばら 人ていてね。私はおとなしく待って、それでも待ち切れなくて咳払いなんかするんだけど、お祖父 さんが見向きもしないから、そのまま帰ってしまったり。家じやママがしびれを切らして待って ら るの。そして横になってるママに、私がお祖父さんの家の様子を何から何まで喋るの。真夜中ま 虐で喋りつづけて、ママはじっと聞いてる。お祖父さんが今日何をしたとか、何を話してくれたか とか、どんな歴史を教えてくれたか、どんな問題を出してくれたか。それからアゾルカに棒を跳 び越えさせたらお祖父さんが笑ったっていう話をすると、ママは急に笑い出して、とっても嬉し そうに永いこと笑ってるの。それからその話をもう一度私にさせて、そのあとでお祈りをしてた わ。ママはこんなにお祖父さんを愛してるのに、なぜお祖父さんはママを愛してないんだろう、 って私思った。だからお祖父さんのとこへ行ったとき、わざと、ママがどんなにお祖父さんを愛 してるか話してやったの。お祖父さんは怒ったような顔をして聞いてたけど、聞いてるだけで何 も言わなかったわ。それで私、訊いてみた。ママはあんなにお祖父さんが好きで、いつもお祖父 たず
いらだ 「仕方がないな」とニコライ・セルゲーイッチは何か苛立たしげな鋭い声で、ぎくしやくした調 子で言った。「仕方がないな、お前のお母さんは父親を侮辱したのだ。お祖父さんが寄せつけな いのも当然の : : : 」 「ママも同じことを言ったわ」とネリーはすかさず言った。「家に帰るとき、そのことばかり一言 ってた。あれがお祖父さんよ、ネリー、ママはお祖父さんに悪いことをしたの、だからお祖父さ のろ んに呪われて、神様の罰があたったの、って。その晩も、それから次の日も次の日も、そのこと うわごと ばかり言ってた。なんだか譫言みたいに : と老人は黙ってしまった。 人「それから、どうしてほかのお部屋へ引越したの」とアンナ・アンドレーエヴナは声を立てずに れ泣きながら言った。 ら 「ママはその晩のうちに病気がひどくなって、大尉の奥さんがププノワの家のお部屋を探してき 虐てくれて、三日目に引越したの。大尉の奥さんと一緒にね。引越したらママはすっかり寝こんで しまって、三週間ぐらい寝たっきりで、私が看病したの。お金がすっかりなくなってしまって、 大尉の奥さんと、イワン・アレクサンドリッチが貸してくれたわ」 「葬儀屋なんです、同じ建物の」と私が説明を加えた。 「ママは起きて歩けるようになったら、アゾルカの話をしてくれたわ」 ネリーはちょっと口を休めた。話題がアゾルカのことになったのを、老人は喜んでいるようだ った。 「アゾルカのどんな話をしてくれたんだね」と、なるべく顔を見せまいとするように肘掛椅子に 496
ったけど、もしかすると、そうじゃないかもしれない : : かわいそうにー この部屋に住んでいたおじいさん ? 」 ささや 「ええ」と不安そうに私の顔を見ながら、少女はやっとのことで囁いた。 「名前はスミスだね ? そうだろう ? 」 「そ、そうよ ! 」 「じゃ、そのひとは : : : そう、やつばり死んじゃったんだ : : : でも、いい子だから、悲しむのは やめなさい。どうして今まで来なかったの。今はどこから来たの。きのうお葬式だったんだ。急 とにぼっくり亡くなったんでね : : : きみは、じゃあ、あのひとの孫だね ? 」 び 人 少女は私の脈絡のないせつかちな質間には答えなかった。何も言わずに向きを変え、部屋から めんくら れ出て行こうとした。私はすっかり面喰っていたので、少女を引きと、めもしなければ、もっと質問 ら をつづけようともしなかった。少女は敷居の上でもういちど立ちどまり、私のほうに体を半分ひ 虐ねって訊ねた。 「アゾルカも死んじゃったのね」 「そう、アゾルカも死んだよ」と私は答えたが、少女の質問は異様に思われた。まるでアゾルカ は老人と必ず一緒に死ぬものと信じ切っていたような言い方ではないか。私の答を聞くと、少女 はそっと部屋から出て、後ろ手に注意深くドアをしめた。 がぜん 一分ばかり経ってから、私は俄然、少女を追って駆け出した。帰してしまったのがひどく残念 であるー 少女の出て行き方は恐ろしく静かだったから、階段に通じるもう一つのドアをあけた 音は、私の耳には全然聞えなかった。まだ階段を下り切っていないだろうと私は思い、いったん さが : だれを探してるの。
私は身震いした。大長篇小説の発端が私の胸にひらめいた。葬儀屋の地下室で死ぬ哀れな女、 のろ 自分の母親を呪いつづけた祖父をときどき訪れるみなし児の娘、飼大の死んだあと喫茶店の店先 で倒れる気の狂った変り者の老人 ! 「あのアゾルカは前はママの大だったのよ」と、何かを思い出してにこにこしながら、とっぜん ネリーは言った。「お祖父さんは昔はママをとても愛していたの。ママが家出をしたあと、ママ : ママのことを のアゾルカが残ったわけ。だからお祖父さんはアゾルカをとても愛していたの : きび 赦さなかったから、大が死ぬと自分も死んじゃったのよ」と、ネリーは厳しく付け加え、その顔 とから微笑が消えた。 人「ネリー、お祖父さんは昔どういう人だったの」 . と、少し間をおいてから私は訊ねた。 「昔はお金持だづたんだって : : : 何をしていたかは知らない」と少女は答えた。「工場を持って らたんだって : : : ママがそう言ってた。私がまだ小さかったから、詳しいことは話してくれなかっ 虐たの。いつもママは私にキスして、今に分るわ、時が来れば分るわ、かわいそうな子、不仕合せ な子 ! って言った。いつも、かわいそうな子、不仕合せな子って。夜なんかも、私が眠ってる と思って ( ところが私はわざと眠らないで、眠ってるふりをしてたのよ ) 私の顔をのぞいて涙を 流したり、キスしたりして言うの、かわいそうな子、不仕合せな子、って」 「お母さんはなんで亡くなったの」 「肺病。もう六週間経ったわ」 「お祖父さんがお金持だった頃のことを覚えてる ? 」 「だって私はまだ生れてなかったもの。ママは私が生れる前に家出をしたの」 263
498 わき の脇に寄って塀にびったりくつついていた。お祖父さんは私をじいっと見たけど、とってもこわ い顔なの。びつくりしていたら、お祖父さんはそのまま通りすぎた。でもアゾルカが私のことを 思い出して、私のまわりをぐるぐる駆けて歩いて、手を舐めるのよ。急いで家の方に歩き出しな がら振り返って見たら、お祖父さんはパン屋へ入って行くのね。きっと私のことをいろいろ訊き に入ったんだなと思ったら、なおさらこわくなったんで、家へ帰ってもママに何も一言わなかった わ。ママの病気がまたひどくなるといけないと思って。翌日は頭が痛いからって私そのパン屋に 行かなかった。その次の日に行ったときは、だれにも逢わなかったけど、とってもこわかったか とら、行きも帰りも走ったの。それからまた一日おいて行ったら、角を曲ったとこで、ばったりお 人祖父さんとアゾルカに逢っちゃったのよ。すぐ走って、べつの通りに出て、反対側からパン屋に 入 0 た。そしたら真正面からお祖父さんが来るじゃない。私もうこわくって足がすくんじゃ 0 て、 ら もう歩けなくなったの。お祖父さんは私の前に立ちどまって、またじいっと顔を見て、それから しつぼ 虐私の頭を撫でて、私の手を掴んで歩き出したの。アゾルカは尻尾を振って、私たちについてきた。 そのとき気がついたんだけど、お祖父さんはもうまっすぐ歩くこともできなくて、ステッキに寄 りかかるみたいにして、手もぶるぶる震えてるの。角に坐ってお菓子やりんごを売ってる行商人 のとこへ、お祖父さんは私を連れて行ったわ。そうしてニワトリと魚のかたちのお菓子と、キャ ンデーと、りんごを買ってくれたの。でも革の財布からお金を出すとき、手がすごく震えて、五 コ。ヘイカ玉を一つ落っことしたから、私が拾ってあげた。そしたらその五コペイカ玉を私にくれ て、買ったお菓子もくれて、私の頭を撫でたの。でもなんにも言わずに、私から離れて帰っちゃ った。
うわ 1 」と 私はその要求にぎよっとしたが、とにかく詳しい様子を話してやった。少女は譫言を言ってい るのかもしれない。少なくとも発作のあとで頭がまだはっきりしていないのではあるまいか、と 私は思った。 ネリーは私の話を最後まで注意深く聴いた。病的な熱っぽい光を帯びた黒い目が、話の間じゅ う、じっと私の表情を見守っていたのを、今でも覚えている。部屋の中はもう暗かった。 「ううん、ワーニヤ、お祖父さんは死んだんじゃないわ ! 」と、話を聴き終え、もういちど少し 考えてから、少女はきつばりと言った。「ママがお祖父さんの話ばかりするから、きのう私言っ たのよ、『お祖父さんは死んだじゃない』って。そしたらママはとても悲しがって泣き出して、 こじき 人そうじゃない、それは人があんたにわざとそう話して聞かせるだけだ、お祖父さんは今でも乞食 をして歩いている、『前にあんたと二人でしたみたいにね』ってママは一『〕うの。『前にお祖父さん と初めて逢ったとき、私がお祖父さんの前にひざまずいたら、アゾルカが私を思い出したでしょ 虐う、あの辺をお祖父さんはまだ歩いているのよ : : : 』って」 「それは夢だよ、ネリ ー、病気のときに見る夢だ。きみは今、病気だから」と私は言った。 「私もただの夢だと思ったの」とネリーは言った。「だからだれにも話さなかった。あなたにだ け何もかも話したかったけど。でも今日あなたがなかなか来ないので眠ってしまったら、夢に今 度はお祖父さんが出て来たのよ。痩せて、こわい顔をして、自分の部屋で私を待ってたの。そし て、もう二日間なんにも食べていない、アゾルカもだ、って私を叱るの。もう嗅ぎ煙草も全然な くなってしまった、煙草がないとわしは生きていかれないんだ、って。お祖父さんは前に本当に たず そう言ったことがあるのよ、ワーニヤ。ママが死んだあと、私が訪ねて行ったときにね。そのと 538 しか
抱きしめて、なんにも訊こうとしなかった : : : 」 ここでニコライ・セルゲーイッチは苦しそうにテープルに手を突いて立ちあがったが、何か奇 ひじかけいす 妙な濁ったまなざしで私たち一同の顔を見まわすと、カが抜けたように肘掛椅子に腰を下ろした。 アンナ・アンドレーエヴナはもう夫のほうを見ようともせず、泣きながらネリーを抱き [ めてい 「最後の日、死ぬ前に、夕方頃だったけど、ママは私を呼んで、私の手を握ってこう言たわ、 『私は今日死ぬよ、ネリ 1 』そしてもっと何か言おうとしたけど、もうロがきけないの。私を見 とてるんだけど、なんだか何も見ていないみたいで、私の手を両手でしつかり握っているだけなの。 人私はそうっと手を振りほどいて、部屋から駆け出して、ずうっと走りつづけてお祖父さんの家へ 行ったわ。お祖父さんは私の顔を見ると、がたんと椅子から立ちあがって、ひどくびつくりした れ さお らみたいに私を見たけど、顔はもう真っ蒼で、全身がたがた震えてた。私はお祖父さんの手を撼ん 虐で、一言だけ、『もうすぐ死ぬわよ』って言ったら、お祖父さんは急にあわて出して、ステッキ を掴んで、私について走り出したの。寒い日だったのに帽子をかぶるのも忘れてね。私、帽子を とってきて、かぶせてあげて、二人で一緒に走ったわ。ママはもうすぐ死ぬんだから、急がなき や駄目、馬車に乗って行かないって言ったけど、お祖父さんは七コペイカしか持っていないの。 つじ それでもお祖父さんは辻馬車屋を呼びとめて、掛け合ったんだけど、馬車屋は笑って相手にしな アゾルカのことまで笑ってたわ。アゾルカは私たちと一緒に走ってたのよ。私たちはとにか く走りつづけたの。お祖父さんは疲れて、息が苦しそうになって、それでも走りつづけた。そし て急にはたんと倒れ、帽子が飛んしやったの。私はお祖父さんを助け起して、また帽子をかぶせ 511 つか
んだ。さあ、きみの本だよ。その本で勉強してるの」 「ちがう」 「じゃ、どうするの、その本を」 「ここへ来てた頃、お祖父さんに教わったの」 「じゃ、来なくなったわけ ? 」 「来なくなったの : : : 病気になったから」と少女は弁解のように言い足した。 「それでお家の人はいるの、お母さんは、お父さんは ? 」 と 少女はとっぜん顔をしかめ、驚いたように私の顔を見た。それから目を伏せ、無言で向きを変 人えると、きのうと全く同じように、私の問いに答えもせず、そっと部屋から出て行こうとした。 れ私は呆れてその姿を目で追った。だが少女は戸口で立ちどまった。 ら「お祖父さんはどうして死んだの」と、こころもち私の方に体を向けて、ぶつきらぼうに少女は 虐訊ねた。それはきのう帰りがけに、ドアの方を向いたまま、アゾルカのことを訊ねたときと、全 く同じ体の動きだった。 私は少女に近寄り、手短かに話して聞かせた。少女は何も言わず、私に背を向けてうなだれた まま、熱心に聴いていた。私は老人が息を引きとるとき六丁目とロ走ったことも話した。「だか らぼくは考えたんだ」と私は付け加えた。「きっとそこに親しい人が住んでいるんだろうってね。 そのひとがお祖父さんのことを聞きに来ると思っていた。最期にきみのことを言ったのだから、 お祖父さんはきっときみが好きだったんだね」 ささや 「ちがう」と少女は釣りこまれたように囁いた。「好きじゃなかった」 177 あき