カシュガル - みる会図書館


検索対象: 西域とイスラム
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1. 西域とイスラム

一八九四年の一月、ヘディンはロシアを経てふたたび中央アジアに向かい、タシュケントから カシュガルに出た。途中、七四三三メートルの高峰ムスターグーアタ登頂を試みて失敗はしたが、 巨大なプルジェーワルスキー氷河の測量を行なった。ついでカシュガルに帰り、ながいこと心の 中にあったタクラマカン砂漠横断の計画をたてた。半世紀にわたる彼のながい探検生活のうちで も最もドラマチックな事件の一つであるタクラマカン砂漠の遭難はこの旅行中に起こった。 ヘディンがカシュガルでこの恐るべき砂漠横断の準備をしているあいだに、バザ 流砂をゆく ールで会った八〇歳になるというある老人から砂漠にまつわる神秘的な伝説を耳 にした。 この老人がまだ若いころ、砂漠南辺のオアシス都市ホータン・から北辺のアクスに旅した男を知 っていた。この男はタクラマカンの流砂のなかで道 市 に迷い、古代都市の廃墟にゆきついた。砂の上には都 ン れ たくさんの美しく刺繍したシナ靴がちらばっていた 、が、取り上げようと手を触れるとたちまち塵のように にこなごなになって、指の間から飛び散ってしまっ流 た。 ス もう一つの話はこうである。ある男が宝さがしに 4

2. 西域とイスラム

十分な程度になったら撤兵するという通告を行なった。 ロシアはヤクプ日べックに対して通商を要求したので、彼はロシア軍のこれ以上の進出、干渉 を避けるために、これに同意を与えたが、ロシアとしては、彼の親英的態度、ことにスルタンか らの武器援助を大いに不満としていた。そのうえ、当時ロシアとトルコとは敵対関係にあった。 ロシアの西トルキスタン総督は一八七四ー七五年に麾下の部隊をカシュガルの前面に展開した が、もしそのときコーカンドに反乱が勃発しなかったら、この兵力はカシュガルをも保障占領す るにいたったかもしれない。しかしコーカンドの反乱はロシアにその機会を与えなかった。一八 七六年には当時のトルキスタン総督クロ。ハトキン将軍がヤクプⅡべックに対しカシュガルの西方 ちゅうとん の山脈中の戦術的地点にロシア兵の駐屯を認めることを強硬に要求したので、ヤクプⅡべックは これを承認せざるをえなかった。 ヤクプⅡべックの位置は、その死の直前にはきわめて困難なものになってい 日 イギリスの周到さ さそうと・つ た。西と北ではロシア軍の脅威にさらされ、東からは清朝の名将左宗棠が着落 実に討伐軍を進めつつあったからである。清軍はウルムチの東方約一六〇キロの古城子 ( キタイ ) 民 遊 でロシア軍から食糧の補給を受けて前進を続けつつあった。ところがこの食糧の代金は、中国に しやっかん 0- 2 あるイギリスの銀行からの借款でロシアに支払われた。イギリスはインド政庁を通じてヤクプ日 4 おもんばか べックを援助すると同時に、万一を慮って清朝政府に対しても一応の好意を見せておくという てつべい クチェンツェ

3. 西域とイスラム

ヤクプべックは一八六四年にはすでに新疆省の花形になっていた。彼はホージャの権威と勢 力回復のために清朝に対して反旗をひるがえしたのである。 ホージャというのは、もとは。ヘルシアのサマン朝時代 ( 八七四ー九九九年 ) の高い官職の名称で あったが、のちに貴族の意味になり、さらに一種の敬称に変わったものである。東トルキスタン では、一五世紀以来、ホージャとはイスラム教の支配階層を意味していたが、彼らの特権は清朝 の東トルキスタン征服とともに廃せられ、その大部分は西トルキスタンのコーカンドに亡命した。 しかし彼らはたえずカシュガルその他の新疆省のオアシスに対してゲリラ的襲撃をしかけ、清朝 の支配に対する反抗を続けた。そして一八六〇年代になってイスラム教徒の反乱があいついで起 きると、コーカンドのホージャはこの機会を利用して攻勢に出た。 一八六四年、カシュガルのもとの君長であったホージャの一族が、コーカンドから打って出て、 新疆省に侵入し、翌年にはカシュガルとヤルカンドを占領した。このホージャ軍の参謀がヤク ブ日べックであった。彼はコーカンドの生まれで、少年のころには舞踏を職とした身分の低い生落 まれであったが、のちに兵士になっていろいろな戦闘に参加し、ロシアと戦ったこともあった。 ヤクプ日べックを参謀として新疆省侵入に成功をおさめたホージャは、旧領地を回復するとた けたい ちまち懈怠な生活にふけるようになったので、ヤクプⅡべックはこれを廃してみずから軍の指揮 権を握り、アクスー、ホータン、ウルムチ等を占領して東トルキスタンを清朝の支配から解放し

4. 西域とイスラム

地誌の作製に力を注いだ。これらの調査の結果、イギリスは東トルキスタンに代表者を駐在さ亡 る必要を感じた。ロシアはすでに一八八一年の清朝との条約によってカシュガルに総領事館を置 いていたので、イギリスも同様の権利を主張し、一八九二年には「カシュミール駐在弁務官補佐 官」のカシュガル駐在を清朝に認めさせた。 こういう状態でイギリスは新疆におけるロシアの活動と北インドの土着王侯に対するロシアの 働きかけに神経をとがらせていた。しかし当時の世界情勢はヨーロッパ自体、近東、極東にいっ そう重大な問題をかかえていたので、イギリスもロシアもともに新たに中央アジアで事をかまえ ることは避けなければならなかった。 そこで両国は一八九〇年代には、新疆をアフガニスタンのような一種の緩衝地帯、あるいは中 立地帯として現状維持をさせようという暗黙の了解に達した。その結果、一八九五年に。ハミール 高原における「勢力範囲」の劃定のためこ。、 ーノミール国境委員会が組織され、両国合同でこの地方 日 の測量を行ない、ワッハン回廊を設定して、イギリスとロシアの国境の接触を避けることにした。落 この協定の結果、イギリスとロシアは双方ともに一応は満足し、新疆をめぐっての紛争は回避牧 することができたが、そのかわりこの地方は一種の真空状態になり、清朝もその領土ではありな がらほとんど何ごとにも手をつけられない状態になった。新疆はこうして半独立のようなかっこ引 うで二〇世紀に入ったため、その後進性は特にはなはだしいものとなった。

5. 西域とイスラム

とうこ 班超は後七三年、将軍竇固の命を受けてバルクール湖付近に進出して匈奴を撃ち、伊吾 ( ハミ、 たいじ ロプ湖の北部 ) に屯田を設け、続いてタリム盆地の他のオアシス国を征服し匈奴と対峙した。班超 が平定した地方のうちには、遠くタクラマカンの西方、パミール東麓の要地カシュガル、その東 南の有名なオアシスであるホータン等まで含まれていたが、これらのオアシスに対し後漢は宗主 権を持つだけで、統治は大体そのまま土着の支配者にまかせていた。 ところが七五年に至って、タリム盆地の都市は匈奴にそそのかされ、あるいは圧迫されて、反 旗をひるがえし、駐在していた班超の部下を殺し、超自身もカシュガルで包囲されたが、以後数 年のあいだ反乱の鎮定に奔走した結果、東トルキスタンのほとんど全部のオアシス都市を確保し、 匈奴の勢力を圧することができた。 中国が完全に か毛 匈奴のゆくえ 墓羊 東トルキスタ の 奴品るンをその勢力範囲にいれたのは命 匈装い の服て このときが最初で、これによっ原 アたき リれで ゴさでて地中海沿岸と中国との交易は ン掘と モ発絹いちだんと安定することになっ 、・外らと かんえい た。九七年、班超は甘英という とんでん

6. 西域とイスラム

一四世紀の半ばごろ、トランスオクシ 一羅第密アナのチャガタイ国が内乱をくりかえし ていたころに、モゴリスタンにトグルツ 。 ~ クチムールという王が現われ、東西の 像チャガタイ国をふたたび統一しようとか かった。 一三六〇年、トグルック日チムールは カシュガルを出てトランスオクシアナに 攻め入り、サマルカンドの南にあるカッシ = ( 現在はシャーリ , サブッすなわち「緑の町」といわれて いる ) に向かって進んだ。中央アジアの生んだ最大の征服者チムールが初めて歴史に現われるの は、この戦いからである。 び 0 この英傑チムールとはトル = 語、モンゴル語で鉄を意味する。西洋ではチムールをタメ チムール ルランと呼ぶが、これは「びつこのチムール」という意味のチムールーイーラ ンク ( ランクはベルシア語 ) がなまったものである。彼は若い時に戦いで受けた傷がもとで一生び っこであった。 、ーンに仕えた宰相ハラチャールで 一説には、チムールの先祖はモンゴル人で、チャガタイい / 364

7. 西域とイスラム

のダヤンⅱハ ーンは戦死した。 その子のグチュルクは、北極洋に注ぐオビ川の上流であるイルティシュ川の上流地方に侵入し て、そこのオアシスを占領したが、のちに次第に勢力を回復し、カラーキタイ ( 西遼 ) を攻め滅 ぼして、その王位を奪った。 チンギスⅡハーンはグチ = ルクがカラーキタイ国の王になったことを聞き、将軍のジェべに一一 万の軍隊を与えて攻めさせたので、グチュルクは東トルキスタン西南部のカシュガルに逃げ、そ れからさらに西に走って、いまのアフガニスタンのバダフシャン地方に逃げた。しかしついに追 跡するモンゴル兵につかまって首をはねられてしまった。これでチンギス日ハーンはわけもなく、 もとのカラーキタイの領土を手中におさめることに 密なった。 このときグチ = ルクを攻めた将軍ジ = べは、数年 ラ コ〉、イ後にアルメニア、ロシアの遠征に大きな戦果をあげ黄 「 / 〈に一い撃ることにな 0 た。東トルキスタンを征服したチンギ Ⅱハーンは、ここで西方の強大なイスラム国家で ルあるホラズム帝国と境を接し、これと交渉をもっこ四 ンとになるのである。

8. 西域とイスラム

めざるをえなくなった。そのかわり彼は、より容易なインドへの侵入を企図した。 ープルのインド征服と有名なムガール朝の建設は、第九巻で扱われるのでここでは述べない。 ープルが退いて後は、西トルキスタンにはウズベックの勢力が確立したので、シャイバーニ 朝は東方への進出をはじめた。そしてフェルガーナか らカシュガル、ホータンをその勢力下に収めた。他方 ではバープルの子孫はインドの征服を続行し、また。へ ルシアのサファヴィ朝は東へ伸びてバルフ C ハクトリ 人ア ) の併合をねらっていた。ウズベックの勢力は依然 5 けっ ・ ~ ' 《お立としてさかんで、。ヘルシア人の東方進出をはばんでい 、 ~ 園かたばかりではなく、一六世紀の終わりにシャイバーニ 、庭な のの ラ壇朝のアブドラーは逆にホラサン地方をその領土に加え ・グ花 9 アのた。 ( 一の端 こハ 5 しかしアブドラーの死 ( 一五九九年 ) は、およそ一世 、イル紀間にわたったシャイバーニ王朝に終止符をうった。 サファヴィ朝はホラズム地方を占領して、。ヘルシア人 の総督をおいた。しかしこの地方はスンニ派に属して な一 ( 住叫背 ノ、ノ、 5 最後の光輝

9. 西域とイスラム

記載にもとづいて、カシュガル川とヤルカンド川の合流点 ( この二つの川が合してタリム川にな る ) に近いメルキットから真東か東北東に進むと、北方から砂漠中に突出しているマサールータ ーグ山脈につきあたる。山脈があれば、その山かげには流砂のない土地があり、したがって固い 地面の上を楽に進むことができる。 この砂漠横断の距離は、地図上で三〇〇キロ、一日行程二〇キロとして、一五日でチベット高 ン . げ 原から北流するホータン川に達する。こう想定したので、十 分に余裕を見込んで二五日分として一〇〇ガロンの水を容れ 前つうる罐とヒッジの革袋を用意し、八頭のラクダに荷物をつみ、 一一羽、イヌ 一りケ途中の食用として生きたヒッジ三頭・ニワトリ かス ノ ばの二匹をともなった。従者としては四人の砂漠になれたウイグ 市 かン 都 ずイル人を傭い入れた。 れ いよいよメルキッドを出発する時がくると、この大きくも げ隊 ろ検ないオアシスのほとんど全住民が集まって、死の流砂中に出に ひ探 をるかけるこの物好きな西洋人の一行を見送った。〈ディンは彼流 え らがひそひそと、 「この人たちは帰ってこない。けっして二度とふたたび砂漠

10. 西域とイスラム

や動植物の標本その他の貴重な資料は、中央アジア研究の基礎になるものとして高く評価された。 プルジェーワルスキーはさらに探検を続け、その途上で一八八八年、東トルキスタンで客死し、 高原の湖イシクークル湖畔に埋葬された。 有名なスウェーデンの探検家スウエンヘディン ( 一八六五ー一九五一一年 ) スウエンいへディン はオーレルⅱスタイン ( 一八六一一ー一九四三年 ) とならんでニ〇世紀の中央 アジア探検の双璧である。 サイデンーシュトラッセン ヘディンは一九世紀の大地理学者で「絹の道」ということばをつくったフェルディナント” フォンリヒトホーフェンの下に学んだ。フォンリヒトホーフェンの大著「シナ」を読んでみ ると、古代中国と西域との関係について探検の意欲をそそるものが多く、彼の下に学んだヘディ ンが後年この方面に一生を捧げるようになった機縁がわかるような気がする。 ~ ディンが掴んだ最初の機会はこうである。一八九〇ー九一年にスウェーデンの皇帝オスカー 一一世が。 ~ ルシアに使節を派遣することになったので、 ~ ディンは志願してこの一行に加わり、使 節の帰国後も残留して、。〈ルシアを横断し、メルヴから西トルキスタンに入り、ポハラ、サマル カンド、タシュケント等を歴訪し、。ハミール高原を越えて東トルキスタンのカシュガルに達した。 それから北へ向かってイシクークル湖にいたり、彼の畏敬する探検家プルジェーワルスキーの墓 を訪れ、さらに中央アジア探検への志をかためるようになった。