南ロシア平原は、古くはスキタイ、ついでサルマト、ゴートとアーリア系 アッティ一フとローマ の民族の手にゆだねられてきたが、ここではじめてアーリア系でないフン 族によって支配されることになったのである。 フン族の活動はながくは休止していなかった。第二波は四〇〇年前後からおしよせはじめた。 きたい フンの第一波はゴート族を駆って東ローマ帝国に入らしめ、これを危殆に瀕せしめたが、西口ー マ帝国は大した被害をこうむらなかった。しかしそのうちにハンガリーの。ハンノニア平原はフン の占めるところとなり、フン族はドナウ中流域をその根拠地として、さらに西方に進出しドイツ に勢力を伸ばし、ここに住むゲルマン諸種族を圧迫したので、その一部は南下し、一部はイギリ スに移動した。 このころ有名なアッテイラがフン族の王位についたが、東西両ローマ帝国はしきりに使節を派 ゅうわ 遣して宥和政策でフンの侵入をくいとめようと試みたが、効果はなかった。アッテイラの時代に じよ・つさ、 なると、フンはもはや単なる騎馬遊牧の民ではなく、定着民を支配し、都市を築き、城寨を構え命 の るようになっていた。 原 ダーダ 四四七年にはアッテイラ王は東ローマへの進撃を開始し、北ギリシアのテルモ。ヒレー ネルス海峡に面するガリポリまで進出してコンスタンティノー。フルを脅かしたので、やむなく東 ローマはアッテイラと和を講じ、毎年償金を支払うことになった。他方、フン族は西口ーマとは
散し、五世紀の後半以後は民族としてのフン族は史上から姿を消してしまった。 以上がフン族のヨーロツ。ハ侵入のあらましであるが、これ以後もアジアのアルタイ系民族が北 ューラシア平原を経てヨーロツ。ハに侵入するという事態は幾度か繰り返された。その最後のもの がモンゴル人のロシア征服、ヨーロツ。ハ侵入であるが、こういう歴史のタイプを最初につくった のはフン族であった。 匈奴が西に移動した時から、フン族がヨーロッパに侵入した時代のあいだの時間的ギャップは、 むしろフンは匈奴の後裔であるとする説にとってつごうのよい要素であろう。フン族は、後のモ ンゴル人のように征服計画にもとづいて西へ向かったものではなく、漢に破られて故郷にいられ なくなった結果、やむなく良好な牧地と掠奪の獲物を求めて、つぎつぎと徐々に西方に移動した のであるから、時間的ギャップがあるのは当然であるともいえる。しかし、とにかく匈奴とフン との関係については、いまのところ決定的な説はない。 723 草原の革命
「恐怖を起こさせるようなおそろしい恰好をし、コプのような頭を持ち、針の孔のような眼をし ている・ ・ヒゲがなく・ ・北月」は低 、が、行動は敏捷で、弓矢にたけ : : 」 とある。フン族に関するこの記述は、トルコーモンゴル系民族を想起させる。これによく似た記 述が、のちに一三世紀にヨーロツ。ハに侵入したモンゴル人に関しても書き残されていることを注 意しておきたい。 フン族は東ゴート族を破り、その王ヘルマンリックを自殺させ、つぎに立ったヴィテイミルも 敗死させた。東ゴートの一部はこうしてフンに降り、一部は西に逃げて西ゴートに合した。フン はさらに西進して、西ゴートの東辺であるドニエプル川を渡って攻撃を加えたので、西ゴートの 王はトランシルヴァニア山脈に逃竄して難を避けた。 フンに圧迫された西ゴート族は、やむなくドナウ川を渡り、東ローマ帝国内に避難することに なった。ところがまもなくゴート族と東ローマとの間に戦いが起こり、ローマ軍は大敗を喫し、 以後帝国は衰退の一路をたどることになり、代わってゴート族が実力を握ることとなった。 他方、フン族の活躍は三七五年から四〇〇年にかけて一時停止の状態にあった。これはおそら くゴート族を圧迫してローマ帝国内に移らせたのは、じつはフン族の一部で、その大部分は当時 なお南ロシア平原にとどまっていたことによるものであろう。さらにこのころフン族の一部はカ フカス ( コーカサス ) 山脈を越えてイランに侵入し、メソボタミアまで進出している。 とうざん 120
西洋史上で有名な民族大移動、すなわちゲルマン族の南下は、中央アジア方面 匈奴とフン族 からユーラシア草原を西へ西へと移動してきた遊牧民の圧力がその原因の一つ といわれている。この東方から南ロシア平原へ、そしてついにはヨーロツ。ハまで侵入して中世初 しんかん 期のヨーロッパを震撼させた騎馬民族は、フン族と呼ばれていた。このフン族が、西移した匈奴 こうえい の後裔、あるいはそれと関係があるということは、しばしば学者によって主張されてきたが、同 時にこれに反対する人も少なくない。しかし、いわゆるフン族の活動について述べる前に、もう 一つ知っておかなければならないことがある。 それは「匈奴」という名前である。匈奴は中国語では hsiun ・ nu である。このことばは、モン ゴル語で「人」を意味する ku ビ n に近いので、匈奴がヒトを ku ビ n といったのを中国人が種族の 固有名詞ととりちがえて、発音の近い「匈奴」という文字を当てはめたのだ、という学者もある。 しかし匈奴と関係あるなしにかかわらず、ヨーロッパの Hunni や、またインドの Hüna などを どう解釈してよいか ? とにかくこの問題は、いまのところ異議のない答えは出されていない。 さてヨーロッパでいうフン族は、三七四年にロシアのドン川付近に姿を現わす。これはドン日 の東方一帯の平原に遊牧していたサルマト人の一種族アラン族をフンが破り、それを追ってきた ものである。まもなくフン族はドン川を渡り、ゲルマン系の東ゴート族の領内に侵入した。 フン族の容貌、体質について残っている記録によると、この種族は、 盟 9 草原の革命
依然として平和関係にあったが、四五〇年になるとこの状態は破れ、アッテイラはガリア地方に 侵入し、メッツを掠奪した後、オルレアンを包囲した。ローマの将軍アエテイウスはローマ軍の きゅうごう ほかに東ゴート、アラン、プルグンディ、ケルトの諸族を糾合してオルレアンの救援に向かい、 フン族とメッツ付近で会戦した。しかし双方多大の損害をこうむって勝敗は決しなかった。 いったんハンガリーの本拠に引き揚げたアッテイラは、四五二年ふたたび兵を起こし、こんど は直接イタリア半島を目ざした。この時もアエテイウスはローマ軍団を率いて防禦したが、優勢 せつけん なアッテイラの軍は北イタリアを席巻し、パドア、ヴェロナ、ミラノ等を占領して、まさにロー マに迫らんとする形勢になった。ところがこのとき、フンの軍隊内に疫病が発生し、また食糧の 欠乏にも苦しむことになったので、法王レオ一世の乞いをいれて兵を引き、北に帰ったので、永 遠の都ローマは辛うじてフン族の荒掠を免れることができた。 アッテイラはドナウ川の東の根拠地に帰ってまもなく死んだ。アッテイラの遺骸は金、銀、鉄 の三重の棺に納められて、多くの財宝や生きた犠牲とともに地中深く埋められ、その所在を洩ら す者は死をもって罰せられたという。一説には、一時ドナウの河道を変えてその河底に葬ったと も伝えられる。陵墓を地中深く隠すのは、匈奴や後のモンゴル人の習慣を想い起こさせる。 アッテイラの死後、フン帝国は継承の争いや服属していた東ゴート族の反乱によってまもなく 分裂、崩壊し、その後数回フン帝国再興の試みはあったが、いずれも失敗に終わり、各方面に分
チンギス " ハー、 ノのモンゴル帝国が崩壊するころにはヒンズークッシュ山脈の南麓地帯に進出し ていた。この地方をかわるがわるに支配したインドのムガール朝も。ヘルシアのサファヴィ朝も、 つねにこの好戦的な未開部族に悩まされていた。 カンダハル地方にいたのはギルザイという部族であったが、サファヴィ朝はこのアフガン部族 をおさえるためにジョルジアのキリスト教徒の将軍グルギンに指揮させた二万の大軍を派遣し、 ギルザイ族を破り、有力な首長ミールいヴァイスをはじめおもだつ者を捕えた。ミールいヴァイ スは。ヘルシアに送られ、しばらくとどめられた後に帰国を許された。ヴァイスはかねてからグル ギンに恨みをいだいていたので、宴会に招待してグルギンとその部下をことごとく惨殺してしま った。 この事件をきっかけとしてアフガン人は。ヘルシアに反旗をひるがえし、討伐に派遣されたホラ サン駐在の。ヘルシア軍を破った。サファヴィ朝はさらに続いて数万の軍を送ったが、これもアフ ガン人の奮戦によって惨敗を喫し、この戦いによってアフガン人は独立をかちえた。 ミールヴァイスは一七一五年に死んでその子アブドラがあとを継いだが 暴風マームッド は。ヘルシア人に対して軟弱な態度をとったので、他の首長マームッドによって 暗殺された。そして首長会議の結果、マームッドがカンダハルの首長に推戴された。マームッド の下にアフガン人は今度は逆に。ヘルシアに侵入し、わずか二年ばかりの間にサファヴィ朝の領土 393 最後の光輝
われた人で、チンギスは彼を実子のように愛し ていたから、さっそくジェラルⅡウッディンの 討伐に出発した。この敗報を知ったとき、チン ギスは側近の者に対して、 な 「フトフトは勝利に慣れすぎていたから、この 敗北はよい教部ー ーこなるだろう」 とったという。 チンギスは自ら本隊を率いてガズニにむか い、途中パルーアンの戦場を過ぎたので、フトウラル山 フトその他の将軍に対して作戦の誤りを現場で 示して訓戒し、行軍を続けてガズニに到着し た。このときジェラルⅱウッ、一アインは、。、レ きか アンの合戦には勝利を得たものの、麾下の兵が カンクリ、トルコマン、ゴール等の寄せ集めの 軍であることから統制を失っており、とうてい チンギスの本隊に勝ち目はないと知って、イン 旧サー ( カカラム ) ン 川うフスオルグ ウ丿方溏オトラール アルフリクビシバリク ! イ男もク ウイグル / 物宝西 ムラ ... メカラ - キイ マラ 2 をンシアノアへフノ サフル添・ カズン。カじ察 ハマグンム ホラズム ルヘラトコ チベット 。ラサ スク ティフリス バグタ守 ア ラ ア を一づ チンギス = ハーンの遠路図 0 295 遊牧民の黄金時代
ネグ人に助力を乞い、その結果マジャール人は敗れて西に走り、トランシルヴァニア山中に逃げ こんだ。ちょうどそのころスラヴ族と争っていた大モラヴィア ( いまのチェコスロヴァキアおよびオ ーストリアとハンガリーの一部 ) のゲルマン族の王アルヌールフ が、アル。ハードに援助を求めてきた。アルバードはこれを好機 として山中から出てきてスラヴ族を破り、八九九年ドナウ流域 に王国を建てた。これがハンガリーの起源である。 マジャール ( ハンガリー ) 人はその後しばしば 遊牧と定着と 西ヨーロツ。ハに受入し、ドイツからフラン ス、さらにイタリア半島にまで進出して掠奪をほしいままにし たので、西ヨーロツ。ハではこれをアッテイラのフン族の再来と して恐怖し、力をあわせて撃退につとめた。九五五年、ドイツ一 王オットー一世は、マジャールに対しアウグスプルク付近のレ ッヒフェルトの一戦で大打撃を与えて、ヨーロツ。ハをこのトル コ族の脅威から救った。ハンガリー平原に帰ったマジャール人 のあいだには、まもなくキリスト教に改宗する者が続出し、一 一世紀にはまったくキリスト教化するとともに、こんどは逆に ヴ′ル川 アウアール ) ォ 0 ペテエネ ハサ司レ レにフヨしト フシャール いト アラル海 フン ア、フ ルカル黒三海 アト丿 0 1000kE 南ロシア草原の遊枚民の移動 2 〃ユーラシア草原の動き
オアシス文化の開花ササン朝とビザンテイウムササン朝と 正倉院胡姫とブドウ酒教と景教 ューラシア草原の動き アルタイ山脈南下する諸民族突厥登場突厥と唐の争い 戦争と文学ーー唐詩木蘭従軍玄奘三蔵の西域旅行国法 を破った出国 バーミアンの石窟砂漠の幻想中央アジア のトルコ化文化民族ウイグル「黒い契丹」耶律大石とプ レスターⅱジョーン南ロシア草原の遊牧民 ハンガリーの起源 遊牧と定着と東と西の連鎖反応 コー一フンと剣 イスラムは砂漠の宗教ではない教祖マホメット 政教一体の 宗教共同体一夫多妻個人生活の規制僧侶のいない宗教 イスラム法アラブ人の発展実力者オマ 1 ル侵略するイ スラム新興の意気あがるアラブ人強い結合 力の占領征服から布教へ ヨーロッパへの侵入中央アジ ア進出中国との接触紙、西へ行 く「神は割礼のために マホメットをつかわしたのではない」カリフ継承の争いスン ニ派とシーア派イスラム文化の黄金時代耽美派の詩人オマ いハイヤーム千夜一夜の物語サラセン文化「大食」
一二世紀の後半になると、カラーキタイは西トルキスタン南部 のテルメズやバクトリアまでをその領土に加えたが、この程度れ がカラーキタイ膨脹の限界であった。彼らは地方の王や首長間イ の関係には干渉せずに放置しておいたので、やがてイスラム教 徒は、異教徒キタイ人からの解放をとなえて、反撃に出るよう になった。これから後のカラーキタイの歴史は、モンゴル人の 活動に続くので、つぎの章で述べることにする。 ここでふたたび眼を西に向けて、南ロ 南ロシア草原の遊牧民 シア草原の形勢を一見しよう。南ロシ ア平原は、地理的には北アジア草原の継続にすぎない。この地 は古代においてはスキタイ、サルマト、フンなどの遊牧民の活 躍の舞台となったところであるが、これは中世においても変わ らない。 六世紀になると、アヴァールという遊牧民族が姿を現わす。 彼らははじめはアゾフ海の北東におり、ついでドン河口に進出 し、当時まだドン川付近に残っていたフン族をはじめその他の シバリク 0 ウイグル ル シ 0 ・ウルゲンジ ) ー サイラム ・ ! ホラスム 立サ 7 ルカント 刃け 、テルメズ 0 セルジューク朝れり & ・ - 、 ′・ゴールカーフル 0 、 0 0 月え :. カラーキタイの最大領域 2 ューラシア草原の動き ホラスム ・ス リフ もサグン ( フスイルカ カ之ンキータ カシ】ガル 0 、。 . : トヤルカ界 ポハラ チベット S00krn