ヨーロツ。ハの諸民族と起源を同じくするものと考えられて いる。このアーリア族のうちイランに侵入して最初に勢力 をふるったのはメディア人で、つぎにはアケメネス朝がフ アールスを中心に起こり巨大な帝国を建設した。西洋でイ アシランをベルシアと呼ぶのは、ファールスのギリシア名ベル るウ れ牡シスから由来している。 らと 見ンアケメネス帝国は、アーリア族の帝国としては史上最古 - 「講にオ 刻イのもので、西は小アジア、メソボタミア、エジプトから、 彫ラ 殿東は中央アジアの東部、インドの近くまで威力をふるった。 3 宮象 スのアケメネス朝の文化はメソボタミア文化を継承し、それに メソボタミアと異なり、宗教と政治は一応別個のものとさ れた。この帝国の国教であるゾロアスター教は、北方的な 色彩の濃い善悪、明暗の対立にもとづく二神教であった。西 アケメネス帝国はアレクサンダー大王によって滅ぼされ、 その後ギリシア人の王朝が成立したが、ふたたび北方から
この帝国は、前七世紀ごろアケメネスという王によってその基礎をおかれたといわれているが、 アケメネス帝国がはっきりするのは、たぶんェクバタナ ( いまのハマダーン ) の占領後、キロスが ッ一王位についてからである。この王はまずリディア ( 小アジア の西部 ) を併合し、前五三九年には新バビロン王国を征服し、 彫 がついで東方では、いまのアフガニスタンから西北インドまで 腰を版図に加えた。つぎのカンビセス王の時代にはエジプトを の も従えた。その死後、王位継承の争いがおこり国内が分裂し たが、前五二一年ダリウスが王位について、帝国領内の反乱 を鎮定した。いろいろな意味でこのダリウスはアケメネス帝 ペ国を代表する君主といわれている。ダリウスはアケメネス王叙 の 人朝の系統としては傍系に属していたが、カンビセス王死後のス 車内乱を巧みに処理し、ついで帝国辺境の反乱の鎮定に向か 0 ア AJ 原 草 すスまずバビロン、メディア、アルメニア等を征伐し、また東 を。、み = 第 , 方 0 パ ~ テ→ア、西方 0 = ジ。 , トを回復し、一九回に及ぶ会 物戦に勝利をえて、多量の戦利品と諸民族の捕虜をつれ帰った。
シア人とは両立できなかった。当時ギリシアはそれまでフェニキア人が握っていた地中海貿易の 独占を排除して海上権を握っていたので、そう簡単には。ヘルシアに屈するはずはなかった。こう して自由と個性を何にもまして愛するギリシア人が、権威主義の。 ~ ルシアと正面衝突をきたすの ひっし は、いまや必至の形勢になった。 かくしてベルシア戦争が勃発し、最初の東方アーリア族の。ヘルシア帝国は、西方アーリア族の ギリシア人に打ち破られ、これを契機として衰退への道をたどることになったのである。それで もなおアケメネス朝はダリウス一世の死後 ( 前四八五年 ) 一世紀半にわたって持続した。 ギリシアに始まる西洋の歴史は、開始後まもなく東洋の。ヘルシアの攻撃に当面したが、新興の 西洋勢力はこれをよく撃退した。するとこんどは逆に西洋が東方に攻撃を向けることになる。ア レクサンダーの東方征服がそれである。 アケメネス朝帝国は巨大な征服国家ではあったが、それはもちろん近代的意味における帝国で はなかった。アケメネス朝は、いちおうはその東方領域にサトラップを設置したが、それは各地 かっきト 方に割拠するオアシス勢力間の争いや遊牧部族の掠奪を防ぎ、平穏を維持し、オアシスから貢物 を取り上げて中央に送るのが主要な機能であった。サトラツ。フは州のような大きな地方統治の単 位であったが、その権威はオアシスに及ぶのみで、草原には達しなかった。
でにアケメネス朝でもそうであったが、王妃はかならず王室の 一族の出身者に定められていた。 たか たかじよう 娯楽の第一は狩猟、とくに鷹狩りで、鷹匠は宮廷の高官のう突 ちにかぞえられていた。中国や日本の鷹狩りの形式も、このヘ んから伝来したものと思われる。 ササン文化はアケメネス文化にくらべると ( 。ハルティア時代 の文化は遺物が少なくてよくわからないが ) はるかに洗練され ているが、それだけ優雅にすぎて豪壮さに欠けるともいえる。 それはオアシス文化の最高潮の一つを代表する。ササン文化の もう一つの意義は、それが東西の文化に与えた強い影響であ る。つぎにはビザンテイウムとそれを通じてのヨーロッパへの ササン文化の波及を一見しよう。 ササン朝。ヘルシアを通じてビザンテイウムに ササン朝と ビザンテイウム招来された東洋の物産は少なくない。香辛料 もその一つであろう。香辛料はビザンテイウムを経てヨーロッパに伝えられ、その使用は中世か らますます盛んになり、近世におけるヨーロッパ人の東洋進出の一つの大きな動機になったこと アラ のア 4 バクトリアフ セゑ . 万シフォン / 劣 0 スープ ケルマン イルメニイス % ェテンプるア 500 1000 、 m コスローニ世時代のササン朝の領土 762
しかしオアシス国家であるアケメネス朝の歩兵を主とする戦術は、数は少ないが機動力に富む 遊牧国家スキタイの軍隊に致命的な打撃を与えることはできなかった。スキタイ人は。ヘルシアの 大軍が近づけば逃げ、ときには奇襲をかけ、相手が少ないと見れば襲いかかるという戦法であっ 土た。これは漢に対する匈奴の戦術によく似ている。 方とにかく、強大なアケメネス朝の存在によってスキタイ人の南 「下は阻止されたが、彼らの一部は依然として小アジアにとどまり、 オ以後数世紀にわたってこの地方の支配を続けた。 国マケドニアの王フィリッポス ( 在位前三五九ー前三三六年 ) もス キタイ人と戦いをまじえたことがあるが、その子にあたるアレク のサンダー大王も東方遠征と同時に、部将を派遣してスキタイを攻 動めさせた。しかしこれは逆にスキタイに打ち破られて完全な失敗命 革 の 闘に終わった。 原 金黒海沿岸のギリシア植民都市に対しては、スキタイ人は他に対草 飾するような侵略、掠奪に終始せず、攻撃しないかわりに貢物を納 の めさせるという態度をとった。これは、文化と技術の程度の高い キ ス こ 0 0 0
実在の人物で、たぶんイランの西北のアジェルバイジャン地 左世 。一方の人であったと考えられ、前七ー六世紀のころの人といわ 癶シれているが、一説には前一千年という説もある。 ズダ ゾロアスター教の聖典である「アヴェスタ』は、のちのイ ラのスラム教の「コーラン」と同様に、ゾロアスターが神の啓示 フ朝 アンを受けて記したものと伝えられる。この聖典は、アケメネス るサ れサ こ冩らる朝時代の。〈ルシア語とはちがうことばで書かれ、一二〇〇枚 見け に受のウシの皮に記されていたという。その大部分はアケメネス りを 雪き彫ル朝の滅亡の際に失われたが、のちにパルティア時代、ササン を、のン時代にその補修、復元が試みられ、三世紀時代に当時のベル ー重シア語 ( パーラヴィ ) に訳され、それ以後この経典は『ゼン ダーアヴェスタ』として知られている。古代メソボタミアの 宗教やギリシアの信仰が滅んでしまっている今日、ゾロアス ター教はヒンズー教とともに現存する世界最古の体系的信仰だということができる。 原始アーリア民族の天の神ヴァルナの信仰は、ゾロアスターによって道徳性を与えられ、アフ ラ日マズダという宇宙創造の最高神の地位を与えられた。その後、アフラ日マズダのもっ善、正 732
すぐれていたことについては、 ~ ロドトスその他のギリシアの歴 史家も、その毛色は茶、灰または白で、耐久力、速力、優雅さに おいて比類がないと記している。 メディア兵は、よく組織、訓練されたアッシリア歩兵にしばし ば敗れたのち、この良馬を使用して対抗することを工夫した。彼 らはすでに騎馬と騎射は知っていたが、まだ軍隊の全部を騎兵化 するにはいたっていなかったので、軍隊は騎兵と、弓矢や投げ槍 で武装した歩兵との二種で編成されていた。ところがアッシリア 軍としばしば戦っているうちに騎馬戦術を次第に発達させ、これ を決定的な兵器として使用できるように組織し、ついにアッシリ アの歩兵部隊に潰滅的打撃を与えることに成功した。 アーリア民族の同系のメディア人がアッシリアを征服し、強大 最古の帝国 な王国を建設したあとを受けて、こんどはファ ールス地方を支配していた。ヘルシア人がそれをさらに拡大し、多 はんと くの異民族を征服し、広大な版図を有するアーリア族最初の帝国を形成することになった。これ が有名なアケメネス朝である。 7 プし ソクティアナ・、 バクトラ 0 バクトリア アラコシア / ′ . 3 ウルミ「 パルティア 2- メディア ン 0 0 イスハン 、 : フハすナ アルメこ ) 、、、 ギリシア リディア クレタ 工ルサレム メカス アラビア = ずくルシアの三迺 ログリウスのに : こ アケメネス朝の領土 0 をにもス ・デトロンア、 500kE 12 ど
イランのササン朝はアケメネス朝。ヘルシアの復活だといわれているが、も オアシス勢力の復活 ちろんそのままの再現ではない。アケメネス朝も本質的にはオアシス勢力 を代表するものであるが、ササン朝になるとこれがもっとはっきりする。 ササン朝はイラン高原南部ファールス地方のケルマンを中心に興った。王朝の建設者はこの地 方の諸侯のアルダシールという者であった。アルダシールはパルティアに反旗をひるがえし、一一 二六年にはホルムズ平原でパルティア軍と戦ってこれを破り、。ハルティア王アルダーワンを敗死 させた。この一撃で、四〇〇年も続いた。ハルティア帝国は案外もろく崩壊してしまった。その理 由は、前の匈奴帝国、後の突厥やモンゴルと同様に、比較的人口の少ない遊牧民が広大な領土に 分散した結果だと思われる。 アルダシールはまもなく東方遠征を試み、ホラサン、メルヴ、バクトリア、ヒヴァなどトルキ スタンの主要なオアシスを征服し、クシャン ( 貴霜 ) をも服属した。東方の平定が終わると、アル ダシールは二二九年から一一三二年にかけて今度は西に向きを変え「ローマ帝国の東方領に攻撃を 二三五年 ) はこれを迎えて大軍を 加えた。ローマ皇帝セヴェルス日アレクサンデル ( 在位一 = 三ー アンティオキア付近に集結し、ついで反撃に出たが、ローマ軍は三隊に分かれて東進したため、 兵力分散の失策を演じ、パルティアにならって騎兵隊を主力とするアルダシール軍によって各個 撃破をこうむって敗退し、アルメニアはわけもなく。 ( ルシア軍の手に帰してしまった。 とつづっ 74 ど
成は、重装騎兵に徒歩の弓兵と軽装騎兵を配し、戦闘にあたっては、まず弓兵が敵陣に矢を注い で混乱せしめると、つぎに重装騎兵が突撃し、最後に敗兵の追撃に軽装騎兵を使用した。また象 も使用されたが、それがどんな編成をとり、戦術上いかなる役割を果たしていたかは明らかでな 野戦が右に述べたように組織化されるにつれて、攻城法も進歩した。オアシス都市はことごと く城壁で囲まれていたので、その攻略は当時の戦術上の重要な問題であった。機動力に重きをお いた軽装騎兵で編成されていた。ハルティア軍にとっては、城壁で囲まれたオアシス都市の攻撃は 最も苦手とするところであった。 ざんごう ところがササン軍は攻城法を組織化し、塹壕を掘り、土や木の枝をつめた大きな弾力のある楯 で槍や投石を防禦しながら城壁に迫り、巨大な水平撞を用いて城壁を破壊した。また城壁に対し いしはみ て、こちら側に土の小丘を築き、その頂上に強力な弩や投石機をそなえつけて城内を攻撃した。 このように、軍隊の編成においても、兵器においても、ササン時代は、アケメネス朝、。ハルティ ア時代にくらべて格段の進歩を見せた。 君主制についても、ササン朝時代には典型的な絶対専制が形式においても、 オアシス文化の開花 実質においても完成された。アケメネス朝ゃ。ハルティアでは君主制はまだ トライバル 多分に部族的な要素を含んでいたが、ここにいたって帝国的な形式を整えることになった。 160
。〈、ダリウスが建てた記念碑はこの遠征について、 「ソグド人の国のかなたのスキタイ人の国からクッシュ ( エティオ 。ヒア ) 、インドからサルディス ( 小アジア西部 ) までに君臨するわが王 。宮位は、神々のうちの最高の神アフラⅱマズダによって与えられた」 ス と記している。 ウ ダリウスによって建設されたアケメネス帝国は、その大きさとい - 》ダ 襯度からみても、史上最初の帝国という 、・宮う点でも、またその組織、」 第をスにふさわしいものであった。 ダリウスは新たに征服した地方を、新しい州に編成するか、ある セ ~ ( ぺいは既存のサトラツ。ヒ ( 州 ) に編入し、総督に統治の権限を授けた。 彼は厖大な帝国領を、このように分割支配することによって一地方 があまりに強大になることを防止するとともに、サトラップ ( 総督 ) と軍隊指揮官と行政長官という三つの最高の地方官を、王みずから 任命することにして、州の実権が一人の手に集中されることを防いだ。各州にはおのおの現物と 貨幣で貢献の額が定められた。 イラン最初の貨幣はダリウスの時代にできたものである。しかし、アケメネス帝国の制度のう ィイ第第ゑを ノ 30