チはときどき極端に気むずかしくなったけれども、それでも二人は二時間と別々にはいられず、 さび 少しのあいだ離れる場合にも淋しそうな、辛そうな顔をするのだった。ナターシャについては暗 黙の了解があるように二人とも何も言わず、まるでナターシャはこの世にいないようだった。ア ンナ・アンドレーエヴナは夫の前ではナターシャのことをほのめかしもしなかったが、これはひ どく辛いことであったに違いない。老婦人はもうずっと前から心の中ではナターシャを赦してい たのだった。私たちのあいだではなんとなく取り決めができていて、訪問のたびに私はアンナ・ まなむすめ アンドレーエヴナに忘れられぬ愛娘の消息を伝えた。 と永いこと消息を聞かないと老婦人は病気になるのだった。そして私のもたらす消息の些細な占 人にも関心をもち、心ぜわしい好奇心にかられてあれこれと質問し、私の話を気晴らしのたねにし た。だからナターシャが一度病気になったときは恐怖のあまり気も転倒し、もう少しで自分から れ 娘の所へ出掛けて行きそうになったのである。だが、これは極端な場合だった。初めのうち、老 虐婦人は私の前ですら娘に逢いたい気持を口に出さす、さんざん私に質問をあびせたあとでは、い つもきまってなんとなく殻を閉じるような態度になり、娘の運命には関心があるけれども、やは つみびと りナターシャは罪人だから赦すことはできないと繰り返したのである。だがそれはすべて表面だ けのことだった。しばしばアンナ・アンドレーエヴナは衰弱するまでに嘆き悲しみ、私の前では ナターシャの愛称をいとしげにロに出したり、ニコライ・セルゲーイッチのことをこぼしたりす ごう るのだった。そして夫の前では、きわめて用心しいしいではあるけれども、人間というものは まん 慢で薄情だとか、私たちは侮辱を赦すすべを知らないとか、人を赦さぬ者を神はお赦しくださら ないとか、遠まわしに言い出すのだったが、夫の前ではそれ以上は何も一言えなかった。そんなと
・ : ネリーになるま 『愛と誇りに満ちた心』と私は思った。『たいへんな苦労だったよ、きみが : でが』。だが今や少女の心は永遠に私に捧げられたのだ。それが私にはよく分った。 「ネリ 、あのねーと、少女が落着いたのを見て私は訊ねた。「きみは今、愛してくれたのはマ マだけで、ほかにはだれもいなかったと言ったね。でも、お祖父さんはきみを愛していなかった 「いなかった : : : 」 「でも、覚えてるだろう、そこの階段のところで、きみはお祖父さんのことを思って泣いたじゃ とないか」 び 人 少女はちょっと考えこんだ。 「ううん、お祖父さんは愛してくれなかった : : : 意地悪な人だった」そして何か病的な感情の動 れ ら きが少女の顔に現われた。 。あの人はすっ 虐「しかしそれはお祖父さんに要求しても無理なことじゃなかったのかな、ネリー もうろく な かり耄碌していたみたいだろう。亡くなったときは気違いみたいだったからね。亡くなったとき の様子は、きみにも話したとおりだ」 「ええ、でもぼけてしまったのは死ぬ一月前ぐらいからなの。この部屋に一日じゅう坐ったっき り。私が来なければ、食べも飲みもしないで二日でも三日でも坐ってるの。前はそんなじゃなか ったんだけど」 「前って、何の前 ? 」 「ママが生きていた頃」 261
、、、のろ には、娘を永遠に呪い、父親としての祝福も撤回すると、いかめしい顔つきで宣言したのである。 アンナ・アンドレーエヴナはそっとしたが、老人の世話をしないわけにはいかないので、自分 自身、気が遠くなりそうなのに、その日一日、そしてほとんど一晩中、老人の頭を酢で湿布した うわごと り、水を当てたりして看病した。老人は熱が出て、譫言を言った。私がイフメーネフ家から帰っ たのは、もう夜中の二時すぎだった。だが翌朝、イフメーネフは起きあがり、いよいよネリーを 本当に引き取るべく私の家に来た。だが、ネリーとうまくいかなかったことは、すでに述べたと おりである。その一幕が老人の心を決定的にゆすぶったのだろう。家に帰ると、老人は床につい つ」てしまった。これはすべて受難週間の金曜日。ーーすなわちカ 1 チャとナターシャの会見が予定さ 人れた日、そしてアリョにシャとカーチャが。へテルプルグから旅立つ前日に起ったことなのである。 」二人の女の出逢いに、私は立ち会った。それは朝早く行われ、老人が私の家へ来る前の、そして ら ネリーが第一回の家出をする前のことであった。 第六章 たず ナターシャに前もって知らせるために、アリヨーシャは約束の時刻の一時間前に訪ねて行った。 私が着いたのは、カーチャの馬車が門の前にとまった、ちょうどそのときだった。カーチャは年 老いたフランス女と一緒だった。この老女はさんざん頼まれ、永いこと迷った末に、とうとうカ ーチャに付き添って来ることを承知したばかりでなく、カーチャが一人でナターシャの部屋へ行 くことにも同意したのである。もちろん、アリヨーシャと一緒にという条件はついていたが。老
いたとき以来の気持だったんだ。ここでカーチャを褒める気はさらさらないけれども、ただ一つ だけ言っておこう。ああいう社交界では、彼女はいわば輝かしい例外だよ。実に独特な性格で、 強い、まっすぐな心のもちぬしなんだ。その純潔さと正しさがすなわち強さなんたな。だから彼 女の前に出ると、ぼくなんかただの子供か、弟みたいなものさ。彼女はまだ十七なんだけどね。 それからもう一つ気がついたのは、彼女には非常な悲しみというか、何か秘密のようなものがあ るんだね。だいたい口数が多くない。家にいても、まるで何かにおびえてるみたいに、あまり喋 らない : : : 何かを深く考えこんでるようにね。ぼくの父をこわがってるようでもある。継母を愛 としていないことは前から気がついていた。継娘にたいへん愛されてますなんていうのは、何らか うそ 人の目的のために伯爵夫人自身が言い触らしてることなんだ。みんな嘘つばちさ。カーチャはなん さか にも逆らわずに伯爵夫人の言うことをおとなしく聞いているけど、その点は申し合せでもあるよ れ ら うな感じだね。とにかく四日前に、ぼくはいろんな観察の総決算として自分の考えを実行に移そ 虐うと決心した。そして今晩それを実行したのさ。すなわち、カーチャにすべてを話すこと、すべ てを打ち明けて、彼女をぼくらの味方に引き入れ、一挙に問題を解決すること : : : 」 「なんですって ! 何を話すの、何を打ち明けるのーとナターシャは不安そうに訊ねた。 「すべてをさ、断然すべてをさ」とアリヨーシャは答えた。「こういう考えをぼくに吹きこんで くださった神に栄光あれ。でもね、いいですか、よく聴いてくださいよ ! 四日前のぼくの決心 というのは、あなた方からしばらくのあいだ離れて、自分一人ですべてを解決しようということ だったんです。あなた方と一緒だと、ぼくは絶えず動揺し、あなた方を頼ってしまって、どうし ても決心がっかないに違いない。でも一人ぼっちになって、解決しなくちゃいけない、どうして 151
新もっとも、私は泣きたくはないけれども。ね、どうです、イワン・。へトローヴィチ。まあ考えて 一」うよう みてくださいよ、もし私の望むようにならなかったら、私の昻揚した気分はたちまち消え失せ、 飛び散ってしまって、あなたは結局なんにも聞けないんですよ。あなたがここへいらしたのは、 私から何かを聞き出すのが唯一の目的なんでしよう。そうじゃありませんか ? 」と、またもや無 礼な目配せをしながら、公爵は付け加えた。「だったら、ひとつご自分で選択してください」 このおどかしは重大だった。私は同意した。『私を酔いつぶす気だろうか』と私は思った。こ うわさ こで、だいぶ前から私の耳に入っていた公爵に関する一つの噂を語っておこう。社交界ではあれ とほど礼儀正しく小粋な公爵は、噂によれば、夜な夜な飲み歩き、ぐでんぐでんに酔っぱらって、 ほうとう 人汚らわしい秘密の放蕩にふけるのが大好きだという : : 私の耳にも恐るべき噂はいくつか入って れいた : : : 人の話だと、アリヨーシャは父親の飲酒癖を知っていたが、人の前では、ことにナター ら シャの前では極力それを隠そうとしていた。一度、私の前でアリヨーシャはロを滑らしかけたが、 虐すぐに話をそらし、私の質問に答えなかったことがある。しかしこの噂は青年の口から直接聞い たことではないので、以前の私は信じていなかった。だが今は、どうなることかと待ち受けてい たのである。 葡萄酒が来た。公爵は自分と私の二つのグラスに注いだ。 ののし 「私を罵ったけれども、かわいい、 実にかわいい娘さんだ ! 」と公爵はうまそうに葡萄酒を味わ いながら一言葉をつづけた。「ああいうかわいい人は、まさしくああいう瞬間にいっそうかわいい : あの晩を覚えておられますか、あの娘さんはさぞかし、私に恥をかかせてやった、めちやめ ほお ちゃにやつつけてやったと思ってるんでしようなー ははは ! あの頬の赤みがなんともいえな
うわ 1 」と 私はその要求にぎよっとしたが、とにかく詳しい様子を話してやった。少女は譫言を言ってい るのかもしれない。少なくとも発作のあとで頭がまだはっきりしていないのではあるまいか、と 私は思った。 ネリーは私の話を最後まで注意深く聴いた。病的な熱っぽい光を帯びた黒い目が、話の間じゅ う、じっと私の表情を見守っていたのを、今でも覚えている。部屋の中はもう暗かった。 「ううん、ワーニヤ、お祖父さんは死んだんじゃないわ ! 」と、話を聴き終え、もういちど少し 考えてから、少女はきつばりと言った。「ママがお祖父さんの話ばかりするから、きのう私言っ たのよ、『お祖父さんは死んだじゃない』って。そしたらママはとても悲しがって泣き出して、 こじき 人そうじゃない、それは人があんたにわざとそう話して聞かせるだけだ、お祖父さんは今でも乞食 をして歩いている、『前にあんたと二人でしたみたいにね』ってママは一『〕うの。『前にお祖父さん と初めて逢ったとき、私がお祖父さんの前にひざまずいたら、アゾルカが私を思い出したでしょ 虐う、あの辺をお祖父さんはまだ歩いているのよ : : : 』って」 「それは夢だよ、ネリ ー、病気のときに見る夢だ。きみは今、病気だから」と私は言った。 「私もただの夢だと思ったの」とネリーは言った。「だからだれにも話さなかった。あなたにだ け何もかも話したかったけど。でも今日あなたがなかなか来ないので眠ってしまったら、夢に今 度はお祖父さんが出て来たのよ。痩せて、こわい顔をして、自分の部屋で私を待ってたの。そし て、もう二日間なんにも食べていない、アゾルカもだ、って私を叱るの。もう嗅ぎ煙草も全然な くなってしまった、煙草がないとわしは生きていかれないんだ、って。お祖父さんは前に本当に たず そう言ったことがあるのよ、ワーニヤ。ママが死んだあと、私が訪ねて行ったときにね。そのと 538 しか
「何もかも興奮と空想と孤独のせいです : : : あなたはアリヨーシャの軽はずみな行為にすっかり 苛立ってしまわれた : : : しかしこれは単にアリヨーシャが軽率であったというにすぎません。あ なたが今指摘された一番重要な事実、すなわち火曜日の出来事は、むしろあなたにたいするアリ ヨーシャの限りない愛着を証明しているのです。ところがあなたはそれを逆におとりになっ 「ああ、何もおっしやらないでください、せめて今だけでも私を苦しめないで ! 」とナターシャ はむせび泣きながら相手の言葉をさえぎった。「もう前から感じで分っていたわ、ずっと前か とら ! アリヨーシャの今までの愛情はすっかりさめてしまったのよ。それが私に分らないとお思 いになるの : ・ : ・ここで、この部屋で、ひとりで : : : アリヨーシャに棄てられ、忘れられて : : : 私 はじっと我慢して : : : よくよく考えてみました : : : でも、どうしようもなかったわ ! あなたを ら ・ : どうしてあなたは私をだますの。私は自分で自分を 責めてるんじゃないのよ、アリヨーシャ : ・ : それも何べんも、何べんもよ ! ア 虐だまそうとしてみたのよ、それがお分りにならないのー こわね リヨーシャの声音に耳をすましたわ。アリヨーシャの顔色や目の表情を一生懸命読もうとしたわ : もう何もかも駄目になったのよ、葬り去られたのよ : : : ああ、私はなんて不幸なんだろう ! 」 アリヨーシャはナターシャの前にひざまずいて泣いていた。 「そうだよ、そうだよ、悪いのはぼくなんだ ! すべてはぼくのせいなんだ ! 」と泣きながらア リヨーシャは繰返した。 : ほかにいるのよ。それは、そ ・ : 私たちの敵は : 「だめよ、自分を責めないで、アリヨーシャ : こにいる人の仲間よ : : : そこにいる人の仲間なのよ ! 」 302
んとっちめられるのを、この五日間、楽しみにして待っていたのに、その楽しみが得られなかっ たばかりか、みんながこんなに陽気になっているのだから。 やがてナターシャは、私たちの笑いにアリヨーシャが気を悪くし始めたのに気づいて、ようや く笑うのをやめた。 たず 「何を話したいの」とナターシャは訊ねた。 「サモワールは出しますか、どうしますか」と、平気でアリヨーシャの答をさえぎってマーヴラ が八ねた。 と「あっちへ行ってくれよ、マーヴラ、あっちへ行ってくれ」と、手を振って女中を追い払いなが 人らアリヨーシャは答えた。「これから過去、現在、未来のすべてを話そう。ぼくにはぜんぶ分っ ているんだからね。さて、みなさん、あなた方はぼくがこの五日間どこにいたか、それを知りた らいんでしよう。ぼくが話したいのも実はそのことで、だのにあなた方はぼくに話させてくれない 虐んだ。ところで、まず第一に、ナターシャ、ぼくはきみをだいぶ前からすうっと騙しつづけてき た。これがまず肝心な点だ」 「騙しつづけて ? 」 「そう、騙しつづけてきた、もう一カ月もね。まだ父が帰って来ない前から始まったことなんだ。 今ようやく何もかも打ち明ける時が来たけれども。今から一月前、まだ父が帰って来ない頃、ぼ もら くは父から長文の手紙を貰って、そのことをあなた方二人には隠していた。その手紙の中で父は きわめて率直に、あっさりとーーーーしかもぼくがびつくりしたほどの真剣な調子でーー・ぼくの結婚 問題はもう結着がついた、花嫁は完全無欠な女性だと書いていたんだ。ぼくはその花嫁には勿体 138 ひとっき だま
第十一章 けれどもヴォズネセンスキー通りのどろどろに汚れた歩道に足を踏み入れるや否や、私はとっ ぜん一人の通行人に突き当った。その通行人は何か考えこんでいたらしく、頭を垂れ、足早にど こかへ歩いて行くところだった。たいそう驚いたことには、それはイフメーネフ老人だったので であ ある。その夜は思いがけない出逢いのつづく夜たった。老人が三日ばかり前にひどく体具合がわ とるくなったことを私は知っていた。それなのに、こんなじめじめした夜、路上で逢うとはどうい 人うことだろう。しかも、老人は以前から夜はほとんど外出しなかったし、ナターシャの家出以来、 ちつきよがた つまりもうほとんど半年ほど前からは、完全に蟄居型の人間になっていたのだった。老人はまる らで腹を割って話せる友人に出逢ったように何やら異常に喜び、私の手をしつかりむと、どこへ たず 虐行くのかと訊ねもせずに私をどんどん引っ張って行った。何か心配事があるらしく、老人はせか せかしていて衝動的だった。『どこへ行くところだったんだろう』と私は思った。それを訊ねる うたぐ のは余計なことだった。老人は恐ろしく疑り深くなっていて、ほんのちょっとした質問や意見を、 当てこすりとか、侮辱とかいうふうに受けとるのだった。 私は横目を使って老人を観察した。老人の顔は病人じみていた。近頃ひどく痩せたようである。 ひげ 髭はもう一週間も伸び放題だった。すっかり白くなった髪の毛が型の崩れた帽子の縁からだらし がいとうえり なくはみ出し、着古した外套の襟の上に長く垂れていた。前から気づいていたことだが、老人は ひと ときどき放心したようになることがあった。たとえば同じ部屋にだれかがいるのを忘れて、独り よご
渡して来てちょうだい、それでね、これを読んでお祖父さんがなんて言うか、どうするか、それ ゆる を見て来てちょうだい、お前はお祖父さんにひざまずいてキスして、お願いですからママを赦し てあげてって一一 = ロうのよ : : : そう言ってママはとっても泣いて、私にキスしたり、気をつけて行き なさいって十字を切ったり、聖像の前に二人で並んでお祈りしたりしたの。そうして体具合が悪 いのに門まで私を送って来て、振り返ってみたら、ずうっとそこに立って私を見送ってたわ : かぎ お祖父さんのとこへ行って、私はドアをあけたの。ドアには鍵がかかってなかった。お祖父さ んはテープルの前にすわって。ハンとじゃが芋をたべていて、アゾルカはその前にすわって尻尾を と振りながら、お祖父さんがたべるのを見てるの。その部屋も窓が低くて、暗くて、テープルと椅 人子が一つずつあるだけだった。お祖父さんは一人で暮してたの。私が入って行くと、びつくりし さお れて、真っ蒼になって震え出したわ。私もびつくりしたから、何も言わずにテ 1 プルに近づいて、 ら 手紙をテープルに置いた。お祖父さんはその手紙を見ただけで、かんかんに怒って、いきなり立 虐ちあがり、ステッキを掴んで振りまわしたの。ぶちはしなかったけど、私を入口まで連れて行っ て外へ押し出した。私が階段を下りようとすると、お祖父さんはまたドアをあけて、封も切らな い手紙を投げて返したの。家へ帰ってすっかり話したら、ママはまた寝こんでしまって : : : 」 たた そのときかなり激しい雷鳴がとどろき、大粒の雨が窓ガラスを叩き始めた。部屋の中が暗くな った。老婦人はおびえたように十字を切った。私たちはみんな体を固くした。