ろで、その婦人はあいにく今病気である。そういうケースは伯爵夫人が頭痛のときに起り、した がって夫人の頭痛を待たねばならない。それまでにカーチャはそのフランス女 ( 茶飲み友達とい った感じの老婆だった ) を説得することにした。その婦人は非常に親切な人だという。だが要す るに、ナターシャを訪問する日時を前もって決めることは、やはり不可能だった。 「ナターシャと付き合っても後悔することはないと思いますーと私は言った。「むこうもあなた に逢いたがっているし、それにアリヨーシャをゆすり渡す相手がどんな人間か、それを知ること は必要ですからね。その問題については、あまり心配なさることはありません。あなたが心配な なか さらなくても、いずれは時が解決してくれます。だってあなたは田舎へいらっしやるのでしょ 人う」 れ「ええ、もうじき、たぶん一月ほどして」と俍は答えた。「公爵がしきりにすすめるんです」 ら 「どうお思いです、アリヨーシャもあなた方と一緒に行くでしようか」 「ええ、そのことは私も考えました ! 」と、じっと私を見つめてカーチャは言った。「きっと行 くと思うわ」 「行くでしようね」 「ああ、それで結局どうなるのかしら , ーー分らないわ。ねえ、イワン・。へトローヴィチ、私これ から手紙で何もかもお知らせすることにします。たびたびお手紙しますわ。もうさっそく今日か ら厄介なことばかり申し上げてしまいました。これからはちよくちよく、いらしていただけま 「分りませんね、カチ = リーナ・フヨードロヴナ。事青によりけりです。ひょっとすると全然お 377
んだ。さあ、きみの本だよ。その本で勉強してるの」 「ちがう」 「じゃ、どうするの、その本を」 「ここへ来てた頃、お祖父さんに教わったの」 「じゃ、来なくなったわけ ? 」 「来なくなったの : : : 病気になったから」と少女は弁解のように言い足した。 「それでお家の人はいるの、お母さんは、お父さんは ? 」 と 少女はとっぜん顔をしかめ、驚いたように私の顔を見た。それから目を伏せ、無言で向きを変 人えると、きのうと全く同じように、私の問いに答えもせず、そっと部屋から出て行こうとした。 れ私は呆れてその姿を目で追った。だが少女は戸口で立ちどまった。 ら「お祖父さんはどうして死んだの」と、こころもち私の方に体を向けて、ぶつきらぼうに少女は 虐訊ねた。それはきのう帰りがけに、ドアの方を向いたまま、アゾルカのことを訊ねたときと、全 く同じ体の動きだった。 私は少女に近寄り、手短かに話して聞かせた。少女は何も言わず、私に背を向けてうなだれた まま、熱心に聴いていた。私は老人が息を引きとるとき六丁目とロ走ったことも話した。「だか らぼくは考えたんだ」と私は付け加えた。「きっとそこに親しい人が住んでいるんだろうってね。 そのひとがお祖父さんのことを聞きに来ると思っていた。最期にきみのことを言ったのだから、 お祖父さんはきっときみが好きだったんだね」 ささや 「ちがう」と少女は釣りこまれたように囁いた。「好きじゃなかった」 177 あき
た道と、社会的な地位が、自分には必要なのだ。そうおっしゃいましたね。覚えておられますか」 「覚えています」 「そのお金を手に入れるために、今まで得られなかったそういう社会的な成功をわがものにする ねっぞう ために、あなたは火曜日にここへ来て、あの結婚話を捏造したのです。その狂一言が今まで得られ なかったものをつかまえるのに役立つだろうと計算なさったうえでね」 「ナターシャ」と私は叫んだ。「何を言ってるんだ、よく考えてごらん ! 」 「狂言 ! 計算 ! 」と、ひどく威厳を傷つけられたように公爵は繰返した。 とアリヨーシャは悲しみに打ちひしがれたように坐ったまま、ほとんど何も分らずに茫然として 人いた。 れ「ええ、そうよ、とめないでください、私、何もかも言 0 てしまおうと心に誓ったんですから」 いらだ ら と、ナターシャは苛立った口調でつづけた。「でも覚えていらっしやるでしよう、アリヨーシャ 虐はあなたの言うことを聞きませんでした。半年間というもの、あなたはアリヨーシャを私から引 き離そうとさんざん苦労なさった。でもアリヨーシャはあなたに従いませんでした。そのうちに、 どうにも猶予のならぬときがやって来ました。その時を逃せば、花嫁も、お金もーー・・肝心なのは、 その三百万という持参金が、あなたの指のあいだからこぼれ落ちてしまう。残る手段は一つだけ。 あなたはそうお あなたが息子の花嫁と決められたその方を、アリヨーシャが好きになればいい。 考えになった。もしそちらを好きになれば、息子さんは私を棄てるかもしれない : 「ナターシャ、ナターシャ ! 」と悲しそうにアリヨーシャは叫んだ。「なんてことを一一 = ロうんだ ! 」 「で、あなたはそのとおり実行なさったーと、アリヨーシャの叫びにもめげず、ナターシャは言 298 むすこ ぼうぜん
の仕事が永びけば《おれはますます弱味を握られるばかりだという気がした。たからやっから二 もら 千ループリ貰うことを承知しちゃったんだ」 「二千ル 1 プリ貰ったのかー 「銀貨でな、ワーニヤ。断腸の思いで受けとったよ。これが二千ぼっちの仕事かってんだ ! 卑 屈な気持で受けとったよ。おれは唾でもひっかけられたような気分でやつの前に立っていた。や つが言いやがった、マスロポーエフさん、あなたの今までのお仕事のお礼をまだお払いしていま せんでしたね ( ところが、それまでの仕事についちゃ、とうの昔に、約束どおり百五十ループリ と貰ってるんだ ) 、私はこれから旅行に出ます。ここに二千ループリある。これでわれわれの仕事 人はすべて完全に終了したわけですな。おれは答えた、『完全に終了しました、公爵』・ーーそう答え つら たものの、どうしてもやつの面を見る勇気がない。その面にこう書いてあるかと思うとね、『ど ら うだ、大金だろう、これはただのお情けで馬鹿者に恵んでやるのだよ ! 』・やつの家からどうやっ げ 虐て出て来たかも覚えていない始末さ ! 」 きた になんて 「それじゃ、あんまり汚ないじゃないか、マスロポーエフ ! 」と私は叫んだ。「ネリー ことをしてくれたんだ」 「汚ないだけじゃない、懲役ものだ、唾棄すべき行為だ・ : ・ : まるで : : : まるで : : : い や、も、つ一一 = ロ い表わす言葉もない ! 」 「ひどい話だな ! 公爵には少なくともネリーの生活を保証する義務があるはずなのに ! 」 「義務か。それをどうやって強制する ? 脅迫するか ? やつはたぶん驚きもしないよ。おれが 金を貰っちゃったんだからね。こっちの脅迫のたねは銀貨で二千ループリの値段でございますと、 551
ういう場合のやさしさは以前よりもずっと強いように思われ、少女はそんなときたいていは痛々 ちんうつ しく泣くのだった。けれどもそのような時間はたちまち過ぎ去り、少女はふたたび今までの沈鬱 に落ちこみ、ふたたび敵意をこめた目で私を見たり、医者にしてみせたのと同じようないたずら をしたり、あるいはそのいたずらに不愉快そうな顔をしている私を見て、とっぜんげらげら笑い 出し、とどのつまりは、ほとんどいつも涙に終るのだった。 けんか 一度などは、アレクサンドラ・セミョーノヴナとさえ少女は喧嘩し、なんにもして欲しくない たた などと憎まれ口を叩いた。私がアレクサンドラ・セミョーノヴナの前でそれをたしなめると、み とるみるかっとなったネリーは、積る憎しみを爆発させるようにロ答えし始めたが、ふいに口をつ 人ぐみ、それから二日間というもの私とは一一 = ロも口をきかず、薬を決して受けつけず、飲みものや 食べものさえ拒むのだった。老医師がようやくなだめすかして、少女の機嫌を直した。 ら すでに述べたように、医者と少女のあいだには例の薬の一件以来、何やら驚くべき共感が芽生 えていた。ネリーはこの老人が大好きになり、どんなに機嫌の悪いときでも笑顔で医者を迎える のだった。老人のほうも私の家へ毎日来るようになり、ネリーがもう歩き始め、すっかり全快し たのに、日に二度も訪ねてきた。どうやら老人はこの少女に魅せられ、その笑い声や愉快な悪ふ ざけを聞かずには一日たりとも過せなくなったようである。老人は少女のために、教育的な内容 の絵入りの本を持ってくるようになった。その一冊などはわざわざ買ってきたらしい。次に老人 は砂糖菓子や、きれいな箱に入ったキャンディをせっせと運び始めた。そういうおみやげがある とき、老人はまるで命名日の当人のようにまじめくさった顔をして入ってくるので、ネリーはす ぐに分ってしまうのだった。だが老人はすぐにはおみやげを見せす、ネリーのそばに腰を下ろし
鰤ら、そのことばかり考えていたんだな、かわいそうに、それに公爵のことは私以上に疑っている んだな』 「ああ、なるべく早く公爵がまた来てくれれよ、 ーしい ! 」とナターシャは言った。「今度来るとき は夕方からうかがいますなんて言ってたけど : : : 何もかも放り出して急に旅に出るなんて、よほ 何か聞かなかっ ど大切な用事なのね。どんな用事なのか、あなたはご存知ない、ワーニヤ ? た ? 」 かねもう 「さつばり分らない。何か金儲けのことだろうね。このペテルプルグで何かの事業の片棒をかっ 、つわさ といでるという噂は聞いたけれども。なにしろ事業のことなんかぼくには分らないからね、ナター 人シャ」 「そりやそうね、分らないわ。アリヨーシャはきのう、手紙がどうとか言ってたわね」 れ ら「何かを知らせてきたんだろう。ところでアリヨーシャは来た ? 」 虐「ええ」 「朝早く ? 」 「十二時頃。あのひと朝寝坊なのよ。ちょっといただけで、私がカチリーナ・フヨードロヴナ の家へ追っ払ったわ。だって、わるいでしよう、ワーニヤ」 「彼は自分でもそっちへ行くつもりだったんじゃない ? 「ええ、そうだったみたい : ・・ : 」 ナターシャは更に何か言おうとして、ロをつぐんだ。私はナターシャの顔を見つめ、言葉を待 った。その顔は悲しげだった。こちらから訊いてもよかったのだが、ナターシャはときどき質問
くらやみ ヴナのことですけど : : : 実は、イワン・。へトローヴィチ、今、私なんだか暗闇の中にいるみたい で、光を待つようにあなたをお待ちしてましたの。お願いですから、いろいろ教えてくださいな。 だって一番大事なこととなると、アリヨーシャの話から推理するしかないんですもの。ほかには だれも訊く人がいませんし。あの、ます第一に ( 肝心なことですけど ) どうお思いになります、 アリヨーシャとナターシャは一緒になって仕合せになるでしようか。それをまず第一に知りたい んです。自分がどう行動すべきか最後の決心を固めるためにも」 「そういうことはなかなか確言できないものですが : : : 」 と「ええ、もちろん確言はできないわ」と娘は私をさえぎった。「でも感じとしてはどうかしら。 人だってあなたは頭のいい方だから」 「私の見たところでは、仕合せになれないでしようね」 ら 「どうして」 げ 虐「性格が合わないからです」 「私もそう思ったんです ! ーそして娘は物思いに沈み、両手を組み合せた。 「もっと詳しく話してくださいません ? あの、私とってもナターシャに逢いたいんです。話し たいことがたくさんあるし、ナターシャと話し合えば何もかも決るような気がして。今はただ頭 で想像するだけですけど、ナターシャはとっても利ロで、まじめで、誠実で、お美しい方だと思 、つわ。そうでしよう ? 」 「ええ」 「やつばり思っていたとおりだわ。じゃ、ナターシャがそういう方なら、どうしてアリヨーシャ 371
いと思ったんですが、あなたのご意見をうかがいたいばかりに、ちょっと話してみただけなんで す ) ーーー・もし小説で成功しなかったら、いざという場合は、音楽のレッスンを始めてもいいんで す。ぼくに音楽の心得があることはご存知なかったでしよう。そういう労働によって生活するこ とを、ぼくは恥とは思いません。そういう点では、ぼくは全く新しい思想のもちぬしなんです。 そう、それにぼくはいろんな高価な飾り物や、化粧道具なんかを持ってます。そんなものが何の 役に立つでしよう。それを売り払えば、ずいぶん食いつなげる ! それでも、どうしてもぎりぎ りのところまで追いつめられたら、本当に勤めに出るかもしれません。そしたら父も喜ぶでしょ とう。なにしろ勤めろ勤めろとうるさかったのを、ぼくは健康状態を理由に逃げてはかりいたんで 人すから。 ( しかし名義上はどこかに勤めていることになっています ) 。結婚のおかげでぼくの身が 固まって、本当に勤めに出るようになったのを見たら、父も喜んでぼくを赦すでしよう : : : 」 ら 「しかし、アレクセイ・。へトローヴィチ、あなたのお父さんとナターシャのお父さんのあいだに、 虐これからどんな騒ぎがもちあがるか考えてみましたか。それに今晩このひとの家がどういうこと になるか、その点は一体どう思います ? そして私は、私の言葉にたちまち蒼ざめてしまったナターシャをゆびさした。私は無慈悲だっ た。 「ええ、ええ、おっしやるとおり恐ろしいことです ! 」とアリヨーシャは答えた。「そのことは もちろん考えましたし、心の中では苦しみもしました : : : しかし仕方がないじゃありませんか。 あなたがおっしやるとおり、ナターシャの両親だけでもぼくらを赦してくれるといいんですが ね ! お分りいただけるかどうか、ぼくはあのお二人を非常に愛しています ! お二人はぼくに あお ゆる
ひと けど、ワーニヤ、あなたがその女と知り合いになることはできないかしら。だって伯爵夫人は ( あの頃あなたがおっしやってたわ ) あなたの小説を褒めていたんでしよう。それにあなたはと ひと きどき公爵の。 ( ーティにいらっしやるけど、その女もよくそこへ行くんですって。だから、う まくだれかに紹介してもらうのはどう ? でなかったら、アリヨーシャに紹介させるのでもいい わ。そしたら、あとであなたからいろいろ詳しく聞けるでしよう」 「ナターシャ、ねえ、その話はあとにしよう。それよりも、ほんとに別れる勇気が自分にあると 思う ? よく考えてみるんだ。自分は冷静だと思う ? 」 と「だいじようぶよ ! 」とナターシャは低い声で答えた。「何もかもあのひとのためですものー 人でも私がたまらないのは、今あのひとがその女のひとのところにいて、私のことを忘れているつ れてことなの。その女のそばにすわって、話したり笑ったりしてることなの。この部屋でしたのと ひと ら 同じように : : : その女の目をじっと見つめてるかもしれない。いつも私の目をじっと見たでしょ 虐う。私が今こうして : : : あなたと話してることなんか、あのひとはちっとも知らないんだわ」 ナターシャはロをつぐみ、絶望的に私の顔を見た。 「しかし、ナターシャ、きみはたった今、つい今し方、別れるって : : : 」 「そうよ、別れましよう、だれもかれもみんな別れるのがいいのよ ! 」と、目を光らせてナター シャは私の言葉をさえぎった。「私あのひとを祝福してあげるわ、別れてくれたら。でも、ワー ニヤ、あのひとのほうから私を忘れるなんて、辛いのよ。ねえ、ワーニヤ、それがすごく辛い の ! もう自分で自分が分らないわ。頭で考えたことが、実際にはそういかないー どうなるの、 私って ! 」 ひと
「その女を愛してることがはっきり分りさえすれば、私はもうはっきり決心して : : : ワーニャー 私にはなんにも隠さないでね ! 私に知らせたくないことを何かご存知なんじゃないの ? 不安そうな、探るような目つきで、ナターシャは私を見た。 、、 ; 、ぼくはなんにも知らないんだ。きみにはいつも率直に話してきただろ 「いや、誓ってもししカ ままこ はくしやく - つ。しかし、ぼくはこ、つも思 - つ。もしかすると彼は、ぼくらが想像しているほど伯爵夫人の継娘 に熱烈にれこんでるのじゃないのかもしれない。ただ惹かれたという程度で : : : 」 「そう思う、ワーニヤ ? ああ、それさえはっきり分ればね ! ああ、今すぐあのひとに逢いた あの とい、顔を見たいわ。顔を見さえすれば何もかも分るんだけど ! でもあのひとはいないー 人ひとはいない ! 」 「じゃ、やつばり彼を待ってるんだね、ナターシャ」 れ ら「待ってなんかいないわ。あのひとはその女のひとのところですもの。これは間違いないことな ひと 虐の。人をやって調べさせたから。その女にも逢ってみたいわ : : : ねえ、ワーニヤ、馬鹿みたいな ひと ことかもしれないけど、なんとかその女の顔を見ることは不可能かしら、どこかで逢うことはで きないかしら。どうお思いになる ? 」 ナターシャは不安そうに私の答を待っていた。 「顔を見ることはできるだろうね。でも、顔を見るだけじゃ、なんにもならないだろう」 「顔を見るだけで結構よ、その先は自分でなんとか考えるわ。ねえ、私ってほんとに馬鹿になっ てしまったの。いつも一人ぼっちで、部屋の中をうろうろ歩きまわって、考えてばかりでしよう。 川まるでつむじ風みたいにいろんな考えが涌き起って、とっても辛い ! こんなことも考えたんだ ひと