青梅 - みる会図書館


検索対象: 鉄道ジャーナル 1976年7月号
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1. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

車両の移動 ( 明治 27 年 ~ 大正 12 年 ) 客 車 ( 電車とも ) 機関 車 車 無蓋 車 有蓋 緩急 車 定員 両数緩急車数 トン数 両数 トン数 両数 トン数 両数トン数 両数 2 30 36 3 1 12 7 2 138 120 6 2 3 195 4 214 3 9 4 208 248 7 6 380 5 264 4 2 360 6 660 532 青梅鉄道発行 ( 大正年 ) の沿線名所図絵 貨 度年 ー 8 -0 0 1 ワ編つんワっ 0 っ 0 -4 -4 年明 15 23 ワ 2 》ー 8 《 0 1 画 -4 11 74 132 85 156 232 272 -0 -0 -0 -4 8 1 ー 1 1 り編 00 37 49 132 151 170 8 8 1 1 1 1 -4 1 大正 7 年 10 12 直通運転を始めた . である . 支那事変以後は沿線に各種の工場が建設され , これが太平 もっとも線路のほうは , その後少しすっ交換しているが , 洋戦争に入ってから急激に膨張したので , 青梅電鉄は通勤・ 昭和のはじめ , 青梅電鉄のデハ 500 形 ( 昭和 5 年汽車会社製 資材輸送とも飽和状態となり , 複線化などの改善策を実施し ・自重 36 トン・電動機 72 馬力・定員 140 人 ) が , 当時電鉄界 た・しかし戦時体制下で一段と輸送力を増強するため , 昭和 の最優秀車と見られただけに今昔の感にたえない・注 5 ) 19 年 4 月に南武鉄道とともに国有となり , 国鉄青梅線として 青梅線の沿線には , 緑したたる秩父連山 , 銀色のしぶきを 今日にいたっている . いま , 真白な石灰石を積んだホキ群が あげる多摩の渓谷などが望まれ , 都心からわすか 2 時間ほど . ED16 にひかれて青梅線から南武線を通り , 川崎工業地帯へ 山あり , 川あり , 湖ありの自然美が東京都民を待っている . 地元の人々は「もし青梅線が私鉄なら奥多摩を観光地として 向かう風景が目につく . 現在の国鉄青梅駅は大正末に完成した鉄筋コングリー 売り出すはず . いくら赤字でも親方日の丸の国鉄は宣伝もし 階建で , 青梅鉄道の本社および青梅停車場であった・当時こ ない」と嘆いているとか・注 6 ) の地区随一のモダンな建物だったので , 弁当持参で見物にく そうだとすれば青梅線の欠陥レールもオンポロ電車も , す る人が多かったという . 現在では笑話にされかねまい・ べて国鉄の経営姿勢によるものであり「青梅線は私鉄のまま おわりに青梅線に関する近ごろの話題をひろってみよう・ のほうがよかった」といわれても仕方がない . ついに現地か 毎日新聞 ( 昭和 49 ー 11 ー 7 ) に「老朽青梅線」の見出しで次 こうした背景による ら青梅線払下げの運動が起こったのも , 線路はガタガタ , 電車もガタガ のような記事があった . ものであろう・読売新聞 ( 昭和 50 ー 3 ー 28 ) によれば一一 - ーガタ ターー動労八王子支部の点検で「ひどい欠陥路線」と指摘さ ピシ路線といわれる青梅線がいっこうに改善されないのにゴ れた東京の青梅線は , 上を走る電車のほうもこれに負けずに ウを煮やした東京都青梅市議会は , 27 日 , 青梅線を民間に払 オンポロである . 中央・山手線など都内の国電で 20 年近くも い下げろという決議を可決した・この決議は近く運輸大臣は 前に使われた老朽電車がいまだに走っているためで , 雨もり じめ国鉄総裁・衆参両議員に送り , 実現を強力に働きかける ・スキ間風・暗い照明と欠陥だらけ . 「珍らしい電車が走っ という . 決議内容は新幹線の延長など鉄道近代化が進められ ている」と訪れる電車マニヤだけが喜んでいる・全国的にも ている反面 , ローカル線の改善は小手先だけでいっこうには 珍らしいクモハ 40 などを撮影するのが , ちょっとしたプーム かどらず , とくに青梅線は 5 ヵ所も無人駅があるうえ , 車両 といったもの というから青梅線の古さも今や S L なみだ は古く , 電車とホームの空間が広すぎて危険 . それに落石防 大正 12 年の電化開業用に増備された電車 ( 青梅鉄道 30 年誌から ) 止対策も十分とられていないなど , 施設・サービス両面 とも欠陥だらけで , これまで改善要求を掲げてきたが , というものである . 誠意が認められなかった 青梅線は営業成績分類上は幹線系線区であるが , 収支 係数は , 昭和 46 年度 166 , 47 年度 188 , 49 年度は 214 と悪 化している . かって関東私鉄業界にモダン車両でその名 を知られた青梅電鉄だっただけに , ファンとしても払下 げによる「夢よもう一度」の実現を期待したい . 地下の 創設者たちは現況をどう考えているだろうか . 注 1 安田保善社とその関係事業史 192 ページ 注 2 国鉄青梅駅保存資料による 注 3 汽車汽船旅行案内明治 27 年 12 月発行庚寅新誌社 注 4 青梅鉄道年史大正 13 年 11 月発行から調製 鉄道趣味第 1 巻第 7 号昭和 8 年 11 月発行 注 5 注 6 毎日新聞社日本の鉄道Ⅲ青梅線 139

2. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

5 : 59 10 : 07 5 : 44 5 : 24 小作 16 : 37 20 : 37 ある先覚者の軌跡をたどる 旅客運賃は次のとおりである・注 3 ) 建設工事は甲武鉄道により明治 27 年 1 月に着手 , 同年 11 月に 立川一青梅間 18.5 が完成し , ただちに同区間の営業を開始 している . 当時の列車運行は 1 日 4 往復で , 駅は 6 ヵ所 , 輸 送人員は 1 日約 900 人であった・注 2 ) 列車運転時刻 . 哩程・ : ヂ、なこにゴ 現在の青梅駅舎は青梅鉄道時代の本社社屋 138 資本金は 10 万円 ( 2 , 000 株 1 株 50 円 ) 本社を青梅に置いた・注 1 ) 免状を得て , いよいよ青梅鉄道株式会社設立の運びとなる . に改めること」を条件に仮免状を下付した . 翌 25 年 6 月に本 二郎は「軌間幅員は将来政府が必要と認めるときは 3 呎 6 吋 同社の設立願書に対し同年 9 月 , 当時の内務大臣の品川弥 ど一切無料で援助を受ける契約書が取り交された . 方 , 甲武鉄道に対して , 立川停車場の使用連絡業務の委託な 2 呎 6 吋の軽便鉄道を敷設したい」といったものである . フィートインチ 難であるから , ぜひとも甲武鉄道立川停車場に接続する単線 り , 近年この需要が多くなってきたにもかかわらず輸送が困 のままである . それに青梅地方には良質の石材が無尽蔵にあ はじめ , 各地よりの往米頻繁となっているが , 交通機関は昔 た ) は県下一部の市街として , 物資集散の主点であり , 東京 梅町 ( 当時 , 三多摩地区は東京府ではなく神奈川県に所属し 設立が計画された . 設立願書の要旨は「神奈川県西多摩郡青 梅を経て日向和田にいたる 20.9 軌間 762mm の青梅鉄道の ひなたわだ そのような事情から同 24 年 5 月 , 甲武鉄道の立川駅から青 線を計画中だったので , とても支線どころではなかった . の支線建設を申し入れたが , 甲武鉄道から都心へ向かう市街 に利害関係をもっ有志は , 甲武鉄道に対し立川から青梅まで たちまちにして小都会なみになったという . そこで青梅地方 繁栄は目ざましく , これまで野原だった国分寺・立川周辺は 明治 22 年 ( 1889 ) に新宿一八王子間を完成したところ , 沿線の さきに善次郎が雨宮敬次郎らとともに設立した甲武鉄道が あろう . の名があるところから , 浅野の勧誘によって出資したもので 青梅鉄道の発起人のなかに , 彼と親交の厚かった浅野総一郎 金援助をしたにとどまっている . これは には直接参画せず , たんに株主として資 青梅鉄道に関し , 安田善次郎は設立発起 青梅鉄道 伊藤東作 安田善次郎の鉄道事業⑦ 下り 6 : 45 10 : 57 7 : 15 11 : 27 7 : 26 11 : 38 7 : 36 11 : 48 7 : 46 11 : 58 8 : 02 12 : 14 列 15 : 20 15 : 50 16 : 01 16 : 11 16 : 21 車 19 : 20 19 : 50 20 : 01 20 : 11 20 : 21 駅 立 拝 福 羽 青 名 川 島 生 村 梅 哩程 哩鎖 4 ー 20 5 ー 68 7 ー 21 8 ー 57 11 ー 33 運賃 6 8 12 上り 銭 6 : 24 10 : 32 10 5 : 34 16 5 : 07 9 : 52 9 : 42 9 : 32 9 : 15 列 14 : 55 14 : 30 14 : 15 14 : 05 13 : 55 13 : 38 車 18 : 55 18 : 30 18 : 15 18 : 05 17 : 55 17 : 38 青梅から日向和田にいたる 2.4 は翌 27 年 6 月に完成した 全盛期から行楽客の誘致をはかり , 毎休日に新宿ー御嶽間の 御嶽間 3.5 が開通 , 昭和 9 年の満洲事変以後のハイキング みたけ と変更している . そして同年 9 月にかねて工事中の二俣尾ー ふたまたお ふえてきたので , 昭和 4 年 ( 1929 ) 5 月 , 社名を青梅電気鉄道 大正 15 年 ( 1926 ) には E L が入って逐次 S L と交代 , E c も になった車両は , 新潟の栃尾鉄道などへ売却された . 改軌によって軽便に普通車両が加わったことによるが , 不用 ・無蓋とも 3 トン積である . 明治 40 年に急増しているのは , 代の機関車は 1 両 7 トン半 , 客車の定員は 15 人 , 貨車は有蓋 の車両異動をまとめてみよう・注 4 ) この表によればナロー時 タグラフ式 , 定員は 100 名である . 開業時から電化完成まで 運転を開始したが , この電車は木造ながら 2 軸ボギーのパン 化に踏み切った . とりあえず電車 3 両を投入し , 蒸気と併用 大正 12 年 ( 1923 ) 4 月には資本金を 150 万円として , 待望の電 当をするほどに向上している . 以来 , 業績は順調に推移し , 改軌のため , 75 万円に増資したころは , 年間 1 割 8 分もの配 その後ますます社業は進展し , 明治 40 年 ( 1907 ) 1 , 067mm に るほどであった . 先販売契約を結ぶなど , 採石事業は鉄道部門の収益を上まわ 次郎と親交の厚かった浅野総一郎に対し , のちに石灰石の優 会社における多角経営のパイオニアであり , さきに述べた善 あり , 救いの女神ともいえよう . さしずめ青梅鉄道こそ鉄道 ているように , 青梅鉄道ドとって石灰石は起死回生の妙薬で 今日 , 私鉄の多くが百貨店や不動産経営により収益をあげ 開けてきたらしい . セメント ( 原料は石灰石 ) の需要が高まり , ようやく社運が とともに , 人員整理をしたところ , 日清戦争後の好況により こで翌 30 年 10 月には消極策に転じ , 甲武への委託を解消する して石灰石の採掘に力を入れたが , 即効は望めなかった・そ うべき甲武鉄道に営業管理を委託し , 資本金を 20 万円にふや は不振だったという . ついに 29 年 ( 1896 ) 3 月 , 親会社ともい えを要したことなどにより , 予期した成績が得られず , 経営 しナローゲージのため輸送力が低く , 甲武線の立川駅で積替 が , これは当初 , 石灰石積出しの貨物専用線であった・しか

3. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

/ 乙ル / 〇 U 日Ⅳ乙 鉄道ジャーカレ 1976 ・ 7 N0 ・ 113 N 。・ 8 ・昭和 51 年 5 月 20 日印刷 ・昭和 51 年 7 月 1 日発行 ・編集・発行者竹島紀元 ・編集スタッフ 金子俊夫 / 塚木雅啓 / 松尾定行 白井朝子 / 宮原正和 ートディレクト岡田徹也 ・発行所 ( 株 ) 鉄道ジャーナル社 〒 102 東京都千代田区飯田橋 4 ー 8 ー 6 日産ヒ・ル 電話 03 ( 264 ) 1891 ・ 1892 振替口座東京 9 ー 82820 番 ・印刷所凸版印刷株式会社 歴史は国鉄の長距離旅客輸送の トレインの に代表されるプルー 展をとげつつある . くあさかせ > さらに、 2 段ハネ ' へと飛躍的な発 トレイン群は 20 系から系・ 24 系 受けて相次いで登場したプルー トレインへと変身しその成功を この間くあさかせ〉はプルー 者への素晴しい贈物でもあった . ットとなったばかりでなく利用 活路をもとめる国鉄に大きなメリ 列車の成長発展は、長距離輸送 ' に この 20 年間の寝台 ったとはいえ 社会の高度成長という裏づけがあ つながったと考えることができる . 国的な寝台特急網形成への発展に 成長をつづけたことが現在の全 が予想以上の好評を博し順調に 的な構想で生まれたくあさかせ〉 関西地区を深夜に走るという画期 引年い 956 ) のことであった . 列車くあさかぜ〉が初めて . 昭和 た特急は戦後の東京一九州、直行 ' たケースであり夜行を主体とし が深夜にまたがらざるをえなかっ あるいは長崎を結ぶため運転時刻 く桜 > の例があるが東京と下関 特急の夜行運転は戦前にく富士 > いうことができよう . 近代化発展のあゆみでもあったと 目 7 8 1 4 1 5 52 56 67 79 92 96 1 04 1 06 1 1 4 1 1 5 1 1 7 1 26 1 32 1 38 1 1 8 1 24 次特集 0 特急くあさカせ〉とフ ) レー・トレイン レールウェイ・レビューある新線開通 ニュース・ファイル ( 国鉄・私鉄・海外鉄道の動き ) 車両基地 ( 国鉄動力車の新製・改造・転属・廃車 ) 特集特急くあさかぜ > とプルー・トレイン はるかなる旅立ち ドキュメント☆列車追跡⑦ 永崎祐之 24 くあさかぜ〉は博多をめざす 檀上完爾 / 宮原正和 河野豊 / 白井朝子 / 井上広和 くあさかぜ〉誕生秘話 、名列車 ' 誌上リバイバル⑩ 深水宗孝 夜行特急第 1 号くあさかせ〉の 20 年一その 1 竹島紀元 プレー・トレインの機関車と運用 夜の鉄路を彩る青いスターたち RJ 技術解説シリーズ⑩ プノレー ・トレインの電源車 ダイヤからみたプルー・トレイン 転換期に立っプルー・トレイン 夢の豪華寝台特急 太田詔三 編集部 田中宏 佐々木康治 田崎乃武雄 種村直樹 / 岡田徹也 トッフ・アングル ☆レールウェイ・トビックス 動き始めた相模鉄道のいずみ野線 レールファン・ノートから⑩ SL なきあとの焦点 ヨーロッパの鉄道と列車の旅 ( 29 ) 電気機関車⑦ ・路面電車再発見⑦ 本島三良 山之内秀一郎 土佐電気鉄道軌道線 / 伊予鉄道松山市内線 日本路面電車同好会 ある先覚者の軌跡をたどる⑦青梅鉄道 ・トレイン フ丿レー 伊藤東作 ワイドレンズ / 新刊紹介 / 魚眼 / ズームレンズ / 新聞記事ざ っくばらん / タブレット / R J クイズ / 次号予告 / 乗務員室 表紙 / 星影の鉄路 ( 下りくあさかせ ) 1 号 ) カメラ・永崎祐之 特大号 特価 550 円 〒 60 円

4. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

1 ァイーラウンジ B 個室 ところが , 青函トンネル工事も遅れたが , 全国新幹線網のほ うは , 計画見直し論も強くなって , なかなか札幌まで伸びそ うにない . 1982 ~ 1983 年ごろ , めでたく世界最長トンネルが お目見得すれば , せつかく掘ったものを使わないわけにはい かないだろうし , とりあえず在来線で使用開始となるかもし れない . もともと新幹線を通す計画のときにも在米線の貨物列車に 新しい < あさかぜ > がプルーのボディーはそのまま引継ぎ東 も使いたいと , 狭軌・準軌併用レールとする意見が強かった 京一九州間に登場して大好評ーーということになると , 1980 から , 在来線の列車が走ってもおかしくはない . 当然 , トン 年代の前半には , 同じような特別寝台列車が上野から札幌へ ネルと結ぶ津軽線と松前・江差線が強化され , 長距離列車も 直通することになるかもしれない・占領軍時代のように青函 走るようになるだろう . 連絡船で寝台車航送をしようというのではなく , 青函トンネ そうなれば , いまの北海道連絡列車は < ゆうづる > シリー ズが 9 時間 , 連絡船前後の乗換え時間が 4 時間半 , 道内の函 ルとのからみだ . 青函トンネルは青森県側は津軽線の津軽浜名駅付近から北 館ー札幌間が特急 4 時間 , 計 17 時間半にくらべ , 青函トンネ 海道の松前線湯ノ里駅付近に達する 53.9km の長大トンネル ルを経由すると 1 時間くらいはスヒ。ードアップできそうだ . ( 海底部分は竜飛崎一渡島吉岡駅付近の間 23.3km ) で , 日 乗換えの不便が解消されるから , 札幌・旭川あるいは網走・ 本鉄道建設公団が工事中の新幹線断面の複線トンネルで , 当 釧路までの直通寝台列車運転が検討されるにちがいない・ 初は 1979 年春に完成の予定だった . 東京からの所要時間は , ちょうど九州特急と同じくらいだ その後 , 工事費不足やトンネル内の出水などで工期が遅れ し , 急ぐ人は飛行機を利用 , 列車の客はレジャー的色彩の濃 いまのところ完成するのは 1982 年以後と修正されている・青 いノンビリ派が多いので ーーにも特別寝台列車の出番がこ 函トンネルが本格工事にかかったころは列島改造の田中内閣 ようというわけだ . 時代で , 全国新幹線網構想が描かれ , 青函トンネルができる こんな列車が走ったら , 新幹線用に考えておいた < オーロ ときまでには盛岡以北の東北新幹線と , 北海道内の札幌まで ラ > の愛称をプレゼントしてしまいたくなるだろう . 特別寝 の新幹線も完成し , トンネルとドッキングして , 東京ー札幌 台列車よ , 九州と北海道をめざして走れ一一一一 ! 間に新幹線電車が走りそうな勢いだった . ( レイルウェイ・ライター ) 赤字と借金だらけなのに格好を気にすることはない . そ れにサウナと娯楽室を誤解しておられるようだが , きわめ て健全なものだし , 品位にはかかわりないはず . 時代とと もに列車のサービスも変わらなければダメだ . 上野ー札幌間の直通寝台列車も !

5. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

NEWS FILE ニュースファイノレ 国 鉄 ・ 485 系 1000 番台がデビュー 奥羽本線電化開業により上野ー秋田間の特急 < つばさ > が電車化され , 暫定的に長崎電化 用新製車および山陽地区からの捻出車である 485 系をあてていたが , 奥羽本線が豪雪地帯 であるため , 耐寒耐雪形の投入が要望されて いた・そこで , < とき > への使用で実績のあ る 183 系 1000 番台で試みられた耐寒耐雪構造 △さようならマーグをとりつけ を , 485 系に採り入れた形で誕生したのが , たクモハ 12055 ほか 4 連 485 系 1000 番台である・ 50 年度本予算および 1 次債で 66 両が製作され , 食堂車については 南福岡からの転入車に引通し線追加などの改 造をして 6 両を編入した・ 広鉄局で発行した廃止記念券 東北本線の 485 系標準編成にあわせて 8 M 4T とするため予備の電動発電機を装備した Ts ′車を編成のはば中間に連結しているが , 用された下枠交差形 PS22 を簡易化 , 従来の 広島鉄道管理局では , 17m 国電の 1 両を永久 183 系 1000 番台などと同じ行き方である・ま P S 17 などとの互換性を持たせた p s 22 B で 保存する予定・ ( 徳田耕一 ) た Tc 車には電動発電機に対する指令回路が 現有のパンタグラフと部品の共通化も図られ ・ ED16 の近況 付加されたため , 奇数車・偶数車の向きは固 ている・今後の直流電機用パンタは PS22B ED16 は昭和 6 年 , 上越線・中央本線など勾 定され , 方向転換はできなくなっている・運 だけとなり , 取替えにより浮いた P s 14 ・ 15 配区間の標準型電機として登場した中型機・ 転性能や車体艤装はグハ 481300 のグループを のほうは予備品として残るものの , 近い将来 国産電機が花をひらいたころの製造で , 安定 基準にしているので , 耐寒耐雪関係の変更以 に姿を消すことになる模様・ した性能と好ましいスタイルを持ち , E F 53 外に大きな相違はない・ ( カメラ・細野鉄夫 ) 形の D 形版とでもいえるものである・昭和 40 ■直流電機のパンタを下枠交差形に変更 ・消えゆく旧型 17m 国電 年に 18 両全機が立川機関区に集結 , 現在は青 国鉄では P S 14 ・ 15 ・ 17 形バンタグラフの補 可部線の 17m 国電が 3 月 31 日限りで廃止され 梅線・五日市線 ( 拝島一大久野間 ) ・南武線 修部品調達が困難になってきたため , EF58 72 系にパトンを渡した・最終日には , 引退を ( 立川一浜川崎間 ) で線区内の小単位貨物列 と EHIO について , 新設計のパンタグラフと 惜しみ , グモハ 12055 十グハ 16489 十グモハ 車牽引に活躍している・とくに , 軌道条件の 交換することにし , このほどその第一陣が登 11117 十グハ 16433 の 4 両編成で , さよなら 悪い拝島以西では ED16 の独擅場となってい 場した・この新型パンタグラフは E F 81 で採 電車が横川一可部間を 2 往復半走った . なお て , 石灰石を満載したホッパーをひく元気な PS22B を取りつけた EH1030 ( 稲沢第二機関区 ) 元気な姿をみせている ED16 ( 青梅線御嶽駅 ) 8

6. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

NEWS FILE 名古屋へ 八王子線は , 三重電鉄時代から廃止が検討さ 近鉄八王子線が営業を再開 れていたはどのローカル線で , 地元の要望に 廃営 より近鉄編入後も営業されていたもの・水害 日本ではもう残り少なくなったナローゲージ 近鉄 八止業 天王区区復 四日市 路線のひとつである近畿日本鉄道の八王子線 運休を機会に , 莫大な復旧工事費が経営悪化 白子間間活 ( 日永ー伊勢八王子間 2.9km ) は , 49 年 7 に拍車をかけるとして , 廃止の意向が強くう 内部 日永古 室、西 ちだされ , 今回復活した区間を除いた西日野 月の豪雨による河川の氾猛のため , 道床が流 八土子線 山日南 屋四日市港 ー伊勢八王子間 ( 1.6km ) は 4 月 1 日付で正式 失 , 全線について運転を休止していたが , さ に廃線となった・近鉄の総営業キロはこの結 る 4 月 1 日から地元住民の要望に応えて日永 内 内部 ー西日野間 ( 1. 3km ) で営業運転を再開した . 果 , 586.9km となった . ( 山村定雄 ) 四日市 塩浜コンビナート 津へ 正集 野編 線機 の勢 時伊 : ~ 止日 業り ~ 、ふこ第・当を 営あ【、 ~ 路四条一円町一錦林車庫前一白梅町一西大路 路線廃止 四条 ) の 2 系統が廃止され , 22 号系統は白梅 町および百万遍で折返し運転の形に修整され た・京都市電の廃止については , 市民のあい 京都市交通局の 3 路線 たで強い反対運動が起こり , 最終日も鉄道友 京都市交通局は市電丸太町など 3 線線を 3 月 の会京都支部による花束贈呈などお別れ式が 31 日限りで廃止した・今回廃止された路線は 挙行されている脇で , 市民団体による抗議集 丸太町線 ( 円町一天王町間 5.4km ) ・今出川 会が開かれるなど , 複雑な光景がみられた・ 線 ( 白梅町一銀閣寺道間 5.6km ) と白川線 なお京都市の船橋求己市長は 3 月 31 日 , 市電 ( 銀閣寺道ー天王町間 1. 3km) のあわせて 残存路線についてもこれの全廃を決意 , 市会 12.3km の区間 . これにともない市電の系統は 議長あてに文書で通知した . 具体的な廃止時 2 号系統 ( 西大路九条一円町一錦林車庫前一 期などは末定・ 河原町今出川一京都駅前 ) と 12 号系統 ( 西大 京福 烏丸車庫前 河原町 今出川 廃止路線 白粨町 円町 銀関寺道 錦菻車庫前 天王町 646 ま洋 % 京福 東山条 東海道本線 京都駅 東福寺 西大路九茶

7. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

多ルイ さかどき《らぶさおは p あオっきあⅢま、り 5 みつるぎ罍ー 春闘ストにぶつけるように , 「民衆の敵国労・動労に天誅を下す』 旅行案内』の複刻版が , 中外書房から刊行された・ 6 , 500 円という結 ( 国際商業出版・ 890 円 ) という , ぶっそうな題の本が出た・週刊新 構なお値段だ・中外書房というのは神戸市葺合区の本屋さんで , なぜ 潮編集部編とあり , この 4 年間に同誌が国労・動労 , とくに動力車労 複刻を手がけたのかは定かでないが , 風変わりな仕事・ 組の・順法 ' やストを糾弾し続けた集積である・一方的な見方だが , 交通新聞に掲載された広告によると『大正 10 年 , 鉄道省の編集にな 拍手をおくる人もあろう・ る画期的な鉄道案内書にして , その例言にもある如く , 「汽車の窓か 『現代』 5 月号 ( 390 円 ) は「巨大組織の病根国鉄と NHK と丸紅と ! 」 ら」見ゆる素晴しい景観図が , 初めての試みとして挿入されておりま の特別企画 '. 国鉄については毎日新聞記者・内藤国夫氏が『どうか す・発行忽ち , ベストセラーとして版に版を重ね , 各家庭の愛蔵は勿 国鉄を頼みます高木新総裁よ「スト権」こそ再建の第一歩だ』を書く・ 論 , 旅行者必携の書として , 洛陽の紙面を高らしめた好著でありま 国労・動労にしつかりしたバイプを持っ内藤記者 す』と , 宜伝文句まで古めかしい・ついでに『世 らしく , 現場のェヒ・ソードを盛り込みながら , の S L ファンには空前絶後の参考書』とあるのは れ・・・・・国鉄を下から支えている下積みの人々をも マュッノくで , 蒸気機関車とは全く関係なし・ 納得させる国鉄再建策を産み出せるかどうか , そ じつは , この本 , 数年前に 2 , 000 円くらいで古 れに 8 代目総裁の成否がかかっている・その「成」 本屋で見つけて買いこんでおり , カラー絵図も多 にかけて , まず , とびこすべき第 1 のハードルが く楽しい・いまでも丹念に古本屋を歩いていれば 「スト権」である」と結ぶ・ 複刻版の 6 , 500 円より , ずっと安く入手できるの このふたつを読みくらべると , 国労・動労の取 ではないかと思う・横 195 , 縦 115 ほどの不思議 り上げ方が 180 度違う・スト権問題が結着し , 新生国鉄の道筋がはっ な形で 310 第・博文館から発売されたときの定価は 2 円 50 銭となって きりするまでは , まだまだ , さまざまな論評が現われよう・ 久しぶりに椿書院の首都圏沿線シリーズ⑨『中央線各駅停車』 ( 780 NHK 教育 TV は 4 月 17 日 20 時 15 分から教養特集『近代日本の足跡・ 円 ) が出た・東京一相模湖間と青梅線・五日市線各駅からの散歩に便 汽車会社』一一星野芳郎氏が , 蒸気機関車の廃止には反対だと提言して 利・巻頭に簡単な歴史や記念キップのカラー写真ものっている・ いたが , おそすぎる・企画そのものが , S L の全廃によって汽車会社を ぐっと古いところでは , 鐵道省が 1921 年 ( 大 1 のに編集した「鐵道 見出したといった感じで , タイミングがすれていたのが残念だ・ ( 複 ) 国鉄・私鉄を問わす , 鉄道営業の基本的な考 員ノ請求アリタルトキハ何時ニテモ乗車券ヲ スムレンズ え方は , 1900 年 ( 明 33 ) に制定された鉄道営 呈示シ検査ヲ受グへシ」 2 項「有効ノ乗車 業法に示されています・ 1900 年といえば , 山 券ヲ所持セヌ又ハ乗車券ノ検査ヲ拒ミ又ハ取 陽鉄道・日本鉄道などの国有化以前の時代で 集ノ際之ヲ渡ササル者ハ鉄道運輸規程ノ定ム ・鉄道営業法・ その後 , 何度も改正されているものの , いま ル所ニ依リ割増賃金ヲ支払フへシ」 3 項「前 も生きており , なかなかおもしろいきまりが キップについては , 比較的こまかな条項をつ 項ノ場合ニ於テ乗車停車場不明ナルトキハ其 あります・ くっています・まず 15 条 1 項で「旅客ハ営業 ノ列車ノ出発停車場ョリ運賃ヲ計算ス乗車等 鉄道営業法は , 鉄道ノ設備及運送 , 鉄道係 上別段ノ定アル場合ノ外運賃ヲ支払ヒ乗車券 級不明ナルトキハ共ノ列車ノ最優等級ニ依リ 員 , 旅客及公衆の 3 章と附則を合わせ 45 条か ヲ受クルニ非サレハ乗車スルコトヲ得ス」と 運賃ヲ計算ス」 らなっています・第 1 章・鉄道ノ設備及運送 無賃乗車をいましめ , 16 条〔運賃の払戻〕で そして 42 条〔車外又は鉄道地外への退去強 の 15 条〔乗車と乗車券〕 2 項に「乗車券ヲ有 は「旅客カ乗車前旅行ヲ止メタルトキハ鉄道 制〕にあたる行為は「 1 有効ノ乗車券ヲ所 スル者ハ列車中座席ノ存在スル場合ニ限リ乗 運輸規程ノ定ムル所ニ依リ運賃ノ払戻ヲ請求 持セス又ハ検査ヲ拒ミ運賃ノ支払ヲ肯セサル 車スルコトヲ得」とあり , 第 2 章・鉄道係員 スルコトヲ得」るのですが , 2 項では「乗 トキ 2 第 33 条第 3 項〔旅客用に供しない の 26 条〔罰則〕に「鉄道係員旅客ヲ強ヒテ定 車後旅行ヲ中止シタルトキハ運賃ノ払戻ヲ請 箇所への乗車〕ノ罪ヲ犯シ鉄道係員ノ制止ヲ 員ヲ超ェ車中ニ乗込マシメタルトキハ 8 , 000 求スルコトヲ得ス」と厳しく定めています・ 肯セサルトキ又ハ第 34 条〔禁煙の場所での吸 円以下の罰金又ハ科料ニ処ス」とあるのは , 煙及び婦人待合室への男子の立入〕ノ罪ヲ犯 もっとも旅行を始めたからといって一律に払 明治というのびやかな時代をしのばせます・ 戻しを認めないというのはひどすぎるので国 ・・・」と続きます・ ' 婦人待合室 ' シタルトキ・・ しばしばラッシュの詰込み電車を語るとき , 鉄の旅客営業規則 , 基準規程などで , いろい なるものはもう存在しませんが , おもしろい この条項が引合いに出され「尻押しは違法だ」 ' 罪 ' があったものですね・ ろ条件を設けて払戻しに応することになって と皮肉られたりします・実状が大きく変わっ 鉄道営業法は , 鉄道関係の法令をまとめた います・ ているのに , 法律がよき時代のまま・・・という 「鉄道六法』 ( 第一法規出版 ) に収録されて 車内改札のきまりもあります・ 18 条〔乗車 のも妙ですね・ 券の検査及び割増賃金〕には「旅客ハ鉄道係 います・ ( 交 ) 第を 多ルイを さかどらぶさ嚮憑おは p あオっきあ + まり 5 つるぎ罍ー 120

8. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

NEWS FILE 1 本という地味な塗装から , 窓まわり黄色・ ・熊本市電の廃止を延期 改造された・また , 中百舌鳥で相互乗入れを 熊本市交通局は 2 月 14 日 , 廃止計画のでてい 実施している泉北高速鉄道でも , 3000 系 18 両 腰部朱色というツートンカラーになった・ た市電 2 号線 ( 田崎橋ー健軍 ) , 3 号線 ( 上 の冷房化が計画されており , 夏までには全車 また富山地鉄から買い入れた 5031 ・ 5035 ・ 5037 は現在まだ日方駅に留置中で , 使用開始 熊本一体育館前 ) の廃止時期を当初の予定よ 取付けが完了する模様・ り 2 年以上 , 延期することを発表した・市交 ( 以上 , 通信 = 大阪府・藤田向克 ) はしばらく先になりそうだ・ 通局では延期の理由として市民の要望をあげ ( 通信 = 和歌山県・和田康之 ) 貴志川線の 3 連化ラッシュ時の混雑緩和の ■川崎重工で阪急 600 形を保存 ため , 4 月 9 日から朝夕の通勤電車 4 本のう 昨年 , 老朽化のため全車廃車となった阪急の ち 2 本を 3 連化した・増結については変電所 600 形は , 大正 15 年の川崎造船所 ( 現川崎重 容量の関係から M M T 編成となるため , 同線 工業兵庫工場 ) 製で , 日本では初めての全鋼 製電車である・今日ではきわめて貴重な文化 技術遺産であるため , 川崎重工業では昨年 11 月 , 阪急から 602 号車の譲渡をうけ , 自社で 復元のうえ , 永久保存することをきめた・ ( 通信 = 大阪府・山村定雄 ) 新躡嘘を ているが , 市電廃止による余剰人員の配転計 画が宙に浮いていることも影響しているらし い・市電存続と引換え に大幅な合理化が予定 されていて , 運行回数 の間引き , 営業時間の では初めて制御車が登場した・この車両はか 短縮 , 連節車 ( 西鉄か って高野線特急に活躍したモ 21201 号で , 高 ら購入予定 ) の投入 , 野線の昇圧後 , 羽倉崎検車区に放置されてい 料金値上げが , 近く実 たところを , 今回 , 白羽の矢がたてられ天下 施される模様・写真は 茶屋工場で改造の上 , 転用されたもの・車内 大江車庫に留置中の車 のロングシート化 , 塗装の変更なども施され 両群・ ( 通信 = 大阪府・継松孝司 ) ている . ( 通信 = 熊本県・ ■野上電鉄の話題 皆越和也 ) 野上電鉄ではこのほど塗装変更を実施 , 従米 窓下に黄色の帯 のグリーンをおびたプルー 20 ・ 21 日 ( 火・水 ) 交通ゼネスト大手私 8 日 ( 木 ) 相鉄いすみ野線開通二俣川一 1976 年 4 月の出来事 鉄は 12 , 200 円のペア ( 9.17 % ) で妥結 , 国 いずみ野間 6.0km. 13 日 ( 火 ) < おおぞら 3 号 > 転覆 14 時 40 鉄など 3 公社 5 現業も平均 12 , 144 円 ( 8.8 2 日 ( 金 ) 青函トンネル最後の工区で掘削 % ) の公労委調停委員長見解で仲裁に移行 開始青函トンネルの最後の工区 ( 算用師 分ごろ , 北海道白糠町の根室本線・庶路駅 し , 事実上解決・ 工区区間 5 , 492m ) の起工式が青森県三 200m 手前で , 函館ゆき特急 2 D < おおそ ら 3 号 > ( 10 両編成 ) の 4 両目からうしろ 22 日 ( 木 ) ' スト後遺症 ' 国労・動労は 4 厩村にある算用師斜坑ロで行なわれた・ 9 が脱線 , 9 ・ 10 両目が横転し , 約 20 人が重 時にスト中止指令を出したが , 立ち上がり 工区中 8 工区はすでに本坑掘削中だが , 推 が悪く , 新幹線は実質的に半日運休 , 八高 軽傷・レールの浮上がりが原因らしい・ 定 80 万トンのズリの捨て場所をめぐって遅れ 1 4 日 ( 水 ) 春闘第 3 波交通スト大手私鉄 線は 1 日中走らなかった・ ていた . 10 社は , 「平均 8 , 000 円 , 6.02 % アップ」 23 日 ( 土 ) 新幹線線路に酔っ払いが侵入 4 日 ( 月 ) 名古屋で列車妨害続く 9 時 40 15 時 40 分ごろ , 新橋駅付近の新幹線線路内 分ごろ , 名古屋市名東区の市営地下鉄東山 の経営者側ペア回答を不満として半日スト・ 首都圏の国電も動労が早朝ストを行なった・ に酔っ払いが入り込み , < ひかり > < こだ 線・一社ー上社間上り線で , レールのポル ま > 合わせて 13 本が最高 40 分遅れた・ 15 ・ 16 日も国労・動労は , ローカル幹線な ト 90 本がはずされているのを保線係員が発 26 日 ( 月 ) 国鉄岡多線開業岡崎一新豊田 見・始発前に高架部分から侵入した者のし どで拠点スト・ > 新幹線運転台に異常男 間 19. 5km で旅客営業を開始・うち , 岡崎 10 時ごろ , 新大阪駅 3 番線ホームで発車時 わざらしい . ' 75 年 12 月 8 日 , 尾西市で新幹 ー北野桝塚間 8.7km は ' 70 年 10 月 1 日から 線の木曾川鉄橋に妨害装置をセット , ' 76 年 刻を待っていた東京ゆき < こだま 234 号 > 貨物営業を行なっていた・ の乗務員乗降ドアからナイフを持った男が になって , 3 月 22 日 , 名古屋市中川区の近 鉄名古屋本線 , 29 日 , 平和町の名鉄尾西線 窓ガラスを破ったりし 運転台に押し入り , と , 愛知県で列車妨害が続発している・ て暴れた・連転十と検査係は客室に通する > 名鉄知多新線延長開通知多奥田一野間 から逃がれ , ホームへ出た男は公安職員 間 1. 7km. に逮捕された・くこたま 234 号 > は運休・ 602

9. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

ミー くあさかぜ > の好評にこたえて翌 32 夏には臨時くさちかせ > を運 32 年月からくさちかせ〉は定期化されて運転区間も東京ー長崎に マ門鉄局が発行したくさちかせ > 定期運転開始のパンフレット ′ 0 ガ 7 タみら 。き右がせ転 を宅急、まで甕・・第い - 新洋を当を、ご第朝簡鶯リ響 発洋 3 ) ※です疊当物は時を第しまいまし 0 は時てすみ 東京 - 長 、 20 40 令 を嶽 : 、さかせし、をを。 : 長、第に第す 20 とにな、 , を・心をけ、をの鱸ををかし : ー阯奪勝第でま耋当 でいを第まを第ふ鞴し濫安ジネしては第を第し第をす , 遅転第の取 驀 4 第第をなミ曾、て秋叮羲凝第い、第当富 . レ 0 い : 誉まと比ま室物新に謇企 0 さ 診さ当かをミ - に毯用すみ新ルの 3 等鵞第三ナバネ物労 : 第 0 容本ごし ( 当を第しをりトををぐ影第第当を明 3 霪を ! - 0 . ーま寰、しを 4 第第をア す物しま崧物をジ 3 、で、らす、、 - !. - , の、い諸を小疑ににグしい第強、、を意ぃ第鑄第し巻下夐 第寧での第と急全 台姦金 気ま物第第受をおも 丸 ' と衝突沈没 ( 死者 166 人 ) , 6 月・・・京大生らが滝川学長・ 激動の旅路 カンヅメ , 8 月・・・森永粉ミルク中毒事件 , 31 年 1 月・・・弥彦三 創業いらい 3 / 4 世紀におよぶ長い官設官営の伝統を捨て , 独 社で正月参詣客 124 名が圧死 , 3 月・・・各地で保険医辞退騒き 立採算制の公共企業体に衣がえして 7 年一一一 . すべてにまだ 6 月・・・ペニシリン・ショック死あいつぐ , 10 月・・・参宮線で ~ 保守的な体質の抜けきれない国鉄が , めすらしく時代を先取 車転覆の大事故 etc . こうした暗い事件が , 華やかな、太陽族 りして誕生させた、夜行特急 ' 第一号くあさかぜ〉は , 産業経 誕生の話題やクイズプームなどの合間に続発した . 戦後文ー 済の高度成長をめざしてスタートした昭和 30 年代初頭の社会 の象徴であるテレピは 28 年の初放映いらい年々倍増 , 31 年 の要請にマッチし , 、寝ているあいだに九州へ ' のキャッチフ れには 30 万台を突破 , カラーテレビ実験放送も NHK では一 まった . 「低俗番組ばかり ! これではこ億自化だ」 レーズのもとに潜在需要も急速に発掘しつつ , 予想を上回る 好評のうちに凍京対九州 ' の最主要列車の地位を着実に固め 評論家・大宅壮ーが有名な毒舌を吐いたのも , このころで ~ ていった . 当時 , 東京一九州 ( 博多 ) 間の鉄道の強敵として る . 文明病といわれるノイローゼも昭和 30 年ごろから急速ー 成長しつつあった飛行機に対する牽制も , このくあさかぜ〉 はやりだし社会間題化した . のもうひとつの使命であった . この時代 , 国鉄の近代化は着々と進んでいた . 31 年 7 月 ( しかし当時はまだ , 列車寝台は夜行の長距離旅行の必需品 関西本線、準急 ' オール DC 化にはじまる気動車の幹線進出 ( とまではなっておらず , 寝台券が入手できないという理由だ キハ 55 形の登場と増備で , 30 年代前半に全国的なディーゼノ けでなく初めからくあさかぜ > の座席車を選好する人が少な 準急網を形成してゆく . 幹線電化も軌道にのり , 同年 8 月一 くなかった . 急行より数時間も速く目的地に着けるという魅 は東北本線と北陸本線 ( 米原ー敦賀日本最初の本格的交 ~ カから特急くあさかぜ〉を選ぶ人も , けっこう多かったので 電化 ) の電化工事がはじまった . ある . 鉄道も利用者もスピードが特急の大切な商品であると 32 年に入ると , 2 月・・・岸内閣 ( 第 1 次 ) 成立 , 4 月・・・国 考えていた時代であり , 『寝台は必要に応じて選好するもの』と の第 1 次 5 ヵ年計画スタート , 5 月・・・鉄道技研「東京ー大 思われていた . くあさかせ〉が完全な寝台専用特急列車に成 3 時間の超特急列車」構想を発表 , 10 月・・・五千円札を発行 / 長するまでには , まだかなりの、時が必要であった . ソ連が人工衛星打上げに成功 ( 有人は 36 年 4 月 ) 宇宙時代ツ 大きな前進や革新には , 必ず混乱と障害がともなう . 高度 開幕 , 9 月・・・仙山線で交流機関車の運転開始 , 10 月・・・新性卩 成長へとエンジンをふかして一気にスタートした昭和 30 年当 電車第一号モハ 90 形 ( 現在の 101 系 ) で 135km / ト高速試験・ 時の日本が , まさにそうであったといえよう . と , 時代はめまぐるしく進展してゆく . 29 年 9 月・・・台風 15 号で青函連絡船、洞丸 ' 転覆 ( 死亡 1 , 440 古い鉄道から新しい鉄道へ . はるかなる黎明をもと 人 ) , 30 年 5 月・・・濃霧のため宇高連絡船、紫雲丸 ' が、第 3 宇高 て闇の鉄路をひた走る混成客車編成くあさかぜ〉の姿は , 64

10. 鉄道ジャーナル 1976年7月号

発足 , 9 月・・・時刻改正・ 5 % スヒ。ードアップ / 特急くへいわ〉 ( 東京ー大阪 ) 運転開始 / 列車食堂の営業を再開 , 25 年 3 月 ・・湘南電車 ' ( 東京ー沼津 ) 運転開始 , 5 月・・・東海道本線の 特急はくつばめ〉くはと〉に , 26 年 2 月・・・横須賀線に新型電 車 ( 70 系 ) / 東京ー浜松に湘南形による長距離電車の運転を 開始 , 4 月・・・臨時特急くさくら > ( 東京ー大阪 ) 運転開始 , 27 年 12 月・・・キハ 44000 形ディーゼル動車 ( 電気式 ) 落成 , 28 年 3 月・・・特急くかもめ〉 ( 京都 - 博多 ) 運転開始 , 3 月・・・ D D50 形ディーゼル機関車 ( 電気式 ) 落成 , 10 月・・・キハ 45000 形ディーゼル動車 ( 液体式 ) 落成 , 29 年 1 月・・・青函トンネル 起工 , 7 月・・・ EHIO 形マンモス電気機関車落成 , 12 月・・・山陽 本線に特急鮮魚列車の運転開始 , 30 年 7 月・・・東海道米原電化 , 11 月・・・国鉄パス営業キロ 1 万 km 突破 , 12 月・・・浜松ー金谷でス ピード試験 120km / h 樹立 , そして 31 年には仙山線の交流電化 試験開始 ( 1 月 ) , キハ 44800 形 ( キハ 55 ) 準急用ディーゼル 動車の落成 ( 2 月 ) , 3 等寝台車の復活 ( ナハネ 10 新製 , 3 月 ) 客車鋼体化の完了 ( 3 月 ) , 東北本線電化起工 / 北陸本線電 化 ( 米原ー敦賀 ) 起工 ( 8 月 ) ・・・と , 近代化・サーピス改善 は急ピッチで進み , 11 月 19 日の白紙ダイヤ改正を迎える . このダイヤ改正は , 戦後では 25 年実施に次ぐ大改正で , 国 鉄創始いらい最大といわれる規模のものであった . 大正 14 年 に東京ー国府津間が電化されてから , 戦争中の空白をはさん でじつに % 世紀 , 戦後の幹線電化のカナメとして進められ てきた悲願の東海道本線全線電化がみごと完成 , これを機会 に実施されたもの . 電気運転による全面的なスピードアップ が可能となったほか , 京浜・山手線の分離運転 , 東京・大阪 付近の国電ダイヤの改正 , 高崎線の一部電車化 , 急行・準急 の増発と立替えなどを含み , 東海道本線を基幹とする画期的 なダイヤ大改正で , 全国的に列車が増発され , 旅客列車数は 昭和 11 年度の 137 % ( 列車運転キロでは 139 % ) に達した . この大改正には , 30 年代初頭のめざましい経済成長と鉄道 近代化にふさわしく , 2 つの大きな目玉商品が用意されてい た . ひとつは全区間の電気機関車牽引が実現したことによる 特急くつばめ > くはと〉の大幅スピードアップ ( 東京ー大阪 8 時間を 7 時間 30 分に ) いまひとつは東京一九州 ( 博多 ) を 一夜で走破する初の夜行特急くあさかぜ〉の新設である . と くに東京と九州を結ぶ特急の出現は , 戦前にはく富士〉 ( 東京 ー長崎 , 戦況悪化のため 19 年 10 月に廃止 ) の前例があるとは いえ戦後はじめての運転であり , 関西地区の利用を完全に無 視して東京ー博多を寝台客主体で直結する構想という点で , まさに画期的な試みであった . くあさかぜ〉は長い夜の暗さに耐え , 黎明のおとすれをひ たすら待っていた 新生くあさかせ〉の素顔 くあさかぜ〉は , すべての点で、戦後派特急 ' 第一号というこ とができよう . 特急が鉄道のシンポルであった戦前 , く燕 > く富士〉く桜 > の時代はいうまでもなく , 戦後もくへいわ > きであろうカ 10 .00 23.56 23 .53 23 . ( ) 5 23 .04 21 .26 21 .21 19.02 19.01 , 24 年 6 月・・・公共企業体「日本国有鉄道」 →くつばめ〉をはじめくはと〉くかもめ〉はエリート列車とし て慎重に , 準備万端おこたりなく , 特急の風格をそなえて登 場した . 線路の強化改良と , 数次にわたる綿密な試運転 , 入念 な需要調査 , ソッなく沿線主要都市の、顔 ' を立てたダイヤ の設定 , 鳴りもの入りの周到な前宣伝 , そして専用客車の充 当・・・ . 展望車も原則として特急に欠かせない存在であり , ス ピード , サービス設備 , 風格の 3 つが , 特急であることの条件 と考えられていた . 展望車を最後位にするために , あるいは 当時、固定式 ' であった 3 等車 ( 現在の普通車 ) の 2 人がけ さんかくせん ロマンスシートを進行方向に向けるために終着駅では三角線 を走らせて編成を方向転換するなど , 時間と人手をかけてい たのも , 特急だからこそできたことであった . もちろんくあさかぜ〉が東海道全線電化を機会に関係者の アイデアで一夜にして生まれたというのではない . 敗戦の傷 手が次第に薄らぎ , 東海道本線に特急が復活したころから , しれつ 東京に直通する、山陽特急 ' の要望は各方面から熾烈に出てい た . とくに当時の九州は現実面でも心情的にも中央指向の傾 向が強く , 前稿の「くあさかぜ〉誕生秘話」にもくわしく紹 介されているように , 東京直通特急を生むための真剣な努力が 早くからつづけられていた . くあさかぜ〉を、戦後派特急 ' とみるのは , ①東京ー専多を 最短時間で結ぶダイヤの設定に大きなカべとなる関西地区の 通過時刻を深夜にとり , 大阪駅での利用を無視し、名を捨て て実をとる ' ドライな考えに徹したこと②新ダイヤで実現 するくつばめ〉くはと〉の東京ー大阪 7 時間 30 分運転と , す でに実績のある山陽特急くかもめ > の大阪ー博多 10 時間運転 をプラスして東京ー博多を 17 時間半で走破できると算出し , 全区間直通の試運転は実施せすに新ダイヤを設定したこと ③機が熟したとみるや特別な車両新製もせす , 在来車から所 要 2 編成を寄せ集めて充当し , 特くあさかぜ > の運転時刻 急としての設備サーピスを無視し 特急客 7 レ て営業に踏み切ったこと④終着 駅で手間のかかる編成の方向転換 をやめ , 往復とも下り側 3 等車 , 上り側 2 等寝台車の編成のまま走 などの理由からで らせたこと ある . その後の新特急の設定ではくこ だま > や 36 年のディーゼル特急大 増発など , 画期的な新型特急形車 両を初めて登場させる場合を除い てくあさかぜ〉方式が原則的に踏 襲され , こ十数年のあいつぐ全 国的な特急増発では常識にさえな っている . それだけ特急が一般化 し , 技術の標準化や安定が裏づけ となっているわけだが , 戦前から の古い伝統や技術が主流であった 当時の鉄道界ではくあさかぜ〉の 18.30 18.54 18.55 19 .58 20 .00 20 .59 21 .01 23 . 21 23 .25 1 . 19 1 .24 2 .00 2 .01 2 .29 2 .30 3 . 15 3 .18 4 . 31 4 .34 5 . 21 5 .22 7 .03 7 .08 8 .43 8 .46 9 .26 9 .27 10 .31 10.35 10.43 10.47 11.55 東 横 熱 静 示 浜 海 岡 名古屋 示 大 姫 福 広 徳 小 下 博 都 阪 路 山 島 山 関 多 9 .34 9 .33 8 .29 8 .27 7 .28 7 .26 5 .07 5 .03 3 . 10 3 .05 2 .29 2 .28 1 .59 1 .58 1 . 1 2 1 .09 19 .46 19 .43 17 .59 17 .55 17 .46 16.35 17.42 59 特急客 8 レ