に伝たう。その後の。ヘルシア文学のうちにも り東っ わてなアレクサンダーと中国との交渉を書い まがレ」 のや源 塔、起ているものがいくつかある。それらに 、よると、大王は自ら使節に扮装して中 坐っ拝 ムあ礼国に行き、手厚い待遇を受け、多くの ) 、のでの 式像本貢物をもたらして帰ったという。また ラ飾 ( 日 ダだ国別の伝説によると、大王は軍隊を率い ンれ中 ( ガかてて中国に入り中国皇帝と会見したが、 中国人の巧みな外交術によって貢物を受けただけで、征服せずに帰還したことになっている。こ れらの伝説はもちろん後世にできたものであるが、それが古くから語り伝えられてきた中央アジ アのアレクサンダー説話を背景として成立したものであることは疑いない ここでひとこと注意しておきたいことがある。いまの西パキスタンの西北部からアフガニスタ ンの東南部はガンダーラといい、紀元一「三世紀ごろ、この地方に仏教芸術が栄えたので、これ をガンダーラ美術またはギリシア的仏教芸術と呼んでいる。この美術様式は。ハキスタンのタキシ ーミアンを経て、東トルキスタンのキジルやホータン ( 和、 ラ、アフガニスタンのハッダ、バ 于誾 ) に伝えられ、さらに東伝して敦煌を経て北中国に入り、朝鮮を経て日本にまで伝わり、奈 140
国、国の類はほとんど姿を消した。 アッパスのような開明的君主は別として、サファヴィ朝はむしろ伝統的な。ヘルシア的王朝とい える。その結果としてアジア的専制とそれにつきものの宮廷の腐敗、陰謀がはげしく、後宮の発 達にともなって宦官の勢力が盛んにならざるをえなかった。 サファヴィ時代の歴史で、もう一つ注意しなければならないことは、その末期、一八世紀のは じめに、。ヘルシアはほとんど完全にシーア化し、同時にシーア派の多くの異派もほぼ一掃されて しまったという事実である。このころ帝国の東方辺境には、新たな勢力としてアフガン人が興り つつあった。 アフガニスタンという名前は、アフガン人の国という意味であるが、この国 アフガン人の登場 の住民はアフガン人ばかりでなく、。ヘルシア系のタジック、トルコーモンゴ ル系のハザラ、ウズベック、モゴールその他多くの民族、種族にわかれている。アフガニスタン というのは単にこの国の支配民族の名をとったにすぎない。 アフガン人はまたパターンあるいはパシュトともいうが、その起源はわからない。彼らが西域 の歴史に顔を出すのはきわめて新しい。一三、四世紀以前には遡ることはできない。種族的には イラン系とトルコ系の混血で、南部に住む者にはインド系の混血がかなり見いだされる。 この種族の住地は、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯を走るスレイマン山脈であったが、 392
大って「絹の道」の要衝サマルカンドーオ ルアシスに入った。 サマルカンドは西トルキスタンの大都 メ 市で、手工業がさかえ、オアシスの中心 石にある都は、周囲数キロの堅固な城壁で ア囲まれていた。このオアシスの住民は色 くが白く、眼の青いアーリア系の人々であ ったが、トルコ系の西突厥の支配に属し ていた。 サマルカンドから西に進むと、ポハラがあるが、玄奘はここには寄らず、まっすぐに南下して アム川の岸についた。いまソ連領とアフガニスタンの国境になっているこの巨大な内河の付近に は、活 ( いまのクンドウッ ) という国があり、その王は西突厥皇帝の長子で、妃は高昌王の妹であ ったが、玄奘がついた時にはこの妃はすでに世を去っていた。 玄奘はアム川を渡ると、まもなくヒンズークッシ = 山脈南麓の有名なバクトリアにつき、そこ で多くの仏寺と仏教の栄えているさまを見た。ここはかってアレクサンダー大王の部下のギシリ ア人が国を建てていた所で、いまのアフガニスタンのバルフである。バクトリアにはインドから かっ 192
支配下にあった。遊牧国家は農耕定着国家とは異なる。彼らの領土観念は、チンギス日ハーンが じゅうりん その長子ジュチにいった「なんじには西の方、モンゴル鉄騎の馬蹄の蹂躙しうる限りの土地をこ とごとく与えよう」という言葉によってよく表現されている。 いかん 彼らの通念では固定した国境というものは存在せず、その時々の遊牧上の必要と勢力の如何に よってつねに伸縮するものであった。毎年、一定の夏の牧地と冬の牧地の間を往復するといって も、年によって気候が順調でない場合には牧地や移動経路を変更しなければならない。こんな生 活において確定不変の厳格な国境などというものはありえない。 イギリスやロシアのような近代国家からみれば、このような不確定な国境では具合がわるいの で、国境をはっきりしようということになったのである。そこで双方から調査団を派遣して測量 を行ない、現状維持を認めたうえで両国の国境が直接に接触しないようにはかった結果、一八九 五年にアフガニスタンの東北隅から東方に突出するワッハン回廊地帯を設定し、中央アジアにお けるイギリスとロシアの直接的接触を避けることができた。アフガニスタンが、国の中央に巨大 とぜっ な山脈ヒンズークッシュが走って、冬期には南部と北部との交通が杜絶するといったきわめて不 自然な国として成立したのも、じつはこうしたロシアとイギリスとの間の協定にもとづいたもの である。 てつきばてい イ 18
数百年にわたってつねにトルコマンの侵入に悩まされてきた。へ ルシアは、ロシアのテケ討伐をむもろ歓迎し、メルヴーオアシス古 を含むトルコマニアをロシアに割譲することに同意した。こうし蒙 てロシアの中央アジア経略はその目的を完成したわけであるが、 これがヨーロッパに伝わると、インドを手中に収め。ヘルシアに勢 力を扶植しつつあったイギリスがだまっているはずはなかった。 イギリスの世論はロシア南下の脅威に沸きかえった。 イギリスは南から、ロシアは北からと、この当時の世界の二大 強国がともに中央アジアをめざして進出しつつあったのであるか ら、いっかはおたがいの国境あるいは勢力範囲を協定しなければ ならない情勢になっていた。事実すでに一八八二年にロシアはイ かくてい ギリスに対してアフガニスタンの国境劃定の提議をしていた。 ン 第三国であるアフガニスタンの国境劃定をロシアとイギリスが ハラ 0 イ 協議するというのは、ちょっとおかしく聞こえるが、事実上は当 然のことであ 0 た。中央アジアの諸国は当時でもなお本質的には ) 長い、〔 , 、 トルコ 黒海 遊牧国家で、オアシスはトルコーモンゴル系遊牧民出身の君主の アラ 0 哥 ( イトルお。ウルけ 0 ー 西ルキスタン 物 0 0 ・コールド ! 東トルキスタン ルカント i アフガ : スタンノ チベット たンワハル ・ク : タ / プ、一ル 、パレチスン ロシアとイギリスの中央アジア侵略 カスビ 2 物 1 ト・ 4 〃遊牧民の落日
敦煌石窟寺が知られるに従って、このような山腹の崖を削り、そこに洞窟を掘ってこしらえた 仏教寺院の遺跡が、中央アジアから中国の北西部にかけて、ほかにも存在することが注意されて うんこう きた。そしてアフガニスタンのバーミアン、東トルキスタンのキジル、山西省の雲崗なども脚光 を浴びるようになり、東西文化の交流がかなり具体的につかめるようになった。 中央アジアや西アジアの探検史、発見史を書いていたら、一冊、いや数冊の書物になるだろう。 だからこの章では最も知られている近世の二、三の中央アジア探検を見本として書いたにすぎな い。その他の重要な発見や研究については、以下の章で必要に応じてこれにふれることにしたい。 ィノ流砂に埋もれた都市
一七一八清がチベット征服 ( ~ 一一 0 ) を始める 紀一七二 = 一清がキリスト教を厳禁 一七四七 世 一七八三 一七九二 一六〇五 一六二八 一六三五後金が蒙古を併合する 後金が国号を大清と改める ロシアのハ・ハ ーロフが黒竜江地方を 一六四九 探検する ロシアが清に使節・ハイコフを送る 一六五五 ロシアと清の間にネルチンスク条約 一六八九 が結ばれる イギリスの広東貿易が許される 一六九九 マテオⅱリッチが「坤輿万国全図』 を刊行する ヌルハチが清朝皇帝となる アダム日シャールが中国に来る クリム日ハ ーン国が滅亡 清がチベットのグルカ人を平定 アフガニスタンのナディル日シャー が暗殺される なる カルロヴィッツ条約でオスマン・ト ルコと露と墺が和平 日ジャハンがムガール皇帝と 472
二〇世紀に入ると、中央アジアから西アジアにかけての地域は、完全に時代から取 過渡期 り残されてしまった。それまでは草原の遊牧民の優越性がくずれると、つぎはオア シスの定着民の時代になった。歴史上のこの循環現象は、ユーラシア大陸乾燥地帯の内在的なカ の作用であった。ところが一九世紀の後半からのちに作用したカは、内部のカではなく、外部か らのカであり、これが遊牧勢力に最後の打撃を与えたのだから、その後始末をつけるのもまた外 部からのカ以外ではありえなかった。かくては混迷が続いたのも、きわめて当然のことである。 しかし中央アジアには幸か不幸か、この過渡期の混迷は現われなかった。なぜならば、西トルキ てつわく しん スタンはロシアのツアーの鉄鎖につながれ、東トルキスタンは清朝の征服国家の鉄枠の内にとじ こめられ、そしてただ一つ残ったアフガニスタンはイギリスとロシアに挾まれた単なる緩衝地帯 変貌する草原とオアシス ムハマッドの子孫と いうあるアラフ・人 イ 36
4 象が飼われていたが、チンギスはこれを無用のものとして郊外に放させたので、まもなく象は飢 えて死んでしまった。 ホラズム帝ムハマッドは、モンゴル兵が接近丁るまえにサマルカンドを去ってホラサンに向か った。チンギスは名将ジェべ、スプタイを派遣してこれを追わせたが、その際つぎの命令を与え こ 0 「もしムハマッドが大軍を率いて向かってきたら、戦闘を避けよ。もし逃げたら、息もっかせず 追撃せよ。降伏した城市は許し、抵抗するもの はいっさいを破壊し、すべてを殺せ」 スルタン日ムハマッドは、ホラサンもとうて ン 一人 ( 夫いモンゴル人の進撃に対して保持すること不可 , 第能とみてインド方面に退却したが、途中いまの ンそアフガニスタンの北部にあるバルフ ( 古代のバ の もイ刊クトリア ) で急に方針を変更し、イラクに退い 遊 一ウ第て、その豊かな資源と多い人口を利用してモン ゴル人を邀撃することにした。ところがムハマ ッドの子ジェラル日ウッ、ティンは、
紀 世 世 唐が減亡、五代十国時代始まる 九〇七 エジプトにファーティマ朝が興る 九〇九 契丹の建国【耶律阿保機が皇帝とな (&IWI) 契丹の耶律阿保機が渤海を減・ほす 九二六 石敬璃が後唐をほし、後晋の高祖 九三六 と称する 契丹が後晋を滅・ほし、国号を遼と改 九四六 める 九六〇宋が建国 九七三 九七九宋が中国を統一 九八六 契丹の聖宗が宋の諸州に侵入する 八三九 八四三 八七五黄巣の乱 ( ~ 公巴 八九二 この頃回絶がキルギス人の攻撃を受 けて瓦解する る 「諸国の征服』のアル当、 ー没 カイロが建設される ノラーズ 1 フランク王国が三 分される 表 アフガニスタンに生・ トルコ系のカズニ朝 9 6 成立