ューフラテス河岸の諸都市を攻略させたが、これらの都市は大した抵抗もなく降り、貢物を納め ることを約した。 ーリッドの軍がユーフラテス川にそって行動している間に、アプー いバクルはさらに七千の アラブ兵をパレスティナとシリアに派遣した。この遠征軍は、アラビア半島南部から徴募した未 開の部族が主力となり、彼らはことごとく家族を伴って従軍し、出征するというよりはむしろ部 族の移動のようなものであった。この遠征軍はビザンテイウム軍の方形陣に対してよく戦ってい たが、そのうちにイラクへの遠征から凱旋したハ ーリッドの軍が到着し、部族軍とともにヨルダ ンまで進出した。 この成功は勇将ハ ーリッドの力にもよるものであるが、同時にヨルダン盆地の村落の住民がア ラブ人に近いセム系の民族であった事実も見のがすことができない。これらのヨルダン盆地の住 民はキリスト教徒であったが、ハ ーリッドの侵入とともにイスラムに改宗した。彼らは、ローマ 人によって導入されたキリスト教とローマ的文化よりは、もともと同じセム族に属するアラブ人と の方に親近感をもっていたので、この地方のイスラム化はきわめてたやすく成功した。 ヨルダン攻略が行なわれているあいだに、オマールがアブー バクルのあと 侵略するイスラム をついで第二代のカリフになった。六三五年、 ーリッドがダマスクスを陥 落させたので、イスラム軍のシリア侵入は容易になった。しかし。ハレスティナは依然としてビザ
オエプスという者につれ去られて、遠くイセドン人の地に行っ たとある。このイセドン人というのが何をさしているかはよく わからないが、いまの東トルキスタンあたりに住んでいた民族 ツレだろうといわれている。またその北方にはアリマス。ヒ人が住ん ザでいると記されており、東方にはヒ。ヘルポレウス人がいるとさ 物蓍れている。 ヘロドトスはまた東方への交通路として、ドン河口からヴォ マ 」ンルガ流域の森林地帯を経てウラル山脈を越え、天山、アルタイ 一イ両山系に達するルートをあげている。この記事もまたアリステ アスの詩によったものであるという。 つぎに前四世紀には、アレクサンダー大王の東方遠征に伴っ たギリシア人によって東方に関する知識は大飛躍をとげた。大 王の遠征は、まずティグリス、ユーフラテス流域からイラン高原に達し、カス。ヒ海付近からさら に東進してヒンズークッシュ山脈の北麓のバクトリアに向かったが、いったん西に帰り、こんど は南のルートを通ってヒンズークッシュの南麓に沿っていまのアフガニスタンのカンダハルあた うかい りから北に上ってカーブル盆地に入り、バダフシャンから迂回してバクトリア王国の首都バクト
月明らかに星稀れに霜野に満っ 耗車夜に宿す陰山の下 漢家李将軍を失ってより きた ぜんう 単于公然と来って馬を牧す すこし詩を多く引用しすぎたが、西域遠征に対する唐代の人の考えや感情はこれらの詩がいち ばん正直に語っているのではあるまいか。 とつけっ もくらん また木蘭という男装の麗人をテーマにした一連の詩歌、物語がある。突厥の可汗が がていぎよく 木蘭従軍 侵入を企てたので、朝廷は賀廷玉に命じてこれを討伐させることになった。兵を徴 したところが、兵籍名簿のうちに陝西延安府の人で花弧という名前があった。花弧には一男二女 があったが、すでに年老い、男の子はまだ幼いので孝行なむすめの木蘭は自ら男装して父のかわ りに従軍出征した。木蘭は突厥との戦いにしばしば奇功をあらわし、また賀廷玉を危難から救い、 奇計を献じて突厥を討ち破った。こうして十一一年の遠征の後に凱旋し、朝廷は論功行賞をしたが、 ひとり木蘭のみは官につくことを欲せず、家に帰って父母に仕えたいと願って故郷に帰り、老い たる父母と姉弟に再会し、男装を捨てて女にかえった。 がていぎよく もくらん さて天子は木蘭が帰郷したのち、その戦功を思い、賀廷玉に命じて黄金と絹布を届けさせた。 賀将軍が花弧の家にゆき花小将軍に会いたいというが、木蘭はいやがって会おうとしない。つい かこ 186
ことって代わり、ギリシア人によってせつかく築 スト教がひろまるにつれ、教会のドグマが学説ー かれた組織的な知識は次第にゆがめられていった。中世初期の著者たちの事実に関する知識は、 古代の学者の知識を一歩も出ないのに、彼らはあえて何ものかを付け加えようとして実はかえっ て誤りを重ねていったのである。 プトレマイオスはセイロン島を実際よりは大きく考えていたが、その形はかなり正しく知って いた。ところがマルキアヌス ( 四ー五世紀 ) になると、その面積をさらに拡大して記述している。 古代ではインドのブラーマン ( バラモン ) についてかなり正しく知られていたのが、このころに はインド人はかってはエデンの園の住民であったと考えられるようになった。また四世紀以後の 著者たちは、インドとエチオビアやナイル川東方の地とを混同し、ナイル川はインドに発してエ ジ。フトに流れていると考えていた。 ただ四世紀以後の多少でも新しい知識といえば、北東ヨーロッパの民族についての知見が増し、 遊牧民についての記載なども現われるようになったことであろう。 西洋では古代東洋から招来された珍しいものは、しばしばアレクサンダー大王 張騫の西域遠征 の東方遠征に結びつけられている。たとえば、イネがそうである。中国でこれ ちょうけん に対応するのが張騫である。張騫の西域遠征があまりに有名なので、西方のアレクサンダー伝説 みたいな張騫伝説が後世に生まれ、西域起源のものは何でも張騫の遠征によって中国に招来され
かれた紙や、唐の詩が写された紙などがいまもなお保存されている。 とかん 高仙之の軍が敗れたときにやはりサラセン人の捕虜になった杜環という人が、遠くバグダード やクーフアまで連れて行かれたが、幸いに釈放されて帰ることができた。この人が書き残したも ののなかに、当時のアラビアには中国人の画家、金銀の細工人、織物工などがいたと記されてい るが、これらの人々のうちには、クタイバの遠征中に捕虜となって連れてこられた者もいたであ ろうが、それとは別に、つぎの節で述べるような、東西貿易の隆盛とともに平和のうちに西方に 移住した中国人もまじっていたのではないかと思われる。 クタイバの最期は悲惨なものであった。陸路によるイスラムの東方進出に最大の功績があった 0 めん にもかかわらず、クタイバは罷免され、新たにホラサン総督が任命された。これを不満としてカ リフに叛いたクタイバは、まもなく自分の部下によって殺害されてしまった。 クタイバの死とともに、アラブ人の中央アジアにおける大規模な軍事活動は一段落したといっ てよい。その後もイスラム教徒による異教徒討伐はたえず行なわれたが、巾央アジアのイスラム かんまみ 化は、その後はむしろ緩慢な改宗によった。イスラムの布教は、武力によるよりはむしろ政治、 経済的手段によったとみるべきである。 「神は割礼のためにマホメッカリフ日オマール二世 ( 在位七一七ー七一一〇年 ) の代になると、イス トをつかわしたのではない」ラムの弘布のために、改宗者に対する税の免除を広範な範囲に行な そむ 240
またバダフシャンに住む強悍な山地民を降した。こうして中央アジア全部を服属するのに、およ そ十一「三年の歳月を要した。これはチンギス日 ハーンがまずモンゴル諸族を統一し、モンゴリ アの支配権を確立した後にはじめて諸方への遠征を開始したのに似ている。 一三八四年にはいよいよ。ヘルシア遠征に着手し、サマルカンドを出発してアム川を渡り、北イ ラン高原に出てマザンデランからエルブルツ山脈の南側にあるレイ、スルタニア等の都市を征服 した後、サマルカンドに帰った。その後一一カ年を中央アジアの彼の首都で過ごしてから、一三八 六年第二回。ヘルシア遠征を試み、今度はさらに西に進出してアジェルバイジャン、ジョルジアを 討った後、軍を返して南のファールス地方に入ってイスフアハーンを取った。この大オアシスは ただちにチムールに降伏したが、チムールの本隊が引き揚げると、駐屯軍の不意を襲って三千人 に及ぶ兵士をみな殺しにした。これに対して彼は、むかしのモンゴル人にならい、イスフアハー ンの市民七万人の首を切って、それで。ヒラミッドをつくった。 。ヘルシア西南部の有名な大都市シーラーズは一戦もまじえることなく降った。 シーラーズの乙女 この大征服者はさっそくシーラーズの大詩人ハーフィーズをその本営によびの 最 よせた。それはハ ーフィーズの詩に、 シーラーズのかの美しい乙女が わが愛を受けいれてくれるならば
成される。もともとアラブ兵の数は多いものではなか 0 たので、イスラムの将軍たちは征服した 土地の改宗者のうちから兵士を徴募した。これは。〈ルシア遠征から以後に特にはなはだしくなり、 とくに中央アジア遠征と北アフリカ征服の時代において顕著であった。一例をあげれば、西トル キスタンにはじめて侵入したときのサラセン軍の兵士五千人のうち千人はすでにベルシア人であ った。その後、クタイバはホラズム、求 ( ラ、ケシ = 等の地方から二万人に及ぶ兵を集めてサラ セン遠征軍に編入したという。アッパス朝時代には、ベルシア人のみならず、中央アジアの種々 のトルコ系の遊牧民族が軍隊のかなりの部分を構成していた。 すでに述べたように、カリフ朝でははじめからカリフの位の継承に関して紛争が続けられてい しようあく たので、軍隊の掌握ということが非常に重大な問題であった。軍隊の主力がベルシア人、とくに トルコ人になると、その統制が次第に困難になった。カリフは王位の継承に関して自分と同じア ラブ人はかえって信用できないので、まったくちがう種族のトルコ人を身辺の護衛に使った。と ころがこのトルコ人親衛隊が後には宮廷内で勢力をえて、カリフを勝手に立てたり廃したりする ようになり、ついにはトルコ人であるセルジュークに国を奪われるまでになった。 サラセン軍隊の最高指揮者は教祖マホメット以来「イスラム教徒の総指揮官」であるカリフで あった。戦略の決定、命令、編成、武器の補給等はすべてカリフの権限に属していた。最高指揮 官であるカリフの下にアミールと称されていた高級指揮官があり、それ以下の集団にはおのおの 266
りはく という李白の有名な詩や、また、 長安一片の月 万戸衣を擣つの声 秋風吹いて尽くさず すべてこれ玉関 ( 玉門関 ) の情 こわよ いつの日にか胡虜を平らげて 良人 ( 夫 ) 遠征を罷めん しんしん などは、漢の時代としても唐の時代としても、詩情に変わりはない。岑参のつぎの詩などは、西 北民族に対する中国人の宿命的な争いの悲劇を実によく描いているものといえよう。 君聞かずや胡笳 ( 胡人の笛 ) の声最も悲しきを しぜん 紫髯緑眼の胡人吹く これを吹いて一曲なおいまだ了らざるに せいじゅ 愁殺す楼蘭征戍 ( 遠征 ) の児 しようかん 涼秋八月蕭関の道 北風吹断す天山の草 崑崙山南の月斜めならんとす こんろん 183 ューラシア草原の動き
し、自ら兵を率いて山西省北部に出撃したこともあったが、冒頓単于の計略に陥って敗北し、辛 うじて脱出するというありさまであった。これから後は、さすがの高祖も積極的に匈奴を攻める ことは中止し、冒頓もまた中国の統一国家の実力を知っては、あえて大規模な侵入は避けるよう になった。 こうして勢力均衡の状態に入ると、漢と匈奴の間はしばらく小康を得たが、匈奴はその機に乗 じて西方に進出し、前々から敵対関係にあったアーリア系の遊牧民である月氏を攻撃してこれを 破ったので、月氏の大半は遠く西トルキスタンにのがれ、一部のみが南山山脈中にとどまった。 うそん 匈奴はさらに、東トルキスタンに打って入り、南は楼蘭その他のオアシス国家を降し、北は烏孫 などの遊牧国家を打ち破り、一一六カ国をその支配下においた。 ろうじよう 冒頓単于のつぎには老上単于が立ったが、その後、漢では武帝 ( 在位前一四一ー前八七年 ) の時 ゅうわ 代にいたるまで約半世紀の間、匈奴に対して消極的な宥和政策をとり、争うことを回避した。 武帝が即位したころの漢は、ながく続いた平和によって国力が充実し、中央政 分裂した匈奴 府の権威も確立したので、ようやく外に対して積極政策をとるようになった。 武帝の対外政策で最も重要なものはもちろん、漢の宿敵であり漢帝国の唯一の対抗者である匈奴 ちょうけん を撃滅して北方の脅威を排除することであった。前章で述べた張騫の西域遠征も武帝の対匈奴政 いってき 策の一環であった。武帝は在来の宥和政策を一擲して武力政策に転じ、一方では大軍をモンゴリ ろうらん 104
3 ゼ当新 地方の肥沃なオアシスを占領したが、剽悍で好戦的な彼らは、安住の地を得たにもかかわらず、 依然として掠奪遠征をやめなかった。 この草原の「海賊」テケートルコマンに最初の打撃を与えたのが、一八七三年のカウフマン将 軍のヒヴァ遠征であった。ロシア軍はヒヴァの草原地帯でまずョムードートルコマンの襲撃を受 せんのつ けたが、これを撃破して彼らをほとんど殲滅した。ヒヴァ、ポハラを征服したカウフマンは、危 険なテケ部に対する圧迫を強化するために、この地における 奴隷売買を禁止した。テケは掠奪の際に捕えた者を奴隷とし てヒヴァやポハラで売りさばき、これが彼らの重要な収入源 民になっていたからである。困ったテケは、。ヘルシアに接近し 第遊て共同して北方から進出してくるロシアに対抗しようとした。 一・れすでに西トルキスタンの諸国はすべて自国の宗主権の下に 日 追あると考えていたロシアは、ヒヴァ領内のテケートルコマン落 軍 の。ヘルシアとの同盟を反逆と認めた。またロシアのカラヴァ ア ロンがトルコマンに妨げられてトルコマニアを通過することが できなかったという事情も重なって、ロシア政府は一八七七 年ロマーキン将軍にテケの掃討を命じることになった。同年