乗務員 - みる会図書館


検索対象: 鉄道ジャーナル 1976年7月号
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1. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

こ 6 ~ 7 年ですっかり大衆化しましたね . 最近は観光旅行 の若い娘さんたちがジーパン姿でよく乗ってこられます . そ の点 , 車内に華やかな色どりができて結構なのですが , とき かっーぞ にはなまめかしいネグリジェで通路を闊歩されまして , いさ さか面くらうこともあります . これも時代の移り変わりなん でしようね」 昭和 16 年 ( 1941 ) から 35 年間も乗務しているというへッド 車掌補の北村さんは感慨ぶかげに語っていた . 2 号車の車掌室では , 石光車掌長が車内補充券を発行して . ほとんどが入場券で乗車してきた客のキップである東 「このところ車内発行のキップがグンと減ってきました . 以 の発行だという . 京一下関間の復割乗車券などが目についた . 全部で 7 ~ 8 枚 前はひと列車で 30 件から 40 件もあったのが , いまは多客期で もせいぜい 20 件ぐらいでしよう・それだけ がふえ , キップが求めやすくなったということでしようね・ ・みどりの窓口 ' て 59 両が新製されている・ 改造を行なって 500 番台の車号となった・ 33 年から 45 年にかけ 専務車掌室っきで新製 , 以前の車両も 45 年に専務車掌室取付け 2 段・ 14 区画があり , 定員は 28 名・ 38 年以降製造の 100 番台は 全室がプルマンタイプの開放寝室で , 中央通路をはさんで上下 ・ 0 ナロネ 21 形式 ( 3 号車 ) て地味で , 一般の人にはほとんど知られていないが , 荷物車 積み卸しにあたっている . この荷扱専務車掌の仕事はいたっ る . そこには荷扱専務車掌が乗務し , 駅に着くたびに荷物の ( 新聞・テレビ用 ) などの急送品や貴重品が積み込まれてい 連結されており , その荷物室には東京から新聞・証券・原稿 1 号車の前部に , カニという記号の荷物室っき電源車が もちろんドアの開閉はない . 京都の運転停車は、荷扱 ' のため で , 京都は 3 分 , 大阪は 4 分の停車 . 客扱いはしないので , この両駅とも実際は停車なのだ . いわゆる・運転停車 ' の扱い 機関車乗務員交替は ? とふしぎに思われるだろうが , じつは 阪の両駅は「通過」のしるしがついている . では , 大阪での ところで , 時刻表を見ると , < あさかぜ 1 号 > は京都・大 の機関車乗務員たちによってパトンタッチされてゆく . 機関区の担当 . < あさかぜ 1 号 > の始発から終着まで , 9 人 門司ー博多 ( 正確には博多から客車回送で竹下まで ) は鳥栖 ー広島と広島一下関は広島運転所 , 下関ー門司は門司機関区 , ー大阪は梅小路機関区 , 大阪ー岡山は姫路第二機関区 , 岡山 ら名古屋までは浜松機関区の機関車乗務員が担当し , 名古屋 ンドルを握る機関士は出発いらい 3 人目というわけ . 浜松か すでに熱海で一度交替しているので , 、こから名古屋までハ 浜松到着 21 時 45 分 , 2 分停車 . 機関士と機関助士が交替する . 9 人の機関士がパトンタッチ ☆眠りと歓楽を乗せて・☆ うから , いわゆる乗車券だけの発行ですむということだ・ 客 . しかし , 特急・寝台券だけはあらかじめ求めているとい 稲垣専務車掌の発行も 10 件たらずで , ほとんどが入場券の ができますからね」 おかげで手間がはぶけて助かります . そのぶん , ほかの仕事

2. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

0 小倉へ転勤する親子 4 人っれは A 寝台をフンパッしてファミリ ー旅行これもプルー ンならではの雰囲気だ 所要時間は確かに 10 時間ちかい開きがありますが , くあさか 体はホームを流れるようにすべり出した . 最後部 14 号車の車 ぜ > は新幹線にない魅力を , 数多く備えているのです . A 寝 掌室からけ , 稲垣専務車掌が半身を乗り出すようにして出発 台にしろ B 寝台にしろ , 寝台車ののびのびとした快適さは新 監視をしている . 白い手袋があざやかだった . 幹線では絶対に味わえないものだし , 瀬戸内海をまぢかにな ところで , 東京から九州直通の寝台特急列車は , 現在 , がめて走る車窓風景も , トンネルっづきの新幹線ではとうて のくあさかぜ > 下り 1 り・・上り 2 号のほか , < さくら > < 富 い楽しむことはできないでしよう . < あさかぜ > は , そうし 士 > < はやぶさ > くみすは > の 5 往復が運転されているが , た汽車の旅をたのしむお客さまには絶好の列車ですから , 私 その中でもっとも豪華な列車が下りはくあさかぜ 1 号 > 9 列 たちも , ますます自信を深めて乗務しています . きのうの上 車 , 上りは < あさかぜ 2 号 > 10 列車 . 車両は 20 系の , やや古 り < あさかぜ 2 号 > も満員に近い乗車効率でしたよ・きよう びた編成を使っているが , A 寝台を 3 両も連結している列車 はいくらか空席がありますが・熱海・浜松・名古屋の途中駅 はほかにない . しかも , その 3 両のうちの 2 両には 1 人用個 でも , けっこう乗車される方があるはずです」 室がそれぞれ 6 室 . < あさかぜ > 下り 1 号・上り 2 号は , い 定員は A 寝台 72 名 , B 寝台 528 名 . それに対し , 東京ー横 わば九州特急の代表列車 . 昨年 3 月 10 日に新幹線が博多まで 浜間の乗車人員は A 寝台 38 名 , B 寝台 308 名だった . 延長になり , 九州への足はこれらの寝台特急列車から新幹線 12 号車では , 東京を発車すると早々に , にぎやかな笑い声 へと移り , その華やかな王座を明けわたす輅好になったが , がわきあがっていた . 先刻のお年寄りの団体客で , 一行 43 人 < あさかぜ > の持っ , かっての王座の貫禄は , いまもゆるぎ の大世帯 . はとんど 1 車両貸切りの状態だ . ないものがある . 新幹線の博多延長前とくらべると確かに乗 カニ 21 形式 車効率は下がってきているが , くあさかぜ > を指名する利用 客が思ったより多いのだ . 昭和 31 年 ( 1956 ) に華々しくデビュ ーしていらい , 20 年 , くあさかぜ > はつねに看板列車として 東海道・山陽・九州路を走りつづけてきた . その名残りが現 在も営々として引きつがれあさかぜファン ' を着実につか んでいるのた . 下関車掌区の乗務員たちは , この看板列車に乗務すること を最高の誇として , 20 年間 , たゆまぬ努力を払いつづけてき た . もちろん , 石光車掌長もそのうちのひとり . こと < あさ かぜ > の話となると目の色が変わるというほどで , まるでわ が子の自慢ばなしをしているようだ . 「新幹線が九州にのびたときは , これでプルー・トレインも 終わりではないか・・・とささやかれたものでしたが , 私は絶対 にそんなことはない ! と自信を持っていました . 博多までの 昭和 34 年から製造された 20 系電源車の標準タイプ・マニ 20 と同 じくディーゼルエンジン 2 基と 250kVA の交流発電機 2 基を搭 こちらは荷物室がやや広く荷重は 5t ・台車は 載しているが , コイルバネの TR54 系・発電セットは遠隔自動制御装置っき・ 33

3. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

ーいッ 広い構内を横断してめざす < あさかぜ 1 号 > の編成へ・・・東京駅へ回送する短いひととき長い夜の乗務を前に打合せをかねて車内での歓談 車掌長 石光信男 ( 53 ) 休養だけは十分にとりませんと , とてもからだが持ちません 専務車掌 稲垣順一郎 ( 36 ) よ . 不規則な乗務員の生活をなんとか保ってゆくのは , 当人 車掌補 北村旭 ( 5 の A 寝台 1 ・ 2 号車担当 の健康管理がなによりの基本になるのですから・・・・・」 三井保 ( 46 ) ノ′ 2 ・ 3 号車担当 ( 東京下車 ) 乗務生活 30 年をこえる石光車掌長は , いかにもペテランら 松本国夫 ( 47 ) B 寝台 4 ・ 5 号車担当 しい落ちついた口調で言う・ 永野正美 ( 34 ) 〃 7 ・ 8 号車担当 ( 東京下車 ) 16 時起床 , すばやく身支度をととのえる・くあさかぜ 1 西嶋雅義 ( 49 ) 〃 9 ・ 10 号車担当 号 > 9 列車の回送は , 品川車両基地を 17 時 28 分に発車する . 安田清 ( 45 ) その 1 時間前に点呼を受けなくてはならないからだ . 全員の ・ 12 号車担当 〃 11 上川弘 ( 53 ) ・ 14 号車担当 ( 東京下車 ) 準備がととのったことを確かめると , 稲垣専務車掌が事務室 〃 13 前日の 10 列車乗務の疲れをいやすためと , 今夜の 9 列車乗 に備えられている出務札を裏返しにして , 乗泊係にそのむね 務に備え , 乗務員たちは出務時間のギリギリまで休養をとっ を通告する . そしてダイヤルを回すと , 東京車掌区当直助役 に電話点呼 . ている . 「 9 列車 < あさかぜ 1 号 > 下関車掌区石光車掌長以下 6 を , 「とにかく , 上りも下りも夜行列車の長距離乗務ですから , 4 月 9 日の下り < あさかぜ 1 号 > を走らせた人たち 石光信男・車掌長 永野正美・車掌補 ( 7 ・ 8 号車担当 ) 三井保・車掌補 ( 2 ・ 3 号車担当 ) 稲垣順一郎・専務車掌 松本国夫・車掌補 ( 4 ・ 5 号車担当 ) 北村旭・車掌補 ( 1 ・ 2 号車担当 ) 28

4. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

ーネ きようのくあさかぜ 1 号 > の牽引機は EF65529 14 号車先頭の逆編成で東京駅へ回送 (K) これから乗務いたします」 ーツ , 枕 , スリッパなどの備品のチェッグ , 電灯や洗面所・ この日は特に注意事項はなかったが , 時刻変更や重複発売 便所の水のチェッグなど , なれた手順でキビキビとすませて などの連絡はこの電話点呼で伝達されることになっている . ゆく・石光車掌長はマイグの点検 . 運転兼務の稲垣専務車掌 乗務に先だち , ます腹ごしらえ . 1 階の食堂にはメンチカ は 14 号車の車掌室で七ツ道具の合図灯や手旗・無線機などを 机の上に並べ , 備品の信号用雷管や発煙筒を確認する . ツやカレーライス , サラダライスなどのメニューがすらり . 乗務員宿泊所から回送列車が待機している車両基地の出発 14 号車の便所で球切れ寸前の螢光灯が 1 本見つけられ , す 線までは , かなりの距離だ . 新幹線や在米線の線路を何本も ぐに交換された . 横断し , およそ 15 分ほども歩いて回送列車に乗り込む・稲垣 「停車駅が少なく , そのうえ停車時分がわすかですから , い 専務車掌はその足で出発線のはすれにある信号扱所に行き , ったん発車してしまうと簡単に交換できなくて・・・ . ですか 回送列車乗務確認の印を押してくる . らここでの点検はとくに念入りにしているんです」 札ノ辻 16 番線にすえられた幻系プルー・トレイン , 下り こまめに動きまわって視 安田車掌補はそう言いながらも , くあさかぜ 1 り・ > の編成は , ヌカ雨にぬれてしっとりと光っ 線をくまなく配っている . ていた . 車内では早くも車掌補たちが点検に余念がない . シ 食堂車ではウェイトレスがテープルをセットし , 調理室で 西嶋雅義・車掌補 ( 9 ・ 10 号車担当 ) 安田清・車掌補 ( 11 ・ 12 号車担当 ) 上川弘・車掌補 ( 13 ・ 14 号車担当 ) 29

5. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

△ビルの灯とネオンが不夜城のように輝く有 ( I ) 楽町の街なみをかすめて一路西へ 12 号車は団体客でにぎやかーポックス 6 人 がけのハネも気のおけないグループにはコ ンパートメントの味があって楽しい 転勤見送り風景だ . 12 号車には , 小旗をかかげた添乗員に引 なものがあるのだ . ホームに立って , そんな光景をながめて 率されたお年寄りの団体客が乗り込む・期待をしてホームを いるだけでも , いつのまにか背すじがゾクゾクしてくる . 2 往復ほど歩いてみたが , 新婚旅行らしいカップルは見あた 石光車掌長はホームの運転事務室に行くと , 出務表に捺印 する . 所定の乗務員が間違いなく所定の位置に乗務している らなかった . きのうの 8 日は , 確か大安吉日であったはずな という確認のしるしだ . のだが・ 発車ベルがひびいた . 3 号車の前でパンザイのどよめきが 3 号車の前では , ふたりの子供をつれた夫婦をかこんで , あがり , 拍手が起こった . 18 時 25 分 , 定刻発車 . プルーの車 30 人ほどの見送り客が丸い人垣をつくっていた . なごやかな 32 マ東京を出るとすぐ車内改札がはじまる検 札だけでなく到着時刻もひとことつけ加える 気のくばりようだ ( 左 ; A 寝台車右 ; B 寝 台車 )

6. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

☆山陽路の朝風☆ 客室乗務員は下関て交替 カーテンの隙間から , まぶしい朝の陽光が射し込んでいた・ カーテンをあけると , ちょうど八本松駅を通過しているとこ ろだった . 空は快晴だ . 乗務員室をのそくと , 三井車掌補が広島で下車する客の荷 物をデッキに運んでいた . 「ロネ ( A 寝台 ) だけでも広島下車のお客さまは 5 人もいる んです . ハネ ( B 寝台 ) は確か 46 人とか言ってましたが・ 聞けば , そのうちの半分ぐらいの客は , 広島から新幹線に 旅の一夜が明け た寝起きのよ 乗りかえるという . 広島では 12 分の待ち合わせで下り新幹線 い人たちは窮屈 初発列車 < こだま 443 号 > に連絡する . これに乗りかえると なべッドに腰か けて車窓をたの 博多には 8 時 41 分の到着・ < あさかぜ 1 号 > より 2 時間 12 分 も早く着くわけである・広島まで寝台車でぐっすり眠り , 広 この・列車追跡 ' の記事になっているわけだ・ 島からは新幹線で一気に博多へ直行・・・・特急料金が多少かさ ところで昨夜のルボのぶんで , 車掌補の担当車両について んでも , なかなか合理的な方法といえる・東京から九州への 、 2 車 1 ' ( にしゃいち ) 説明したが , この・ 2 車 1 ' もそう長 夜行の旅は新幹線で新大阪まで行き , 在来線夜行特急に乗り 継ぐのが一般的な方法だが , その逆の利用法もあるわけだ・ いことではないらしい . 聞くところでは , この秋ごろには 24 系 25 形 2 段ハネ寝台車 昨夜 , 浜松から乗り込んだ公安さんが , いかにもくたびれ が東海道・山陽・鹿児島本線に投入され , 東京発の九州プル た・・・といった足どりで降りていった . その背に , 松本車掌補 ・トレインの一部もこの新編成に置きかえられるとか . B の「ご一労六ま」の声がかかる . 寝台のセット・解体はボタン操作ひとつで行なわれるように 広島を出ると , 車内販売係がコーヒーとサンドイッチの販 なり , 車掌補の・ 3 車 1 ' あるいは、全廃 ' ということも考え 売をする・まだ大半の客はペッドで横になっているが , この られる . 寝台の操作は確かに自動化機構で簡単にセット・解 ・車販 ' の声で , あちこちのカーテンからめざめたばかりの顔 体ができるだろうが , 車掌補の仕事はこれだけでおぎなえる がのそく . ものではないだろう . たとえば , 深夜・早朝下車の客を起こ 岩国到着は 7 時 01 分 . 到着寸前に「おはようございます」 す場合や , 手荷物運搬のサービスなど , ほかにいろいろと問 のあいさつで始まる車内放送が流される . 車内は , とたんに 題があるはず . この合理化・自動化によって , 長い歴史でつ 活気づいた . 洗面所には列ができ , トイレのドアがひっきり ちかわれてきた国鉄の看板列車ーーーー < あさかぜ > をはじめと なしに開閉する . 寝台の解体も始められている・車掌補たち するプルー・トレインのイメージが , そこなわれなければよ の・戦争 ' がまた展開される . 窓からさし込む陽光に , べッ ドをたたむホコリが舞い上がる・通路で解体作業をばんやり いが・ ながめていた客も , これではたまらぬと , デッキや食堂車に 逃げ込む・ 「さあ , もうひとふんばり . この作業が終われば , あとは交 替するたけ・・ 西嶋車掌補は自分に言いきかせるようにつぶやくと , 108 個の寝台解体に汗を流す . 石光車掌長はじめ乗務員一行は , まもなく下関で交替する・ 4 日間にわたる乗務行路も , あとひと息 . この乗務行路は別 1 日目 = 下関 9 時 38 分発の下り < あさかぜ 1 図のように , 号 > 9 列車の乗務で始まり博多へ . 回送列車で竹下に行き , 駅前の民間乗務員宿泊所でタ方まで休憩ののち , 16 時 48 分発 の回送で博多へ . 博多から上り < あさかぜ 2 号 > 10 号列車で 終着の東京まで . この間 , 途中で日が変わって 2 日目になる・ 2 日目は 9 時 30 分に東京に到着 , 回送で品川まで下って乗 務終了 . 品川乗務員宿泊所で 1 泊する . 3 日目からの乗務が ナシ 20 形式 ( 6 号車 ) 33 年から 45 年にかけて 36 両が新製された・日車製と日立製で内 部デザインがかなり異なっており , 日立製のほうがモダンな感 じである・厨房は完全電化されていて , ステーキも電熱で焼い ている・ 43 年以降は椅子が FRP 化されるなどの変更がある・ 食堂定員 40 名・ 43

7. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

入れかわりに関門トンネルの主役一ステンレス車体の交直流機関車が登場 4 月 10 日この日の牽引機は異色新鋭 EF81300 形 このくあさかぜ 1 号 > の場合は , それでも車掌補の全員 7 名 車掌補合理化のひとつの現象なのである . が始発駅から終着駅まで乗務しているが , 列車によっては寝 東京から夜を徹して 1 , 100km を駆けつづけ , 9 時 34 分 , っ 台のセット・解体が終わ - 。たら一部の車掌補が途中駅で下車 いに本州西端の下関に到着した . 列車乗務員は全員 , してしまうケースもある . たとえば東京 18 時発の < 富士 > の 交替する . 2 号車では石光車掌長と , 新たに乗り込んだ下村 場合は同じプルー ・トレインでも , 8 名の車掌補のうち半数 = 車掌長があわただしく仕事の引継ぎをしている . 以上の 5 名は寝台セット終了後に浜松で下車してしまう . 浜 「運転 , 客扱い関係とも特に異常はありませんでしたが , 途 松から以西はわずか 3 名の車掌補しか乗っていない . これも 中 , 先行貨物列車の閉塞で京都へ 6 分延着しました . 大阪発 46 胴乱ーー車掌さんの・七つ道具 ' く東京から 1 , 100km をロングランした E E65529 は本州の西端ー下関で務めを終える

8. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

品川乗務員宿泊所で △ ( 左 ) この朝上りくあさかぜ 2 号〉で 東京に着いた乗務員 9 名は下りくあさか せ一号〉の出発準備までここで休養する △ ( 右月 6 時起床広間に集まり軽く一服 すばやく身仕度をととのえ出務札を裏 返しにして東京車掌区当直助役に電話 で点呼を受けるマ 乗務すなわち・旅 ' ーーーポストンバッグ がものものしいマ ( 右 ) 第川ま員宿所 下関車掌区 / ーア列車 着時 J り分 発 / 時分 車両基地まで乗務し , この宿泊所で 1 泊するわけだ・ ☆旅の序章☆ 一行 9 名の乗務員のうち , 3 ・ 7 ・ 13 号車担当の 3 名の車 品川基地から東京へ 掌補は東京下車の勤務になっているため , 品川までの回送列 車には乗務しない , したがって , 品川乗務員宿泊所で休養す 品川駅東ロの品川車掌区庁舎 3 階に , 品川乗務員宿泊所があ るのは車掌長・専務車掌各 1 名 , 車掌補 4 名の計 6 名という る . 下関車掌区に所属する下りくあさかぜ 1 号 > 9 列車の乗 務員たちは , , こで休養している . 前日の上り < あさかぜ 2 ことになる・ この日のスタッフは次のような人たちであった . 号 > 10 列車で到着した一行は , 東京から同列車の回送で品川 27

9. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

い第多ー第京、 いよいよ交流機 ED73 の登場だ 門司で機関車がまた変わる < 下関→博多→東京→。、、 下関と一巡 4 日の < あ さかぜ > 乗務行路を終 えた客室乗務員は所属 車掌区のある下関で下 車し新しいメンパー に交替する . ョロシ おっかれさ 張りのある下村車掌長 のアナウンスがさっそ く車内に響きわたる 門司から折尾へかけての北九州では西鉄北九州線の電車が時おり車窓をかすめる 食堂車は長距離特急には欠かせないサービスだ 車の時点でマルになり , その後すっと定時運転できました . 給水は所定どおりに岡山と広島で完了しました . 現在 , 欠水 車両はありません . それから , 浜松ー広島間 , 広島公安室の 警乗員が乗りましたが , 異常はありませんでした」 短い停車時分にすませる引継ぎだけに , 列車編成表を片手 にテキパキと進められる . 「おっかれさま , ゆっくり休んでください」 最後部 14 号車の車掌室では稲垣専務車掌が吉田茂尊専務車 掌と交替 , またヘッドの北浦旭車掌補も迫田義男車掌補と交替 この間に最前部では機関車の付替え作業が進められていた . 門司までの関門トンネルは新鋭交直流機関車 EF81301 がひ く . ホームに立っと , 海峡を渡ってくる風が肌寒かった . ナハネフ 23 形式 ( 7 号車 ) 39 年から始まった九州特急のオール寝台車化にもとづいて製作 された切妻貫通形の寝台緩急車・ 45 年までに 20 両が新製された が , 座席の緩急車ナハフ 21 からの改造編入車 4 両も加わり , ちらは 500 番台で区別されている . 窓割りも変更されているの で見分けはつかない・定員 48 名・

10. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

も を 左上ーモハ形 61 号車 古町車庫で ' 75 ー 11 右上ーモハ 50 形号車 本町 3 丁目付近で ' 76 ー 3 左下 ; モハ 50 形 71 号車 ( 右の客車はハ 31 号車 ) 鉄砲町付近で 古町車庫で ' 75 ー 11 右下 ; モハ 50 形 81 号車 ' 75 ー 11 一万に大街道松山市駅 小型マイクで行なう・ 市内線だけの乗車券は発行していないが , 回数券は 11 枚綴 運転間隔は , 城南線が国鉄駅前ゆき , 松山市駅ゆきともそれ それ 6 分毎 , 本町線が 20 分毎 , 環状線が右まわり・左まわり りで 600 円 , 車内に自動販売機がある・運賃は均一制で 60 円 である・乗換券は系統別に色違いになっており , 運転士が発 それぞれ 12 分毎である・ 日中に動いている電車は全部で 27 両であるが , 朝のラッシ 行している . ュ時には城南線と環状線にそれそれ 1 両の臨時便が増発され ・車両 る・休日はもちろん , 平日でも乗客の多いときには城南線に 現在では電動客車の合計は 32 両で , 全車がボギー車で統一さ れている・これらの車両は製造年やメーカーによって相違が 臨時便が運行され , 最近では , 車庫がカラになることがある あるが , すべて同一のモハ 50 形式と称される・屋根上に取り という・ ワンマン化は完全に行なわれており , 乗客は終着駅での乗 付けられた小型のヘッドライト , その両側に埋め込まれたテ 車以外は中央扉から乗り , 運賃箱のある前の扉から降りる・ ールライトが伊予鉄の特徴で , 集電は Z パンタ・ 運転士のすぐうしろに自動両替機が設けられている・駅案内 塗色は地色がグリーム , 窓まわりとすその部分がオレンジ のアナウンスはテープで行なっているが , 補足的に運転士が のツートンカラーである . 屋根を除く車体全面に広告塗りをする 木屋叫 伊予鉄道松山市内線の路線図 広告電車は 70 ~ 78 号車の 9 両のうちから 6 丁目 選ばれ , 現在 5 両がセンスのある塗装で 道萓町 6 道後泉 本町 走っている・以上の電動客車のほかに電 公園前 動貨車が 2 両ある・ モハ 50 形 ( 51 ~ 61 ) 11 両 昭和 26 年から 32 年にかけて入線 , 伊予鉄 最初のボギー車を含むグループである・ 角ばった深い屋根の重厚なスタイルの電 車で , 出力が 38kW であるため運転間隔 の広い環状線で使用されることが多い・ しかしながら走行音は低く , 乗りごこち も悪くない・製造年によって少しすっ相 違があるが , あとのものほど近代的にな 高浜へ ー伊予鉄、 高砂町 清水町 5 丁目 本町 4 丁目 欽砲町赤十字病院前南町 上一万 察名前 勝山町 こ虧古町 多国鉄予や講本縣 【日 本町 大街道 県庁前 南堀端市役所前 国尺蔔 大手町 字和皛へ 松山市駅 ( 市駅 ) 郡中港へ わ粐まし、河第 136