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検索対象: 鉄道ジャーナル 1976年9月号
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1. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

わしい山地を切り開いての建設作業 写真はいずれも La BATAILLE du RAIL ( 鉄路の闘い ) から ル ( 現在のキンシャサ ) に本部をおいてこれに協力した . 込まれた・レオポルドⅡ世は原住民の中から公安隊を組織し コンゴ自由国では , 土地の国有化 , 象牙・ゴム取引きの独 その抵抗を抑圧しようとしたが , 公安隊の内部でも反乱が相 占 , 強制労働などの苛酷な悪政が行なわれた . 日本の面積の 次ぎ , これらは容赦なく鎮圧された . 一例をあげれば , 1891 6.5 倍の広大な面積を持つコンゴの交通は , サイール川 ( コ 年 11 月 15 日から 12 月 15 日の 1 カ月間だけでも , 150 人の脱走 ンゴ川 ) に頼らざるを得ないが , マタディ ~ キンシャサ ( レ と反逆とが記録されている . オポルドビル ) 間は幾多の瀬や瀑布があって全く舟航を受け 原住民ばかりか白人の犠牲も多かった . 白人で死亡したも つけない . のだけでもベルギー人 82 名 , イタリア人 31 名 , フランス人 9 それより早く , 1856 年 , アフリカにも最初の鉄道がエジプ 名 , ルグセンプルク人 3 名 , スイス人 1 名 , ドイツ人 1 名 , トのアレキサンドリア ~ カイロ間に開通していた . 「鉄道な デンマーク人 3 名 , 計 130 名となっており , このほか 450 名の くしてコンゴは 1 ペニーの価値もない」とのスタンレーの言 白人が病気のため帰国した . もちろん , 原住民はそれをはる 葉にはげまされ , このマタディ ~ キンシャサ間に鉄道を建設 かに上回る率で倒れ , ついにコンゴばかりか , アフリカで労 するため , 1889 年 7 月 31 日 , プラッセルにコンゴ鉄道会社が 務者を求めることは困難となり , アメリカのパルバドスなど 設立された・ から 300 人の黒人を , またマカオから 550 人の中国人苦力を 総指揮者としては , ベルギー士官学校長に推選されたアル 連れてきた . かくて , 工事中に死亡した黒人・中国人の数は ペール・ツシ大尉が , 国王レオポルドⅡ世によって任命され 1 , 800 人にのばったが , これには帰国後に死亡した数は含ま た . 彼は早くからアフリカの地理を研究し , その探険に熱意 れていない . を示していたが , 若冠 27 歳の若さであった . 翌 1890 年 3 月 15 このような多くの犠牲者を出しながら鉄道建設工事は進め 日 , 現地マタディで鉄道建設は開始された . られ , 1892 年 12 月 4 日にはマタディ ~ ケンゲ間 37 が開通し 岩山と取り組むことの多いこの工事は難航をきわめ , 苛酷 1896 年 7 月 22 日にツンノくまで 165 の開通式も行なわれた . な労働が強いられた・加えて , 酷暑とマラリヤや伝染病のた 1898 年 3 月 16 日 , キンシャサ郊外のウンドロで最後のスパイ め労務者は続々と倒れた・ついに , 工事に強制された原住民 クが打ち込まれ , ニコラス機関士の運転による 1 号機関車が は逃亡するか , 武力を持って抵抗するかの , いすれかに追い こを渡り , 同年 7 月 6 日 , キンシャサで全線の開通式が挙 鉄道建設の総指揮者ア ルべール・ツシ大尉 1898 年 3 月 16 日ついに全線 開通 (s L は 1 号機関車 ) 4 ふ物 0 卩を / られ石 4 たを、 第一を、、をキ 77

2. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

E D76508 〔岩 2 〕と , スハフ 32395 〔札サウ〕スハ 32857 〔札 連のストライキが行なわれ , 市電 , 市バスをはじめ , 開通し サウ〕スハ 32814 〔札サウ〕の 3 両の客車・・小窓 ' がズラリと たばかりの地下鉄東西線もストップして , 市内の足がマヒ状 並んだ・ 1 両目には「行商指定車」と書かれた白いサポが , 態におちいっていたのだ・いつもなら , 43 列車も身動きのと 行先札のかわりにさがっている・ れないくらいのスシ詰めで札幌駅にすべりこみ , 140 万都市 しかし , この日は行商人の姿はひとりも見えす , いちばん の玄関らしく , 多ぜいの人をホームから駅前へと吐き出すは 前のポックスには , 札幌にむかう予備校生らしい若者が数人 ずだ・ さんさんごご現われて , さっそく受験勉強の話を始めた・通 DD13 によって郵便・荷物車が切り離され , 客車 6 両だけ 勤通学列車は , どんなに密度の高い東京の国電でも , 毎日乗 になった 43 列車は , おおぜいの乗客を乗せたまま , 滝川にむ る列車と坐る場所をきめているものだ・思わぬ闖入者に , 途 けて発車していった・ 中の駅から乗りこんできた仲間の予備校生が , うさんぐさげ 洗顔と朝食を駅の構内ですませ , 大通公園でハトをながめ な視線を投げた . ながら時をすごした・ 琴似・桑園では降りる人が乗る人よりも多くなる・そして 11 時ごろ駅にもどってみると , 網走ゆき 831 列車はすでに 札幌では降りる人よりも乗る人のほうが多い・ということは 入線している・さっそく入場しようとしたら , 北海道には , 国鉄を利用する通勤通学客の目的地が札幌駅からはずれてい 特急・急行・普通などの列車別に , 発車の何分前に改札を始 るといフことなのか・・・・・・ ? と思っていたら , やつばりちがっ めるか細かいきまりがあるらしく , 「入れろ」「入れない」で ていた・札幌はこの日 , 「札幌まつり」にひっかけた , 市労 ひと悶着・ 滝川 ( たきかわ ) / 深川 ( ふかがわ ) / 旭川 ( あさひがわ ) / 旭川四条 ( あさひがわよじよう ) / 新旭川 ( しんあさひがわ ) / 上川 ( かみかわ ) ちんにゆう

3. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

多ルイを く何十万人もいるに違いない・そして S L が いったい何人ぐらいいるのだろうか・おそら 現在 , 全国に鉄道マニアといわれる人たちは 鉄道マニアと国鉄問題 ( 東京都・遠藤訓之 ) 国鉄のエル特急に課せられた使命であろう・ ずれにしても利用客第一主義でいくことが , 不定期でもよいから急行をふやすことだ・い すこれを導入し , 自由席をもっと多くする・ れるが , 現在のエル特急ではそれがない・ま 定された列車に乗り遅れても後続の列車に乗 方式を導入するとよいと思う・新幹線では指 よくするため , また乗客のためにも , 新幹線 こでひとつ提案したい・エル特急をより いかないがある・ すぎないが , このほかにもいろいろと納得の 客も納得しかねる状態である・これは一例に 得ない現状である・これでは , いささか利用 特急は 4 本である・つまり特急に乗らざるを 季節的列車を除いてわすか 1 本 , それに対し たとえば , 総武地区の鹿島線では , 急行は ささか不満を覚える・ 利用機会が徐々になくなっているのには , い 線の急行が大幅に減少し , 料金の安い急行の 帯にある・しかしその反面 , ェル特急の走る 車時刻も利用客を考えた非常に好都合な時間 のにする , いわば国鉄の看板特急である・発 ことを行ない , また , カッキリ発車を売りも にし , 自由席を特急に設けるという画期的な このエル特急はビジネス客の日帰りを可能 の 4 往復である・ ばり > < とき > , 少ないほうでは < あやめ > 数は 8.3 本 , 運転本数の最大は 13 往復の < ひ このごろだが , 国鉄のエル特急の平均運転本 時刻表を見るとやたらにエル特急が目につく ェル特急の必要性とは 用分には掲載誌を 1 部さしあげます・ タブレット」係へお送りください・採 め ( 最長 400 字ていど ) 本誌「編集部 ます・ご投稿は , なるべく簡潔にまと 広場 ' として育ってほしいと思ってい 多くの人々に楽しんでいただく・声の 見 , 感想・批判などをお寄せください . 鉄道や趣味 , あるいは本誌に関する意 106 ルイを さかどさ《ら・ぶさ嚮曲おはあオっき曻あ庁まり 5 みつるぎ罍ー なくなるといえば北海道に走り , プルー ト レインといえばたいていの撮影ポイントには 2 ~ 5 人ぐらいのカメラを持ったマニアが三 脚を立てています・もちろん , 私はこのよう なマニアの人々にイチャモンをつける気はあ りません・ しかし , この人たちのうちの何人が国鉄の 赤字や労使問題やスト権について考えている でしようか・マニアの人たちのうちには , 遠 くへいけなくなるから運賃・料金値上げ反対 , S L がなくなるから合理化反対・・・などと考え ている人がいるのではないでしようか・私は これではいけないと思います . 鉄道マニアと してプルートレインや S L, 特急を追うのも よいけれど , もっと鉄道の裏の面も考えてみ る必要があると思います . なぜ国鉄は赤字なのか , 合理化とは何か ? 現在 , 国鉄をとりまく世界はいろいろな問題 をかかえています・だから , マニアもそれを 研究してみる必要があります・そして国鉄や 国労・動労などにどんどん手紙で自分の思っ ていることをぶつけてみるのも , よいことだ と思います・自分の意見をどんどん言うかわ りに , 国鉄・国労などの意見も聞いてはどう でしようか ? ( 静岡県・富田寅雄 ) 7 月号を読んて 本誌 7 月号の「ヨーロッパの鉄道と列車の旅」 を興味深く読ませていただきました . 数年前に他誌でも機関車について連載され たことがあり , そのなかで機関車の性能はそ の国の工業力に比例するとの記事がありまし た . 表 67 にはヨーロッパの代表的な E L がの っていましたが , そのなかで C C 6500 , 103 , Re6 / 6 と日本最強の EF66 とを比較すると , AC 電機と CD 電機 , 標準軌間と狭軌 , 線路 状態などの違いはあれ , 全部 F 級で , 重量・ 大きさとも大差ないが , 出力の差が大きいわ けです . とくに狭軌は最大のハンディーであ り , また石油危機以後の省資源・省エネルキ ーから , 不必要な出力は無駄ですが , 今日の 日本の工業力で F 級でどのくらいの出力の E L が製作され , 運転できるか , 専門家のご意 見をうかがえれば幸いと思います・ ( 神奈川県・長瀬馨 ) ルールを無視したホーム撮影 最近は少年たちのあいだでもプルー ンに人気が集中しているようである・ 先日めすらしく東京駅にプルー トレインを 写しに行ってみて , 正直なところガッカリし た . 東京駅の 12 ・ 13 番線にはロープが張って あり , 立入り禁止のところがあるが , 彼らは 平気でそれを無視して入り , 何度注意されて もいっこうにやめようとしないのである・ しかも大人までが注意されているのだ・と うとう駅員はシビレをきらして , 無視してい る彼らを追い出すとおどかしたが , 全然きき めなし・そのうえ , < さくら > 号が出発する 直前にパックサインの巻取りをいたすらして , とうとうこわしてしまったのである・ この少年はあとで注意されたが , このよう なことは危険をともなうばかりでなく , 国鉄 の営業上 , 支障をきたすと思われるので , 写 真を撮るのにもマナーを守るべきではないだ ろうか・ ( 東京都・藤岡孝宣 ) 趣味として考えてほしいこと ばくはイランのテヘラン市に住む一鉄道ファ ンです・ 先日 , 本誌の「伝言板」を日本人学校の友 人が読んでいたら , 「北陸の列車写真をゆす る」というのがあったので , 友人と 2 人で申 し込みました・そうしたら , 友人のほうに手 紙が届いたそうです . 写真は送ってくれたの ですが「 1 枚につき 70 円はらえ」といい , 切 手代用は不可 , 日本のお金で送れというので す・こちらの国では鉄道写真が思うように撮 れないので , キップを送るといったのですが ダメで , 「おカネを送らないときは文通しま せん」と書いてあったそうです . その人はどんな人か知りませんが , 非常識 ではないでしようか・まだ切手代用でもよい のなら , 日本の人に切手を送ってもらい , そ れで送り返すことも不可能ではありません・ しかし , なぜ国が違うのに日本金を送らな ければならないのでしようか・ばくにいつも 写真を送ってくださる東京の T 氏は , 自分で 現像されるのですが , せいぜい 20 円ぐらいそ れも切手代用可です . その人とはキップと交 換していたこともあり , おカネのことなど 1 回もでませんでした・ 話がそれたようですが , この T 氏の場合 , ' 趣味 ' だと思ってやってくれているように思 います・しかし前述の場合は・商売 ' です・ それも < 雷鳥 > とか < 日本海 > という , べつ に廃止された列車の写真ではないのです・ のことは直接その人に手紙を出そうかと思い ましたが , みなさんにも考えてはしいと思い この欄に投槁することにしました・ ( テヘラン市・赤松吾慎 ) 8 月号の訂正 『あすの羽ばたきをめざして」のなかで , 63 第の見出し「《大学課程》に次ぐェリー ース」は「《大学課程》と変わらぬェリ コース」に訂正・ 64 第最終行からの 5 行は筆 者の誤りにつき削除・訂正し , お詫びします . そかどき《ら・よ韆はあオ。き出まり 5 。るぎ罍ー

4. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

△ナロネ 21 形 2 等寝台車の外観 形式図マ ( 1 / 20 の ロロロロ鬥 ・ ~ ク S グ 0 ナロネ 21 形 2 等寝台車の昼間 ( 上 ) 夜間 ( 下 ) 居住性も合わせてさすがに乗り心地はビカー . 寝台数は 18 , 乗務員室と洋式便所があり , 次に中廊下をはさんで両側に 1 人用個室寝台が 5 室ずっ , 計 10 室ならぶ . その先は海側に荷 自重 31. 5t , 台車は TR55 形 . 物保管室があり , 山側の片廊下となって , 海側に 2 人用寝室 このナロネ 20 形は 3 両が製作され , < あさかぜ > 専用とし て異彩を放ったが 2 人用寝室の効率に難があり , 50 年に廃止 が 4 室ならんでいる・その先の東京寄り車端は洋式便所 , そ されて現存しない . して出入り台 ・ナロネ 21 形 ( 2 ・ 3 号車 ) 1 人用個室はアメリカの ' ルーメット ' とおなじ構造で , 車内は博多寄り車端に和式便所と化粧室 , 次に寝室があり , デラッグスなソファーと小さな補助椅子があり , ドアの横の 喫煙室 , 乗務員室・荷物保管室 , 洋式便所・化粧室 , 出入り 隅にはコンバグトな折畳み洗面台と小棚 . 仕切り壁には鏡 , 台の順 . 寝台はマロネ 41 形と同系の開放式であるが室内配置 その上に荷物棚 , 天井部は廊下の上にも荷物収納スペース . が整理されて定員が 4 人ふえ , 廊下をはさんで上下 2 段の寝 かなり狭く窮屈だが , ちょっとしたホテルの一室の雰囲気で 台が左右に各 7 個ならび定員は 28 人となった . 上段は舟形 , ある . 奥の壁に垂直に埋め込まれている寝台を引き出してソ 下段は昼間向合せの座席となる・基本的なプルマン式で , 上 ファーの上に倒すとべッドになる . ( 本誌 7 月号カラーベー 段の各寝台には外を見るための小窓が設けられている・ ジ参照 ) 乗務員室の一部を仕切ってウォータークーラーを置き , 化 2 人寝室のほうは , 旧 < あさかぜ > に連結されていたマロ 粧室は電気温水器によって夏でもお湯が出る仕組 . 電気力ミ ネ 40 形の 2 人寝室を改良したっくりで , 4 室中 , 東京寄りの 2 ソリ用のコンセントを取りつけたのも , 当時としては時代を 室は境の仕切り壁を折りたたんで 4 人寝室にも使える構造・ 先取りした心憎い配慮であった . 照明はもちろん螢光灯だが 各寝室とも , 電灯・冷房・暖房は乗客が自由に調節できる . 天井には吸音板 , 床にはジュウタンが敷かれており , 冷房 寝室天井灯は寝台をセットすると 50 % に減光し , 深夜は全部 消灯して床灯だけが点灯する . 新しいホテルのべッドとおな は床下に装備した 2 個のユニットグーラーから・なお , 全車 じシステムだが , 座席使用時と就寝時の明暗が急変化しない 両が固定式二重窓で防音・防塵に大きな効果をあげるよう設 ようにとの , こまかい心づかいだ . 天井に吸音板を張り , 廊 計され , また振動軽減のため空気パネ台車が採用されていて , 下はジュウタン敷きで , 豪華なムードをつくるとともに防音 乗り心地は格段に改善されたが , このナロネ 20 形は雰囲気・ 3 / ア

5. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

通勤用車両 ( キンシャサ駅で ) キンシャサ駅の 50 列車 が壁面に大きな時計を配して建っており , 玄関で案内者マホ 行された . 指揮者ッシ大尉は , のちに将軍となって 1915 年に 口氏が待ち受けていた . 同氏はマタディの出身 , ONATR 没した・その名は工事中に本部所在地となっていたマタディ A の鉄道部門に三十数年も奉職し , 鉄道局長にまで出世して ~ キンシャサ間の中間点の都市名と , 「ツシビル」となって 退職したペテラン鉄道員である . 今は私たちの事務所の常勤 記念されていたが , 独立後は現地語名に改称された . 顧問となっており , この日の旅行の絶好の案内者であった . C FMK 鉄道の現在 1971 年に同氏が来日したときは , 私が国鉄本社で彼の世話を , が今は私が彼の母国で同僚として働いているのも奇し 1974 年現在の C FMK 鉄道の実績は次のとおりである . 輸送実績 き因縁であろう . 出札ロでキッフを買う・今日の目的地はキサンツ駅 . キン 輸送人員 1 , 291 , 000 人 ( 1 等客 26 , 000 人 , 2 等客 1 , 265 , 000 シャサから 110 , 運賃は 1.95 サイール ( 約 1 , 200 円 ) である . 人 , ほかにキンシャサ郊外通勤客 1 , 801 , 000 人 ) 輸送トン数 1 , 630 , 000 トン ( 輸入 638 , 000 トン , 輸出 477 , 駅本屋のわきにはこの国の 1 号機関車 ( イギリスのパルカン 000 製 ) が記念物として安置され , また低床ホームの端には病院 トン , 国内輸送 515 , 000 トン ) 車があり , 写真をとっているうちに 6 時 50 分の発車時刻にな 輸送人キロ 167 , 627 , 000 人キロ ったので列車のほうに走ろうとしたら , 駅員が「急がなくて 輸送トンキロ 488 , 740 , 000 トンキロ もよい」という・なるほど , 単線の線路を向こうから列車が 車両 一本やってきた . 通勤車 3 両に労働者をすしづめにし , さら 機関車〔本線用〕 35 両 ( Alco , Baldwin, Althom, General に , つづく 1 等車までが労働者でギュウギュウづめ . Electric) 通勤車は屋根と支柱とペンチだけでできており , 側面はな 〔支線用〕 45 両 ( 東芝 , MU F) く , 全くの素通しで , 当地特有の横なぐりのスコールにあえ 気動車 3 編成 1 等車 16 両 2 等車 41 両スナックパー車 ば , いかに満員の場合でも真中の乗客までズプぬれになるで 2 両食堂車 6 両通勤車 6 両貨車 2 , 578 両事業用車 あろう . それでもマホロ氏は「この車両は私のアイデア , 私 261 両車掌車 39 両 の命令でつくった . これで , それまでの 2 倍の通勤客を運へ 主要貨物品目 るようになった」と自慢していた . 弾性ゴム , パーム汕 ①輸出 = 銅 , 原木 , 製材 , コーヒー この列車がホームもない線路にとまり , 通勤客がゾロゾロ ②輸入 = 食糧 , 機械 , 石油 , 化学製品 , 米 , コンテナ積貨 降りてくる . その情況を外国人である私が写真に撮れば彼ら 物 , 小麦粉 に袋だたきにされるであろうから , カメラをマホロ氏にあす 職員数 5 , 237 名 ( うち外国人 37 名 ) けて撮ってもらった . この国での写真撮影については入国直 CFMK 鉄道での旅 こう書いてあった . 「写真撮影は自由 後に読んだ案内書に である . ただし軍事施設 , 港湾施設 , 市民を除く」 ある一日 , 私は同じ日本国鉄の沢瀬技師 ( 車両 ) 一家と , 市民はいたるところにいるのだから , 実際には写真撮影は の鉄道による旅を試みるべく , 朝早く 6 月 30 日通りをキンシ はなはだ困難である . ャサ東駅へと向かった . コンゴ独立当時に破壊されたベルキ これで私たちの列車が発車するかと思ったらさにあらす , ー統治時代の記念塔と , 椰子の木立の向こうに , 白亜の駅舎

6. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

走ることはできないはすだ・心細くなりかけたところで , な んとか修理ができたらしく , ガタンと客車は大きく前に進み 出た . アクシデントは最小限にくいとめられたようだ . ききようおおなかやまななえ 桔梗・大中山・七飯ととまるたびに , パラバラと乗客が降 りてゆく . 43 列車は函館から郊外に帰宅する人のための終列 車でもあるようだ・各駅のホームでは , リャカーをひいた駅 員が必す待ちかまえていて , 荷物車からいくっかの荷物を降 ろす・ 七飯をすぎて藤城線にはいるころ , 左手後方に , 函館の灯 がチラチラとゆれているのが見える . やがてトンネルを抜け , 外はまったくの黒の世界となる . △△本州ー北海道連絡のフレートライナーがわすかな停車ののち室 蘭本線へ向けて発車してゆく ( 長万部駅で ) ' 76 ー 6 ー 16 暗闇の中に何を見たのか , DD51 が「ビ ッ」と鳴いた . △ 43 列車は郵便と荷物の積み降ろしが忙しく続けられる 寂しさが先に立っ旅の始まりである . のどかというよりも , ( 長万部駅で ) ' 76 ー 6 ー 1 5 ゞ生ルドヒ陰の 足しの感じもする 3 両の客車には , 函館発車時点でざっと数 ノいソ目かる えてみたら , 1 号車に 16 人 , 2 号車に 33 人 , 3 号車に 24 人の 客しかなかった・そのうちの約 1 / 4 が , カニ族とまでは呼べ ないものの , それに近い若い旅行者だ・ 大沼を出ると , 倶知安までは急行なみに小駅を通過する・車 内は静まりかえり , 車内放送もすでに終了している・ 「発車時間がすぎておりますが , 機関車が少々 , 故障してお 「列車追跡シリーズ」で車掌さんの話がないと , やはりしま りますので・・・・・・」 さっそく一つめの五稜郭でストップしたまま発車しない・ りがないだろうと思い , 車掌室のドアをノックした . 劇画週 どうやら暖房用のスチームのノくルプが閉まらないらしく , 函 刊誌から目を離して , 専務車掌氏がニコャカにこちらを見上 げる・函館車掌区の人で , 小樽まで乗務し次の日の 42 列車で 館駅で , すでに機関車の先端はもうもうたる蒸気に包まれて いた・電話で連絡を受けて待機していた機関区の係員が , し 帰ることになっているとのこと・いつもは , < ニセコ > < 宗 きりにカナヅチでトントンたたいている・蒸気を吹き出しな 谷 > < 北斗 > などに乗務していて , 1 カ月に一度くらいの割 がら走るわけにはいかないだろうし , かといって 6 月とはい 合で , 43 ・ 42 列車がまわってくるとか・ え , かなり冷えこんできているので , 暖房なしで夜の原野を 車掌さんに取材する場合 , 最初に名刺と『鉄道ジャーナル』 美瑛 ( 富良野線 ) / 美流渡 ( 万字線 ) / 愛別・中愛別・愛山 ( 石北本線 ) / 愛国・北愛国 ( 広尾線 ) / 愛冠 ( 池北線 )

7. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

表 6 フランスの路面電車の車両 ル サンテチェス マルセイユ 551 * ) 形 501 2001 体 長 ( m ) 車 13 . 95 20.65 14.2 重 ( t ) 22 . 3 11 . 2 15.9 15.7 出 カ (kW) 160 148 172 172 員 ( 人 ) 定 113 110 182 両 数 28 30 5 製 造年 1949 / 50 1958 / 59 1967 / 68 線数 路 2 路 線キロ (km) 輸 送量 ( 万人 ) * ) 連接車 表 5 フランスのトロリ ーノヾス 開業 廃止 都 市 廃止 都市 開業 車両数 車両数 1966 20 1947 1948 1965 メッス 工クス・レ・ / ヾン 1942 1970 1963 17 1946 アミアン 1927 9 1924 1952 1972 くノレフォーノレ 1966 1970 32 1900 プレスト 1947 1952 1968 1940 1954 16 ポルド , ヾ′レビニャン 1965 1966 16 1943 1950 ホ。ワチェ ンンヨン 1933 1970 1901 1913 1 フォンテーヌプロ ルーアン 6 1940 1950 1970 サンテチェンヌ フォ / レ / ヾック 1959 66 1906 1947 グルノープル ヨガン・ - ~ ロ 1923 1940 1947 1970 49 ランスルプール ルアープル 1955 1969 16 1930 1947 シャンくリ 1930 1965 1943 92 ムチェ ~ サラン リモージュ 1901 393 1939 1962 ストラスプール リョン 250 1950 1973 マルセイユ 1902 ツーロン 1949 1968 ミューノレーズ 1908 1968 24 ツール 5 モントノヾン 1903 1904 0 0 8 ワ】ーーっ 0 -0 ワ】 ^ 0 -4 ワ 11 LO 、 1 1 ム 1 ーっ ~ 《 0 11 っワワ】 式 501 13.35 99 16 1968 1 1 1 , 534 19 586 537 ているにもかかわらす , 道路上の邪魔もの扱いにされるよう の郊外のニ ープ・ダスクを結ぶ新交通シ ビルヌ ータウン , になった・われわれのまわりには , 何かあらゆる議論を吹き ステム 'VAL' の開発のほうに熱心である . これはフランス 飛ばしてしまうような群集心理現象がある・これは・時代錯 のマトラ社 (Matra) が開発した新しい乗物で , コンクリー 誤 ' と呼ぶのが正しかろう . というのは , 市民がこそって生 トの軌道の上をゴムタイっきの 2 両編成の小型車両が完全自 活上の大切なーっの要素を拒絶しているからであり , しかも 動運転で走る . ( 車長 13klll , 定員 52 人 ) リールのように人口 なんら科学的な検討を行なわすにしてである . これはライン 20 万人程度の中都市では地下鉄を建設するのは工事費が高く 川やジュラ山脈の彼方 ( ドイツとスイスをさす ) では見られ っきすぎるし , パスでは力不足という理由から安上がりな新 ないことで , 路面電車がもはや現代に適応しなくなったと考 しい交通機関を求めて , このシステムの開発にのり出し , 郊 えることは , 決して世界的な現象でもなければ , 明白な真理 図 5 リールの新交通システム 'VAL' の計画路線 でもない」 / プ丿ュッセ リール駅 いすれにせよ現在 , フランスには 3 都市に 4 線 27 衂 79 両 の路面電車が残っているにすぎない . ( 表 6 ) その貴重な一 つが , ここリールの町に走っている . リールの市内にはたく 夕、カⅣワ さんの路線があったが , 市内線は 1966 年までに全部廃止にな り , いま残っているのはリールの町の中心からベルギー国境 に近い隣町ルペー CRoubaix) とツルコワン CTourcoing) を 結ぶ 19 の路線だけ . リールの現在の終点から駅前まで地下 で乗り入れる計画があるが , リールの町は目下 , リールと東 パランシェン又 ビルヌープダスワ 料学研究所 オープルダン 物〔 リール市の市電 △リール市の新交通システム 'V ト 0 興第 - 地第

8. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

中間駅の CTC キサンツ駅前 は 上には非常プレーキのグサリが横に這っていた . 車内を歩いているうちに , 偶然 , 日本国鉄の作業服を着た現 1 等車の椅子はカーキ色のビニ レ張りで , クッションは 地人を見かけ , 足をとめて彼の顔と服とボタンとをしげしげ 窓に 2 本の鉄棒があって撮影に邪魔であった . よかったが , と見ていると , 「コンニチハ」と日本語であいさっしてきた . キンシャサ操車場を過ぎる . まことに広い構内で , 新鶴見 私がザイールにきているあいだ , すなわち 1974 年に , 彼は日 操車場の 2 倍ぐらいもあろうか . 椰子の木と雑草のあいだに 本に行き , 国鉄で半年間 , 保線技術を学んできた研修生グル タンク車 , 鉱石車 , 2 段デッキの車運車などの貨車群が点在 ープのうちの 1 人であって , 彼らの学んだことが現在とても する . この鉄道ご自慢のオートライユと呼ばれる気動車の白 役立っていると語り , 私にはなっかしい日本人の名前を次々 いスマートな姿も見られるが , 幾編成もあるこれら気動車は とあげていった . すべて動かない . マホロ氏の話では , 欧州連合により造られ キンシャサ市内を出ると , まもなく列車はサノくンナ地帯を たもので , 車体 , 工ンジン , 走り装置 , 電気装置など , それ 走る . 中間駅に着くとホームの客が私たちに向かって , やは それ製造国が違っているため , いったん故障したら修理は容 り「シノア」「シノア」と言いながら手を振る . マチサのタ 易でなく , ついにこのようになってしまったとのこと . イタンパーなどの保線用重機械が中間駅の側線に見える . 駅 マホロ氏がこの鉄道の顔役であることにはよい面と悪い面 の有効長は 600m. そして , 中間駅ではしばしば対向列車の とがあり , 後者の一例をあげてみると・・・・・・ . 車掌や食堂車の ため長時間待たされる . キンシャサから約 180 の通信・信 従事員がマホロ氏に頼み込み , 彼を通じて私にぜひ写真をと 号ケープルは地中埋設 , 踏切は自動踏切となっており , まこ ってくれという・いったんシャッターを切れば , 彼らは私の とに立派なものであるが , マホロ氏は「これも私がやったこ 事務所やアパートの住所と電話番号を聞き , 写真を手にする とだ」と自慢する . までは何度でも電話したり , 訪ねてきたりする . キンシャサ 列車は次第に森林の多い高地へと登って行き , 半径 200m の写真屋にカラー写真の現像を頼んだ場合 , 現像液が切れて ほどのカープがつづいてスピードは 20 ~ 30 / h ぐらいとな いるということでふつう 2 カ月ぐらいも待たされる . 仕上が る・信号は , 自動信号からパトン式のタブレット閉塞 ( ウェ りも全体に茶色がかった , とてもひどい色となり , サービス プ・アンド・トムソン式 ) 電気通票器に変わった . 枕木は鉄製 と木製で , パラストも厚く , 乗り心地も悪くはないが , コン 版 1 枚で 300 円ほど . 私たちは写真の現像をほとんど日本に 帰る仲間に託したので , それが返ってくるまでは , たびたび クリート枕木と 50kg レールのロングレール化による軌道強化 彼らの攻撃を受けるわけである . が実施されつつある . 最急勾配は 17 % , 最小曲線半径は 130 このように相手が写真を希望してくる場合はよいのだが , m である . 私が 1 等車内をカメラを持って歩いていたら現地人に「写真 このあたりまでくると駅の周囲にもほとんど人家は見あた を撮ってはいけない」と注意された . それに対し「私はマタ らないが , それでも遠くのほうに煙が立つのを見かけること により , 人が住み焼畑農業が行なわれていることが知れる・ デイから先 , ノくナナ港まで 150 の鉄道を建設するために派 このような駅では , 列車時刻表にはちゃんと停車時分が書い 遣された日本の鉄道員である」と答えると , 「よくきてくれ てあるにもかかわらず , 列車は通過してしまう . 車掌が乗客 た . それでは遠慮なく撮ってくれ」と歓迎された . 1 等車内 ちしっ は各ポッグスに 1 ~ 3 人の乗客がいる程度であるが , なかに の下車駅を知悉しているようにもみえず , 客扱いは一体どう は「この先の線路わきに貨車が何両か脱線転覆しているので なっているのであろう・もっとも , この車掌氏 , 勤務中に食 それを撮ったらどうか」と , わざわざ言いにくる客もいた . 堂車でビールを飲んでいた .

9. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

国道り 光 一が《見 ザ O も ノ , ・の・ 4 物〃な K 竄日ム SA EST La BATAILLE du RAIL ( 鉄路の闘い ) No. 1 SL と筆者 アフリカ大陸の腹部に位置するザイール共和国は , 面積 234 砂塵を巻き上げ , 緑の輝きを失っていた木々の木の葉を一斉 万平方キロ , 人口 2 , 300 万人の大国である . 1960 年 6 月 30 日 に舞い上がらせた . ベルギーの支配下から脱し , コンゴ民主共和国として独立し この風が吹き出したら 15 分後には沛然たる雨がやってくる . たが , 独立後の数年間は動乱が続いた・その後 , 1965 年 11 月 私は徒歩 5 分の距離のアパートへグルマで急いた . 昼休時間 24 日 , 無血クーデターによりモブツ大統領が政権をとってか になれば , すべての事務所・商店は 2 ~ 3 時間閉店し , 職員 は一斉に帰宅するが , とくに雨がくるとなれば , 雨足に追い ら今日まで , 政局は比較的安定しており , この間 1971 年 10 月 かけられて家路をフルスビードでグルマを駆る . いったんド 27 日に , 国名をサイール共和国と改めた . 「ザイール」は 15 シャ降りになれば 20 ~ 35m 先も見えなくなり , ワイバーも役 世紀にポルトガル人が発見した当時のコンゴ川の名 ( 現在は また「ザイール川」と改称 ) であり , 隣国の旧仏領「コン に立たす , 雨がやむまでの 2 ~ 3 時間 , すべての路面交通は ストップする . はたして , 24 階建ビルの 13 階にある私のアパ ゴ」との混同をさけるためもあって , この改称となった・ トに着くやいなや , この大雨になった . この篠っく雨にな ザイールの国内交通は , 主としてザイール川とその支流を もって形成される 1 万 2 , 700 の河川航路に頼り , 鉄道は水 れば , もう風はなくなるが , 激しい雷があり , 背の高い椰子 の木 , パオパプやマンゴーの大木 , さらには街路灯にまで遠 路が急流で航行不可能な区間をつなぐ補助的な役を果たして 慮会釈なく落雷する . 1974 年 12 月 , それまで独立していた 4 つの鉄道が統合され 眼下にはサイール川が流れる . 世界第 3 位の水量を誇るこ ザイール国鉄 ( S N C z ) となった . すなわち C F M K ( マタ の大河は , 常時 , 洪水期の利根川の 80 倍の流れがあり , 対岸 のプラザビル市 ( 旧フランス領コンゴの首都 ) まで約 5 師の ディ・キンシャサ鉄道 1898 年開業 1. 067m ゲージが 366 川幅となっているが , 白い雨足は川をたった 1 ~ 2 分で渡り km, 0.615m ゲージが 140km ) が西局 , KDL ( カナンガ・デ きり , この外国へパスポート , ビサなしで上陸して行く . イロロ・ルプンパシ鉄道 1927 年開業 1. 067m ゲー、ジで 2 , 544 , うち交流電化区間 858km ) が南局 , C F L ( 湖畔鉄 こは , サイール川としては川幅が広く , 流れもおだやかなた め , 1877 年 3 月 道 1902 年開業 1.067m ゲージが 960 ⅷ , 1 m ゲージが 125 ーに達した探険家のスタンレーによって ) が東局 , CV Z ( 上サイール地方鉄道 1924 年開業 0.6 「スタンレー・プール」 と名づけられ , 今でもそう呼ばれて m ゲージで 1 , 210 ) が北局 , となっている . 本社は奥地の いる . ルプンパシにあり , 4 つの局を合わせると職員数 2 万 8 , 000 現地人の料理人のサ ービスによるアパートでの昼食は , い 人 , 営業キロ 5 , 257km. 機関車 305 両 , 貨車 8 , 400 両 , 客車 830 つもフルコースであり , 1 時間近くかけてこれをとり , 約 1 時間半ほど昼寝をする . 両 , 特急気動車 15 両となる . この間に雨はすっかり上がり , 目ざ めた眼には南緯 4 度のすがすがしい青空がまぶしく映る . 本稿はこのうち最も歴史の古い西局の C F M K ( マタディ ・キンシャサ鉄道 ) を紹介することとする . こうしてキンシャサの雨期は , はっきりと時刻で記録でき るほどの明確さで始まる . そして , ふたたび乾期の訪れる来 雨期入り 年 5 月まで 1 ~ 2 日おきにこのような雨は降るが , それ以外 は青空がのそき , 暑い雨期がつづく . キンシャサの年間平均 9 月 16 日正午 , 首都キンシャサ ( 旧レオポルドビル , 人口約 130 万人 ) の旧白人街で本格的ビルディングとしては最も古 気温は 25.4 度で , 平均最高気温は 30 度 , 平均最低気温は 20.8 い F ビルの私たちの事務所を出ると , 外は突然の台風のよう 度である . 5 月中旬以来 , 高曇りで一刻 なつむじ風が吹き荒れていた . キンシャサの旧白人街を東西約 6 にわたってつらぬく も太陽が見られす , 東京の 6 月ぐらいの涼しさが続く乾期に 「 6 月 30 日通り」は片側 3 車線の大通りで , マンゴーやフラ 入ってから一滴の雨も降らなかったため , この風は道ばたの ンパイヤー ( 火燔木 ) , プーゲンビリアなどの街路樹が緑深い 75 えしやく

10. 鉄道ジャーナル 1976年9月号

ヨーロッノヾの鉄道と列車の旅 ( 3 1) 山之内秀一郎 イギリス鉄道の旅② 写真はすべて筆者撮影または提供 ールにはフランスに残り少ない路面電車が走っている . フ フランスの路面電車 ランスにも , 以前はドイツに負けないくらい多くの町に路面 電車が走っていた . ( 表 4 ) そのほとんどは廃止され , 残っ 夜のパリ ~ ロンドン直通列車くナイトフェリー > はアミアン の手前で右に分岐し , フランス北部の大工業都市ーリール てだいるのはここリールの町と , サンテチェンヌ , マルセイ CLille : 人口 20 万 ) に向かう . 途中のアラス CArras) はフ ユけになってしまった . 人口の多くがパリに集中し , ドイツ のように人口 50 万 ~ 100 万の中都市が少なく , 路面電車のほ ランス革命の中心人物ロベスヒ。ェールの生まれた町 . 日本と とんどは自動車にとって代わられた・それにはフランス人の 違って工業地帯の少ないフランスで , この北部ベルギーとの 国民性というものも若干影響しているようだ . 第 2 次大戦後 国境地帯は豊富な石炭資源に恵まれ , 古くからフランスきっ ての工業地帯で , 織物 , 鉄鋼 , 化学 , 機械などの工業が発達 フランスの地方大都市の路面電車の幹部は次のように述べて いる . 「第 2 次大戦後 , 路面電車は貴重なサーヒ・スを行なっ し , 車窓からボタ山や煙突の林立しているのが眺められる . 表 4 フランスの路面電車 開業年 人口軌間路線キロ 輸送量 市 ( 1930 年 ) (m) 馬車動道 電車 ( 千人 ) 開業年 人口 軌間路線キロ 市 ( 1930 年 ) 電車 ( 千人 ) 1 , 435 工クス ~ マルセイユ 9 1 , 000 工クス・レ・バン 83 アミアン 77 ・ンジ、工 33 アングレーム アルカション アノレテーシュ アルマンチェール アビニョン アプランシュ ビアリツツ 5 ボクール 38 ( ルフォーノレ 45 ブザンソン 65 20 プロワ 250 1 , 435 ポルドー 50 1 , 000 プーロー 37 フりレジュ 60 プレスト 59 カレー 26 カンプレ 39 カンヌ カンヌ ~ グラス 2 カッセル え丁写えこみ。・一 27 31 シャルノレビノレ 33 シェルプーノレ 103 クレルモンフェラン コノレマーノレ 82 ンジョン 29 1 , 435 ドゥ工 29 ダンケルク 工ルプフ 23 1 , 000 工ヒ。ナル エタープル ~ ル・トゥケ 10 ウ ~ ル・トレポール フォンテースプロ 9 フォル / くック 92 グルノープル 162 1 , 435 ルアープル 5 1 , 000 アンダイエ 2 ラン 195 1 , 435 133 1874 1881 ール ( 郊外 ) 1 , 000 500 106 1877 20 注 ) 路線キロと輸送量は 1927 年の数値 輸送量 廃止車両数 ( 万人 ) 7 74 1902 1935 ごろ 150 1901 1944 26 95 1899 1930 ごろ 14 , 610 947 1880 1888 1893 1957 618 1897 1947 38 15 , 027 950 1876 1893 1892 179 1903 1951 1901 1914 4 1 , 100 1902 1948 328 1897 1949 6 1929 6 1899 1 152 1894 1956 2 , 104 1958 191 1898 195 2 , 062 1879 1913 1958 3 , 542 1900 1953 279 46 218 1899 1950 402 1899 1938 73 3 , 215 68 , 384 1878 1892 1938 223 1900 1929 330 1900 1955 47 173 1899 1947 1896 1914 1900 1939 81 1897 1952 36 1901 25 1935 ごろ 20 1901 1931 1902 1920 5 1 材 2 , 829 1877 1 7 1896 1953 1925 1898 1910 1940 1906 1931 1897 1881 1889 1927 1948 1899 1908 1956 1899 1914 1901 1935 ごろ 1878 1878 1895 1960 1911 1953 1886 1897 1955 1887 1905 1957 1889 1877 1900 1949 1899 1950 1927 1950 1913 1966 1896 1957 1925 1899 1935 ごろ 廃止車両数 都 都 S L 圧縮空気 S L 圧縮空気 ( 万ノ、 ) (km) 馬車動 6 32 3 347 10 177 10 1 よ -4 ・ 4 ・ - ・ 1 より・】 1 よ 0 戸 0 0 0 -0 ′ 0 5 0 -0 -0 っ -0 -0 3 0 -0- -0- つん -9 》ー 8 -4 ・ 4 ・ -4 ・ー t-—- ー 1 よ 1 よ 1 、イ 1 ・ - -3 00 っ 0 -8 1 ーイ -8- 1 ・イ 一 1 ・・ワ -4 1 よっ 0 ー 11 戸 0 ー 11 00 -4 ・、 .0 ワ ~ 1 よ《 0 内ー 1 ー《 0 ーー《 0 -4 ・っ 1 ー 0 ・ーっ 0 -4 1- ・ 1 1 よ 1903 1948 1911 1899 1940 1896 1949 1900 1935 ごろ 1911 1930 ごろ 1898 1932 1901 1914 1901 1932 1907 1914 1888 1914 1948 1904 1935 ごろ 1952 1898 1897 1952 1901 1948 1934 1910 1958 1893 1951 1897 1898 1949 1898 1945 1901 1935 ごろ 1906 1940 1903 1914 1933 1899 1915 1926 1900 1938 ごろ 1897 1938 1900 1914 1897 1910 1944 1890 1956 1902 1960 1895 1961 1898 1950 1898 1952 1898 1926 1906 1914 1900 1935 ごろ 1902 1935 ごろ 1896 1953 1912 1950 1894 1897 1952 1894 1951 1906 1908 1935 1899 1971 1902 1966 1894 1897 104 ロングウィ ロリアン 791 ′レ . ルド 400 リョン 224 ノレ・・ ~ ン 33 マルセイユ 16 モプーー ムラン 151 メッス モンペリエ 373 ムチェ・サラン 8 ュルーーズ 289 ナンン一 171 ナント 103 35 8 , 379 オルレアン 308 339 , 、 0 ルピニャン 210 ボワチェ 551 ル・ピュイ ランス 389 レンヌ ロアンヌ 122 ラ・ロシェノレ 79 ロデ . ルーアン 123 サプル・ドロンヌ サンタポルト 998 3 サン・ンヨモン 340 サンテチェンヌ 276 ガン・ - ~ ロ 653 サン・カンタン セダン セート 28 ストラスプール 38 チオンビル 118 ツーロン 123 ツーノレーズ 944 ツール 2 , 455 トロワ / 、フンス / くランンエンヌ 3 , 942 ベルサイユ 4 , 661 ビシーー 686 ビリセル 1 ー / 1 ーっ 0 っ 0 -4 ・ワ編 1 よ 1 よ ワ I..O っ朝 -4 ・ワ】《 0 11 -4 ・ 1 ー っ 1 よ《 0 ワ っ 1 よ 4 2 1896 1891 1 よっ】 1 ・ 1 人 -4 ・ 1880 3 6 4 4 9 20 1879 7 168 1880 20 1881 6 9 20 1880 1881 1874 1878 1880 1877 1855 1895 1879 781 419 280 42 1882 0 8 ワ りん 1 よ 1 4 4 -4 ・っ 0 り 0 -4 ・ 0 -8- 8 7 405 30 126 20 359 4 , 550 659 42 177 1 , 984 376 3 , 621 75 414 214 27 5 39 12 《 0 8 1...n っ 0 0 、 .0 1 ーワ 4 1 ー 22 3 , 345 146 329 1880 -3 8 0 0 ) ワ】 -4 ・ 《 0 お 0 ワ 8 / 1 よ 1874 1 , 327 692 1881 1876 1891 1895 4 229 242 -4 0 ″ -0 -0 ・ 8 ュ 1951 10 117