ータウンで , 前もって軌道敷を確保できるところ こうした目的に適した車両の製作は産業政策の一環として MTE はかアルストー 社 推進していかなければならないが , つまるところ , 需要者た P 8 CITADIS 軽メト [ K 車両タイプ M る大都市の意向いかんにかかっている・貴都市ではこの提案 車長 ( m ) 26.9 27.4 23.2 27.0 19.1 19.7 車体幅 (m) をもとに具体的な交通計画を早急に樹てることを希望する . 車体高 (m) その計画をもとに産業界との折衝を進める予定である」 重 ( t ) 自 30 40 50 24 出力 (kW) 300 460 300 400 300 300 続いて 1975 年 4 月 , パリで開かれた交通博覧会 'TRANS- 定員 ( 人 ) 188 225 282 278 164 198 200 PORT—EXPO 75 ' にさいし , 「路面電車は若干のフランス 最高速度 (km/h) 80 70 100 70 80 80 2 両連接 2 両連接 3 両連接 2 両連接 3 両連接 2 両連接 2 両連接 の都市で新しい発展を始める可能性がある . 1975 年中に都市 ジューモン・シュネデール SGTE SPIE ・バチニョルクルーゾ・ * ) MTE 側と運営企業とが共同して , そのための条件を定めることに トリッヒ各社の連合 ロワンカレル・フシェ・ランゲヒ。ンド・ディ なろう」と述べている . へだたった・光栄ある孤立 ' の位置に置き , むしろアメリカ こうして , ふたたびフランスに路面電車復活の動きが出て やイギリス連邦諸国との連帯を深めていた . しかし第 2 次大 きたが , どのような車両を使うことになるのだろうか ? 戦後のイギリスは , もはや , かって、七つの海 ' に覇をとな 1974 年 , フランスの開発会社 'Sodeteg Engineering' は西 え , 陽の沈むことのないといわれたエリサベス I 世時代の大 ドイツの有名な路面電車メーカー 'Düwag 社 ' と提携し新し 英帝国ではなく , ョーロッパの一国として大陸諸国との結び い路面電車の開発にのり出した . Sodeteg 社はメキシコの地 っきを深めつつ生きていかざるをえなくなっていた . 下鉄を建設したのち , フランスのマルセイユ , チリのサンチ こうした , イギリスの大陸への方向転換のうえで象徴的な ャゴの地下鉄の工事を進めている会社である . 同社は最初 , 出来事が , ョーロッパ共同体 ( E C ) 加盟と英仏海峡トンネ ・ P R T ' と呼ばれている新交通システムの開発にとりくんだ ルの掘削なのである . 1958 年に発足した EC に対して , イギ が , 技術的に問題がありすぎるので方向転換してドイツの リスは当初むしろ冷淡だったが , まもなく E C から孤立する Düwag 社と提携 , ・ S L R ' * 4 ) という新しいタイプの路面電 ことの不利をさとり , 1961 年に E C 加盟申請を出した・しか 車の開発をはじめた・この 'SLR' の路線は , 都市の中心 し 1963 年と 1967 年 , 2 回の E C 理事会でフランス大統領ド・ 部は地下 , 周辺部は地上に専用軌道を持ち , その上を近代的 ゴール将軍の「ノン」にあって , 加盟をはばまれている . な市電タイプの車両が走る . 現在計画中の車両は表 7 に示す 1969 年 , ド・ゴール大統領が退陣してイギリスの E C 加盟 のための扉は開かれ , 1973 年 1 月 1 日からイギリスはアイル とおりで , 列車の運転 , ダイヤの整理はすべてコンビュ ーによる自動制御である . ランド , デンマーグと共に新しい E C の一員となった . そし きずな Sodeteg 社以外のグループも新しい路面電車に関心を持ち て , イギリスと大陸を結ぶ絆ーー英仏海峡トンネルの建設準 備も順調に進み , 1980 年ごろには完成するかと思われた矢先 ℃ I T A D I S 冖軽メトロ ' などの車両を発表しているが , この突然の計画中止の決定はフランス政府をはじめ関係者の Sodeteg 社のものと大差はない・運輸相の提案に対し , スト 間に大きな反響をまき起こした・ ラスプール , ルーアン , ツールーズの各都市でさっそく具体 案の検討に乗り出し , グルノープル市も ' POMA2000 ' よ 英仏海峡をトンネルで連絡する計画は , 古くからあった・ 1750 年ごろ , アミアンのアカデミーが英仏海峡連絡の計画の り路面電車のほうに関心を示している . しかし , ナンシー コンクールを行ない , デマレ CDesmarets) 技師がトンネル ースなどはまだ消極的である・い ポルドー ツールーズ , 計画を提案しているが , 19 世紀に入って , いろいろな案が生 すれにせよ , かりにこの計画が具体化しても実際に路面電車 が走り出すのは 1978 年以降になろう . まれてくる . まず 1802 年 , マチュー CMathieu) 技師は上下 2 段のアー * の Systime Léger sur Rai1 ( レール上軽システム ) の略 チからなるトンネル計画をつくり , ナポレオンに提出した . 英仏海峡トンネル 下のトンネルは排水用で , 上のトンネルに馬車を通そうとい う考えである . このほか , 海底に鋳鉄のパイプを埋め , その 1975 年のはじめ , 日本の新聞でも英仏海峡トンネル計画の中 中に道をつくろうという案 , 吊橋をかける案 , 英仏海峡に堤 止が大々的に報道された . イギリスとフランスの間をへだて 防をつくって連絡しようという案などが発表されている . ているこの海峡は最も狭いところ ( カレー パー間 ) で これらの計画は , いすれも机上の計画にすぎなかったが , 幅 36 しかないが , 歴史上に重要な役割を果たしてきた . フ 本格的に英仏海峡トンネル計画に取り組んだのはフランス人 ランスのルイ 14 世もナポレオンも , そしてドイツのヒトラー トーメ・ド・ガモン (Thoméde Gamond ) とイギリス人ホ も , ついにこの海を渡ることはできなかったし , 第 2 次大戦 —CHawkshaw) が最初であろう . トーメは , まず 中 , フランスのシャルル・ド・ゴール将軍は海の彼方イギリ クショ 英仏海峡の土質の研究にとりかかって 33m の試掘坑を掘り , スにあって自由フランスの解放を指導している . この海峡は , つねにイギリスをヨーロッパ大陸諸国と一歩 こうした基礎研究をもとにして具体的なトンネル計画をつく 表 7 フランスの新路面電車用車両 Sodeteg (SLR) D M っ朝ワ】 32 80 120
図 6 英仏海峡トンネルの計画 の道路専門家と相談した結論も「道路トンネ ル」および「鉄道・道路併用トンネル」では 採算がとれない , というものであった・ 海峡トンネルは長さ 52km ( 青函トンネルは 53. 9km 海底部分 23km ) , 直径 6.85m の 2 本の 単線トンネルを掘り , その中間に排水用の小 トンネルを掘る . ( 図 6 ) 工事が完成した暁 には旅客列車 ( 最高速度 140 ~ 160 / h ) ・貨 150 100 + 55 物列車 ( 最高速度 80 ~ 120km / h ) , 自動車輸送 50 0 列車 ( 最高速度 140 / h ) など、いろいろな 列車が走ることになるが , 最高速度 160km/h -100 の TEE はわずか 25 分で海峡を横断でき , パ リ ~ ロンドン間が現在の 7 時間から 3 時間 40 分 ~ 4 時間と大幅に短縮になる・しかし , の英仏海峡トンネルには , 3 つの特殊な問題 があった・ その一つは自動車の輸送 . このトンネルは 青函トンネルと同様 , 鉄道専用トンネルとな るので , マイカーやトラッグを通す方法を考えなければなら ない . このため , トンネル区間だけを往復する自動車輸送専 用列車を走らせることになった・ 2 段に自動車を積む屋根っ きの貨車 35 両編成 ( 全長 750m , 総重量 1 , 200 t ) で , 260 台 の自動車を積むことができる . トンネルには 1 時間に 10 ~ 12 本の列車を走らせることができるが , うち 4 本を自動車列車 とすると , 1 時間に 1 , 000 台の自動車を運ぶことができる . 次の問題は , こうした自動車を積み卸すためのターミナル 設備 . このターミナルの計画は図 7 ・ 8 のとおりで , フラン ス側はカレー付近 , イギリス側はフォークストン付近に設け ーはますパスポー られる予定であった . 列車に乗るドライバ ト ( または身分証明書 ) と税関の検査 , 通行料の支払いをす ませたのち , 自分のグルマを運転して後部から列車に乗り込 み , 前のほうから順番に駐車する . 36 分でトンネルを抜けて 対岸のターミナルに到着すると , 今度は前の自動車から順番 トンネルでも に、下車 ' してゆく . スイスのサンゴタルド・ ちいられているのと同じ方法で , 20 分もすれば全部の自動車 物列車 の・下車 ' と・乗車 ' が終わり , 列車はふたたび発車するこ ー間 , プリュッセル ~ カレー間 , フォ グストン ~ ロンドン とができる . いちいち機関車を付けかえてパッグする面倒を 間に高速新線を建設し , ロンドンのビグトリア駅は現在でも 避けるため両ターミナルには図のようなループ線があって , すでに手ぜまなので , ロンドンの西の郊外のホワイト・シテ 自動車輸送列車はつねに同一方向に走ればよいようになって ィーに新しいターミナルをつくることになっていた . これが いるのも面白い . 完成すれば , パリ ~ ロンドン間が 2 時間半 , プリ、ツセル ~ 第 3 の問題は , イギリスの線路の上には大陸諸国の大型客 ロンドン間は 2 時間 15 分となり , 空港への往復の時間を考え 車が通れないことで * 5 ) ロンドン ~ パリ間 , ロンドン ~ プリ に入れると飛行機よりもかなり速くなる・ ッセル間の直通列車には , イギリスの線の上も走れる特殊 こうして英仏海峡トンネルの具体案がきまり , 1964 年 2 月 な小型客車を使用するが , その他の国際列車はすべてトンネ 6 日 , 英仏両国政府はトンネル建設について原則的な同意に ルの出口のフォークストンどまりで , こでイギリスの列車 サインした . あとは種々の技術的な問題の検討と工事着手の に乗り換える計画になっていた . そのためイキリス側のター 正式決定を待つばかりとなっていた . 1966 年 7 月 8 日 , 英仏 ミナル設置は大規模なのである・しかし将来は , パリ ~ カレ サンがソト上ー フォラストン 5 ー 98 km16.71 k Ⅲ四 .81 km41.81 km0 km53.34 L9 ・ 8 ーー C9 ・め 0 をマ 15.00 図 7 フランス側のターミナル 15.00 トンネル出口 ↑トンネル入口 自動車積込場 、 - カレー プ丿ュッセ ロー ーユ 図 8 イギリス側のターミナル 、祝閠 トンネ只 ロンドン 122
両国首相は「もし両国が満足できる具体的なトンネル計画が つくられれば , 両国政府はトンネル着工の決定を下すであろ う」と宣言し , 1971 年 3 月 22 日 , トンネル工事の調査と資金 調達のために ' 英仏トンネル・グループ ' を発足させ , 同年 9 月 22 日には両国にトンネル建設会社が設立された・ そして 1970 年 10 月 20 日 , 両国政府および両建設会社の間で 第 1 回協定を調印した・これは正式に工事の着手をきめたも のではなく , 「両国政府の意見が一致したことを認め , もし 最終調査の結果 , 技術的にみても経済的にみてもこの計画が 可能であり , 採算がとれることがわかれば 1973 年 8 月に工事 着手の決定をくだす」ということをきめたものである . この 第 1 回協定では , 主としてトンネル建設に必要な資金の調達 と運用方法を定め , 次の 3 段階のステップをへて工事を進め ることになっていた . ・第 1 段階工事実施計画・資金計画などの作成 . 1971 年 4 月からすでにスタートしており , 1973 年 7 月 31 日が最終期 限で , そこで第 2 回協定が結ばれる . 工事に必要な資金の 半分は民間から調達することになっている・ ・第 2 段階 1973 年 8 月 1 日から 1975 年 1 月 31 日まで . 工事 の着手段階で , 1973 年上期に指名された工事業者により , 斜坑と排水トンネルの一部の掘削を行なう・その間に本ト ンネルの掘削のための技術的な問題を実地で解明する . ・第 3 段階 1973 年 2 月 1 日から 1980 年ごろまで . 本格工事 の期間で , 順調に行けば 1980 年中に完成する・ 工事が完成すると , このトンネルは英仏両国政府の共同所 有物となり , 英仏合弁のトンネル運営公団が管理することに トンネルの建設費は約 3 , 700 億円 ( 1973 年現在 ) なっていた . で , 民間の資金は 50 年間に返還される・ 工事はまず , 1882 年に掘った竪坑を使って土質の調査をす ることから始まり , 1973 年 5 月 15 日にはカレーの町の南 4 にあるサンガット CSangatte) の村でトンネルの斜坑の掘削 が始まった . イギリス側でもドーパーの西 , シェークスビア ・グリフの麓で同じように斜坑の工事に取りかかっている・ 1973 年 11 月 19 日 , 予定よりやや遅れたが , ロンドンでイギ リスとフランスは英仏海峡トンネル計画を正式に実施に移す 条約に調印し , ・第 2 段階 ' に入った・しかし , ちょうどこの ころ石油ショックが起こり , ョーロッパも大変な不況とイン フレに巻き込まれ , 英仏海峡トンネルのように多額の資金の かかる建設工事の前途があやしくなり , 1974 年 3 月 , イギリ スの EC 加盟を推進してきた保守党のヒース内閣が倒れ , E C 加盟批判の立場をとる労働党のウイルソン内閣が政権につ き , 大陸諸国との結びつきのシンポルーー英仏海峡トンネル 計画には反対の空気が強くなっていった・ ・第 2 段階 ' から・第 3 段階 ' の移行は 1975 年夏に行なわ れる予定であったが , イギリス側はこれを 1 年延期し , さら にトンネル出口からロンドンを結ぶ新線 ( 約 110 ) の建設 は工事費がかかりすぎるため , 白紙に戻すことを提案した . ふもと しかしトンネル建設会社側はこの提案に難色を示し , イギリ ス議会は 1973 年 11 月の・英仏海峡トンネル建設条約 ' の批准 の期限である 1975 年 1 月 1 日までに同条約に同意をあたえす ついに英仏海峡トンネルの建設は中止ときまった . 1975 年 1 月 20 日イギリスのグロスランド環境相 * 6 ) は下院で次のよう に述べている . 「・・・・・・現政府はトンネル条約批准の期限である 1975 年 1 月 1 日までに必要な法案を通すべく努力したが , 1974 年の総選挙 などのためにこの期限を守ることは不可能となった・また , 1974 年 11 月 26 日に本議場で言明したようにド ー - ノ、 - ーロント ン間の高速新線の建設費は著しく増加し , 政府としてはこの 計画を推進することは不可能と判断せざるを得ない・したが って , 私はトンネル計画の共同推進者 ( フランス政府 , 2 っ のトンネル会社 ) に対し , 原案より安い鉄道新線の建設案を 練り直すあいだ , トンネル計画のスケジュールを延ばすよう 提案した . すなわち , 当初の予定では 1975 年夏に最終決断を くだすことになっていたのを , 1976 年にさらに延期すること と , 条約批准期限に幅をもたせることである . われわれのパートナーはトンネル計画を推進するために , この提案を受けて解決策を検討することに同意し , フランス 政府は 1975 年春まで計画を凍結し , その間に計画を練り直す ことを提案してきた . しかしながら , 不幸にしてトンネル会 社はこの提案を拒否 , 1 月 10 日を期限として計画放棄を通告 し , 株主の利益保護の観点に立った会社側独自の修正案を英 仏両国政府に提案してきた . この案はとうてい英国政府として受け入れられる内容のも のではなく , 私は遺憾ながら仏政府に対して会社側の提案を 拒否し , トンネル建設に関する現在のプログラムを破棄する ことを通告した . 現今の経済情勢および今後くるべき困難な 時代に公共投資を抑制するという政府の基本方針からみても 英国政府が直接資金を投じてトンネルを建設することは不可 能である . このプロジェグトは可及的速やかに中止されるこ とになるが , 将米 , 情勢が好転してトンネル計画がふたたび 陽の目をみる日に備え , その研究 , 計画 , 工事は完全な状態 で保存しておかねばならない」 この計画がふたたび陽の目をみることがあるだろうか ? 国際的な問題だけに 5 回の中止の傷は深く , 簡単にはいかな いだろう . しかし , 1975 年 6 月 5 日の国民投票でイギリスの EC 加盟は圧倒的な支持を受け , 今後イギリスと大陸諸国と の結びつきがますます強くなることを考えると , いすれかの 日にふたたび話題にのばることは間違いないであろう . 事実 , 大陸諸国の側から建設工事の資金を提供してもよいとの意見 * 6 ) イギリスでは交通問題は環境大臣の所管事項になっている・ リスは 2.3mX2.67m * 5 ) 大陸諸国の客車の最大寸法は 26.4m ( 長さ ) x2.82m ( 幅 ) であるが , イギ も出されている . 123
った・それによると , 海峡のフランス側に深さ 54m , イギリ ス側には深さ 30m の穴を掘り , その底に地下駅をつくってト ンネルのターミナルとする . トンネルは 14 の工区にわけて掘 削を進めるが , ちょうど海峡の中間に浅瀬があるので , そこ に人工の小島をつくって港を建設する・島の海底部には信号 場があって , ここから貨車は坂を登ってこの人工島の港へ連 絡することもできる . トーメ・ド・ガモンはこの計画を皇帝ナポレオン 3 世に提 出した . イギリス征服の夢を実現できなかった大ナポレオン の甥のナポレオン 3 世は , この計画に関心を持ち , 1856 年に 調査委員を設けて具体的な検討をはじめ , 1875 年にはフラン ス北部鉄道とロスチャイルドなどの財閥の共同出資になる 、フランス海底トンネル協会 ' とイギリスの・海峡トンネル会 社 ' が発足した . イギリスのほうでもビクトリア女王が非常 なんじ な関心をよせ , ホークショーに対し「もし汝がトンネルの建 設に成功したならば , 私の祝福と全イギリス女性の感謝が与 えられるであろう」とはげましている . 両会社は 1882 年工事に着工し , 翌年 3 月にはフランス側で は直径 2.15m のトンネルを 1 , 840m 掘削し , イギリス側でも 1 , 842m と 805m の 2 本のトンネルが掘られている . 工事には ポーモン掘削機を使用し , この工事の最中にイギリス側では 良質の炭鉱が見つかり , イギリス南部鉄道の機関車用の燃料 にも使用されている . こうした計画に対してイギリス軍部は真向から反 しかし , 対し , ウォールズレー元帥は議会で「このようなトンネルは イギリスを最大の危険のもとにおくものであり , つねにフラ ンスからの侵入に備えねばならない」と発言し , トンネル反 対の一大キャンペーンを起こした・昔から相争った両国のこ とゆえ , このトンネルには万一の場合 , イギリスからでもフ ランスからでも水を流し込んで水没できるような設備が考え られていたが , それでも連邦の反対を押さえることはできな かった・そして 1883 年 3 月 , 工事の中止命令がでて , この計 画は中止となった・このときに掘られたトンネルは現在もほ ば完全な状態で残っている . こうして , まず第 1 回の試みは失敗に終わったが , その後 も何回かトンネル計画が再燃している . 1906 年 , フランス北部鉄道のサルチョー技師は , 地中 100 m に直径 5.5m のトンネル 2 本を掘る案を発表したが , イギ リス軍の反対を少なくするため , 海岸に近いところに人工島 をつくり , そこから陸地の間は橋にして , 戦争のさいにはい つでも破壊できるようにしてあった・しかし , それでも実現 にはいたらなかった . 1914 年 , イギリス国防会議は「海峡トンネルは , なんらの 軍事的効果があってはならぬ」と宣言する・そして , まもな くフランスとイギリスは相協力してドイツ相手に第 1 次世界 大戦に突入した・戦争の終わった 1918 年 , ノランスのフォッ グ元帥とイギリスのチャーチル首相は「もし海峡トンネルが おい あったならば , 大戦は 2 年早く終わったであろう」と言って いるが , 1920 年にイギリス首相ロイド・ジョージはトンネル 計画に反対を声明 , 1924 年にラムゼー・マクドナルド首相 ( 労働党 ) も反対している・その後 , 1938 年にもフランスの パデパン技師が自動車専用トンネルの計画をつくっている・ ぼつばっ 1939 年 , 第 2 次大戦が勃発し , ドイツ軍が海底トンネルを 掘ってイギリスを攻撃することを恐れたイギリス軍は 1883 年 の試掘トンネルの中に精密な測定装置を設備し , 万一 , トン ネル工事が始まった場合にもすぐ探知できるようにしていた . 第 2 次大戦が終わるとヨーロッパの軍事情勢は一変し , も はやイギリスとフランスが軍事上の理由からトンネルの建設 に反対する理由はなくなっていた . 世界は東西両極に大きく わかれ , ョーロッパの中でいがみ合う時代では無くなってい たのである . 1955 年 , イギリス政府は戦前のトンネル建設反 1957 年にはアメリカ , フ 対の立場を白紙に戻すことを宣言 , ランスの合弁会社 'Technical Studies lncorporated' ( 技 術研究会社 ) を設立し , 1875 年創設のイギリス・フランス両 トンネル会社およびスェズ運河会社とトンネル計画推進のた めの協議に入り , 同年 7 月・英仏海峡トンネル研究グループ ' が発足した . この研究グループの仕事は , トンネル掘削技術の調査 トンネル利用輸送需要の想定 ② ( 3 ) 収入支出計画の作成 トンネルの経済効果の判定 ( 4 ) ⑤従来からある種々の案の比較検討・すなわち直径 12m , 2 車線の道路トンネル案 直径 6.5m のトンネル 2 本からなる道路 , 鉄道併用トンネ ル案 直径 6.5m のチ、一プ 2 本を海底に沈める水没トンネル案 道路・鉄道共用の直径 20m の大チュープを海底に沈める水 没トンネル案 高さ 50m , スパン 225m の橋梁案 ( 中央部は船を通すため 高さ 70m , スパン 600m , 道路専用・鉄道専用・両者併用 の各案がある ) 水没トンネルと橋を組み合わせた折中案 こうした研究の結果 , 英仏海峡トンネルは十分に採算がと れ , いろいろな案の中で最も有利なのは鉄道専用のトンネル という結論が出た . 自動車トンネルは排気ガスの除去という 大問題があるほか , 1 時間に最大限 600 台のクルマしか通す ことができず , 鉄道に比べて輸送能力がかなり小さくなる . しかも , 1 時間かかってトンネルの中を走るということはド ーにとってかなり神経の疲れることで , 当然 , 事故や ライノく グルマの故障などで交通マヒも発生する . アメリカの統計を もとにして計算すると , シーズン中に 6 , 000 台のクルマが通 一日に 10 件の故障と 1 件の大事故が起 るこのトンネルでは , こることになる・それやこれやで道路トンネルの建設費は当 時の見積でも鉄道トンネルより約 70 億円高くなり , アメリカ
急カープの手前には 大きなカープ標識が建 てられている マ車内はどの車両もゆ ったり閑散期だから 仕方ないが一日も早く 一人前のエル特急に育 ってほしいもの 門司港へ / ロ 玄 畑 筑 山地 △貸振山 前ロ 佐世保有田泉 佐世保線 早山支嬉野 肥前鹿島 大分へ 九十九島 づいた . 海岸ぞいの線路を全面的に改修し , 戦後の主力機 ローカル特急の停車駅にはふさわしい . 30 秒停車 . C 51 ・ C 57 ・ D 50 ・ D 51 が大手をふって通れるようになっ 車窓左手の広大な田圃の彼方の低いコンクリートの城壁 たのは , 特急くさちかぜ〉 ( 現在のくさくら〉 ) が登場した 防波堤が近づき , 視界がせばまって丘陵部に入る . 最 昭和 32 年ごろからである . 初の短いトンネルを抜けると , 左車窓に海が迫ってくる . ひドた およそ 15 分で肥前鹿島 . ローカルの小駅だが , この地方 干潟で有名な有明海である . すぐまたトンネル . いよいよ いうとくいなり の中心ー鹿島市の玄関で , ホームには「祐徳稲荷神社」の 海岸ぞいの難コースにかかったのだ . 肥前浜から小長井に 大きな看板が . 駅からバスで十数分の祐徳稲荷は , 伏見 かけて約 25km は , とくに線路条件がよくない区間である . 稲荷・豊川稲荷とともに日本三大稲荷の一つで , 九州では トンネルと急カーープ , 丘陵が海岸線まで迫った狭い海ぞ 太宰府天満宮についで参詣客の多い , 庶民信仰のメッカ . いの細道を , くかもめ 1 号〉は 8 両編成の車体を右に左に 経ヶ岳 る岳 半 鉄道当 原雲 6 半 長騎 戦後初の山陽特急くかもめ > は昭和 28 年 3 月日西日本 地区の期待をになって颯爽と 登場した C 57 Ⅱ牽引でタ闇 迫る門司駅を発進する下り処 女くかもめ > ( 筆者撮影 )
しなければならないのか・・・・・・ もっとほかにすることがある ふぜい スハ 32 の小さな窓の風情をめでるなどと のではないか・・・・・・ いったことは , 柔かい感性に満ちあふれた弱々しい青年や , 人生を終えようとしている老人にでもまかせておけばいいん オレはもっと身近な利害打算に生きなくては・・ .4 原生社を越え トン援けて 大雪山連峰には残雪が縞模様をつくり , 北国の夕暮れは , す みきった青空のまま , 赤味をまったく拒否して訪れようとし ていた・上川で 4 両の客車が離され , ついに客車 2 両と荷物 車 2 両の「さいはてドン行」ができあがった・ 水色のポロシャツを着た機関士が , DD51 のまん中で気笛 を鳴らした . 2 時間におよぶ石北峠ごえの始まりである . 車 内はざっと数えて 8 人・しだいに原生林は深くなり , クマザ サがゆく手にしげる・ときたま並行する未舗装の国道を , ク ルマが走る・中越 , 標高 478m の標識 . ダイヤに余裕がみて あるのか , 対向列車もないのにしばらく停車し , 助役が懐中 時計をジッとみつめ , やおら出発合図をおくる・ 列車は 25 % 0 を 20km / h くらいのスビードでのばり , そして 延長約 4km におよぶ石北トンネルに突入・暗く長い時間が 重く苦しく続く・旭川で降りた千葉車掌の言葉が思い出され る・「 521 列車に乗務すると , 上川から先 , もう高校生も降り てしまって , なにをしたらいいか気が滅入ってしまって・・・」 なかこし 44 道産子タレントには美人が多い ? 北海道出身の芸能人 奥白滝 , 標高 513 m. 暗黒のトンネルから出てくると , 夕暮 れどきのとばしい光のもとでも , 山々の緑がまぶしい・ やがて線路は遠軽に向けて下り勾配となり , 沿線には広々 とした牧場やサイロも見えてくる・気温はグングン下がり , 朝加真由美 ( 函館 ) 木之内みどり ( 小樽 ) 坂口良子・安部律子 ( 札幌 ) にも似た歌が , 夜空にこだまする . ァイヤーのまわりで踊り狂う . ギターがかき鳴らされ , 叫び ようちゅうをくみかわし , ファームの若者は素裸になってフ た牛クンの赤い肉が , ジュージーと音をたてて焼ける・し 燃え上がり , トタン板の上では , この日のために犠牲になっ をあびている・太陽が沈むと同時に , ファイヤーストームが 子供たちが手製のお面をかぶって劇を披露しさかんな拍手 ひろう 進められるかたわらで , 白樺の木のあいだに作られた舞台で ってくる . そこでは夜のジンギスカン・パーティーの準備が けて裏通りを走り , 牧草地からサイロのあるファームにもど うになるくらい牧草を積み上げたトラックは , 町の交番を避 クダンス ' がプログラムの第 1 ページ・前輪が浮き上がりそ グに突きさしてトラックの荷台に高々と積み上げる・フォー 年 8 月の初めに開かれる・四角に束ねられた牧草を , フォー 東のファームでは大自然の恵みに感謝する「収穫祭」が , 毎 夏の北海道は , 長い冬に備える取り入れの季節であり , 道 ・・」とつぶやいたものだ . 越すことができさえしたら・・ の水田をみつめながら , 「人間もクマのように冬眠して冬を ル線を旅したとき , 前に坐っていた老人が , 青々と茂った夏 西の空だけが , まだ青く輝いている・かって北海道のローカ
機関 ) が設けられ , 日本政府ペースで派遣された約 10 名の国 ば外国製もあったであろうが , とにかく日本のクルマに囲ま 鉄職員たちが現地人職員とともに活躍中である . これに対す れて走る・これまで回った国々では自国産のクルマだけが走 るコンサルタントとしては , 日本政府の推薦を受けた海外鉄 っているという風景は全く見られなかった . 日本のおかれた 道技術協力協会 ( J A R T S ) がキンシャサに事務所を開き 地理的条件ということもあるが , 自動車生産において日本は 国鉄および日本鉄道建設公団職員が同協会のメンパーとして こまで強くなっていたのである . まして日本の鉄道界にお ザイール政府とコンサルティング契約の締結につき努力中で いて外国産のものを探すとなったら , 大変な困難をともなう ことであろう . ある . 1975 年 6 月 21 日から 7 月 6 日までキンシャサ国際見本市が 計画としては , 現在のマタディ駅からサイール川左岸にそ 開催されたときの日本館は , 国鉄からパネルが , 交通博物館 って進んでまもなく , アンゴラ国境に近い地点でサイール川 から新幹線・電気機関車・ディーゼル車などの鉄道車両の模 を渡る・水深およそ 100m で , 両岸が最も接近した地点では 型が出品され , さながら「鉄道館」といった感じであった・ あるが , それでもこの橋梁はスパン間 500m となり , 鉄道・ 道路併用橋としては世界に例のない長大橋である . 右岸に達 , こで , 私は H 0 ゲージの模型を運転する役を担当したが , 現地人に対して一番人気があり , 少しでも運転を休んでいる するとすぐ 3 , 250m のトンネルとなり , これを抜けてボマま と , 走らせるまでテコでも動かないという姿勢をみせる客が ではサイール川ぞいの山々と沢を , トンネルと橋で進んで行 く・ゲージは 1.067m , 最小曲線半径 500m , 最大勾配は 12.5 多く , このためトランスはオー ・ヒートし , 車両のギャ ーはすり減って , 1 週間で全車運休のやむなきにいたったも % , ディーゼル機関車牽引で 1 , 800 トン , 軸重 20 トン , 駅間 のだ . モブツ大統領が米館したときは私が操作していたが , 距離 20 衂駅有効長 640m , 列車本数は 1990 年で 28 本という 幸い , なんとかうまく走っていた・同大統領は 1971 年 4 月に 計画である . 来日したとき , 国賓としては初めて東海道新幹線の総合指令 ボマは , レオポルドビル以前のコンゴの首都だったところ . 室を見学 , また京都まで新幹線に乗ったので , 私の走らせる こを出ると , キトナまでは軟弱地盤がつづくサバンナであ HO ゲージ新幹線も興味深く見ていた . り , それを越えて終点のパナナ港に至る . パナナ港の建設は 帰国してまもなく , 出勤途上の東京駅でふと考えた . この フランス・ベルギー連合によって行なわれているが , これも おびただしい通勤者を効率よく運ぶ交通システム・そして , 現在は調査段階である . ここに見られるように , ザイールは この通勤者の大部分が大学卒であるという教育システム・ 独立後 15 年をへたといっても経済の基盤ははなはだ浅く , お の大量のサラリーマンを呑み込み , その能力を最大限に発揮 よそ事業と名のつくものはすべて外国の援助を得なければ成 させる都心部の官庁・会社組織 , 国内はおろか , 世界の主要 立しない・そして援助は , 国の東西を問わす , またイデオロ 都市へ四通八達する通信連絡網・・・・・・ etc ・これらのどれを見 ギーにも一切関係なく受け入れる . サイールは , アフリカの 中央部にあるという戦略上の立地条件のよさや , 地下に豊富 ても , アフリカの仲間にとっては高嶺の花であり , せめてそ の 1 / 100 でも自国にあったら ! と痛切に感するに違いない・ な鉱物資源を埋蔵していることにより「世界の先進諸国は進 私たちも , 日本の持つ国力のほんの一部をさいても彼らの生 んでザイールに対する援助競争をする」と自負し , 「各国の 活の向上に役立てたいと思う・サイール中央部の平原を , ト 援助の上でアグラをかいている」とみられないこともない・ ヨタのジープで走ったことがある・広大な草原は 360 。見回 日本に帰って しても蟻塚と地平線が見えるばかりで , その中を一車線の道 路が一本 , 東西に真直ぐ何十とつづく . こんなところでた 羽田空港に到着し , 高速道路を走ってます気づいたのは , 日 まにすれ違うトラッグが , またトヨタ製であることに驚く . 本製の自動車しか走っていないことであった . よくよく見れ 奥地の KD L 鉄道 ( 南局 ) では日本製の交流電気機関車も活 日本館の HO 模型に見入るモブツ大統領夫妻と徳久大使 躍している . 日本商品の優秀性もさることながら , こまで 売り込んでいる日本商社の活躍も大したものである . 狭い国土に 1 億余の人口をかかえる日本が国内活動だけで 生きられないのは自明の理であって , むしろ海外活動に積極 的に乗り出してこそ発展の道がある . そして , 南北問題の高 まっている今日 , これまで東南アジアを中心としていた日本 の対外援助は , さらに中近東・アフリカ諸国にまで手をさし のべるべきであろう . 対外援助とーロにいっても実際の活動 は国によって異なり , また非常な困難をともなうものである が , 日本はこれら諸国に対してクリーン・ハンドを持ってい ることに自信を持ち , さらに積極的活動を行なうべきだろう . 1 、ま
走ることはできないはすだ・心細くなりかけたところで , な んとか修理ができたらしく , ガタンと客車は大きく前に進み 出た . アクシデントは最小限にくいとめられたようだ . ききようおおなかやまななえ 桔梗・大中山・七飯ととまるたびに , パラバラと乗客が降 りてゆく . 43 列車は函館から郊外に帰宅する人のための終列 車でもあるようだ・各駅のホームでは , リャカーをひいた駅 員が必す待ちかまえていて , 荷物車からいくっかの荷物を降 ろす・ 七飯をすぎて藤城線にはいるころ , 左手後方に , 函館の灯 がチラチラとゆれているのが見える . やがてトンネルを抜け , 外はまったくの黒の世界となる . △△本州ー北海道連絡のフレートライナーがわすかな停車ののち室 蘭本線へ向けて発車してゆく ( 長万部駅で ) ' 76 ー 6 ー 16 暗闇の中に何を見たのか , DD51 が「ビ ッ」と鳴いた . △ 43 列車は郵便と荷物の積み降ろしが忙しく続けられる 寂しさが先に立っ旅の始まりである . のどかというよりも , ( 長万部駅で ) ' 76 ー 6 ー 1 5 ゞ生ルドヒ陰の 足しの感じもする 3 両の客車には , 函館発車時点でざっと数 ノいソ目かる えてみたら , 1 号車に 16 人 , 2 号車に 33 人 , 3 号車に 24 人の 客しかなかった・そのうちの約 1 / 4 が , カニ族とまでは呼べ ないものの , それに近い若い旅行者だ・ 大沼を出ると , 倶知安までは急行なみに小駅を通過する・車 内は静まりかえり , 車内放送もすでに終了している・ 「発車時間がすぎておりますが , 機関車が少々 , 故障してお 「列車追跡シリーズ」で車掌さんの話がないと , やはりしま りますので・・・・・・」 さっそく一つめの五稜郭でストップしたまま発車しない・ りがないだろうと思い , 車掌室のドアをノックした . 劇画週 どうやら暖房用のスチームのノくルプが閉まらないらしく , 函 刊誌から目を離して , 専務車掌氏がニコャカにこちらを見上 げる・函館車掌区の人で , 小樽まで乗務し次の日の 42 列車で 館駅で , すでに機関車の先端はもうもうたる蒸気に包まれて いた・電話で連絡を受けて待機していた機関区の係員が , し 帰ることになっているとのこと・いつもは , < ニセコ > < 宗 きりにカナヅチでトントンたたいている・蒸気を吹き出しな 谷 > < 北斗 > などに乗務していて , 1 カ月に一度くらいの割 がら走るわけにはいかないだろうし , かといって 6 月とはい 合で , 43 ・ 42 列車がまわってくるとか・ え , かなり冷えこんできているので , 暖房なしで夜の原野を 車掌さんに取材する場合 , 最初に名刺と『鉄道ジャーナル』 美瑛 ( 富良野線 ) / 美流渡 ( 万字線 ) / 愛別・中愛別・愛山 ( 石北本線 ) / 愛国・北愛国 ( 広尾線 ) / 愛冠 ( 池北線 )
ネグラの南福岡電車区を右に 見て・・・右手の電車はクモヤ 740 形 け加えた . 私の乗った自由席 8 号車には数人のファンがい 10 時 25 分 , くかもめ 1 号〉くみどり 1 号〉の併結列車は処女 運転らしい狂騒もなく , 静かにホームを離れた . 天気予 て控えめに取材しているが , 定員の 1 / 3 ほどの車内はいた 報は雨と報していたが , 薄日の射すおだやかな空模様 . だ って静か . 発車前からゴロリとシートに横になって眠って いる男もいる . このくかもめ 1 号〉は名古屋からの寝台電 が行く手の空はどんよりと曇り , 梅雨がまだ去っていない 車特急く金星〉と , 早朝に新大阪を出たくひかり 51 号〉 , ことを教えている . 台風 7 号も九州西岸に近づいていると おなしく広島発の季節くこだま 445 号〉を受け , 長崎に昼 いう . やはり長崎は雨だろうか・ すぎに着く便利な時間帯のエル特急にしては , 意外に乗客 軽やかに高架を駆け下り , べテラン 485 系特急形電車は 西の果てをめざす . 昨年 3 月 , 新幹線博多開業の陰に消え が少なく , 指定席が約 2 / 3 , 自由席が半分ほどの入り . 客 去ったかもめ ' は西海に群舞する電車工ル特急として , 電 足が極端に落ちる時期ではあるが , 長崎までの所要時間が 急行より 30 分前後しか違わないのに料金は 500 円 ( 佐賀ま 化なった長崎本線に帰ってきたのである . でだと 60 0 円 ) も高くっくので , 後続の急行く出島 2 号〉 ? 東京に近い 発車してすぐ , 停車駅と到着時刻をつげる簡単なアナウン を選んだ人もかなりあるのではないか スがあり , 最後に「長崎・佐世保ゆき処女列車です」とつ 総武・房総地区の観光・ビジネス路線ならともかく , 九州 線橋も完成して 7 月 1 日の開業の日を待っていた . わすか 26 分で長崎を折り返した電車は 9108M となって鳥栖 をめざしたが , 肥前浜駅では強風で飛来した雨樋が電車線を 支障し , 停電で一時停車したのもご愛嬌・・・と , 自信満々の訓 練運転風景で , あまりにもアッケないような気さえした・し かし全くの新線ではなく , これが正常な姿だと思えば , 電化 のメリットを存分に知らされた試乗ということができよう . カメラ・編集部 長崎駅を出て鳥栖へ向かう折返し試連転列車 ( 9108M ) 開業をひかえてホ ームのかさ上げ工 げ作業の最中で , 電化開業ムードもようやく高まりつつある ようだった・ ・自信を持って開業の日を待つ 諫早からは , 長崎トンネルを抜けるとすぐ終点である・トン ネルを出ると左手に原爆落下中心点の平和公園がのそまれ , 。詩とロマンの町 ' 長崎のプロローグとして十分なお膳立てと いえようか・ なにか薄暗い感じだった長崎駅も , いろいろな電化関連工 事で非常に明るくなっていた・そして , どっしりとした大跨 どい 浦 62
廃車 ( C62 の廃車第 1 号 ) となるという暗い出米事が起きた . 世界最初の海底道路トンネルである・関門トンネル ' が開通 したのも , この年であった . 86 して画期的なものであった . その基本的構想は次のとおりで , あらゆる点で日本の客車と られ , 早くも 12 月には日本車輛と日立製作所に発注された . まった第 1 次 5 ヵ年計画の一環として , ただちに設計が進め 寝台車を主体とした特急専用客車 20 系は , 昭和 32 年度から始 20 系特急形客車の登場 かたちで結実したのである . が・プルー・トレイン ' 20 系固定編成特急形客車の登場という ぜ > が生まれ , それを完成させるべく車両設計技術者のユメ 昭和 31 年 , まず運転技術者のユメが先行実現してくあさか たのも無理からぬことであった . 若い技術者たちが , 時代にふさわしい豪華列車の登場を夢み 歩は大きく遅れていった . 新しい鉄道づくりに意欲を燃やす ないこととはいえ , 世の中の急速な発展にくらべて客車の進 除いて優等車の新製は見送られ , 輸送力増強のため止むをえ 新修繕や車内近代化も急がれていた . 当然 , 特別なケースを のころであり , 戦前の標準型であったオハ 35 ・オハフ 33 の更 した 60 系客車が次々とローカル列車に登場していたのも , そ 異様な姿を見せていた . 大正時代の 17m 級木造客車を鋼体化 災客車・電車を応急復旧した , お * 且末な 70 系客車も , 各地で ( いすれも同系の緩急車を含む ) などがその産物である・戦 いた . オハ 35 形に始まり , スハ 42 ・スハ 43 ・オハ 46 各系列 と旅客輸送量増大にともなう大衆客車の新製増備に追われて 製をやめて標準 3 等車の増備に専念し , 戦後は戦災車の復旧 った昭和 10 年代の中ごろから , 輸送力増強のため優等車の新 生えていた . 国鉄の客車は日中戦争が泥沼化し戦時色が深ま というュメと胎動は , すでに 29 年代の後半から国鉄部内に芽 一方 , 新生日本にふさわしい豪華編成の特急を走らせよう 関係者・利用者の最大の願いであった・ 組み込まれており , 特急にふさわしい編成に ! というのが , 足 . とくに 2 等寝台車には古い戦前タイプのマロネフ 29 形が あり , 設備サービスが商品の一つである特急用としては格不 の要請にこたえるのが精一杯の一般急、行用の実用的な客車で えて , 大衆的な 3 等車は新鋭軽量客車化されたものの , 時代 ズであった . 32 年 10 月から新製のナハネ 11 形寝台車に置き換 だあまり特急らしからぬ新旧寄せ集め編成であるのが玉にキ な特色で , 異常なまでの人気をあつめていたが , 設定を急い 長距離の夜行の旅に欠かせない寝台主体の列車という画期的 た夜行特急 < あさかぜ > は , そのスピードと便利な時間帯 , 2 年前の昭和 31 年に東京ー博多間にさっそうとデビュ 用の新しい固定編成客車ーー冷暖房完備の 20 系が登場した . こうした明暗の話題が相次いだ昭和 33 年の夏 , くあさかぜ > ・従来の客車との混用を考えない / 編成内での車種・順位・ 両数はつねに一定にし途中駅での解結は考えない ( ただし 同車種のものは互換性がある ) / 編成内での各車両の向き はつねに一定とする / 列車全体の電源を最前部の荷物車に 集中する ( 各車両に発電機を設備しない ) / 窓は固定とし 全車冷暖房とする / 編成単位でメーカーに発注する 明治 5 年の鉄道創業いらい , 日本の鉄道の客車はすべて 1 両単位で考えられ使用されてきた . 欧米の鉄道でも , TEE 用客車の一部を別として , この事情はおなじである . 1 両単 位のほうが自由自在に運用でき互換性もあるので , 各線区の いろいろな列車に使うことを前提とする客車では都合がよく 予備車も少なくてすみ , 効率がよく合理的だからである . しかし特急のように , 運用が限定された特殊な列車で , し かも特別なサービスが要求される場合は , 必ずしもこの基本 にとらわれる必要はない・とくに , 新しい時代の優等列車に ふさわしい客車として , 冷暖房をはじめ近代化設備サービス を完備した電化車両とする場合 , 各客車に電源を搭載するの は設計上無理があり , 合理的ではない . 固定編成として電源 車から集中給電すれば , この問題は解決する . また , 車両を ユニットにすることや , 固定編成的な考えをとりいれること は , 当時並行して開発が進められていた新性能通勤形電車 101 系や , これを発展させた 151 系にだま形 ' 電車で実現さ れつつあった . 客車の近代化にあたっても , < あさかぜ > 用 の新型客車の設計に , こうした思想がさして抵抗もなくとり いれられたのであろう . 20 系客車の第一陣は < あさかぜ > 用として , マニ 20 ・ナロ ネ 20 ・ナロネ 21 ・ナロ 20 ・ナシ 20 ・ナハネ 20 ・ナハ 20 ・ナハ フ 20 の 8 形式が 33 年 8 月に完成した・そして 9 月 4 日 , 営業 時とおなじ 13 両編成で東京駅 4 番ホームで展示され , 多数の 見学者の眼を見張らせたのち , 十河総裁はじめ約 200 人の関 係者を乗せ , E F58 に牽引されて濃紺の車体を初秋の陽に美 しく輝かせながら , 平塚へと湘南路をひた走った・ 20 系客車が登場して 18 年 , 利用者やファンにはすっかりお なじみとなり , ご自慢の豪華設備も老化と生活様式の発達で 見劣りがし , 新しい 14 系・ 24 系客車 , さらには・ 2 段ハネ ' の 出現で < 銀河 > など急行への格下げ使用が始まっているが , 日本の客車の新しい方向を切りひらいたユニークなその構造 と設備を , あらためて振り返ってみることにしよう・ ・マニ 20 形 ( 博多寄り先頭車 ) 荷物車に , 全編成に供給するための発電装置と制御装置を搭 載した車両 . 車内は博多寄りから運転車掌室・電源室・技術 員室・荷物室・荷物車掌室と配置され , 全体の約 60 % のスペ ースを電源室が占めている・記号は荷物車であるが , 荷物室 は新聞・原稿便を収納するためのもので荷重はわすか 3 t, 、電源車 ' とよばれるように本来の使命は電源車である . 電源装置は , DD13 形ディーゼル機関車に使用のものとほ ばおなじ D M F31 S G ディーゼル・エンジン ( 340 P S ) 2