図 6 英仏海峡トンネルの計画 の道路専門家と相談した結論も「道路トンネ ル」および「鉄道・道路併用トンネル」では 採算がとれない , というものであった・ 海峡トンネルは長さ 52km ( 青函トンネルは 53. 9km 海底部分 23km ) , 直径 6.85m の 2 本の 単線トンネルを掘り , その中間に排水用の小 トンネルを掘る . ( 図 6 ) 工事が完成した暁 には旅客列車 ( 最高速度 140 ~ 160 / h ) ・貨 150 100 + 55 物列車 ( 最高速度 80 ~ 120km / h ) , 自動車輸送 50 0 列車 ( 最高速度 140 / h ) など、いろいろな 列車が走ることになるが , 最高速度 160km/h -100 の TEE はわずか 25 分で海峡を横断でき , パ リ ~ ロンドン間が現在の 7 時間から 3 時間 40 分 ~ 4 時間と大幅に短縮になる・しかし , の英仏海峡トンネルには , 3 つの特殊な問題 があった・ その一つは自動車の輸送 . このトンネルは 青函トンネルと同様 , 鉄道専用トンネルとな るので , マイカーやトラッグを通す方法を考えなければなら ない . このため , トンネル区間だけを往復する自動車輸送専 用列車を走らせることになった・ 2 段に自動車を積む屋根っ きの貨車 35 両編成 ( 全長 750m , 総重量 1 , 200 t ) で , 260 台 の自動車を積むことができる . トンネルには 1 時間に 10 ~ 12 本の列車を走らせることができるが , うち 4 本を自動車列車 とすると , 1 時間に 1 , 000 台の自動車を運ぶことができる . 次の問題は , こうした自動車を積み卸すためのターミナル 設備 . このターミナルの計画は図 7 ・ 8 のとおりで , フラン ス側はカレー付近 , イギリス側はフォークストン付近に設け ーはますパスポー られる予定であった . 列車に乗るドライバ ト ( または身分証明書 ) と税関の検査 , 通行料の支払いをす ませたのち , 自分のグルマを運転して後部から列車に乗り込 み , 前のほうから順番に駐車する . 36 分でトンネルを抜けて 対岸のターミナルに到着すると , 今度は前の自動車から順番 トンネルでも に、下車 ' してゆく . スイスのサンゴタルド・ ちいられているのと同じ方法で , 20 分もすれば全部の自動車 物列車 の・下車 ' と・乗車 ' が終わり , 列車はふたたび発車するこ ー間 , プリュッセル ~ カレー間 , フォ グストン ~ ロンドン とができる . いちいち機関車を付けかえてパッグする面倒を 間に高速新線を建設し , ロンドンのビグトリア駅は現在でも 避けるため両ターミナルには図のようなループ線があって , すでに手ぜまなので , ロンドンの西の郊外のホワイト・シテ 自動車輸送列車はつねに同一方向に走ればよいようになって ィーに新しいターミナルをつくることになっていた . これが いるのも面白い . 完成すれば , パリ ~ ロンドン間が 2 時間半 , プリ、ツセル ~ 第 3 の問題は , イギリスの線路の上には大陸諸国の大型客 ロンドン間は 2 時間 15 分となり , 空港への往復の時間を考え 車が通れないことで * 5 ) ロンドン ~ パリ間 , ロンドン ~ プリ に入れると飛行機よりもかなり速くなる・ ッセル間の直通列車には , イギリスの線の上も走れる特殊 こうして英仏海峡トンネルの具体案がきまり , 1964 年 2 月 な小型客車を使用するが , その他の国際列車はすべてトンネ 6 日 , 英仏両国政府はトンネル建設について原則的な同意に ルの出口のフォークストンどまりで , こでイギリスの列車 サインした . あとは種々の技術的な問題の検討と工事着手の に乗り換える計画になっていた . そのためイキリス側のター 正式決定を待つばかりとなっていた . 1966 年 7 月 8 日 , 英仏 ミナル設置は大規模なのである・しかし将来は , パリ ~ カレ サンがソト上ー フォラストン 5 ー 98 km16.71 k Ⅲ四 .81 km41.81 km0 km53.34 L9 ・ 8 ーー C9 ・め 0 をマ 15.00 図 7 フランス側のターミナル 15.00 トンネル出口 ↑トンネル入口 自動車積込場 、 - カレー プ丿ュッセ ロー ーユ 図 8 イギリス側のターミナル 、祝閠 トンネ只 ロンドン 122
った・それによると , 海峡のフランス側に深さ 54m , イギリ ス側には深さ 30m の穴を掘り , その底に地下駅をつくってト ンネルのターミナルとする . トンネルは 14 の工区にわけて掘 削を進めるが , ちょうど海峡の中間に浅瀬があるので , そこ に人工の小島をつくって港を建設する・島の海底部には信号 場があって , ここから貨車は坂を登ってこの人工島の港へ連 絡することもできる . トーメ・ド・ガモンはこの計画を皇帝ナポレオン 3 世に提 出した . イギリス征服の夢を実現できなかった大ナポレオン の甥のナポレオン 3 世は , この計画に関心を持ち , 1856 年に 調査委員を設けて具体的な検討をはじめ , 1875 年にはフラン ス北部鉄道とロスチャイルドなどの財閥の共同出資になる 、フランス海底トンネル協会 ' とイギリスの・海峡トンネル会 社 ' が発足した . イギリスのほうでもビクトリア女王が非常 なんじ な関心をよせ , ホークショーに対し「もし汝がトンネルの建 設に成功したならば , 私の祝福と全イギリス女性の感謝が与 えられるであろう」とはげましている . 両会社は 1882 年工事に着工し , 翌年 3 月にはフランス側で は直径 2.15m のトンネルを 1 , 840m 掘削し , イギリス側でも 1 , 842m と 805m の 2 本のトンネルが掘られている . 工事には ポーモン掘削機を使用し , この工事の最中にイギリス側では 良質の炭鉱が見つかり , イギリス南部鉄道の機関車用の燃料 にも使用されている . こうした計画に対してイギリス軍部は真向から反 しかし , 対し , ウォールズレー元帥は議会で「このようなトンネルは イギリスを最大の危険のもとにおくものであり , つねにフラ ンスからの侵入に備えねばならない」と発言し , トンネル反 対の一大キャンペーンを起こした・昔から相争った両国のこ とゆえ , このトンネルには万一の場合 , イギリスからでもフ ランスからでも水を流し込んで水没できるような設備が考え られていたが , それでも連邦の反対を押さえることはできな かった・そして 1883 年 3 月 , 工事の中止命令がでて , この計 画は中止となった・このときに掘られたトンネルは現在もほ ば完全な状態で残っている . こうして , まず第 1 回の試みは失敗に終わったが , その後 も何回かトンネル計画が再燃している . 1906 年 , フランス北部鉄道のサルチョー技師は , 地中 100 m に直径 5.5m のトンネル 2 本を掘る案を発表したが , イギ リス軍の反対を少なくするため , 海岸に近いところに人工島 をつくり , そこから陸地の間は橋にして , 戦争のさいにはい つでも破壊できるようにしてあった・しかし , それでも実現 にはいたらなかった . 1914 年 , イギリス国防会議は「海峡トンネルは , なんらの 軍事的効果があってはならぬ」と宣言する・そして , まもな くフランスとイギリスは相協力してドイツ相手に第 1 次世界 大戦に突入した・戦争の終わった 1918 年 , ノランスのフォッ グ元帥とイギリスのチャーチル首相は「もし海峡トンネルが おい あったならば , 大戦は 2 年早く終わったであろう」と言って いるが , 1920 年にイギリス首相ロイド・ジョージはトンネル 計画に反対を声明 , 1924 年にラムゼー・マクドナルド首相 ( 労働党 ) も反対している・その後 , 1938 年にもフランスの パデパン技師が自動車専用トンネルの計画をつくっている・ ぼつばっ 1939 年 , 第 2 次大戦が勃発し , ドイツ軍が海底トンネルを 掘ってイギリスを攻撃することを恐れたイギリス軍は 1883 年 の試掘トンネルの中に精密な測定装置を設備し , 万一 , トン ネル工事が始まった場合にもすぐ探知できるようにしていた . 第 2 次大戦が終わるとヨーロッパの軍事情勢は一変し , も はやイギリスとフランスが軍事上の理由からトンネルの建設 に反対する理由はなくなっていた . 世界は東西両極に大きく わかれ , ョーロッパの中でいがみ合う時代では無くなってい たのである . 1955 年 , イギリス政府は戦前のトンネル建設反 1957 年にはアメリカ , フ 対の立場を白紙に戻すことを宣言 , ランスの合弁会社 'Technical Studies lncorporated' ( 技 術研究会社 ) を設立し , 1875 年創設のイギリス・フランス両 トンネル会社およびスェズ運河会社とトンネル計画推進のた めの協議に入り , 同年 7 月・英仏海峡トンネル研究グループ ' が発足した . この研究グループの仕事は , トンネル掘削技術の調査 トンネル利用輸送需要の想定 ② ( 3 ) 収入支出計画の作成 トンネルの経済効果の判定 ( 4 ) ⑤従来からある種々の案の比較検討・すなわち直径 12m , 2 車線の道路トンネル案 直径 6.5m のトンネル 2 本からなる道路 , 鉄道併用トンネ ル案 直径 6.5m のチ、一プ 2 本を海底に沈める水没トンネル案 道路・鉄道共用の直径 20m の大チュープを海底に沈める水 没トンネル案 高さ 50m , スパン 225m の橋梁案 ( 中央部は船を通すため 高さ 70m , スパン 600m , 道路専用・鉄道専用・両者併用 の各案がある ) 水没トンネルと橋を組み合わせた折中案 こうした研究の結果 , 英仏海峡トンネルは十分に採算がと れ , いろいろな案の中で最も有利なのは鉄道専用のトンネル という結論が出た . 自動車トンネルは排気ガスの除去という 大問題があるほか , 1 時間に最大限 600 台のクルマしか通す ことができず , 鉄道に比べて輸送能力がかなり小さくなる . しかも , 1 時間かかってトンネルの中を走るということはド ーにとってかなり神経の疲れることで , 当然 , 事故や ライノく グルマの故障などで交通マヒも発生する . アメリカの統計を もとにして計算すると , シーズン中に 6 , 000 台のクルマが通 一日に 10 件の故障と 1 件の大事故が起 るこのトンネルでは , こることになる・それやこれやで道路トンネルの建設費は当 時の見積でも鉄道トンネルより約 70 億円高くなり , アメリカ
ータウンで , 前もって軌道敷を確保できるところ こうした目的に適した車両の製作は産業政策の一環として MTE はかアルストー 社 推進していかなければならないが , つまるところ , 需要者た P 8 CITADIS 軽メト [ K 車両タイプ M る大都市の意向いかんにかかっている・貴都市ではこの提案 車長 ( m ) 26.9 27.4 23.2 27.0 19.1 19.7 車体幅 (m) をもとに具体的な交通計画を早急に樹てることを希望する . 車体高 (m) その計画をもとに産業界との折衝を進める予定である」 重 ( t ) 自 30 40 50 24 出力 (kW) 300 460 300 400 300 300 続いて 1975 年 4 月 , パリで開かれた交通博覧会 'TRANS- 定員 ( 人 ) 188 225 282 278 164 198 200 PORT—EXPO 75 ' にさいし , 「路面電車は若干のフランス 最高速度 (km/h) 80 70 100 70 80 80 2 両連接 2 両連接 3 両連接 2 両連接 3 両連接 2 両連接 2 両連接 の都市で新しい発展を始める可能性がある . 1975 年中に都市 ジューモン・シュネデール SGTE SPIE ・バチニョルクルーゾ・ * ) MTE 側と運営企業とが共同して , そのための条件を定めることに トリッヒ各社の連合 ロワンカレル・フシェ・ランゲヒ。ンド・ディ なろう」と述べている . へだたった・光栄ある孤立 ' の位置に置き , むしろアメリカ こうして , ふたたびフランスに路面電車復活の動きが出て やイギリス連邦諸国との連帯を深めていた . しかし第 2 次大 きたが , どのような車両を使うことになるのだろうか ? 戦後のイギリスは , もはや , かって、七つの海 ' に覇をとな 1974 年 , フランスの開発会社 'Sodeteg Engineering' は西 え , 陽の沈むことのないといわれたエリサベス I 世時代の大 ドイツの有名な路面電車メーカー 'Düwag 社 ' と提携し新し 英帝国ではなく , ョーロッパの一国として大陸諸国との結び い路面電車の開発にのり出した . Sodeteg 社はメキシコの地 っきを深めつつ生きていかざるをえなくなっていた . 下鉄を建設したのち , フランスのマルセイユ , チリのサンチ こうした , イギリスの大陸への方向転換のうえで象徴的な ャゴの地下鉄の工事を進めている会社である . 同社は最初 , 出来事が , ョーロッパ共同体 ( E C ) 加盟と英仏海峡トンネ ・ P R T ' と呼ばれている新交通システムの開発にとりくんだ ルの掘削なのである . 1958 年に発足した EC に対して , イギ が , 技術的に問題がありすぎるので方向転換してドイツの リスは当初むしろ冷淡だったが , まもなく E C から孤立する Düwag 社と提携 , ・ S L R ' * 4 ) という新しいタイプの路面電 ことの不利をさとり , 1961 年に E C 加盟申請を出した・しか 車の開発をはじめた・この 'SLR' の路線は , 都市の中心 し 1963 年と 1967 年 , 2 回の E C 理事会でフランス大統領ド・ 部は地下 , 周辺部は地上に専用軌道を持ち , その上を近代的 ゴール将軍の「ノン」にあって , 加盟をはばまれている . な市電タイプの車両が走る . 現在計画中の車両は表 7 に示す 1969 年 , ド・ゴール大統領が退陣してイギリスの E C 加盟 のための扉は開かれ , 1973 年 1 月 1 日からイギリスはアイル とおりで , 列車の運転 , ダイヤの整理はすべてコンビュ ーによる自動制御である . ランド , デンマーグと共に新しい E C の一員となった . そし きずな Sodeteg 社以外のグループも新しい路面電車に関心を持ち て , イギリスと大陸を結ぶ絆ーー英仏海峡トンネルの建設準 備も順調に進み , 1980 年ごろには完成するかと思われた矢先 ℃ I T A D I S 冖軽メトロ ' などの車両を発表しているが , この突然の計画中止の決定はフランス政府をはじめ関係者の Sodeteg 社のものと大差はない・運輸相の提案に対し , スト 間に大きな反響をまき起こした・ ラスプール , ルーアン , ツールーズの各都市でさっそく具体 案の検討に乗り出し , グルノープル市も ' POMA2000 ' よ 英仏海峡をトンネルで連絡する計画は , 古くからあった・ 1750 年ごろ , アミアンのアカデミーが英仏海峡連絡の計画の り路面電車のほうに関心を示している . しかし , ナンシー コンクールを行ない , デマレ CDesmarets) 技師がトンネル ースなどはまだ消極的である・い ポルドー ツールーズ , 計画を提案しているが , 19 世紀に入って , いろいろな案が生 すれにせよ , かりにこの計画が具体化しても実際に路面電車 が走り出すのは 1978 年以降になろう . まれてくる . まず 1802 年 , マチュー CMathieu) 技師は上下 2 段のアー * の Systime Léger sur Rai1 ( レール上軽システム ) の略 チからなるトンネル計画をつくり , ナポレオンに提出した . 英仏海峡トンネル 下のトンネルは排水用で , 上のトンネルに馬車を通そうとい う考えである . このほか , 海底に鋳鉄のパイプを埋め , その 1975 年のはじめ , 日本の新聞でも英仏海峡トンネル計画の中 中に道をつくろうという案 , 吊橋をかける案 , 英仏海峡に堤 止が大々的に報道された . イギリスとフランスの間をへだて 防をつくって連絡しようという案などが発表されている . ているこの海峡は最も狭いところ ( カレー パー間 ) で これらの計画は , いすれも机上の計画にすぎなかったが , 幅 36 しかないが , 歴史上に重要な役割を果たしてきた . フ 本格的に英仏海峡トンネル計画に取り組んだのはフランス人 ランスのルイ 14 世もナポレオンも , そしてドイツのヒトラー トーメ・ド・ガモン (Thoméde Gamond ) とイギリス人ホ も , ついにこの海を渡ることはできなかったし , 第 2 次大戦 —CHawkshaw) が最初であろう . トーメは , まず 中 , フランスのシャルル・ド・ゴール将軍は海の彼方イギリ クショ 英仏海峡の土質の研究にとりかかって 33m の試掘坑を掘り , スにあって自由フランスの解放を指導している . この海峡は , つねにイギリスをヨーロッパ大陸諸国と一歩 こうした基礎研究をもとにして具体的なトンネル計画をつく 表 7 フランスの新路面電車用車両 Sodeteg (SLR) D M っ朝ワ】 32 80 120
両国首相は「もし両国が満足できる具体的なトンネル計画が つくられれば , 両国政府はトンネル着工の決定を下すであろ う」と宣言し , 1971 年 3 月 22 日 , トンネル工事の調査と資金 調達のために ' 英仏トンネル・グループ ' を発足させ , 同年 9 月 22 日には両国にトンネル建設会社が設立された・ そして 1970 年 10 月 20 日 , 両国政府および両建設会社の間で 第 1 回協定を調印した・これは正式に工事の着手をきめたも のではなく , 「両国政府の意見が一致したことを認め , もし 最終調査の結果 , 技術的にみても経済的にみてもこの計画が 可能であり , 採算がとれることがわかれば 1973 年 8 月に工事 着手の決定をくだす」ということをきめたものである . この 第 1 回協定では , 主としてトンネル建設に必要な資金の調達 と運用方法を定め , 次の 3 段階のステップをへて工事を進め ることになっていた . ・第 1 段階工事実施計画・資金計画などの作成 . 1971 年 4 月からすでにスタートしており , 1973 年 7 月 31 日が最終期 限で , そこで第 2 回協定が結ばれる . 工事に必要な資金の 半分は民間から調達することになっている・ ・第 2 段階 1973 年 8 月 1 日から 1975 年 1 月 31 日まで . 工事 の着手段階で , 1973 年上期に指名された工事業者により , 斜坑と排水トンネルの一部の掘削を行なう・その間に本ト ンネルの掘削のための技術的な問題を実地で解明する . ・第 3 段階 1973 年 2 月 1 日から 1980 年ごろまで . 本格工事 の期間で , 順調に行けば 1980 年中に完成する・ 工事が完成すると , このトンネルは英仏両国政府の共同所 有物となり , 英仏合弁のトンネル運営公団が管理することに トンネルの建設費は約 3 , 700 億円 ( 1973 年現在 ) なっていた . で , 民間の資金は 50 年間に返還される・ 工事はまず , 1882 年に掘った竪坑を使って土質の調査をす ることから始まり , 1973 年 5 月 15 日にはカレーの町の南 4 にあるサンガット CSangatte) の村でトンネルの斜坑の掘削 が始まった . イギリス側でもドーパーの西 , シェークスビア ・グリフの麓で同じように斜坑の工事に取りかかっている・ 1973 年 11 月 19 日 , 予定よりやや遅れたが , ロンドンでイギ リスとフランスは英仏海峡トンネル計画を正式に実施に移す 条約に調印し , ・第 2 段階 ' に入った・しかし , ちょうどこの ころ石油ショックが起こり , ョーロッパも大変な不況とイン フレに巻き込まれ , 英仏海峡トンネルのように多額の資金の かかる建設工事の前途があやしくなり , 1974 年 3 月 , イギリ スの EC 加盟を推進してきた保守党のヒース内閣が倒れ , E C 加盟批判の立場をとる労働党のウイルソン内閣が政権につ き , 大陸諸国との結びつきのシンポルーー英仏海峡トンネル 計画には反対の空気が強くなっていった・ ・第 2 段階 ' から・第 3 段階 ' の移行は 1975 年夏に行なわ れる予定であったが , イギリス側はこれを 1 年延期し , さら にトンネル出口からロンドンを結ぶ新線 ( 約 110 ) の建設 は工事費がかかりすぎるため , 白紙に戻すことを提案した . ふもと しかしトンネル建設会社側はこの提案に難色を示し , イギリ ス議会は 1973 年 11 月の・英仏海峡トンネル建設条約 ' の批准 の期限である 1975 年 1 月 1 日までに同条約に同意をあたえす ついに英仏海峡トンネルの建設は中止ときまった . 1975 年 1 月 20 日イギリスのグロスランド環境相 * 6 ) は下院で次のよう に述べている . 「・・・・・・現政府はトンネル条約批准の期限である 1975 年 1 月 1 日までに必要な法案を通すべく努力したが , 1974 年の総選挙 などのためにこの期限を守ることは不可能となった・また , 1974 年 11 月 26 日に本議場で言明したようにド ー - ノ、 - ーロント ン間の高速新線の建設費は著しく増加し , 政府としてはこの 計画を推進することは不可能と判断せざるを得ない・したが って , 私はトンネル計画の共同推進者 ( フランス政府 , 2 っ のトンネル会社 ) に対し , 原案より安い鉄道新線の建設案を 練り直すあいだ , トンネル計画のスケジュールを延ばすよう 提案した . すなわち , 当初の予定では 1975 年夏に最終決断を くだすことになっていたのを , 1976 年にさらに延期すること と , 条約批准期限に幅をもたせることである . われわれのパートナーはトンネル計画を推進するために , この提案を受けて解決策を検討することに同意し , フランス 政府は 1975 年春まで計画を凍結し , その間に計画を練り直す ことを提案してきた . しかしながら , 不幸にしてトンネル会 社はこの提案を拒否 , 1 月 10 日を期限として計画放棄を通告 し , 株主の利益保護の観点に立った会社側独自の修正案を英 仏両国政府に提案してきた . この案はとうてい英国政府として受け入れられる内容のも のではなく , 私は遺憾ながら仏政府に対して会社側の提案を 拒否し , トンネル建設に関する現在のプログラムを破棄する ことを通告した . 現今の経済情勢および今後くるべき困難な 時代に公共投資を抑制するという政府の基本方針からみても 英国政府が直接資金を投じてトンネルを建設することは不可 能である . このプロジェグトは可及的速やかに中止されるこ とになるが , 将米 , 情勢が好転してトンネル計画がふたたび 陽の目をみる日に備え , その研究 , 計画 , 工事は完全な状態 で保存しておかねばならない」 この計画がふたたび陽の目をみることがあるだろうか ? 国際的な問題だけに 5 回の中止の傷は深く , 簡単にはいかな いだろう . しかし , 1975 年 6 月 5 日の国民投票でイギリスの EC 加盟は圧倒的な支持を受け , 今後イギリスと大陸諸国と の結びつきがますます強くなることを考えると , いすれかの 日にふたたび話題にのばることは間違いないであろう . 事実 , 大陸諸国の側から建設工事の資金を提供してもよいとの意見 * 6 ) イギリスでは交通問題は環境大臣の所管事項になっている・ リスは 2.3mX2.67m * 5 ) 大陸諸国の客車の最大寸法は 26.4m ( 長さ ) x2.82m ( 幅 ) であるが , イギ も出されている . 123
中央アフリカ スーダン 、ウガン C V Z ムンク・ベル アケチ \ ヾ 7 ) V ) ヾート ルワン キンシャサ東駅 キサンカ、、ニ CFL づェドワード物 ル共和国 ザイ ブルンジ ータンガニ 'f カ湖 ータンサ、 ア コンコ ( ブラザ匕レ ) キンテ。ユ イレポ キ、 / シャサ ′ナェラ キサンツ マ 9 ディ 0 カハ、ロ カレミ バナナ C F L Ⅳア一つ カ三ナ ムエール ーデンビア デロロ ルプンバシ ( 本社所在地 ) ロどト港へべ、 / 、、サカこア 影をつくり , 南緯 4 度の苛烈な太陽の下を歩む人々に安らぎ パタイユ・アユ・ライユ ) なる 1 冊の本がある . 「マタディ ル間鉄道建設物語」の副題がっき , Rene ・スタンレープー をあたえる・ この大通りを通って , ふたたび出勤する . アパ 午後 3 時 , J. Cornet ( ルネ ・コルネ ) 著 , 仏文 392 ページ , 1947 シ、一 ートのすぐ前には大通りに面して・ O N A T R A ' の白亜の 年ベルギーで出版されたものである . 約 1 年 3 カ月のザイー ビルが , 近代ザイールの代表的建築として , シンメトリカル ル国滞在中に , 私はこの本のことを聞き , 現地で図書館など かっ蕭洒な姿を見せている・ 手をつくして探したが , 「かってはあったが , 今は見あたら ない」との答ばかりが返ってきた . 通訳の谷口氏はこの本を ・ ONATRA ' は国営運輸公社であり , ザイールの交通上 求めるため , 帰国の途上 , わざわざプラッセルに寄り , かっ 重要な役を負う河川交通と港湾を管理し , またこれまでは , c FMK 鉄道もその管轄に入っていた . 1920 年に河川運輸公 てベルギーに留学していたころの知人を頼って数十軒の古本 社 CSONATRA) として発足し , 1936 年に植民地運輸庁 屋にあたってもらったところ , 4 日目に全くの偶然から入手 ( 0 T 0 R A C 0 ) と改称され , さらに 1970 年に現在の名称 ・・という貴重な本である . できた・ になったが , 奥地のシャノく州の銅鉱山を除いては目ばしい産 1868 年 , ナイル川の源流を発見するためアフリカの奥地に 入り , 行方不明になっていたスコットランドの宣教師リビン 業のないこの国では , つねにエリートのための機関とされて グストーンを , 1871 年にタンガニイカ湖畔で発見して有名に 「 0 N A T R A 王国」の異名までたてまつられている・最近 なった米国籍のイギリス人スタンレーは , 1874 年 , 3 百余名 では運輸省までがこのビルに移り , 運輸大臣もここで執務し の大部隊をもってアフリカ東岸をたち , 2 , 570km のザイール ている . 川を下って 3 年後の 1877 年 7 月 , 大西洋の川口に近いボマに この 0 N A T R A ビルにほど近い 6 月 30 日通りの東端がキ ンシャサ東駅であり , マタディ ~ キンシャサ間 353km の鉄道 達した . スタンレーはイギリスにコンゴの開発をすすめたが 反応がないため , アフリカを物色していたベルギー国王レオ のターミナルである . ポルドⅡ世に協力することにした・ ベルギー国民はコンゴに ついて冷淡であったため , レオポルドⅡ世は私財を投じ , コ ンゴ自由国として開発にかかり , スタンレーはレオポルドビ アンゴラ KDL テンケ たたか 鉄路の闘い 今ここに「鉄路の闘い」 CLa BATAILLE du RAIL フ・ 76
メリカの GE 製ディーゼル機関車 列車がもう一本くるという・そのあいだに私はカメラを手に 駅構内を , わが列車を中心に見てまわった . この 50 列車は一日 2 往復しかないキンシャサ ~ マタディ直 通列車のうちの 1 本で , 時刻表面では一応起点のキンシャサ 東駅発 6 時 50 分 , 終点マタディ駅着 16 時 20 分となっている . 1. 067m ゲージ , 全線単線の 353 を 9 時間 30 分 , つまり表定 速度は 37 / h である . 機関車は 1974 年に米国のゼネラル・エ レクトリックで製造されたディーゼル電気機関車で , 1 , 500 馬力 , 550 トン牽引 , 最高速度 105 / h の性能 . 機関車の後ろ に , 日本でいえばトムが 2 両とワムが 3 両 , それに海上コン テナを各 2 個積んだトラが 6 両つづき , 次いで食堂車 1 両 , 1 等車 2 両 , しんがりが車掌車という編成である・貨車はペ ルギーとドイツ製 , 1 等車はイギリス製であった . やっと , 次の通勤列車が到着した . またもやゾロゾロ降り てくる通勤客を , 夫人・子供づれで 1 等車の窓から見ている みせもの 黄色人種の私たちが , かえって彼らからの見物になって「シ ノア ( 中国人 ) 」と声をかけられる . この国の人々はよほどの 知識人でない限り , 私たちを「シノア」と呼ぶ . 「ノン」と 答えると「それではコリー ( 朝鮓人 ) か」と聞く . それでも 「ノン」というと , しばらく考えてから「ベトナム人だろう」 という . 「日本人か」というのは , こちらがソニ パ , ヒタチ , サンヨー ーッサン , マッダと , 次々 トヨタ , に日本製品名をあげていってからであり , これはいつどこで も同じ順序で行なわれた . 6 時 50 分発の予定が 7 時 25 分になって , やっと出発・この 駅の出発信号機をはじめ , こから約 100 は単線自動信号 で , C T C 化されており , センターは O N A T R A ビルの 9 階にある・しかし , ものの 5 も走らないうちに , 次のウン ドロ駅の場外で約 20 分停車 . ここはカープになっているので 私たちは食堂車で傾いた皿に盛られたスープを飲み , 大きな オムレツの朝食をとった・食堂車は古い木造車で , 車内の窓 写真右上から ; 食堂車 / その内部 / 1 等車と筆者 / 2 等車の内部 / 車掌車
通勤用車両 ( キンシャサ駅で ) キンシャサ駅の 50 列車 が壁面に大きな時計を配して建っており , 玄関で案内者マホ 行された . 指揮者ッシ大尉は , のちに将軍となって 1915 年に 口氏が待ち受けていた . 同氏はマタディの出身 , ONATR 没した・その名は工事中に本部所在地となっていたマタディ A の鉄道部門に三十数年も奉職し , 鉄道局長にまで出世して ~ キンシャサ間の中間点の都市名と , 「ツシビル」となって 退職したペテラン鉄道員である . 今は私たちの事務所の常勤 記念されていたが , 独立後は現地語名に改称された . 顧問となっており , この日の旅行の絶好の案内者であった . C FMK 鉄道の現在 1971 年に同氏が来日したときは , 私が国鉄本社で彼の世話を , が今は私が彼の母国で同僚として働いているのも奇し 1974 年現在の C FMK 鉄道の実績は次のとおりである . 輸送実績 き因縁であろう . 出札ロでキッフを買う・今日の目的地はキサンツ駅 . キン 輸送人員 1 , 291 , 000 人 ( 1 等客 26 , 000 人 , 2 等客 1 , 265 , 000 シャサから 110 , 運賃は 1.95 サイール ( 約 1 , 200 円 ) である . 人 , ほかにキンシャサ郊外通勤客 1 , 801 , 000 人 ) 輸送トン数 1 , 630 , 000 トン ( 輸入 638 , 000 トン , 輸出 477 , 駅本屋のわきにはこの国の 1 号機関車 ( イギリスのパルカン 000 製 ) が記念物として安置され , また低床ホームの端には病院 トン , 国内輸送 515 , 000 トン ) 車があり , 写真をとっているうちに 6 時 50 分の発車時刻にな 輸送人キロ 167 , 627 , 000 人キロ ったので列車のほうに走ろうとしたら , 駅員が「急がなくて 輸送トンキロ 488 , 740 , 000 トンキロ もよい」という・なるほど , 単線の線路を向こうから列車が 車両 一本やってきた . 通勤車 3 両に労働者をすしづめにし , さら 機関車〔本線用〕 35 両 ( Alco , Baldwin, Althom, General に , つづく 1 等車までが労働者でギュウギュウづめ . Electric) 通勤車は屋根と支柱とペンチだけでできており , 側面はな 〔支線用〕 45 両 ( 東芝 , MU F) く , 全くの素通しで , 当地特有の横なぐりのスコールにあえ 気動車 3 編成 1 等車 16 両 2 等車 41 両スナックパー車 ば , いかに満員の場合でも真中の乗客までズプぬれになるで 2 両食堂車 6 両通勤車 6 両貨車 2 , 578 両事業用車 あろう . それでもマホロ氏は「この車両は私のアイデア , 私 261 両車掌車 39 両 の命令でつくった . これで , それまでの 2 倍の通勤客を運へ 主要貨物品目 るようになった」と自慢していた . 弾性ゴム , パーム汕 ①輸出 = 銅 , 原木 , 製材 , コーヒー この列車がホームもない線路にとまり , 通勤客がゾロゾロ ②輸入 = 食糧 , 機械 , 石油 , 化学製品 , 米 , コンテナ積貨 降りてくる . その情況を外国人である私が写真に撮れば彼ら 物 , 小麦粉 に袋だたきにされるであろうから , カメラをマホロ氏にあす 職員数 5 , 237 名 ( うち外国人 37 名 ) けて撮ってもらった . この国での写真撮影については入国直 CFMK 鉄道での旅 こう書いてあった . 「写真撮影は自由 後に読んだ案内書に である . ただし軍事施設 , 港湾施設 , 市民を除く」 ある一日 , 私は同じ日本国鉄の沢瀬技師 ( 車両 ) 一家と , 市民はいたるところにいるのだから , 実際には写真撮影は の鉄道による旅を試みるべく , 朝早く 6 月 30 日通りをキンシ はなはだ困難である . ャサ東駅へと向かった . コンゴ独立当時に破壊されたベルキ これで私たちの列車が発車するかと思ったらさにあらす , ー統治時代の記念塔と , 椰子の木立の向こうに , 白亜の駅舎
尸ス / 乙ル / ノ〇し日Ⅳ乙 鉄道ジャーカレ 1976 ・ 9 N0 115 10 N0 ・ 10 ・昭和 51 年 7 月 20 日印刷 ・昭和 51 年 9 月 1 日発行 ・編集・発行者竹島紀元 ・編集スタッフ 金子俊夫 / 塚本雅啓 / 松尾定行 白井朝子 / 宮原正和 ートディレクト岡田徹也 ・発行所 ( 株 ) 鉄道ジャーナル社 〒 102 東京都千代田区飯田 4 ー 8 ー 6 日産ビル 電話 03 ( 264 ) 1891 ・ 1892 振替口座東京 9 ー 82820 番 ・印刷所凸版印刷株式会社 特集 0 長距離ドン行列車 7 レールウェイ・レビュー地元に密着した駅へ 8 ニュース・ファイル ( 国鉄・私鉄・海外鉄道の動き ) 1 4 車両基地 ( 国鉄動力車の新製・改造・転属・廃車 ) 特集長距離ドン行列車 1 5 紀伊半島をめぐるく南紀〉白井朝子 / 塚本雅啓 23 生きている長距離普通列車 編集部 30 長距離ドン行きのうきようあす 斉藤研ニ ドキュメント☆列車追跡⑦ さいはてドン行のりつぎ 660.8km 松尾定行 35 長距離ドン行の系図 47 種村直樹 長崎・佐世保電化と特急くかもめ〉くみどり〉 56 西海のエル特急くかもめ〉くみどり〉 竹島紀元 / 白井朝子 59 試運転くかもめ〉試乗記 深水宗孝 ☆レールウェイ・トビックス さつばろの・新しい顔 ' 登場 ! 編集部 55 下間仲和 71 大阪市交通局新 30 系 72 . 阪急電鉄宝塚線用 6000 系 山村定雄 75 ザイール国 CFMK 鉄道ものがたり渥見昇光 ・名列車 ' 誌上リバイノヾル⑩ 84 夜行特急第 1 号くあさかの 20 年 ーその 2 編集部 RO 技術解説シリーズ⑩ 94 鉄道車両の冷房装置 井出盛 トップ・アングル 98 レールファン・ノートから⑩運転室便乗 本島三良 1 01 ・路面電車再発見⑨ 鹿児島市交通局 / 熊本市交通局 日本路面電車同好会 1 1 0 ヨーロッパの鉄道と列車の旅⑩ 山之内秀一郎 1 1 7 イギリスの旅 ( 2 ) 1 02 プノレー ・トレイン 1 08 映画 " 蒸気機関車ドキュメンタリー・シリーズ " / 魚眼 / ズームレン ズ / 新聞記事ざっくばらん / 伝言板 / タブレット / ワイドレンズ / R J クイズ / ジャーナル編集室 / 次号予告 / 乗務員室 西海のエル特急くかもめ〉 表紙 カメラ・白井朝子 晴れの上りくかもめ 2 号 > ・・・この上リくかもめ 2 号 > だけはくみどり〉を併結せすくみ どり〉編成を肥前山口から前位増結車としてくかもめ〉の単独運転になっている . 佐賀駅 での祝賀式にそなえて美しく飾りつけられたクロ 481 形 かって幹線上の主要都市を結ぶ 優等列車として存在した長距離 普通列車は電化の進展や近代 車両の登場にともなう特急・急 行列車の増発により次第に姿 を消してゆき今では細々と通 勤・通学輸送や地域内利用者の 輸送にあたっているにすぎない 始発駅から終着駅まで乗り通す にはあまりにも時問がかかり すぎ追い越してゆく特急や急 行とは到達時間において比較 することすら無意味である . し かしだからこそ長距離普通列 車には速さを至上とする生活 のリズムに慣れきってしまった 現代人がもはや忘れかけてい るなっかしい旅情といったもの が残されていると言えはしない 今月号ではこのよう な観点から長距離普通列車をと らえルポを中心にドン行の味 をそこはかとなく味わっていた だけるような特集を組んだ . 定価 480 円〒 60 円
ヨーロッノヾの鉄道と列車の旅 ( 3 1) 山之内秀一郎 イギリス鉄道の旅② 写真はすべて筆者撮影または提供 ールにはフランスに残り少ない路面電車が走っている . フ フランスの路面電車 ランスにも , 以前はドイツに負けないくらい多くの町に路面 電車が走っていた . ( 表 4 ) そのほとんどは廃止され , 残っ 夜のパリ ~ ロンドン直通列車くナイトフェリー > はアミアン の手前で右に分岐し , フランス北部の大工業都市ーリール てだいるのはここリールの町と , サンテチェンヌ , マルセイ CLille : 人口 20 万 ) に向かう . 途中のアラス CArras) はフ ユけになってしまった . 人口の多くがパリに集中し , ドイツ のように人口 50 万 ~ 100 万の中都市が少なく , 路面電車のほ ランス革命の中心人物ロベスヒ。ェールの生まれた町 . 日本と とんどは自動車にとって代わられた・それにはフランス人の 違って工業地帯の少ないフランスで , この北部ベルギーとの 国民性というものも若干影響しているようだ . 第 2 次大戦後 国境地帯は豊富な石炭資源に恵まれ , 古くからフランスきっ ての工業地帯で , 織物 , 鉄鋼 , 化学 , 機械などの工業が発達 フランスの地方大都市の路面電車の幹部は次のように述べて いる . 「第 2 次大戦後 , 路面電車は貴重なサーヒ・スを行なっ し , 車窓からボタ山や煙突の林立しているのが眺められる . 表 4 フランスの路面電車 開業年 人口軌間路線キロ 輸送量 市 ( 1930 年 ) (m) 馬車動道 電車 ( 千人 ) 開業年 人口 軌間路線キロ 市 ( 1930 年 ) 電車 ( 千人 ) 1 , 435 工クス ~ マルセイユ 9 1 , 000 工クス・レ・バン 83 アミアン 77 ・ンジ、工 33 アングレーム アルカション アノレテーシュ アルマンチェール アビニョン アプランシュ ビアリツツ 5 ボクール 38 ( ルフォーノレ 45 ブザンソン 65 20 プロワ 250 1 , 435 ポルドー 50 1 , 000 プーロー 37 フりレジュ 60 プレスト 59 カレー 26 カンプレ 39 カンヌ カンヌ ~ グラス 2 カッセル え丁写えこみ。・一 27 31 シャルノレビノレ 33 シェルプーノレ 103 クレルモンフェラン コノレマーノレ 82 ンジョン 29 1 , 435 ドゥ工 29 ダンケルク 工ルプフ 23 1 , 000 工ヒ。ナル エタープル ~ ル・トゥケ 10 ウ ~ ル・トレポール フォンテースプロ 9 フォル / くック 92 グルノープル 162 1 , 435 ルアープル 5 1 , 000 アンダイエ 2 ラン 195 1 , 435 133 1874 1881 ール ( 郊外 ) 1 , 000 500 106 1877 20 注 ) 路線キロと輸送量は 1927 年の数値 輸送量 廃止車両数 ( 万人 ) 7 74 1902 1935 ごろ 150 1901 1944 26 95 1899 1930 ごろ 14 , 610 947 1880 1888 1893 1957 618 1897 1947 38 15 , 027 950 1876 1893 1892 179 1903 1951 1901 1914 4 1 , 100 1902 1948 328 1897 1949 6 1929 6 1899 1 152 1894 1956 2 , 104 1958 191 1898 195 2 , 062 1879 1913 1958 3 , 542 1900 1953 279 46 218 1899 1950 402 1899 1938 73 3 , 215 68 , 384 1878 1892 1938 223 1900 1929 330 1900 1955 47 173 1899 1947 1896 1914 1900 1939 81 1897 1952 36 1901 25 1935 ごろ 20 1901 1931 1902 1920 5 1 材 2 , 829 1877 1 7 1896 1953 1925 1898 1910 1940 1906 1931 1897 1881 1889 1927 1948 1899 1908 1956 1899 1914 1901 1935 ごろ 1878 1878 1895 1960 1911 1953 1886 1897 1955 1887 1905 1957 1889 1877 1900 1949 1899 1950 1927 1950 1913 1966 1896 1957 1925 1899 1935 ごろ 廃止車両数 都 都 S L 圧縮空気 S L 圧縮空気 ( 万ノ、 ) (km) 馬車動 6 32 3 347 10 177 10 1 よ -4 ・ 4 ・ - ・ 1 より・】 1 よ 0 戸 0 0 0 -0 ′ 0 5 0 -0 -0 っ -0 -0 3 0 -0- -0- つん -9 》ー 8 -4 ・ 4 ・ -4 ・ー t-—- ー 1 よ 1 よ 1 、イ 1 ・ - -3 00 っ 0 -8 1 ーイ -8- 1 ・イ 一 1 ・・ワ -4 1 よっ 0 ー 11 戸 0 ー 11 00 -4 ・、 .0 ワ ~ 1 よ《 0 内ー 1 ー《 0 ーー《 0 -4 ・っ 1 ー 0 ・ーっ 0 -4 1- ・ 1 1 よ 1903 1948 1911 1899 1940 1896 1949 1900 1935 ごろ 1911 1930 ごろ 1898 1932 1901 1914 1901 1932 1907 1914 1888 1914 1948 1904 1935 ごろ 1952 1898 1897 1952 1901 1948 1934 1910 1958 1893 1951 1897 1898 1949 1898 1945 1901 1935 ごろ 1906 1940 1903 1914 1933 1899 1915 1926 1900 1938 ごろ 1897 1938 1900 1914 1897 1910 1944 1890 1956 1902 1960 1895 1961 1898 1950 1898 1952 1898 1926 1906 1914 1900 1935 ごろ 1902 1935 ごろ 1896 1953 1912 1950 1894 1897 1952 1894 1951 1906 1908 1935 1899 1971 1902 1966 1894 1897 104 ロングウィ ロリアン 791 ′レ . ルド 400 リョン 224 ノレ・・ ~ ン 33 マルセイユ 16 モプーー ムラン 151 メッス モンペリエ 373 ムチェ・サラン 8 ュルーーズ 289 ナンン一 171 ナント 103 35 8 , 379 オルレアン 308 339 , 、 0 ルピニャン 210 ボワチェ 551 ル・ピュイ ランス 389 レンヌ ロアンヌ 122 ラ・ロシェノレ 79 ロデ . ルーアン 123 サプル・ドロンヌ サンタポルト 998 3 サン・ンヨモン 340 サンテチェンヌ 276 ガン・ - ~ ロ 653 サン・カンタン セダン セート 28 ストラスプール 38 チオンビル 118 ツーロン 123 ツーノレーズ 944 ツール 2 , 455 トロワ / 、フンス / くランンエンヌ 3 , 942 ベルサイユ 4 , 661 ビシーー 686 ビリセル 1 ー / 1 ーっ 0 っ 0 -4 ・ワ編 1 よ 1 よ ワ I..O っ朝 -4 ・ワ】《 0 11 -4 ・ 1 ー っ 1 よ《 0 ワ っ 1 よ 4 2 1896 1891 1 よっ】 1 ・ 1 人 -4 ・ 1880 3 6 4 4 9 20 1879 7 168 1880 20 1881 6 9 20 1880 1881 1874 1878 1880 1877 1855 1895 1879 781 419 280 42 1882 0 8 ワ りん 1 よ 1 4 4 -4 ・っ 0 り 0 -4 ・ 0 -8- 8 7 405 30 126 20 359 4 , 550 659 42 177 1 , 984 376 3 , 621 75 414 214 27 5 39 12 《 0 8 1...n っ 0 0 、 .0 1 ーワ 4 1 ー 22 3 , 345 146 329 1880 -3 8 0 0 ) ワ】 -4 ・ 《 0 お 0 ワ 8 / 1 よ 1874 1 , 327 692 1881 1876 1891 1895 4 229 242 -4 0 ″ -0 -0 ・ 8 ュ 1951 10 117
こうして , 目的地のキサンツ駅に 9 時 34 分に着く予定が , 実 これまで , 鉱産品の大部分はアンゴラのペンゲラ鉄道を通っ 際には 11 時 30 分になってしまった . キンシャサから 110km の てロビト港に出ており , 残りはだいたいサンビア・ローデシ 行程を 4 時間 40 分かけたことになる・まして終点のマタディ アをへてモザンビークのべイラかタンサニアのダルエスサラ 着 ( 時刻表では 16 時 20 分 ) ともなれば , 実際には真夜中にな ームに出ていた . しかし最近はアンゴラの動乱によってペン る恐れが十分にある . ゲラ鉄道は破壊され , 大西洋へのルートはなくなり , サンビ 常時このような運行状態なので , 私たち外国人が全区間 , ア ~ ローデシア間の国境封鎖やタンザン鉄道の輸送力不足に 鉄道を利用することは全くない・キンシャサ ~ マタディ間 よって , インド洋への道もとざされている . 残るルートはサ 365 の道路は片道 1 車線 , 坂とカープの連続を自動車は ィール国内だけを通る道で , 一応安心して使えるものではあ 100 / h 以上のスビードで突っ走るのであるから相当な危険 るが何分にも不便で , 輸送力が極端に少ない・シャパ州のサ をともなうが , 所要時間を考えるとどうしてもグルマを利用 カニア , ルプンパシ , テンケで K D L 鉄道 ( 南局 ) に積まれ せざるを得ない・列車の本数は片道 11 本とキサンツ駅長が言 た鉱産品は , イレポ港に達して船に積み替えられ , 約 1 , 000 km の川を下る . そして , キンシャサ港でふたたび貨車に積ま っていた キサンツ駅には事務所のグルマ ( トヨタの 4 輪駟動ステー れてマタディ港に着き , ここで川口から約 150 , ザイール ション・ワゴン ) を回送させておいたのが私たちを待ってい 川をさかのばってきた外航船に積まれることになる . た . これで国道を走り , 鉄橋近くで , 並行する線路に列車が いま , ・国民路線 ' なる構想がある . 大西洋に面したザイー くるのを撮影するため , しばしクルマをとめて待っていた . ル川の川口にノくナナ港を建設し , 奥地のサカニアとの間 交通取締りの憲兵がきて「何をしているか」とたすねる . わ 3 , 500km を鉄道で結ぶ計画で , これはイレポ ~ キンシャサ間 けを話すと 0 K にはなったが , 「煙草はないか」という . 「私 の鉄道と , マタディ ~ パナナ間鉄道の建設により完成される・ は煙草を吸わないので持っていない」と答えると「煙草がな このうち , イレポ ~ キンシャサ間 820 の鉄道建設は , ペ ければほかに何かあるだろう」とのことで , 結局 , 20 マグー ルギー・イギリス連合とザイール政府との間で契約が締結さ タ ( 約 120 円 ) ほど取られた・ れた . 植物園に行って素晴しい熱帯植物のかすかすを見 , また国 マタディ ~ パナナ間の鉄道建設 内の販売部で野菜や果物を買った . ホウレン草 , ネギ , 大根 , 1971 年 4 月 , サイール国のモブツ大統領が訪日したさい , マ キュウリ , ナスやパパイヤ , アポカ , パイナップルなどが , キンシャサで買う値段の程度で買える・キンシャサに住む タディ ~ パナナ間の鉄道建設に対する協力要請があり , 日本 者にとっては全く信じられないような安値であるが , これも 政府べースによる原田ミッション , 今岡ミッションが派遣さ この国の輸送手段の不足が原因している . 産地では作ろうと れ , フィジビリディ調査が実施された・それによる報告書が 思えばいくらでも作れ , 一方 , わすか 100 先に人口 130 万 提出され , 1973 年 11 月には日本とザイール両政府の間で 345 の大消費地がある . ただこの間に輸送力がないだけで , 私た 億円の円借款に関する交換公文がかわされ , ついで 1974 年 12 ちキンシャサの住民は大変な高物価にあえいでいる . ジャガ 月 , 日本の経済協力基金とザイール中央銀行との間で借款協 イモさえも 2 , 000 の奥地キグ州から空路運搬され , 玉ネキ 定が調印された . も遠く南アフリカから飛行機で輸入されるのを買わざるを得 一方 , ザイールの運輸省内には , マタディ ~ パナナ間の鉄 道建設 ( 約 150km ) と , マタディ ~ キンシャサ間の現在線の ないのである . 人の輸送力も極端に少ない・キンシャサ中心への鉄道によ 改良を目的とした部局・ 0 E B K' ( パナナ ~ キンシャサ施設 る通勤は前述した 2 往復の列車だけで , 道路による通勤は囚 人護送車の後部にもう 1 っ扉をつけ , 窓ガラスを取り払って 旅客列車 ( ・オナトラ ' のマーク ) 鉄格子をつけたような通勤パスによらざるを得ず , これもま た数が少なく , 非人道的なほどギュウギュウづめである . そ れに通信手段の未発達が生活の遅れに輪をかける・発展途上 国における交通と通信の重要性は , 現地で生活してみると身 にしみてわかることである . 国民路線 ザイールの輸出額の 70 % 以上が鉱産品であり , そのまた 70 % が銅で , コパルト , 亜鉛 , ダイヤモンド , 錫 , マンガンも輸 出されているが , その産地が奥地のシャパ州であることに大 問題がある・