蒸気機関車への限りなき愛に生き その終焉とともに逝った S L ファンの 、蒸気機関車へ捧げる挽歌、 江坂光守遺作写真集 わか鉄のメロス くろがね 日本の全土から蒸気機関車の煙が消え去って 2 年 帰ら 定価 3 , 000 円 ざる勇姿を偲ひ憧れる想いが巷にあふれ S L 復活の声かわ ( 送料 200 円 ) き上かりつつある今一人のファンか一生を賭けてもとめ遺 〔内容〕 S L の 24 時 / 風・煙・轍 蒸気機関車への憧れをこの写真集か した、鉄のメロスヾ 会津への慕情 / 果てしなき鉄 らあなたの胸に甦えらせてください ! ! 路 / S L 終焉の日に A 4 変形判 104 ページ写真 74 点 発行所 = 株鉄道ジャーナル社 ( うちカラー 25 点 ) 収録限定版 〇本書は記念写真集として 52 年 7 月に少部数限定刊行され 書店 = 書名・発行所をつげて申し込んでください たものです絶版にならぬうち早目にお求めください ! 都内 = 天賞堂 / カッミ皞型店 / カワイモデル / 交通博物館売店 〇書店の店頭には出ていません . お求めは次の方法で ョーコーシャ / 鉄道ジャーナル社 ( 郵便申込みも受付 ) よみ州 3 道 入門記事から専門的解説まで幅広い内 容ガあなたを魅了する > 52 年 5 月号花の車両基地 530 円 53 年 1 月号鉄路のスターたち 600 円 列車追跡シリーズ⑤ 「第向日町運転所 24 時間 / 車両基地ものが 日本の鉄道①北九州 / 485 系のすべて たり / オリエント急行① / 西武 2000 系 / 特急電車の運用 / 車両と人間工学 49 年 12 月増刊号 500 円 > 52 年 6 月号列車の安全を守る 530 円 53 年 2 月号鉄路のスターたち 530 円 在庫少ー最後のチャンス く佐渡〉脱線転覆 / 運転保安システム / 東京山手環状線界隈 / チョッパ制御 / 最後の S L を追って ( 宗谷 総合指令所 / 阪急 TTC / 事故 100 年 583 系のすべて / ☆く金星〉→くしらさぎ〉 本線の C55 / 室蘭本線の C 、、 > 52 年 7 月号寝台列車のすべて 600 円 A53 年 3 月号気動車特急 530 円 57 / 日中線の C11 / 山陰本 物さくら行進曲 / 国鉄の寝台列車 / 夜行 三陸縦貫鉄道 / 特急形気動車の系譜 / 線の D 51 ) ・特急〈日本海〉 列車の現状 / 寝台車の改善 / ☆く能登 ☆くおき 2 号〉 / 函館連転所 / 都電の詩 ・広島の路面電車・地域間 、を、 > 52 年 8 月号旧型国電 A53 年 4 月号運転台への招待 600 円 530 円 急行くかんもん〉・宇部線の 予、、」身延線 ' 77 / 昭和史の旧型国電 / 形式と 房総の鉄道 / 成田空港アクセス鉄道 / ゲタ電・オホーック北上の旅 番号 / 旧国の走る路線 / ☆大糸線 連転台への招待 / 運転台と人間工学 > 52 年 9 月号東北本線と新幹線 530 円 次の各号も少しですが在庫していますお早めにどうぞ ! 仙台 24 時間 / 東北本線の現状と展望 / 当も = 十ひかりは北へ / ☆くやまびこ〉 / 伊豆急 50 年 2 月号 = 現代の鉄道車両 430 円 / 51 年 1 月号 = 新時代の鉄道 > 52 年 10 月号・急行列車再発見 600 円 ① 550 円 / 51 年 2 月号 = 新時代の鉄道② 480 円 / 51 年 3 月号 = 国 三急行ジグサグ日本縦断 ( 前 ) / 急行列車 鉄の動力近代化① 480 円 / 51 年 4 月号 = 動力近代化② 550 円 / 51 1 第日【 ~ ・ 900 本の素描 / 急行のあゆみ / ☆く津軽〉 年 5 月号 = 動力近代化③ 480 円 / 51 年 6 月号 = ローカル線 480 円 > 52 年 11 月号・急行列車再発見 530 円 / 51 年 7 月号 = くあさかせ〉 550 円 / 51 年 8 月号 = 電車のメカニズ ■ な ' 急行縦断 ( 後 ) / 急行形車両を考える / ム 480 円 / 51 年 9 月号 = 長距離ドン行 480 円 / 51 年 10 月号 = 鉄道 急行に提案 / 急行運転の技術面 のサービス 550 円 / 51 年 11 月号 = 関西の鉄道① 480 円 / 51 年 12 月 こ > 52 年 12 月号現代日本の私鉄 530 円 号 = 関西の鉄道② 480 円 / 52 年 1 月号 = 特急列車 600 円 / 51 年 2 日本の私鉄北から南から / 私鉄現況報 月号 = 特急列車 530 円 / 52 年 3 月号 = 消えゆくスター 530 円 / 52 ☆列車追跡☆名列車 . 告 / 私鉄の優等列車 / 関東 V S 関西 年 4 月号 = 鉄道のサービス ( 続 ) 600 円 BACKNUMBER は生ぎ ( い バックナンバーのお求めはお近くの書店に「鉄道ジャーナル〇年〇月号」と申し込んでください
☆ 2 種類出た 44 年 5 月の『時刻表』☆ 『国鉄監修交通公社の時刻表』は 44 年 5 月号だけ 2 種類発行され , 時刻表ファンに注目されている . この年 , 国鉄は 4 月 1 日実施の予 定で運賃値上げを申請 , 同時に 1 ・ 2 等廃止を含む制度改正を予定し 4 月中旬発売の 5 月号 ていたので , 3 月上旬に原稿を締め切った・ のピング・ページは新運賃・料金と営業案内が掲載され , 表紙にも 「運賃改訂・新営業案内掲載」と大きく刷り込まれた・ ところが国会審議は社会・公明両党の強い反対で , 政府・自民党 や国鉄の思惑どおりには進ます , 5 月号発売時期の 4 月中旬になっ ても運賃法案成立のメドがつかなかった . やむをえす , 国鉄と日本 交通公社は 5 月号の業務用・資料用部内配布にあたって , 「この時刻 表を旅客の閲覧用にそなえつける場合は , 運賃改正決定日まで , 表 紙の次の国鉄運賃料金改訂のご案内と後部にある国鉄の営業案内・ 列車編成表を旅客の目にふれないような措置 ( たとえばホッチキス でとじ込むか , または切り取るかする ) をしてから使用すること」 で特筆されるのは , 創業以来の等級制廃止・ 1 ・ 2 等の車両 設備の差以上に 1 等の運賃・料金が高すぎて利用率が悪いた め , 運賃とスビード料金はこれまでの 2 等に統合して一本化 した・しかし , これまでの 1 等車や 1 等船室 , 1 等寝台の設 備はそのまま残るため , それぞれグリーン車 ( 規則上は「特別 車両」 ) , グリーン船室 ( 同「特別船室」 ) , A 寝台 ( 従来の 2 等 寝台は B 寝台 ) と呼び変えて , 設備料金を新設している・ほば 現行どおりの規則になったわけである・ 運賃の遠距離逓減で賃率の変わる境界は 400km から 500km へと再び改められ , 最低運賃も 30 円に上がった・ ◇等級制廃止時の 1 km あたり運賃 昭和 44 年 5 月 500km まで 4 円 20 銭 501 以上 2 円 05 銭 最低運賃 30 円 2 年 9 カ月かかった 49 年値上げ 47 年 ( 1972 ) の鉄道 100 年を前に , 国鉄財政は悪化するばかり で , 46 年 12 月に政府は総合交通政策の基本方針をまとめ , 他 の交通機関と対比して国鉄を見直す姿勢をみせた・そして 47 ☆くひかり > くこだま > 同一料金に☆ 度の改定も検討する」と , 3 年周期案をうちだした・ 度・ 53 年度に , それそれ実収 15 % の改定を行なうはか , 56 年 新財政再建計画では , 運賃値上げについて「 47 年度・ 50 年 年 1 月に , 新しい財政再建計画をつくっている・ このプ 88 値上げのときから . 同一料金に改めた・完全な一律料金になったのは 50 年 11 月の料金 たために超特急の呼び名をやめ , 原則的にくひかり > くこだま > とも 車のくひかり〉が現われ , くこだま > との列車種別の差が小さくなっ ところが 47 年 3 月の岡山延長開業で , 新大阪ー岡山間は各駅停 でスタートした . 急」と呼ばれたくひかり〉と、各駅停車の特急くこだま〉の 2 本立て 新幹線特急料金は 39 年 10 月の東京ー新大阪間開業のとき , 「超特 ( 国鉄本社旅客課長名の事務連絡 ) という注意文書を添えた . 市販用のほうは , 運賃・料金関係のページを切り取ったり , 表紙を 変えたりすることは不可能なので , ひたすら時期を待つだけ . 皮肉 なことには , この年 4 月 25 日には新幹線三島駅開業にともなうダイ ヤ改正があり , ゴールデン・ウィーグに突入したため , 「 5 月号はま だか」と利用者の問い合わせが殺到した・ 日本交通公社は遅ればせながら , 表紙から「運賃改訂・新営業案 内掲載」の文字を抜き , ピンク・ページは 4 月号用と差し替えた別 の 5 月号を急造 ( 16 万部といわれる ) , 5 月初旬に店頭へ出した . 部 数が少ないのでたちまち売り切れたらしい . 運賃値上げ法案は , 5 月 9 日になってようやく成立 , 翌 10 日から 実施されたので , おグラになっていた元版の 5 月号も陽の目を見た が , 追いかけるように 6 月号が出たために大量に売れ残ったとみら れる . 弘済出版社・交通案内社も 5 月号に新運賃・料金・制度を刷り こちらは、手直し 5 月号を印刷していない・ 込んでいたが , 同じ月の時刻表が 2 種類発行されたのは , あとにも先にも , この ハプニング以外に例がない . ランにしたがって , 国鉄は , 47 年 1 月に旅客 23 % , 貨物 25 % の値上げを申請 , 4 月 1 日実施を目標とした . しかし , 新しい財政再建計画へ移行するための関係法案と 抱き合わせで審議された運賃法案は , 衆院を通過したものの 6 月 16 日 , 参院野党の強い反対で審議未了・廃案となってし まった・それまで国会などの意向で実施時期が遅れたことは あったが , 廃案で不成立という事態は初めてで , 政府・国鉄 のショックは大きかった . 廃案の原因は , 佐藤内閣末期の与 党・自民党の結束のゆるみともいわれたが , 新しい再建計画 そのものが数字合わせに終わり , 本当に 10 年間 4 回の値上げ などで国鉄が建て直せるものかどうか , ハッキリした見通し がなかったことにもよろう・ このあと国鉄は , 翌 48 年 1 月 5 日にもう一度 , 同じ値上げ 案を申請 ( 4 月 1 日実施目標 ) し , ようやく同年 9 月 , 実施日 を「 49 年 3 月 31 日」と修正のうえ可決された・しかし , 石油シ ョックによる政府の総需要抑制・物価鎮静政策によって , 実 施時期はさらに半年繰り延べの 49 年 10 月 1 日となっている・ 国鉄運賃が最も政治にふり回された時期で , 47 年 1 月の申 請から可決まで , 廃案・再申請を含めて 1 年 8 カ月 , 実施ま でには 2 年 9 カ月もかかっている・したがって運賃は 5 年 4 カ月にわたって据え置かれた結果になった・値上げの内容も 一度廃案になり , 大きく時期がずれているのに , 政府助成の 強化をアテにしたとはいうものの , 同じ案を再提出したのは 見識がなさすぎる・遠距離逓減の賃率変更の境界はまた , 500 km から 600km に移ったが , 病める国鉄にとっては , さして効 果がなく , 51 年 11 月の 5 割値上げの遠因となった・ ◇難産の末に改定の 1 km あたり運賃 最低連賃 601km 以上 600 まで * 30 円 昭和 49 年 10 月 5 円 10 銭 2 円 50 銭 * 正式な最低連賃は 5 細まで 40 円たが . 1 ~ 3 を 30 円に特定 なお , この 49 年改定のときにグリーン料金制度も改められ , 従来は普通乗車券とほば同じ料金計算方法で , 1 枚のグリー
国鉄運賃の変遷と決まりかオ 【下】財政再建の道と法定制緩和 種村直樹 レイルウェイ・ライター 昨 52 年 12 月 9 日の臨時国会で , 国有鉄道運賃法が一部改正さ れ , 公共企業体としてスタートする前年の昭和 23 年 ( 1948 ) 以 来 30 年間 , 国会の審議を義務づけられていた国鉄の運賃改定 が , 一定の条件のもとに国鉄の判断と運輸大臣の認可で実施 できることになった . きわめて大きな変化である・こうした 流れのなかで , 本誌 1 月号では創業期から第 2 次大戦まで , 3 月号で財政悪化へ傾斜する公共企業体前半の歩みをみた・ 激動した最近 10 年間をふりかえって , しめくくろう . 特急大増発の陰で赤字へ転落 国鉄は新幹線・東京ー新大阪間開業の 39 年度 , 300 億円の赤 字決算となり , 前年度からの繰越し利益 ( 1 , 595 億円 ) を食い つぶしてしのいでいる・一方では , 輸送力増強の必要にせま られ , 40 年度から大都市の通勤輸送改善・主要幹線増強・保 安対策強化を柱とする第 3 次長期計画をたて , 3 兆円の設備 投資をきめた . 第 3 次長期計画について , 政府の設けた国鉄基本問題懇談 会は , 39 年 11 月に内閣へ意見書を提出 , この投資の必要を認 め , 国鉄の 6 年案を 7 年に修正するとともに , 財源措置のひ とっとして 26 % の運賃値上げ ( 国鉄案は 32 % ) を必要とした・ 政府は第 3 次長期計画の推進を了承したが , 年末の経済閣僚 懇談会で物価の動きを考慮し , 40 年中は運賃値上げを行なわ ないことにした・佐藤内閣の公共料金 1 年間凍結である・ 全国で線増工事などを始めた国鉄は , 1 年後に改訂遅れに よる資金減少ぶんをプラスして旅客 37 % ・貨物 15 % , 平均 30 % の値上げを申請したが , 運輸審議会の答申などによって上 げ幅は削られ , 結局 , 41 年 3 月 5 日から , 旅客 31 ・ 2 % ・貨物 12.3 % , 平均 25 % アップを 5 年ぶりに実施した . この値上げ では , 国鉄基本問題懇談会の「現行の制度を利用者の運賃負 ☆学生割引は安すぎた ? ☆ 第 2 次大戦後の学生割引は , 運賃値上げが繰り返されたため , 負 担が重くならないようにと , 23 年 8 月に 20 % から 50 % に改め , 半 額サービスをした . ところが異常に割引きすぎるという学識経験 者らの意見で , 34 年 10 月から , 101 以上の部分だけ 50 % 引きに 修正した . 41 年 3 月の値上げのさいには , 現行どおりの 20 % 引きに引き下 げられ , そのかわり , 往復割引とのダブル適用を認めた . 同年 7 月からは , 勤労青少年の帰省割引が学割なみに設けられた . 担の公平をはかる見地から , 距離比例制に近づける方向で検 ◇第 3 次長期計画時代の 2 等 1 km あたり運賃 円となっている . 引き上げた . 約 10 年間にわたって 10 円だった最低運賃は , 20 遠距離逓減ながら , 賃率の下がる境目を 300km から 400km に 討すべきである」との意見に基づき , 従来どおり 2 地帯制の 昭和 41 年 3 月 400 畑まで 3 円 65 銭 401 以上 1 円 80 銭 最低運賃 20 円 * 1 等は 2 等の 1.666 倍に通行税 10 % を加算する な時期においてこれを行なうことができるよう措置する」と 有鉄道法の特例的措置として運輸大臣の認可事項とし , 適切 騰貴等のやむをえない要因に基づく運賃改訂については , 国 進会議で審議した意見書の主旨にそったものだが , 「・・・物価 ることにした・前年春から政府の諮問機関である国鉄財政推 旅客関係 16 % の運賃・料金値上げを含む大制度改正を実施す 政府と国鉄は , 財政再建計画初年度の 44 年 4 月 1 日から , 経営努力・運賃改定の 3 本柱が必要」という訴えに変わる・ 国鉄財政を建て直すには , 「国の助成 ( 資金の投入 ) ・国鉄の に移行すると , このうたい文句も聞かれなくなった・そして し , 44 年度から第 3 次長期計画が打ち切られ , 財政再建計画 協力を」という形で説明されたが , 国鉄収支の悪化が深刻化 を緩和し , 長距離列車の増発とスビードアップするため , これまでの運賃値上げは , 利用者に対して「ラッシュの混雑 財政再建と等級制廃止 通勤定期 2 等 37 ・ 2 % , 1 等 33 ・ 2 % の値上げになっている・ 切り , 割引率を引き下げた . その結果 , 通学定期は 40 ・ 9 % , 月 1 日に大幅に割引いていた定期運賃の公共負担是正に踏み と人件費・借入れ金の利子増大に見舞われた国鉄は , 43 年 4 和 43 年 10 月一一 1968 年 ) ダイヤ改正を前に , 収入の伸び悩み 特急大増発で見かけは華やかだったヨン・サン・トオ ( 昭 る累積赤字の始まりである・ イナスを 42 年度に持ち越した・以後 , 雪ダルマ式にふえ続け なり , 最後の繰込し利益 65 億円も消え , 初めて 536 億円のマ の予想はどに収入は伸びず , 引き続いて 601 億円もの赤字と が 1 , 230 億円の赤字だったのはともかく , 翌 41 年度も関係者 値上げぶんの影響が 1 カ月たらずしかない 40 年度の国鉄決算 は 1 カ月あまりずれ込んで 5 月 10 日となっている・制度改正 この 44 年値上げは国会審議で野党の反対が強く , 実施時期 の運賃法定制緩和の提言は生かされなかった・
樋口一波久礼間を走る熊谷ゆき電車 1532 レ S51 ー 1 私鉄・軌道は 370 余社あったが , 10 % 以上配当した鉄・軌道 は 50 社に満たなかった . 本社を熊谷に移して秩父入りの態勢をととのえた・大正 3 年 線路はようやく秩父まで開通 , 熊谷から 44 ・ lkm , 開業から 12 年目であった・ ・大正期以後大正 5 年 ( 1916 ) 3 月 , 会社商号を上武鉄道か がげもり ら現在の秩父鉄道に改称した・この年の 9 月 , 秩父ー影森間 と武甲貨物専用線 ( 1 ・ 4km ) が開通した・ 当時 ( 大正 7 年 ) の秩父鉄道は蒸気機関車 5 両 , 客車 20 両 , 貨車 45 両を所有 , 山深い荒川沿岸地域の門戸を開いた地方私 鉄にすぎなかった・ 大正 11 年 ( 1922 ) , 秩父鉄道は一地方鉄道として性格を変え た・本線全区間 ( 熊谷ー影森間 ) の電化完成である・都市近郊 の旅客輸送を目的として計画された電鉄は別として , 地方の 私鉄が電化に踏み切ったことは , 先を見越した大改革であっ た . その導火線となったのは武甲山の石灰である・ 大正 12 年 , 秩父セメント株式会社が設立され , 秩父工場が 操業を開始した . 第 1 次世界大戦の好況のなかで生産規模や 事業は拡大され , 原石 , 製品 , 資材の輸送は秩父鉄道にかか 現在の事業規模 ってきた . 電化もそれを見越して , 牽引力の貧弱な蒸気から 電気機関車にかえたのである・ ■事業の拡充わが国経済の成長とともに事業内容も充実し 秩父セメントは秩父鉄道の大株主であり , 切っても切れな て , 現在は資本金 5 億円になった・鉄道のほか自動車輸送 , い連繋がある・それ以来 , 秩父鉄道を支えている柱は石灰と 索道・観光・不動産などが関連副業で , その事業収入は会社 セメントなのである・経済や産業界の好不況の波に洗われな 総収入の約 27 % にあたる・ がらも秩父セメントは資本金と生産設備の拡充をしてきた . ノくス営業路線は , 主として熊谷駅を中心に 98 ・ 7 の営業路 セメント会社の事業が拡大するにしたがって関連貨物の輸送 線と貸切であり , 旅客索道は三峰ロー大輪間 1 , 898 m で , 年 量も増加した・ 間 76 万人前後を輸送している . はにゆう 電化開通と同年 , 北武鉄道会社が羽生ー熊谷間 14 ・ 9 を竣 ■鉄道運輸成績昭和 51 年度 , 鉄道は 1 , 583 万人の乗客を運 工 , 同時に秩父鉄道はこの鉄道を合併した・昭和 2 年には資 んだ・このうち 70 % ちかくが定期客である・定期外一般乗客 みつみねぐち 本金は 1 , 200 万円になり , 熊谷一三峰ロ間 56 ・ 8 が全通 , 営 は昭和 44 年 ( 1969 ) の西武鉄道池袋線の秩父乗入れにも目立っ 業線路は本支線あわせ 73 ・ 1 になった・ ほどの影響をうけなかったが , この数年 , 不況の余波で漸減 の傾向を示している・かって 600 万人から 580 万人台を維持 秩父鉄道を支えてきたものは , 理蔵量 20 億 t と推定される 武甲山の石灰石と , 深い山に囲まれた荒川流域・秩父地方コ してきた一般乗客数は 480 万人台に落ちこんだ・ ミュニティの発展である・それは , 鉄道の到来から両者の相 今後 , 景気の回復にしたがって観光客を含む一般乗客をど 互依存関係によって進展したものである・ れだけ取りもどすことができるか , 旅客運輸にとってひとっ 電化以後 5 年目 , 昭和 2 年の営業収入はおよそ旅客 64 万円 , の課題である・ 貨物も 64 万円で客貨収入はほば均衡をたもち , 雑収を含む営 同年度の貨物輸送は 735 万 5 千 t である . わずか 3 年前の 886 業総収入は 142 万円であった・営業費は 69 万円であり , 差引 万 t よりは約 150 万 t 落ちこんでいるが , 50 年度よりわずか 利益 73 万円で , 配当は上下期とも 11 % である・同年 , 全国の ではあるが 20 万 t 余り上昇している . 三輪鉱山を発車する 1 , 000t 石灰列車 ( 秩父セメント ) 伊勢崎線、洩草へ 市 ( ( 八 3 从汽一 羽生 へ 高崎、 ` 秩父セメント 高崎へ 籠原武能 専用線 国鉄八高線 ) 大宮へ 東武鉄道東上線 谷 秩八王子へ、、池袋へ 秩父鉄道の 路線略図 秩父 影森 / 西武秩父 西武鉄道秩父線 △武甲山、池袋へ 三峰ロ
I C 列車を利用する人は , 1 年間で約 400 万人 , 日本の新幹 線の 1 / 30 である・したがって , I C 列車の編成はふつう食堂 車を含めて 5 両程度 , くラインプファイル〉のように堂々とし た列車もあるが , なかには 3 両編成という淋しい列車もある・ 混雑することはあまりないらしく , だいたいすいている . 昨 年の 7 月 , ET403 形電車の IC くへルメス〉に乗るため前日 にミュンヘンの駅で座席の予約をしようとしたが , 窓口の掛 員は「その必要はない . 空席だらけだ」の一点ばりで , どう しても指定券を売ってくれなかった・乗ってみると , なるほ ど , 4 両編成でも車内はガラガラ , 途中 , ニュルンベルグか らややふえたが , それでも座席の 70 % ぐらいの乗車率だった ドイツ国鉄の若い女性駅員 ( ブツツガルテンで ) ドイツ自慢の I C 列車は大繁昌とはいいかねるよう ろうか . である・ドイツ連邦鉄道は , なるべく IC 列車に乗ってもら たが , いまだに世界のスピード記録である・ うために団体割引を始めたり , 一部の I C 列車に 2 等車を連 この車両は故障が多く , とても実用にならなかっ しかし , 結したり , いろいろ苦心している・今のところ 2 等車を連結 た・その後 , ドイツ国鉄はフリーゲンダー・ハンプルガ しているのはプレーメン ~ ミュンヘン間だけで , 特急料金は 号をはじめ , 前述したように数種類の高速ディーゼル動車を 5 マルクである . クルッケンベルク技師は 1938 年にふたたび 3 登場させたが , 両編成の高速ディーゼル動車ー VT137.155 号を試作した . ☆スピードへの挑戦☆ の・グルッケンベルク動車 ' はふつうの液体式動力伝達装置を ドイツの鉄道は高速運転についても輝かしい歴史を持ってい 持っ流線形ディーゼル動車で , 試運転中に 212km / h の速度を る . 1903 年 , ベルリンの南ーマリエンフェルデ ~ ツォッセン 出したが , やはり故障が多く , まもなく第 2 次大戦が始まっ 間の高速試験で , シーメンス社製の 3 相交流電車は実に 210 たため , ほとんど活躍しないうちに廃車になってしまった・ km/h の速度を記録した・鉄道車両が 200 km/h 以上の速度 これより先 , 1936 年 5 月 11 日に 05 ・ 002 号蒸気機関車が 200 に達したのは , これが初めてである・ km/h の速度を出した・蒸気機関車のスビード記録としては 1930 年 , ドイツ人技師クルッケンベルグは , 変わった高速 イギリスの A 4 形パシフィッグ機・マラード ' 号の持つ 202 ディーゼル動車を試作した・この・鉄道ツェッペリゾ号と呼 km/h に次ぐものであり , 蒸気機関車で 200km / h 以上の速度 ばれるディーゼル動車は 550 馬力の機関を持ち , 車体の後部 を出したのは , この 2 両だけである・ にあるプロペラを回して走る . 1931 年 6 月 21 日 , ハンプルグ ドイツは第 2 次大戦に敗れたためスビードへの挑戦は一頓 ~ ベルリン間の試運転で 230km / h の速度を記録した・このレ 挫し , その間にフランスは 331km / h の速度記録をつくり , 完 コードは , 1954 年にフランス国鉄の C C7121 号電気機関車が 全に水をあけられた・それに負けているようではドイツ魂が 243km / h の速度を出すまで鉄道のスヒ。ード記録だったし , 内 すたる . 1965 年 , ミュンヘンで交通博覧会 (IVA) が開か 燃動車としては 1973 年にイギリスの HST がタイ記録を出し れた . 1923 年と 1953 年に続いて 3 回目のミュンヘンの博覧会 * 3 ) 阯日いル EN 1 を DSG 社の寝台車 107
国鉄運賃決定の図式 運輸審議会 諮問③答申 ②申請運 : 国 大 : 運賃法改正案提出会 : ④認可臣 2 , 550 億円に見込んでいる・ 国鉄は法の改正が施行されたのち , 運輸大臣に値上げを申 請することになるので , 改定目標は 6 月が有力・ 6 月実施で 2 , 550 億円を生み出すためには , 逆算して 14 % アップが必要 とされる . 大臣の認可権の上限は , 52 年度に値上げがないた め , 51 ・ 52 年度 2 年ぶんの経費増加額の合計 6 , 000 億円とい う解釈が新聞に報じられており , そのためには 26 % アップし 意見を聞く① てもよい計算になる . しかし , とうていそれほどの値上げは ムリで , 強行してもまたまた利用者が減りそうとの政府・国 運賃問題懇談会・新設 鉄の判断によって , 6 月実施 14 % で 2 , 550 億円の増収目標に 落ち着いたようだ・ 可で値上げ実施という段取りだ . ( 図参照 ) 値上げ申請案づくりを急ぐ国鉄は , 運賃・料金値上げの大 運輸審議会はこれまでえてして運賃値上げを原案どおり認 みの ワクが政府の予算案でほとんどきまったも同然ながら , 高木 める傾向にあったため , 、政府の隠れ蓑洋などとカゲ口をたた 総裁の私的な諮問機関として運賃問題懇談会を設け , 53 年 2 かれてきた . 従来は運輸大臣が答申を受けたのちに国会で審 月 17 日に初会合を開いた・学識経験者や団体代表など 20 人が 議されていたのが , 審議会の意向ひとつで値上げ案が左右さ 委員を引き受け , 太田薫合化労連委員長などの顔も見える・ れることもあるだけに活発な論議が行なわれるかもしれない・ 国鉄案に世論の動向を盛り込むためにメンパーの意見を聞く いずれにしても運賃法定制緩和後初のケースなので , 今後 との本旨だけれど , 値上げが前提だけにむずかしい集いにな の動きは目をはなせない・また国鉄は , 今回は大きな制度上 の変化を避ける模様だが , 59 年度以降はローカル線の特別運 りそう . 国鉄が運賃問題懇談会の意向を参考に値上げ案をまとめ , 賃なども盛り込むとみられ , 年ごとに国鉄運賃料金は姿を変 4 月以降に運輸大臣に申請すると , 大臣は従来どおり運輸審 えてゆきそうだ・ 議会に国鉄案を諮問する . 運輸審議会の中にも国鉄運賃問題 の専門調査員がおかれる予定で , , こでも利用者や学識経験 者の意見を聞いて審議のうえ運輸大臣へ意見を答申 , 大臣認 ′フ ( 昭 24 年 ~ 53 年 ) 新公 39 第新学 幹共年 3 幹割 線料度次線の 開金国長ス割 業 1 鉄期ヒ。引 年決計一率 東間算画ドを 京凍でスア引 ー結赤タッ下 新字ープげ 大 ト 阪リ以東月 3 後年京 5 こ度新日 4 3 1 時 分 1 国鉄 国会審議は不要 つど ( 完 ) す 料 第 、ら 特 て 期 し 業 ひ 毎年値上げ始まる ? キ 6 上 〔体降 4 度目の再建計画 ( 年度まで ) 以運賃法定制緩和きまる ( 肥月 7 日 ) 号止 グリーン・ < 寝台料金値下げ ( 9 月日 ) 1 公 再建計画修正 ( 年度までに ) 年と 「一枚のキップから」スタート ( 1 月 ) 誌制 大幅値上げで″国鉄離れ久月 6 日 ) 本法金 は賃料 ' 一連急 、鉄特 3 度目の再建計画 ( 年度までに収支均衡 ) 国 大臣認可の料金だけ・アップ ( 月日 ) か " 運賃 2 倍論。の国鉄大広告 ( 6 月 ) 中 新幹線博多開業 ( 3 月川日 ) 遷物金 変月 料申請から 2 年 9 カ月かかった難産値上げ ( 川月 1 日 ) の 3 行 賃同 急政府の物価政策で 3 月値上げ延期 で で 国 新財政再建川年計画へ移行 ( 9 月年度から ) ま 日 戦 月 CJ 次 鉄道 t00 年記念日 ( 川月凵日 ) 年値上げ関係法案が参院で廃案に ( 6 月日 ) 新幹線岡山開業〈ひかり >< こだま〉同一料金 ( 3 月日 ) 「ディスカハ 財政再建川年計画スタート ( 2 月料年度から ) 等級制廃止グリーン料金など新設 ( 5 月川日 ) ョン・サン・トオのダイヤ大改正特急大増発準急料金廃止 ( 川月 1 日 ) 定期だけ値上げ ( 割引率を引下げ ) ( 4 月 1 日 ) 国鉄年度決算から累績赤字へ 東京・大阪でエック発売 ( 2 月 ) ・ . ジャパン」キャン。ヘー 10 , 000 9 , 000 8 , 000 7 , 000 6 , 000 5 , 000 4 , 000 3 , 000 2 , 000 1 , 000 年 ン ミニ周遊券発売 ( 川月 ) 4 , 000 2 , 700 2 , 200 1 , 900 1 , 600 1 , 300 2 , 810 2 , 230 1 , 730 ( 】 976 ) ( 1967 ) ( 1978 ) ( 1977 ) ( 80 円の特定 ) : ( 1975 ) 30 ( 40 円の特定 ) ( 1974 ) ( 】 97 い ( 197 ( ) ) ( 1969 ) ( 1968 ) ( 1966 ) 48 ( 1973 ) ( 1972 ) 勹 965 ) 39 ) 64 ) 60 円 20 50 100
. 0000000.0 ・ 0 を 0 : 0 ! : 「「 ! ・第一一・一を・一一第 ン券によって , 列車の乗継ぎが自由にできたのを設備利用料 金の性格をハッキリさせ , 列車ごとの打切り計算に変え , 子 供の半額扱いも廃止された・ 5 割値上げで、国鉄離れ 難産値上げの翌 50 年早々から , 国鉄はいわゆる、運賃 2 倍論、 を展開 , 全国紙に 3 日連続の大広告 ( 6 月 ) を掲載し , 国鉄運 賃・料金が他の物価に比較して安すぎると訴えた・そして 11 月 20 日には , 国会の審議で必要としない特急・急行・寝台・ 昭和 33 年に連転を開始したくあさかぜ〉カメラ・編集部 グリーンなど料金関係だけの 32 ・ 1 % 値上げを運輸大臣認可で 実施した・財政上の危機打開のための緊急措置と説明された その弾力化を図ることとし , 第 80 回国会に所要の法律案を提 が , 苦肉の策といえる・ 出する」と , 初めて運賃法定制緩和を具体的に明らかにした . この年 12 月 31 日になると , 政府は三たび財政再建計画を改 52 年 2 月 8 日 , 運賃法定制緩和と国鉄の投資できる事業の め , 国鉄再建対策要綱 ( 閣議了解 ) によって , 51 ・ 52 年度の 2 範囲を拡大する関係法案が国会に提出された・ 6 月 9 日に 年間に収支均衡をはかるという、短期決戦をうちだした・ れらの法案は衆院で継続審議となり , 臨時国会にもちこされ の方針を受けて国鉄は , 51 年 1 月 , 旅客 50 ・ 4 % , 貨物 53 ・ 9 % ている . の大幅値上げを 6 月 1 日から実施したいと申請した・実収 37 この間 , 国鉄は大幅値上げ後 , ひときわ空席のめだっ特急 % の増収を見込んだ 5 割値上げ案である・ひき続いて 52 年度 ・急行用グリーン料金 , A 寝台料金 , 青函連絡船自由席グリ にも連続値上げが計画されていた・ ーン船室料金を , 9 月 20 日から平均 30 % 値下げし , ほば 50 年 この大幅値上げ率には , 従来の国会での野党の抵抗という 11 月の料金アップ時の水準に戻すという異例の措置をとった・ パターン以前に , 自民党が難色を示した・運輸審議会は 2 月 高木総裁の裁断といわれ , 当時の田村運輸相も値下げに熱心 初め , 国鉄労使の協議と総合的な運賃体系見直しを条件に , だったので簡単に認可されている・ 国鉄の申請どおり認めると運輸相に答申したのだが , 自民党 運賃法定制緩和が実現 は「国鉄合理化のきびしさがたりない」と国鉄を締めつけた・ 多分に労組側を牽制する意図が強かった感じだが , 2 月 14 日 国鉄運賃は , 23 年 ( 1948 ) 7 月に国有鉄道運賃法 ( 本誌 3 月号 になってやっと自民党が値上げ案を了承し , 国会へ提出され 102 ~ 103 第 ) が制定されて以来 , 国会の審議にゆだねられて た直後に藤井松太郎国鉄総裁が辞任した・総裁の首をかけて きたが , その結果 , 政治が強く影を落とし , しばしば与野党 5 割値上げを国会へ押し込んだようなもので , 表向きは健康 間の攻防のために運賃改定の時期を失してきたことは , これ 上の理由だが , 政治の圧力がとりざたされた . までの経過から明らかである・国鉄財政が極度に悪化した一 3 月には 8 代目国鉄総裁に高木文夫氏が就任 , 前総裁おき 因には , 適切な改定の遅れもあげられよう・ みやげの法案審議の答弁に立ったが , 5 月 24 日に国会は閉幕 , 国会へ提出された法定制緩和の内容は , 政府の原案による 衆院で継続審議ときまり , 6 月値上げは見送られている・ と累積赤字が解消されるまでのあいだは , ①前年度の決算 の関係法案が成立して , 原案どおりの値上げが実施されたの が赤字だったときは物価の変動率プラス 15 % ②前年度の決 は , 51 年 11 月 6 日から・ 算が黒字だったときは物価の変動率プラス 5 % の範囲で , 国 会の審議をへずに運輸大臣が基本賃率を改定できるようにし ◇ 5 割値上げの 1 km あたり運賃 ( 現行 ) 最低運賃 600 畑まで 601 師以上 ようというものだった・ 昭和 51 年 11 月 7 円 90 銭 3 円 90 銭 * 60 円 1 ~ 3 畑 60 円 4 ~ 5 70 円に特定 * 正式な最低連賃は 10 まで 80 円だが これに対して 52 年 10 月 28 日 , 臨時国会の衆院運輸委員会は 敗戦後のインフレ時期以来の大幅値上げはつい 1 年半前のこ 自民・民社・新自ク 3 党の共同提案で , 運賃・料金の改定限 とだし , 長距離客が目に見えて減り , 、国鉄離れ、などという 度は値上げ率ではなく , 「改定後の増取見込み額を物価などの 新造語が現われたのはご承知のとおりだ・政府も値上げ時期 変動にともなう経費の増加の見込み額内におさえる」よう修 の遅れと実施後の影響の大きさを深刻に受けとめ , 51 ・ 52 年 正のうえ可決された・しかし , 同時に運賃法改正の施行日は 度 2 年間で収支均衡をうたった 50 年末の再建対策要項を修正 政府原案が「公布の日」だったのを「 53 年 3 月 31 日」と改めたの し , 52 年 1 月 20 日 , 「国鉄の再建対策について」 ( 閣議了解 ) を で , 事実上 , 52 年度中の値上げは行なわれないことになった 示した・ わけである・ このなかで収支パランスをとる目標を「おおむね昭和 54 年 このとき , 運輸委員会での審議をまとめたものとして , 「国 ( 197 の」と 2 年間繰り下げるとともに , 「国鉄運賃の決定方 鉄再建の基本方向」が示されたが , 運賃改定の範囲が経費増 式については , 現下の国鉄の財政状況にかんがみ , 暫定的に 加ぶんまでとなったことによって , 取支のアンパランス解消 89 1
宇野線は , 昭和 36 年に電化 , 電車特急く富士〉くうすしお〉や 間 , 広島一今治・松山間航路の利用者がふえた . しかし , 電車急行く鷲羽〉が走ることになったが , 新幹線岡山開業と 宇高航路も多客期には、、積残し、、もでるくらいなので , 本四 ともに夜行く鷲羽〉を残して全廃され , かわって岡山一宇野 連絡橋 ( 児島一坂出間 ) の完成まで , 宇野線・宇高航路の重 間の快速電車が整備された . また , 東京ー宇野間の夜行急 要性はゆるがない . 行く瀬戸〉もこのとき寝台特急に格上げされている . 岡山一 津山線では鳥取方面へ急行く砂丘 > が 3 往復運転されてい 宇野間の快速は現在 13 往復で , 新幹線の東京ー岡山間列車 るが普通列車が主体で , 吉備線は普通列車だけの運転 . ま に接続している . この宇野線快速は大阪の宮原電車区所属 た , 津山線列車は岡山着が下りである . の 113 系で運用されており , グリーン車つきの 11 両編成 , 岡山周辺の通勤・通学輸送は , 他の地方都市と同様に混 冷房車である . 雑がひどくなっている . 吉備・津山・赤穂の 3 線でも朝夕 宇高航路のほうは , 近年の内海航路の発達やフェリーポ の乗車効率は高く , 山陽本線や宇野・伯備の各線から集中 ートの定着により苦戦している . また , 新幹線の博多延長 する旅客も含め , 岡山市へ国鉄利用により通勤・通学して により , 今治・松山方面へは国鉄仁堀航路や , 三原ー今治 いる人は約 2 万人と推定されている . ( 昭和 45 年 ) また , ラ 貨陰 ッシュ時には , 電化されていない伯備・津山・吉備の各線 物陽 列連 で客車列車が運転されている . 吉備線の 722 列車と 751 D 車絡 もの は総社ー岡山一法界院間の通学列車であるが , 支線から支 多幹 線へまたがって運転される珍しい列車である . と 瀬戸内海工業地帯の一画 音伯 付備 岡山県には岡南 , 水島の 2 つの臨海工業地帯があるが , さ では らに西部に備後工業整備特別地域をもっている . これは広 国鉄駅での接続で満足した下津井軽便鉄道や , 旭川に架橋でき す岡山市街に達しなかった西大寺軌道 , 三蟠軽便鉄道のように その立地条件は決してよいものではなかった . 後年バスか発達 して , 岡山や倉敷の都心部と周辺の町村を直結するようになる これらの軽便鉄道はバスとの競争に堪えることができす , と , 廃止に追い込まれていった . 最も早く廃止されたのは三蟠鉄道 で , 昭和 6 年にその運転をやめているし , 西大寺鉄道は昭和 37 年に全線を廃止 , 下津井鉄道も昭和 24 年に電化して社名も下津 井電鉄と改めたものの , 47 年に並行道路を欠く児島一下津井間 を残して廃止されてしまっている . ただ , 晩年の西大寺鉄道を 経営していた両備バスと , 下津井電鉄は今や岡山県南地区に稠 密なバス路線網をもつバス企業として活動している . S 単 35 車 時 の カ岡 メ山 ラ電 ・気 青軌 木道 栄の た思 S 出 35 の 西 寺 カ鉄 メ道 フ ・荷 青物 木も 第、・読耐に : 栄積 こつなん 便鉄道を創立し , 大正 2 年 ~ 3 年に茶屋町一下津井間を開業し た . 下津生一丸亀間の連絡髜ん路も開いて , 下津井ルートの維 持をはかったが , 軌間 762mm の軽便鉄道 , しかも国鉄との接続 駅か宇野線の茶屋町という中途半端な地点では , 頽勢をいかん ともできなかった . ※高松桟橋駅は現在の高松駅であり , 旧・高松駅はこれより約 200E 東方にあり , 讃岐鉄 昭和 35 年 8 月 20 日火災で焼失し , 廃駅となった . 北歐風 道のターミナルであった . の駅舎は鉄道記念物指定を上申中であった . ・軽便鉄道プームのなかで この法律の意 明治 43 年 ( 19K ) ) 8 月 , 軽便鉄道法が施行された . 義は従来 , 鉄道の恩恵に浴していなかった地域にも鉄道網を拡 大するため , 民間資本の蓄積の乏しい地方でも鉄道建設を可能 にする環境づくりにあった . 例えは、 , 軌間 , レール重量 , 車両 の断面 , 線路の建設規準などにおいて , 従来の鉄道よりも規格 を落とした鉄道 , すなわち軽便鉄道の建設を認め , 建設費を少 補助金を交付して経営の安定化をはかった . なくするとともに このため軽便鉄道の建設計画が全国のいたるところで立てられ , 大正初期にかけて軽便鉄道プー・一ムともいうべき現象か続いた 岡山付近の地域は , とくに多くの軽便鉄道計画か集中的に現 われたところである . これらは地主層や在地商人たちの零細な 資本を集めて計画されたもので , その大部分は軌間 762mm の蒸 気軽鉄道であった . 明治 43 年 ~ 大 . 正 4 年の間に免許されたも のを示すと別図のようになる . このうち , 西大をから倉敷まで の地区で開業にこぎつけた鉄道 ( 開業時の名称で示す ) はわすか 4 線で , 次のようなものがあった 西大寺町一後楽園明 44 ~ 大 4 年開業 西大寺軌道 下津井軽便鉄道茶屋町一下津井 大 2 ~ 3 年開業 三蟠軽便鉄道国清寺一三蟠 大 4 年開茎 中国鉄道稲荷支線稲荷ー稲荷山 明 44 年開業 このうち , 西大軌道は当初 , 軌道として特許され , のちに軽 便鉄道に指定されたものであり , 軌間も 914mm を採用していた が , 他の 3 線は軽便鉄道として免許された 762mm 軌間の鉄道で あった この種の鉄道は輸送力も小さく , また資金的な制約から岡山 や倉敷のような中心都市と直接に接続できなかった . 最寄リの 1 = 築 建 -- 畿畿第計 岡山・吉備路の
く瀬戸内海の島々をながめて一時問の船旅はいかが・ も特 側急 尸 寝の 編 夜成 のは 出宇 番野 待着 つ後 ら野 出線 張の し主 て役 た快 3 車 成阪 島県福山市にまたがる地域で , 広島県側には日本鋼管など に敷設されたのが , 岡山臨港鉄道 , 水島臨海鉄道である . 大企業が誘致され活況であるが , 岡山県側はまだこれから 岡山臨港鉄道は昭和 26 年 ( 1951 ) 開業した , 宇野線大元から 岡山港まで , 8. lkm の短い路線である . 近年 , 鉄道輸送か といったところ . 岡南・水島の臨海工業地帯の原料 , 製品を運搬するため らトラック輸送への転換がすすみ , 貨物輸送量はヘってき なお , 明治 45 年 5 月には岡山市内の路面電車である岡山電気 岡山地方の軽便鉄道計画 軌道が開業し , 市街の西はすれに位置する岡山駅から都心部を へて , 旭川西岸まで路線を伸は、した 中国山地を越えて山陽と山陰地方を結ぶ鉄道の構想はすでに明 治 25 年 ( 1 2 ) の鉄道敷設法予定線にみられるが , 岡山付近から はいるものとしては , 岡山一津山一米子・境線 , 倉敷 ( または玉 島 ) ー境線の 2 本のうちのどちらかを建設するものと定められ ていた . しかし , 岡山一津山間が中国鉄道の手で開業したはか は , 明治期にはその建設がまったく進展しなかった . 明治 42 年以降 , 高梁川や日野川流域の住民は連年 , 帝国議会 に鉄道建設の請願をくりかえした . 鉄道院は大正 5 年になって , ・臨海鉄道のさきがけ とりあえす米子から日野川の谷をさかのは、るルートを軽使線と 第 2 次大戦ころまで , 岡山周辺地区の工業は製糸 , 紡績 , 縫製 して建設することとし , 根雨線の名称で着工した . しかし , 大 などを中心とする軽工業で占められていた . しかし , 大戦末期 正 7 年に鉄道敷設法か改正され , 岡山一米子間の鉄道建設か決 になると , 旭川の川口西岸十拓地に汽車製造 , 三井造船 , 立川 定された . 建設中の根雨線はその一部に該当するところとなり , 航空機 , 倉敷航空化工の 4 社が , 高梁川川口東岸の廃川敷に 新たに伯備線の名称で工事が続けられた . 菱重工業水島航空機製作所か進出してきた . いすれも軍需工場 そこで伯備線は山陰本線 1 則の建設が先行し , 大正 8 年 8 月に で , 戦時中の工場分散政策の一環として立地したものであった . 伯備北線の名称でます伯耆大山一伯耆溝ロ間が開業し , 逐次 , ーれらの工場は本格的な生産態勢にはいる前に終戦を迎 南へ向けて線路を延長していった . 山陽本線倉敷駅を起点とす え , 大部分は閉鎖されてしまった . る伯備南線の最初の開業は大正 14 年 2 月で , これも少しすっ路 岡山県ではこれらの工場用地を利用して , 大規模な重化学工 線を高梁川ぞいに北上させた . 両線が結ばれ , 伯備線が全通す 業の誘致を計画し , その一環として , すでに建設されていた専 るのは昭和 3 年 ( 19 ) 1 ( ) 月である . 用鉄道の機能の強化を図った . 岡南工業地域 ( 旭川川口 ) の岡山 中国鉄道はその後も私鉄として , 岡山一津山間の営業を続け 臨港鉄道 ( 大元ー岡山港 ) , 水島エ業地域 ( 高梁川川口 ) の倉敷市 たが , 昭和 7 年に因美線が全通して , これとあわせて岡山一鳥 営鉄道 ( 倉敷ー水島 ) の 2 鉄道がそれで , 積極的に県や市の公共 取間か結ばれた . また , 昭和 5 年には津山一新見間 , 1 ( ) 年には 資本を導入することによって整備された . これは政府の投資こ 津山 - 姫路間がそれぞれ全通して , 中国山地の縦断鉄道が完成 そないが , その後に全国的に普及する臨海鉄道方式のさきがけ このように路線網が形成されてゆくなかで , 中国鉄道の と考えることもできよう . 陰陽連絡鉄道としての重要性は高まり , 第 2 次大戦中の 19 年 6 岡南工業地帯は大規模なものとはならなかったが , 水島エ業 月 , 国有化された . 現在の津山線がこれで , 同しく中国鉄道の 地域は最初の工場である三菱亜工業 ( 自動車などの生産 ) に加え 路線であった岡山一総社間も国有化されて吉備線となった . 高 て , 三菱石油・日本鉱業などの石油精製工場を中心とする石汕 松稲荷参詣のための稲荷支線は先端のケープルカーとともに 化学コンビナートや川崎製鉄を中心とする製鉄コンビナートの 国有化に先立ち廃止された . 立地が進み , 鉄道の重要性は急速に大きなものとなった . 岡山 剛を一を一を第一 岡山付近の鉄道網の形成 高等井啅 大寺 軽嘩道洋を碑 国イヨ道 ( 明 43 ~ 大 4
新幹線の下り列車が岡山駅にさしかかるころ , 左手に見え る岡山鉄道管理局の建物の屋上 , 「ようこそ岡山へ」の看板 が目にはいる . 岡山県は中国地方東部にあって約 7 , 000km , 180 万人を擁し , 東瀬戸広域経済圏の中核をなしている . その県都である岡山市も人口 50 万をこえ , 山陰 , 四国方面 の玄関にあたり , 新幹線を軸とした鉄道交通 , および道路 交通上の要衝として栄えている . 新幹線は昭和 47 年 ( 1972 ) 3 月 15 日 , 、、ひかりは西へ、、のキ ャッチフレーズで新大阪ー岡山間が開業 , 岡山は大阪から 1 時間 , 東京から 4 時間余りの距離となり , 同時に山陽本 線の特急くつばめ〉くはと〉とく月光 > ( 夜行 ) が岡山発着に改め られ , 山陰へは伯備線経由のくやくも > が岡山仕立てで新設 されたため岡山駅は新幹線と在来線の乗換ターミナルとし て一躍 , 脚光をあびることになった . 新幹線岡山開業によ り , 岡山を中継しての山陰・四国方面の旅行客は増加した が , 3 年後の 50 年 ( 1975 ) 3 月 10 日の博多開業後は , 岡山を 素通りする山陽・九州方面への旅行者がふえた . ターミナルー岡山の駅勢 50 万都市ー岡山の玄関というより , 山陰・四国の玄関とい ったほうが似合う岡山駅は , 明治 24 年 ( 1891 ) 3 月 18 日の開 業である . その後 , 大正 15 年 ( 1926 ) に当時 , 中国地方最大 といわれた駅舎が , モダンな鉄筋コンクリートづくりで完 成し , 途中 , 何度か改築されたものの , 新幹線工事のため とりこわされた昭和 43 年 9 月まで , 岡山のシンポルとして 市民・旅客に親しまれた . 現在の駅舎は 42 年着工し , 46 年 3 月に一部開業 , 岡山駅開業 80 年を祝ったのち , 47 年 3 月 に正式開業したものである . 駅舎は地上 3 階 , 地下 1 階で , 新幹線ホームが 3 階に 2 面 4 線設けられている . 2 階はコンコースで在来線ホーム の跨線橋に通じており , 1 階は乗降ロ , キップ売場 , 待合 は 室などになっている . 在来線ホームは , 新幹線の直下に 1 面⑤⑥番線 ( 山陽本線下り ) がある . 隣りのホームは神戸寄 り , 向かって左側が欠き取られており , ここが赤穂線乗場 ⑧番線となっている . このホーム⑦⑨番線は伯備線用であ る . 以下 , ⑩⑩番線 ( 宇野線 ) , ⑩⑩番線 ( 山陽本線上り ) , ⑩⑩番線 ( ⑩津山線⑩吉備線 ) の順で , すべて地平ホーム . 一日の平均乗降人員は約 13 万人で , 開業当初の明治 25 年が 一日 1 , 500 人であったから , およそ 87 倍にふくれあがった ことになるが , 新幹線岡山開業の前後で , 開業前の約 8 万 人が一挙に 15 万人にはば倍増した実績がある . 新幹線博多 開業後の乗降客減も目立ったほどではなく , 始発の長距離 列車がへったことを考えると , 利用率はむしろ向上してい るといえよう . 旅客列車の発着本数は上下あわせて一日約 650 本で , う ち 120 本が新幹線 , 80 本が在来線の特急・急行列車である . 貨物列車はすべて西岡山貨物駅に発着し , 岡山駅は 9 番線 と 10 番線 , 13 番線と 14 番線の中間にある中線を通過する . また , 岡山には山陽本線の荷物列車 , 各支線の荷物車が発 着する . 岡山を中とした列車体系 旅客列車を各方面別にみると , 山陽本線では , 昼間の優等 列車はないが , 東京・大阪ー山陽・九州間の夜行寝台特急 や急行列車が夜半に下り , 未明から早朝にのばってくる . 東京方面へはく瀬戸〉くあさかぜ 1 号〉が有効時間帯にはいっ ている . 区間列車は姫路ー岡山間 , 岡山一三原間が多く , 岡山をはさんで前後を直通する列車は少ない . 姫路ー岡山 間は下り 25 本 , 上り 26 本の運転だが , そのうち下り 5 本 , 上 り 6 本が赤穂線経由であり , また上下各 2 本は本線経由の 快速である . 赤穂線経由の場合 , 所要時間は 30 分ほど延び 下り列車では , 姫路を後発となる本線経由列車が岡山先着 岡山・吉備路