貫通式切妻形の顔と顔を突き合わせた 併結特急の姿はなかなかユニークた 左は 583 系特急く金星〉の回送列車 ( 竹下一南福岡で ) を 国鉄の電車特急で初めての分割・併結列車であることだ . 形 ' 先頭車 ( クハ 48120 0 ) がいよいよ威力を発揮するかと思 長崎・佐世保線は典型的な亜幹線であり , 線路容量の有効 われた . ところが , くかもめ > とくみどり > がせつかく顔を 使用と輸送量の関係で戦前から両線の列車を , その基部で 突き合わせても貫通ドアは閉鎖したままで併結両列車間の ある長崎本線の鳥栖ー肥前山口間で併結運転し , この伝統 行き来はできない . 理由は , 貫通ドアを使うようにすると は戦後の優等列車増発でも受けつがれて , 多くの気動車急 作業が煩雑になり , 解結だけで数分を要し , ただでさえも 行をはじめ寝台特急くさくら〉くあかっき 1 号〉に実施され 作業時間の惜しい肥前山口での停車がさらに長びくため . 乗客も乗務員 ( くかもめ > に車掌長・専務車掌が各 1 人 , ている . 電車特急の新設にあたってもその伝統が踏襲され , 将来 くみどり〉に専務車掌 1 人 ) も互いに行き来ができないとい の分割・併結を考慮して設計された 581 系以降の・前面貫通 うのは , サービスが売物の特急としては不親切だろう . も手塚・秋月両運転士の 2 人である・長崎機関区からは江口 指導助役が添乗してきたので , さっそく近藤氏がパトンタッ チし , 報道陣の新しい質問攻めにあう・ 南福岡組は肥前山口で下車 . 長崎本線はこ こからカープの 多い単線区間となる・入りくんだ海岸線そいにレールをきし ませながら走りつづける 485 系もスビードは 60km/h 以上に は上がらす , 完全にその力を持てあました格好だ . 江口助役は「この海岸線は門鉄局管内でも一番イヤな区間 で , 乗務員は一様にいやがります . とくに E L でカープに突 っ込むときに出るレールのきしみ音はイヤなもの・本当に緊 張の連続です」と解説してくれる・ なにしろ最小半径 250m , 400m のカープは数知れすという 状況のため , 門司鉄道管理局は肥前七浦以南に大きなカープ ク第、 48 ー - 標識を上下合計 46 本建て , 乗務員が運転しやすいようにする など , とにかく安全運転には気をつかっているところ・「あ れがその標識です」と江口助役が指さす方向に , 黄地に黒字 の標識板が見えるが , サッと車窓をかすめて後方に飛び去っ て行く・ 小長井をすぎても , 左手 , 有明海上の雲仙岳や右手の多良 岳は山頂を雲間にかくし , ついに姿を見せなかった・多良付 近でちょっと降り出した雨もすぐやみ , 諫早では薄日さえ射 しはじめた . 雲仙登山口のこの駅では懸命にホームのかさ上 上 ; 雲仙観光の看板のある小長井駅で / 下一急カープを抜って走る
急カープの手前には 大きなカープ標識が建 てられている マ車内はどの車両もゆ ったり閑散期だから 仕方ないが一日も早く 一人前のエル特急に育 ってほしいもの 門司港へ / ロ 玄 畑 筑 山地 △貸振山 前ロ 佐世保有田泉 佐世保線 早山支嬉野 肥前鹿島 大分へ 九十九島 づいた . 海岸ぞいの線路を全面的に改修し , 戦後の主力機 ローカル特急の停車駅にはふさわしい . 30 秒停車 . C 51 ・ C 57 ・ D 50 ・ D 51 が大手をふって通れるようになっ 車窓左手の広大な田圃の彼方の低いコンクリートの城壁 たのは , 特急くさちかぜ〉 ( 現在のくさくら〉 ) が登場した 防波堤が近づき , 視界がせばまって丘陵部に入る . 最 昭和 32 年ごろからである . 初の短いトンネルを抜けると , 左車窓に海が迫ってくる . ひドた およそ 15 分で肥前鹿島 . ローカルの小駅だが , この地方 干潟で有名な有明海である . すぐまたトンネル . いよいよ いうとくいなり の中心ー鹿島市の玄関で , ホームには「祐徳稲荷神社」の 海岸ぞいの難コースにかかったのだ . 肥前浜から小長井に 大きな看板が . 駅からバスで十数分の祐徳稲荷は , 伏見 かけて約 25km は , とくに線路条件がよくない区間である . 稲荷・豊川稲荷とともに日本三大稲荷の一つで , 九州では トンネルと急カーープ , 丘陵が海岸線まで迫った狭い海ぞ 太宰府天満宮についで参詣客の多い , 庶民信仰のメッカ . いの細道を , くかもめ 1 号〉は 8 両編成の車体を右に左に 経ヶ岳 る岳 半 鉄道当 原雲 6 半 長騎 戦後初の山陽特急くかもめ > は昭和 28 年 3 月日西日本 地区の期待をになって颯爽と 登場した C 57 Ⅱ牽引でタ闇 迫る門司駅を発進する下り処 女くかもめ > ( 筆者撮影 )
佐賀地方にはワラ葺きの曲屋づくり農家が今も多く残っている 有明海に舞うくかもめ〉 「 3 分ほどで肥前山口です . この列車は長崎ゆきと佐世保 ゆきにわかれます . 長崎ゆきが 1 分 , 佐世保ゆきが 2 分と まります」・ いよいよ新特急おめあての分割だ . ダイヤではそれぞれ 3 分・ 6 分の停車だが , 遅れているためか , 正味の停車時 いすれにしても 1 分では下車できない 分がそうなのか ので , 分割作業を撮影してくみどり〉で佐世保へ向かう白 しに作業を 井カメラマンに取材をまかせ , 8 号車から一、 この駅での解 ながめる . 試運転では独立運転だったから , 結作業は今日がブツッケ本番というわけ . 助役さんやカレ チ氏も真剣な顔で , もどかしげに作業を見守る . ホームで はすでに発車のベルが鳴っている . くみどり〉が静かにバックして 3 m はど離れたところで とまると作業完了 . この間およそ 3 分 . 上りの場合はくみ どり〉が先に到着してホーム前寄りにとまり , くかもめ > が二度も軽く停車しながら近づいて連結するので , もっと 時間がかかる . 小型ローラーまで繰り出してアスファルト舗装に懸命の 肥前山口でのくかもめ〉とくみどり > の分割作業左 ; 連結器を解錠 して工アホースを切り中 ; 編成後部のくみどり〉が静かにバックす ると右 ; 編成は 2 つに別れる ホームには , 上りのローカル気動車が 2 編成ならんでいる . 電化で登場した新顔は特急形電車と交流機関車だけで , 例 外的に快速電車 ( 通勤形 ) が 1 往復 , 長崎・佐世保へ運転され るはかは , 急行・普通列車は気動車のまま . 電気機関車も 全部はそろっていないのか , 初日の下り < みすほ > はまだ DD51 の牽引で , 新旧車両の展示会といった感じだ . くみどり〉を置き去りにして発車したくかもめ〉は , 軟 号地盤のため門型構造のポールが林立する長崎本線を , 次 第に進路を南に取りつつ長崎へ向かう . 線路は単線となり 速度も目立って落ちてきた . 肥前竜王を通過 . 右手に山が 迫る . まもなく右へ大きくカープ . 私の乗った最後尾 8 号 車から , 窓に顔を押しつけることなく , 急カープを切る前 分割作業完了 ! この問およそ 3 分停車時間ギリギリの作業だ かと 0 当き
くわらせて走る . 左手に並走する国道のすぐ向こうには褐 色の海原 . 時おり , 小さな入江にそって急カープを切る . 潮のひいた泥沼には , 傾いた小さな漁船の姿も・・ 11 時 03 分 , 多良駅を通過 . すぐ西には標高 983m の多良 岳がそびえている . この一帯はナゾの女王国一耶馬台国が あったともいわれるところ . 島原半島に大きく抱かれて眠 る有明海のはるか南に雲仙岳が望まれるはすだが , あいに くの曇り空で , 灰褐色の世界が一面に広がっている . 深い緑の木々と雑草に , 眼のさめるようにあざやかな車 体を浮き上がらせて急カープをぬうくかもめ〉のスピード は , せいぜい 60km/h どまり . 並行する国道を , 荷物を満載 した大型トラックの列が少しすっ先行してゆく . 道路は小 さな入江を橋で一直線に突っ切ってゆくのに , 鉄道は R250 ~ 300m のカープで半円を描きながら迂回する . まさに , 新 しい交通機関と歴史の重味を背負って生きる鉄道の , 対照 的な光景だ . しかし , よく観察していると , コンスタント な速さで走るくかもめ〉のはうが全体的にはクルマより先 行している . それは高速大量輸送に生きる鉄道の底力とい うべきであろうか . ウサキ、とカメの寓話ではないが , 苦し い競争とはいっても油断せす , 適切な対策と努力さえ怠ら なければ , 鉄道の生き残る道はきっと残されているはすだ . 急と新幹線が接続するのは下り 7 本 , 上り 6 本で , 東京ー 名分である・新幹線接続高速列車網 ' の形成といっても , 特 の。ェル ' 運転を構成する苦しさだ . そのため , 設定の大義 数本の急行く出島〉く弓張 > まで含めて , はば 1 時間へッド をスタートする . 運転時刻が 1 ~ 4 時間と不揃いであり , ぞろ を発車し , 上りは朝と , 日中・さみだれ ' 式に長崎・佐世保 くみどり〉が 6 往復 , 下りは正午前後とタ方に博多・小倉 ・エル特急 ' といっても , 長崎くかもめ〉が 7 往復 , 佐世保 幹線の近代化輸送改善の困難さを物語っているといえよう 味でいかにも中途半端であり , 日本のさいはてに生きる亜 ェル特急くかもめ > くみどり〉の登場は , そういった意 を犠牲にして鉄道の健全な発展は望めない . の生活と密接に結びついたものである以上 , ローカル輸送 きた地域利用者の立場への理解であろう . 鉄道が沿線住民 の綿密な分析 , 将来性の判断 , そして鉄道の発展を支えて 下にドジョウがいつもいるか・・・ , 要はその線区の輸送需要 らの成功をふまえての積極商法ととることもできる . 柳の 車の増発が輸送需要の開拓につながった実績も多く , それ 可欠である . また他地区の例でもみられるように , 優等列 ることは明確で , この観点からみれば工ル特急の設定は不 ・観光地へのスピードアップとサービス改善の一環でもあ 長崎・佐世保電化が新幹線博多開業による島内主要都市 いて少し考えてみよう . は前にふれたが , もう一方の柱であるエル特急の意義につ 方の柱が島内幹線電化によるメリットを期待していること とエル特急新設であるのは明らか . 大局的にみて電化の一 その・生き残る ' ための起死回生の策のひとつが今回の電化 長崎・佐世保間ではわすか 3 往復というさびしさである . また , 上下ともくみどり〉が 1 往復少ないため , 上下と も併結区間で , くかもめ > とくみどり > の号数が違うケー スが生して不便であり , 急行く出島〉く弓張 > グルーープの混 在も原因して列車系統が複雑で , スッキリしない . 特急と ほば同数の急行が残ったことは地域利用者へのサービスと いう面で喜ぶべきことだが , 「数自慢キッカリ発車自 由席」が売物のエル特急の看板が泣こう . 初日の試乗では 席だけはタップリあったが , これは喜んでばかりもおられ まい . 気動車急行とくらべて博多ー長崎間で 30 分 , 博多ー 佐世保間で 20 分しか速くないというドン足 ( 下り 1 号の場 合 , 表定速度はくかもめ > が 63.7km / h , くみどり〉が 54.4 km/h) とともに , 早急に改善とイメージアップの努力をし ないと , シーズン以外は赤字特急になるような気がする . 一方 , ローカル旅客改善では 1 往復の快速電車が登場し たものの , 下りは夜ふけ ( 長崎着 23 時 40 分・佐世保着 23 時 12 分 ) 上りは早朝 ( 長崎発 5 時 01 分 , 佐世保発 5 時 47 分 ) のビジネスむきでないダイヤで , 間合使用ということが露 骨にわかる . 投資を極端に押えられた苦しい状況の中で長 崎・佐世保全線の C T C 化まで実現させ , 急行・通勤形電 車の新製投入まで手が回らなかったのだろうが , 全般的に 利用者へのキメこまやかな配慮がもっとはしかったと思う . ともあれ , 前号でくわしく紹介されたような経緯と関係 者の努力で , 待ち望まれた西九州地区の電化はスタートし た . そして今 , くかもめ〉は褐色によどむ有明海に流麗な 姿をうっして西海へ飛ぶ . 北国からの渡り鳥であるカ モメが港に棲みついて人々の生活を守るように , 遠い昔の 東海道特急から三転して西海のエル特急に生まれかわった 新生くかもめ > は , きっとこの地に定着し , 西九州発展の 先頭に立って逞しく成長してゆくことであろう . 間半の飛翔の翼を静かにたたんだ . くかもめ〉は終着駅ー長崎のガランとしたホームに , 2 時 をぬけるともう長崎市内 . 12 時 53 分 , 定刻より 3 分遅れて をめざす . 諫早を出ておよそ 15 分 , 長崎トンネルの長い闇 頸部の丘陵地帯をトンネルで次々とつらぬいて , 一路長崎 喜々津を出ると 4 年前に完成した線増別線に入り , 半島 系電車は高加速にものをいわせてグングン足を早める . め > 最後のコースだ . 5 分の遅れを取りもどすべく , 485 いよいよくかも 停車を 1 分にちぢめて , すぐ発車 へ島原鉄道が分岐している . そして長崎・西彼杵半島への交通の要衝 . 北へ大村線 , 南 そのぎ の細い頸部に位置し , 九州中央部 , 島原半島 , 佐世保方面 , 長崎本線沿線の最後の都会一諫早は西南へ伸びる長崎半島 ルをぬけると , 小さな町なみが広がり , そこはもう諫早 . り , やっと特急らしい 90km / h 前後にもどった . 短いトンネ あびて緑の平地を諫早へと進む . スピードもグングン上が に難コースを駆けぬけたくかもめ 1 号 > は , 薄日を全身に もてる力を押え , 60km / h 前後のスピードを保ちながら慎重
メリカの GE 製ディーゼル機関車 列車がもう一本くるという・そのあいだに私はカメラを手に 駅構内を , わが列車を中心に見てまわった . この 50 列車は一日 2 往復しかないキンシャサ ~ マタディ直 通列車のうちの 1 本で , 時刻表面では一応起点のキンシャサ 東駅発 6 時 50 分 , 終点マタディ駅着 16 時 20 分となっている . 1. 067m ゲージ , 全線単線の 353 を 9 時間 30 分 , つまり表定 速度は 37 / h である . 機関車は 1974 年に米国のゼネラル・エ レクトリックで製造されたディーゼル電気機関車で , 1 , 500 馬力 , 550 トン牽引 , 最高速度 105 / h の性能 . 機関車の後ろ に , 日本でいえばトムが 2 両とワムが 3 両 , それに海上コン テナを各 2 個積んだトラが 6 両つづき , 次いで食堂車 1 両 , 1 等車 2 両 , しんがりが車掌車という編成である・貨車はペ ルギーとドイツ製 , 1 等車はイギリス製であった . やっと , 次の通勤列車が到着した . またもやゾロゾロ降り てくる通勤客を , 夫人・子供づれで 1 等車の窓から見ている みせもの 黄色人種の私たちが , かえって彼らからの見物になって「シ ノア ( 中国人 ) 」と声をかけられる . この国の人々はよほどの 知識人でない限り , 私たちを「シノア」と呼ぶ . 「ノン」と 答えると「それではコリー ( 朝鮓人 ) か」と聞く . それでも 「ノン」というと , しばらく考えてから「ベトナム人だろう」 という . 「日本人か」というのは , こちらがソニ パ , ヒタチ , サンヨー ーッサン , マッダと , 次々 トヨタ , に日本製品名をあげていってからであり , これはいつどこで も同じ順序で行なわれた . 6 時 50 分発の予定が 7 時 25 分になって , やっと出発・この 駅の出発信号機をはじめ , こから約 100 は単線自動信号 で , C T C 化されており , センターは O N A T R A ビルの 9 階にある・しかし , ものの 5 も走らないうちに , 次のウン ドロ駅の場外で約 20 分停車 . ここはカープになっているので 私たちは食堂車で傾いた皿に盛られたスープを飲み , 大きな オムレツの朝食をとった・食堂車は古い木造車で , 車内の窓 写真右上から ; 食堂車 / その内部 / 1 等車と筆者 / 2 等車の内部 / 車掌車
みずき な・・・と思う . 原と書いて・はる ' ( ばる ) と読むのが九州の 車窓を一瞬、なかばる ' の駅名板がかすめた . ああ九州だ 山地のなだらかな山なみをながめつつ佐賀へとひた走る . 鹿児島本線と変わらない . 筑後平野の田園地帯を , 北に筑紫 改良化された立派な動脈で , カープも少なく , 乗り心地は くカープし , 長崎本線に入って進路を一路西にとる . 複線 その扇形庫を車窓左手にチラと眺めて , 列車は右に大き ふれる面影は全く残っていない . に扇形庫が名残りをとどめているが , わすか数年前の力あ き上げて , ここの空はいつも暗くかげつていた . 構内の端 見える . かっては , たむろする大型 S L の群れが黒煙を噴 に混しって , 電化で追われる D D 51 形ディーゼル機の姿も ぐ発車 . 構内左手の機関区一帯には , 真紅の交流機関車群 2 回の臨時停車で鳥栖到着は 5 分遅れ . わずか 30 秒です た青田にネズミ色の雲がうつって陰欝な光景だ 囲は緑一色の山野である . 空は本曇りとなり , 水をたたえ 博多を出て二十数分 , 約 23km. このあたりまでくると周 ュの今日では , 複線ではもう限界であろう . 間とならぶ九り、 lil のメインストリートだ . 特急・急行ラッシ 線への乗入れ優等列車がひしめくこの区間は , 門司ー博多 いでいるらしい . 鹿児島本線の列車をはじめ長崎・久大本 先行の急行くかいもん 2 号 > か各停 3123 M が進路をふさ 「たびたび恐れ入りますが信号が赤です . お待ちください」 基山の手前で , 列車はまたストップした . でも速く走る必要があろう . 行と大差ないという汚名をそそぐためにも , 1 分でも 2 分 いうハンディをもつくかもめ > くみどり〉は , スピードが急 コースがひかえ , 停車駅が多いうえ肥前山口で解結作業と なすけない . わすか 1 ~ 2 分の数字ではあるが , 前途に難 分で走るから , くかもめ 1 号〉くみどり 1 号〉のドン足はう もかかる . 二日市に停車する電車急行くぎんなん > でも 25 くかもめ > くみどり > グループは 25 分 , この 1 号だけが 26 分 わすか 23 分で走破し , 客車特急くみすほ > は 25 分で結ぶが 岐駅ー鳥栖まで 28.6 km , 特急はノンストップ . く有明 > は く , しつに快適な走りつぶりだ . 博多から , 長崎本線の分 特急形電車では , 100 km/h 近い高速でも振動がほとんどな 鹿児島本線は線路の状態がよく , 空気バネ・密閉構造の ' 水城 ' の遺構である . た巨大な水濠 長さ約 1 km , 紀元 66 4 年 , 外敵を防ぐために水辺に築かれ 瞬 , 緑の木々におおわれた小高い丘を突っ切る . 高さ 10 m まもなく水城 . つむし風のようにこの小駅を通過すると一 地名の特徴だ . 新中原 ( しんなかえ ) 白木原 ( しらきば る ) 原田 ( らだ ) 田原坂 ( たえざか ) 伊原 ( いをえ ) など , 例は多い . 田植も一段落したらしく , 広い田圃には人影もない . 面に広がる緑色の苗が黙然とたたすむ , 静かな梅雨どきの 田園風景だ . 右車窓には背振連山が墨絵のように薄ネズミ 色にかすんで , つづいている . 高架にかかり , 新しい佐賀駅に滑りこんだ . ユ 1 時 18 分 , 8 分の遅れである . 数えるはどの乗客が下車しただけ . 広 いホームはガランとして , ェル特急の処女運転には拍子ぬ けの光景だ . 佐賀は九州最小の県である佐賀県の中心であり県庁所在 地 , 、葉隠れ ' の武士道精神で知られる城下町だ . 目ばしい 産業もなく , 高架からながめると底い家並がこぢんまりと つづく静かなたたすまいの , 落ち着いた町である . 2 分停車ののち , 白い高架を滑るように西へ向かう . ホ ームはすれで上りくかもめ 3 号 > くみどり 2 号〉とすれ違っ . くかもめメは上り 3 番手で , 長崎で発車式をした列車 . た その影響か , 約 5 分の遅れである . 町並はすぐ消え , 車窓左右にまた平野が広がってきた . 瓦屋根の農家にまして , 古いワラき屋根が眼をたのし まがりや この地方に多い曲屋だ . 母屋から鍵 ませる . ほとんどが , 形に付属部屋が出たっくりで , 東北・北陸に多い . 都会も 地方も生活が画一化され , 農村地帯の開発が進んで , 日本 全国から風土の特色が消えてゆく今日 , 失われゆく伝統や 風習に接すると心がなごみ , 、旅 ' が実感として迫ってくる . 久保田を通過 . 上り線に E D 7697 と E D 75307 のひく貨 物列車が 2 本ならんでいる . E D 76 は鹿児島運転所 , E D 75 は門司機関区の所属 . ともにロングランで長崎・佐世保 まで入っているわけだが , とくに長崎・佐世保電化用の E D76 は鹿児島に集中配置され , 近代化動力車の特徴のひと つである集中配置・ロングランによる合理的運用を可能に したもので , 今回の電化の大きな特色でもある . 昭和 36 年にスタートした九州島内の交流電化は , 縦貫幹 線を主軸として進み , 鹿児島本線の全線電化 , 日豊本線宮 崎電化を果たして長崎・佐世保へと伸びたわけだが , これ ら各幹線は輸送事情が似ていることから , 電車・機関車と もに主力形式を統一し , 共通運用をはかっている . 電化の スタートが比較的遅かったこと , 九州という独立した島で あることなど有利な条件がこれを可能にした大きな理由で あろうが , たんに西九州地区の輸送改善だけでなく , 九州 鉄道全体としての大局的見地から長崎・佐世保電化が進め られたことを忘れてはならない . 電車化によるスピードア ップが僅少なことや , 急行が気動車のまま残ったことなど 中途はんばな電化に終わったのは事実だが , 奥羽・羽越電 化の前例があるように , 最近の電化は広地域の鉄道近代化 輸送改善へと主眼が変わってきた . 電化がかって単一線区 の輸送力増強の手段であったことを考えると , 時の流れと いうものであろうか たんば
中間駅の CTC キサンツ駅前 は 上には非常プレーキのグサリが横に這っていた . 車内を歩いているうちに , 偶然 , 日本国鉄の作業服を着た現 1 等車の椅子はカーキ色のビニ レ張りで , クッションは 地人を見かけ , 足をとめて彼の顔と服とボタンとをしげしげ 窓に 2 本の鉄棒があって撮影に邪魔であった . よかったが , と見ていると , 「コンニチハ」と日本語であいさっしてきた . キンシャサ操車場を過ぎる . まことに広い構内で , 新鶴見 私がザイールにきているあいだ , すなわち 1974 年に , 彼は日 操車場の 2 倍ぐらいもあろうか . 椰子の木と雑草のあいだに 本に行き , 国鉄で半年間 , 保線技術を学んできた研修生グル タンク車 , 鉱石車 , 2 段デッキの車運車などの貨車群が点在 ープのうちの 1 人であって , 彼らの学んだことが現在とても する . この鉄道ご自慢のオートライユと呼ばれる気動車の白 役立っていると語り , 私にはなっかしい日本人の名前を次々 いスマートな姿も見られるが , 幾編成もあるこれら気動車は とあげていった . すべて動かない . マホロ氏の話では , 欧州連合により造られ キンシャサ市内を出ると , まもなく列車はサノくンナ地帯を たもので , 車体 , 工ンジン , 走り装置 , 電気装置など , それ 走る . 中間駅に着くとホームの客が私たちに向かって , やは それ製造国が違っているため , いったん故障したら修理は容 り「シノア」「シノア」と言いながら手を振る . マチサのタ 易でなく , ついにこのようになってしまったとのこと . イタンパーなどの保線用重機械が中間駅の側線に見える . 駅 マホロ氏がこの鉄道の顔役であることにはよい面と悪い面 の有効長は 600m. そして , 中間駅ではしばしば対向列車の とがあり , 後者の一例をあげてみると・・・・・・ . 車掌や食堂車の ため長時間待たされる . キンシャサから約 180 の通信・信 従事員がマホロ氏に頼み込み , 彼を通じて私にぜひ写真をと 号ケープルは地中埋設 , 踏切は自動踏切となっており , まこ ってくれという・いったんシャッターを切れば , 彼らは私の とに立派なものであるが , マホロ氏は「これも私がやったこ 事務所やアパートの住所と電話番号を聞き , 写真を手にする とだ」と自慢する . までは何度でも電話したり , 訪ねてきたりする . キンシャサ 列車は次第に森林の多い高地へと登って行き , 半径 200m の写真屋にカラー写真の現像を頼んだ場合 , 現像液が切れて ほどのカープがつづいてスピードは 20 ~ 30 / h ぐらいとな いるということでふつう 2 カ月ぐらいも待たされる . 仕上が る・信号は , 自動信号からパトン式のタブレット閉塞 ( ウェ りも全体に茶色がかった , とてもひどい色となり , サービス プ・アンド・トムソン式 ) 電気通票器に変わった . 枕木は鉄製 と木製で , パラストも厚く , 乗り心地も悪くはないが , コン 版 1 枚で 300 円ほど . 私たちは写真の現像をほとんど日本に 帰る仲間に託したので , それが返ってくるまでは , たびたび クリート枕木と 50kg レールのロングレール化による軌道強化 彼らの攻撃を受けるわけである . が実施されつつある . 最急勾配は 17 % , 最小曲線半径は 130 このように相手が写真を希望してくる場合はよいのだが , m である . 私が 1 等車内をカメラを持って歩いていたら現地人に「写真 このあたりまでくると駅の周囲にもほとんど人家は見あた を撮ってはいけない」と注意された . それに対し「私はマタ らないが , それでも遠くのほうに煙が立つのを見かけること により , 人が住み焼畑農業が行なわれていることが知れる・ デイから先 , ノくナナ港まで 150 の鉄道を建設するために派 このような駅では , 列車時刻表にはちゃんと停車時分が書い 遣された日本の鉄道員である」と答えると , 「よくきてくれ てあるにもかかわらず , 列車は通過してしまう . 車掌が乗客 た . それでは遠慮なく撮ってくれ」と歓迎された . 1 等車内 ちしっ は各ポッグスに 1 ~ 3 人の乗客がいる程度であるが , なかに の下車駅を知悉しているようにもみえず , 客扱いは一体どう は「この先の線路わきに貨車が何両か脱線転覆しているので なっているのであろう・もっとも , この車掌氏 , 勤務中に食 それを撮ったらどうか」と , わざわざ言いにくる客もいた . 堂車でビールを飲んでいた .
肥前鹿島を過ぎるとやがて有明海に沿い路盤の悪い単線を右へ左へ急カープを切りながら諫早へと走る長崎本線きっての難コースだ り , 早岐・諫早を経由して長崎へ抜けるのが , 当時の長崎 部 3 両の車体があざやかに見える . 時速は 60km / h ほどしか きざ 本線のルートだったわけだ . 地盤が悪く急峻な地形をぬっ 出ていないが , グググ・・・ときしむ音が響き , 小刻みに車体 て海岸まわりの路線が開通し , 現在の長崎本線が全通した が震えている . 左右の揺れもひどくなった . 線路の状態が のは昭和 9 年 12 月のこと . しかし戦後の 30 年初頭まで佐世 グンと悪くなったことが , よくわかる . 保・大村線経由 ( 早岐まわり ) の旧ルートが長崎への動脈 長崎本線が有明海ぞいに走る肥前山口一諫早間の歴史は であり , 優等列車もこのルートで運転されていた . 長崎・ 意外に新しく , そして名だたる難コースだ . 鳥栖から九り、 佐世保線の旅客列車は遠く戦前から , 鳥栖ー肥前山口間を 西端への鉄道は九州鉄道 ( 株 ) の手で建設され , 明治 31 年に 併結運転する方式がとられていたが , 早岐の機関車が鳥栖 早くも早岐経由で浦上・佐世保まで開通し , 38 年には終点 の長崎まで全通した . つまり , 現在の佐世保・大村線を通 まで直通し , 長崎の機関車は肥前山口で折り返す運用がっ 急として京都ー博多間に誕生した . 東海道すしでは特急くつば め > くはと〉が華々しく活躍していただけに , 西日本地区利用者 かもめの の期待は大きく , 京都ー博多間で戦前のく富士〉より 1 時間半 も速いという駿足を誇ったが客層の関係から 1 等展望車なしの 旅路 二流特急 ' という声もあった . スハニ 35 ・スハ 2 ・ 3 等編成で , 44 >< 3 ・マシ 49 ・スロ 54 X 3 ・スハフ 43 の特急形客車 9 両編成 , 牽引機は京都ー下関間 C59 , 下関ー門司間 EFIO , 門司ー博多 間 C 57 のトリオ . 上り列車のみ広島で D 52 を後部補機につけて ' セノハチ ' の険を越え , 八本松駅の構内で走行中に解放した . スロ 54 は当時の最新豪華車両だったが , 利用が少ないため 1 両 をスハ 44 に置き換え , 32 年には 3 等座席が一方向固定ロマンス シートのため終着駅での大がかりな編成転換をは」 : く目的から 軽量客車ナハ 11 系が組み込まれ , 特急としての風格と人気が落 ちた . そして昭和 36 年 , 、 36 ・ 10 ' ダイヤ大改正による気動車特 ーかもめ ' の愛称が生まれたのは昭和 12 年 ( 1937 ) - ー戦前の日本 急大増発で新鋭 82 系特急形気動車に衣がえし , 京都ー長崎・ の鉄道の黄金時代で , 先輩く燕 > く富十〉く桜〉各特急のあとを追 崎間の併結特急になり , 長崎とのエンが生まれた . って東京ー神戸間にデビュー . もちろん客車特急で , 東京ー沼 その後 , 40 年 10 月に運転区間を京都ー長崎・西兜児島間に 津間は E F 50 , 以西を C 53 が牽引した . 臨時く燕〉を入れると けんらん 43 年 10 月には京都ー長崎・佐世保間に変更した . 併結区間は京 東海道・山陽すじに 5 往復の特急が走り , 絢爛と覇をきそった 都ー小倉間で , 小倉ー長崎間と小倉ー佐世保間 ( 筑豊経山 ) は が , 第 2 次大戦の戦況悪化とともに次々と廃止され , く鵰〉 ( 当時 おなしくかもめ > の愛称で別々に走る異色特急として注目を集 は漢字使用 ) も 18 年に姿を消した . これが一世である . めたが , 50 年 3 月 15 日の新幹線開業により廃止された . 二世くかもめ〉は昭和 28 年 3 月 15 日 , 戦後はしめての山陽特 かもめ
こうして , 目的地のキサンツ駅に 9 時 34 分に着く予定が , 実 これまで , 鉱産品の大部分はアンゴラのペンゲラ鉄道を通っ 際には 11 時 30 分になってしまった . キンシャサから 110km の てロビト港に出ており , 残りはだいたいサンビア・ローデシ 行程を 4 時間 40 分かけたことになる・まして終点のマタディ アをへてモザンビークのべイラかタンサニアのダルエスサラ 着 ( 時刻表では 16 時 20 分 ) ともなれば , 実際には真夜中にな ームに出ていた . しかし最近はアンゴラの動乱によってペン る恐れが十分にある . ゲラ鉄道は破壊され , 大西洋へのルートはなくなり , サンビ 常時このような運行状態なので , 私たち外国人が全区間 , ア ~ ローデシア間の国境封鎖やタンザン鉄道の輸送力不足に 鉄道を利用することは全くない・キンシャサ ~ マタディ間 よって , インド洋への道もとざされている . 残るルートはサ 365 の道路は片道 1 車線 , 坂とカープの連続を自動車は ィール国内だけを通る道で , 一応安心して使えるものではあ 100 / h 以上のスビードで突っ走るのであるから相当な危険 るが何分にも不便で , 輸送力が極端に少ない・シャパ州のサ をともなうが , 所要時間を考えるとどうしてもグルマを利用 カニア , ルプンパシ , テンケで K D L 鉄道 ( 南局 ) に積まれ せざるを得ない・列車の本数は片道 11 本とキサンツ駅長が言 た鉱産品は , イレポ港に達して船に積み替えられ , 約 1 , 000 km の川を下る . そして , キンシャサ港でふたたび貨車に積ま っていた キサンツ駅には事務所のグルマ ( トヨタの 4 輪駟動ステー れてマタディ港に着き , ここで川口から約 150 , ザイール ション・ワゴン ) を回送させておいたのが私たちを待ってい 川をさかのばってきた外航船に積まれることになる . た . これで国道を走り , 鉄橋近くで , 並行する線路に列車が いま , ・国民路線 ' なる構想がある . 大西洋に面したザイー くるのを撮影するため , しばしクルマをとめて待っていた . ル川の川口にノくナナ港を建設し , 奥地のサカニアとの間 交通取締りの憲兵がきて「何をしているか」とたすねる . わ 3 , 500km を鉄道で結ぶ計画で , これはイレポ ~ キンシャサ間 けを話すと 0 K にはなったが , 「煙草はないか」という . 「私 の鉄道と , マタディ ~ パナナ間鉄道の建設により完成される・ は煙草を吸わないので持っていない」と答えると「煙草がな このうち , イレポ ~ キンシャサ間 820 の鉄道建設は , ペ ければほかに何かあるだろう」とのことで , 結局 , 20 マグー ルギー・イギリス連合とザイール政府との間で契約が締結さ タ ( 約 120 円 ) ほど取られた・ れた . 植物園に行って素晴しい熱帯植物のかすかすを見 , また国 マタディ ~ パナナ間の鉄道建設 内の販売部で野菜や果物を買った . ホウレン草 , ネギ , 大根 , 1971 年 4 月 , サイール国のモブツ大統領が訪日したさい , マ キュウリ , ナスやパパイヤ , アポカ , パイナップルなどが , キンシャサで買う値段の程度で買える・キンシャサに住む タディ ~ パナナ間の鉄道建設に対する協力要請があり , 日本 者にとっては全く信じられないような安値であるが , これも 政府べースによる原田ミッション , 今岡ミッションが派遣さ この国の輸送手段の不足が原因している . 産地では作ろうと れ , フィジビリディ調査が実施された・それによる報告書が 思えばいくらでも作れ , 一方 , わすか 100 先に人口 130 万 提出され , 1973 年 11 月には日本とザイール両政府の間で 345 の大消費地がある . ただこの間に輸送力がないだけで , 私た 億円の円借款に関する交換公文がかわされ , ついで 1974 年 12 ちキンシャサの住民は大変な高物価にあえいでいる . ジャガ 月 , 日本の経済協力基金とザイール中央銀行との間で借款協 イモさえも 2 , 000 の奥地キグ州から空路運搬され , 玉ネキ 定が調印された . も遠く南アフリカから飛行機で輸入されるのを買わざるを得 一方 , ザイールの運輸省内には , マタディ ~ パナナ間の鉄 道建設 ( 約 150km ) と , マタディ ~ キンシャサ間の現在線の ないのである . 人の輸送力も極端に少ない・キンシャサ中心への鉄道によ 改良を目的とした部局・ 0 E B K' ( パナナ ~ キンシャサ施設 る通勤は前述した 2 往復の列車だけで , 道路による通勤は囚 人護送車の後部にもう 1 っ扉をつけ , 窓ガラスを取り払って 旅客列車 ( ・オナトラ ' のマーク ) 鉄格子をつけたような通勤パスによらざるを得ず , これもま た数が少なく , 非人道的なほどギュウギュウづめである . そ れに通信手段の未発達が生活の遅れに輪をかける・発展途上 国における交通と通信の重要性は , 現地で生活してみると身 にしみてわかることである . 国民路線 ザイールの輸出額の 70 % 以上が鉱産品であり , そのまた 70 % が銅で , コパルト , 亜鉛 , ダイヤモンド , 錫 , マンガンも輸 出されているが , その産地が奥地のシャパ州であることに大 問題がある・
が誇らしげに・ この上り 2 号だけはくみどり > を併結し ない単独編成で , 長崎から 8 両で上ってきた本編成にくみ どり〉用の 4 両編成を肥前山口で前部に増結する特殊な運 用だが , 佐賀駅で祝賀式があったため飾付をしたもの . 前 日 , 南福岡電車区をおとすれたと、き , 私たちの目前で昔な つかしい、しおし ' から、かもめ ' へ変身 , 美しく化粧されて いたクロ 481 であった 祝賀式は電化初日の 7 月 1 日 , 長崎・佐世保線電化の目 玉商品である電車工ル特急の関係各駅でおこなわれた . 博 多が下りくかもめ 1 号 > , 佐賀が上りくかもめ 2 号 > , 長崎 が上りくかもめ 3 号〉 , そして佐世保が上りくみどり 2 号〉 ( くかもめ 3 号 > と併結 ) で . 初めは新幹線博多開業と同時 にスタートするはすだった電化が石油ショックなどの事情 で 1 年以上も遅れていただけに , 沿線の西九州各都市の喜 びも , ひとしお大きかったのだ . ームは発車時刻が迫っても乗客の列は短く , 意外なほど静 処女列車くかもめ 1 号 > くみどり 1 号〉の入線を待つ 7 番ホ 初日の下り くかもめ一号 > かだった . く有明〉くにちりん〉の島内ェル特急をはしめ大 阪・東京を結ぶ寝台特急がひんばんに発着する大博多駅ホ ームでは , 長崎・佐世保線の沿線都市の喜びとは裏腹に 特急の増発など関心がないらしい . 電化開業をつげるアナ ウンスも特になく , ホーム先端付近の熱気だけが浮き上が った感し . それも楽隊が吹奏楽を吹き鳴らして興奮のルッ ボ・・・といった趣ではなく , 花束贈呈とテーープカットをおと なしく待っといった地味さだ . かんしんの主役 , 48 5 系電 車くかもめ > くみどり〉の姿がなく , 門司側から入線してき たのが発車の 10 分ほど前 . 少なくとも起点のひとっ博多駅 ひょうし での出発式は , ちょっと拍子ぬけの光景であった . 初日の下り処女列車の編成は下図のとおり . 長崎ゆき 8 両 , 佐世保ゆき 4 両の併結 12 両編成は , それぞれ仲よく 4 M 4 T と 2 M 2 T の , 48 5 系 6 M 6 T . 編成の半分一一一中 央部の 5 ~ 10 号車の 6 両が自由席車 , 両端が指定席車とい う配置は , 特急ではめすらしい . 肥前山口で長崎ゆきくか もめ > と佐世保ゆきくみどり > を分割する関係であろう . 今回登場のエル特急くかもめ〉くみどり > の最大の特色は くみどり一号〉の編成 おもむき 長崎・佐世保 みどり 1 号佐世保ゆき ( 甼岐ー佐世ま逆編成 ) ① クノ \ 481 ( 203 ) 定員 56 長崎ゆき ⑤ モハ 484 モハ 485 サロ 481 サハ 481 モハ 484 モハ 485 クハ 4 田 72 かもめ 1 号 ②③④ ⑥⑦⑨ ( 283 ) ( 1 8 1 ) 64 72 定席 ( 78 ) 48 ( 275 ) 64 ( 1 ワ 3 ) ( 20 5 ) 72 56 自由席 ⑨ クハ 481 ( 240 ) 56 ⑩⑩⑩ モハ 484 モハ 485 クロ 4 田 ( 339 ) ( 242 ) ( 52 ) 36 定席 佐賀から乗務して肥前山口で交替というシステムで , 佐賀ー 肥前山口間は 2 人乗務の変則区間となっている・これは営業 運転になっても同じ仕業となるのは当然である・ 前述のように 1 人が 3 回 ' 線見 ' で乗り , 3 往復のノルマ を達成した乗務員が今度は本務で乗務し , 見習を養成する方 式が訓練運転で採用された・ 電化完成で長崎本線・佐世保線に初めてエル特急が実現し 博多 ( 一部は小倉 ) ー肥前山口間は 485 系 12 両編成 , あとは 8 両と 4 両に分かれるが , 佐世保 < みどり > の 4 両は , ェル 特急としては日本で一番短い編成の電車特急となる・ ・複線の平野部を快走 ( 博多→佐賀 ) 門司鉄道管理局が , この訓練運転用臨時電車を報道関係者に 公開試乗を実施したのは 6 月 8 日のこと・訓練運転は < かも め > < みどり > とも一日 5 往復を走らせているが , 時間帯か らみて取材 , とくに写真撮影に便利なようにと , 昼間の 9105 M ・ 9108M がえらばれた・試乗区間は鳥栖ー長崎間の往復・ 自・栖駅に到着した 9105M の編成は , クハ 481 ー 208 十モハ 484 ハッ ー 278 十モハ 485 ー 176 十サロ 481 ー 115 十サハ 481 ー 114 十モハ 484 一 277 十モハ 485 ー 175 十クハ 481 ー 207 の 8 両 . ハンドルを握っているのは , すでに 3 往復のノルマを消化 した野田和正運転士 . ( 37 ) そして見習として乗務したのはこ の日が第 1 回目の手塚松次運転士 ( 47 ) それに吉村西東車掌 ( 45 ) ー博多車掌区ーの 3 人・ほかに , 取材陣乗車にそなえ て南福岡電車区から近藤指導助役が添乗し , 何かと世話をし てくれる・ 鳥栖を出れば , 車窓の左右は、穀倉 ' 佐賀平野の広がりが展 開するが , 右手の背振山系は重苦しい梅雨空にこばまれて , 全容を見せようともしない・肥前山口までは複線区間だから 訓練運転で臨停個所が多いとはいえ ' 特 A9 ' のダイヤによ るスビードは快調である・ とくに , ディーゼルの音になれきった耳には , 電車のモー ター音は非常に心地よい・まして電車運転士は九州最大の電 車基地南福岡電車区所属で , 485 系は十分に手のうちを知り っくしたペテランだから , 電車は快調に走りつづけ , 新駅開 業後まだ日も浅い佐賀駅に , アッというまに滑りこんだ・ 訓練運転もこの日で 14 日目ともなれば沿線の人も電車には なれてしまったとみえ , 田作業にいそがしい農民は全く無頓 着で , 試乗組のはうがむしろガッカリしてしまうという皮肉 な風景もみられたはどだ・この線の電化がむしろ遅すぎたと た咸六えいだかせる・ ・海岸ぞいの急カープにいどむ ( 佐賀→諫早 ) 佐賀から長崎機関区の中村稔 ( 50 ) ・秋月常男 ( 48 ) 両運転 士が乗りこんできたので , 、こから肥前山口までは本務運転 士は野田・中村両運転士の 2 人となるわけだ・もちろん見習