。 -- - へ、 E 田 0 に 写真 : 三森康亘 1955- に ”つばめ”の先頭に立っ EH1015 こちらも " つばめ”の先頭に立って東京駅を出発 , やがて来る高速時代の期待をになった晴れやかな姿 円 55-12 ー 3 写真 : 黒岩保美 と思うと , 月日のたつのは早いものだと思わざるを得な 場し , EHIO 形を使って 1g0 トンの編成で汐留から梅田 い . 東海道本線の専用機関車というと蒸気機関車では C まで最高 85 キロメートル / 時で 10 時間 55 分の到達時分で 52 ・ C 53 とあり , また電気機関車ではこの E H 川がそう 運転された . EHIO は機関車総数 64 両で , 配置区は稲沢 である . C 52 ・ C 53 は他線に転用不能ということもあっ および吹田第二機関区である . その後直流電気機関車で て寿命は長い方ではなかった . すでに特急電車の「こだ も大容量の主電動機が開発され , 粘着力増大の技術改良 などもあって EF60 以降の高出力 EF 機関車が続々と登 ま」形の最初に作られたグループのモハ 181 達は廃車解 場したが , EHIO の果した功績は東海道本線電化史上大 体になっている . それでも E H 10 はまだしばらくは東海 道本線の貨物専用機として活躍を続けてゆくに違いない きなものがあった . すでに EHIO も誕生以来 20 年になる 39
その後 , 安全性の向上を計るために自動列車停止装置 確認されているが , いずれも他に類を見ないタイプのも (A T S ) を取り付けることになった . E H10 は昭和 39 ので , E H10 独特のものとなっている . しかし , それが 年から 40 年にかけて ATS ー s 形の取り付け工事を行な 改造によるものであるか , 新製時からのものであるか , ったが , さらに昭和 41 年には A 形車警を改良・発展させ また改造によるものであるならばその理由等については た ATS ー A 形を併設している . したがって車側の表示 履歴にも記載されておらず , さらに筆者の調査不足もあ も A ・ S となっている . また昭和 40 年に A T S 改造を行 ってまだ確認していない状態である . 避雷器 なった車両の中には ATS ー s 形および A 形を同時に取 り付けたものもあることを付記しておく . なお現在では EHIO の避雷器は新製時はすべて LA12A であったが , その後高圧回路の保安を強化するために , 新形で高耐圧 ATS ー A 形は使用されていない . の LA15 にすべて交替された . この改造は在来の旧形電 砂箱および撤砂管の撤去 機全車におよぶものであるが , EHIO は昭和 45 年に始ま 旧形の貨物用電機ではその多くが 1 つの動輪に対して , り 49 年末までに全車の工事が終了した . また中には一度 2 個の砂箱 ( 片側につき ) を持っている . この E H 10 も カバー無しの L A15 にした後 , あらためてカバー付きの その例外にもれず片側だけでも 16 個の砂箱を持ってい LA15B に再改造した例 ( EH1030 ) もある . なお取り た . しかし , EHIO はけん引力に比較的余裕があり , か 付け位置はおおよそ同じであるようである . っ運転線区が平坦線であるためほとんど空転せず 1 つの A 形車内警報装置および ATS の取り付け 動輪に対して , 2 個の砂箱は不用であるとのことになっ 東海道・山陽という 2 大幹線を走る EHIO には比較的早 た . そこで比較的早くから 1 つの砂箱は使用を中止 ( 台 くから車内警報装置の取り付けが始められている . A 形 車内側の砂箱 ) としていたが , 重量配分のことなどで撤 車内警報装置の地上工事は昭和 35 年 3 月の使用開始を目 去するまでには至らなかった . しかしその後 , ハンドス 標に昭和 32 年 8 月から東京ー姫路間について行なわれ コッチの取り付けや , その使用にさいし第 1 動輪および た . そして , それと平行して車両側でも警報装置の取り 第 8 動輪の砂箱がじゃまになり , 保守の上でも手間のか 付け工事が行なわれた . EHIO では昭和 33 年から 34 年に かるところから撤去されることになった . 工事は昭和 49 かけて浜松・鷹取の両工場で改造工事が行なわれ , 64 両 年から始められ , 第 1 および第 8 動輪の内側砂箱を撤去 全機に取り付けられた . またそれに先立っ昭和 32 年 3 月 している . またそれと合わせて , 各台車内側の不用な砂 には EH1015 を使用して , A 形車内警報装置の試験が下 箱の撒砂管も撤去されており , 砂箱は事実上使用不能と 記の要領で行なわれている . しかし車履等から判断する なった . とこの試験では一時的に装置を取り付けた状態で行なっ スノープロウ たものらしく , 15 号機は昭和 34 年 9 月あらためて A 形車 国鉄電機で初めてスカートの付いた E H 10 はスノープロ 内警報装置を浜松工場において取り付けている . ウの取り付け方も一風変わっている . もともと試作機で A 形車内警報装置試験 はスノープロウ取り付けは考慮されていなかったが , 量 平塚駅構内停止試験 昭和 32 年 3 月 6 ~ 8 日 産機では冬の関ヶ原越えに備えスノープロウが装備され 茅ヶ崎一平塚間 ( 貨物線 ) 昭和 32 年 3 月 25 ~ 26 日 ることになった . 従来の旧形電機ではスノープロウは台 運転試験 車枠に付けられていたが , EHIO ではスイーベル式のポ ギー台車となった上にスカートが取り付けられたため , 台車に取り付けることは不可能となってしまった . そこ でスカートの下半分を取りはずせるようにして , 冬期に はそこにスノープロウを取り付けることにした . その ため取り付け用のボルトが連結器の両側に設けられてい る . ところが関ヶ原では雪は降るものの電化後は列車密 度も高く , わざわざ機関車にスノープロウを取り付ける ことが疑問視されるようになってきた . その上 E H 10 で はスノープロウを取り付けると誘導者用の踏段がなくな ってしまうため , スノープロウ取り付けの繁雑さも手伝 って昭和 36 年ごろには使用されなくなってしまった . そ して , 一部の車両の中には取り付け用ポルトを撤去し , 溶接としてしまったものもある . パンタグラフ EHIO は昭和 29 年の新製ながら , すでにパンタグラフは 写真 : 斎藤千春 EHIO の DT 田 1 形台車 イ可三リ第 旧砂位置 プ 8
引いいし、 まし 暁の白糸川橋り、うを行く EHIO 12
EH!O 、一 4 吹田一鷹取間で見られる EHIO の重連 現在 EHIO は吹田第二機関区に 42 両 , 稲沢第二機関区に である . いつほう吹二区のそれは汐留ー岡山間のほか宇野線岡 22 両それぞれ配置されており , 使用両数も前者 42 両 , 後 者 22 両と共に稼動率は 100 % である . そして入場・検査 山一宇野間および岡多線岡崎一北野桝塚間であり前者に 時等の代機は共に EF65 一般形が充当されるが , これは くらべはるかに広範囲にわたっている . またその内容も 岡山以西に人線できず , かっ 95km/h 以上の高速列車の 地域間急行貨物が運用の軸ではあるものの , 85km/h の 急行貨物列車にも多用されている . 首都圏へは 13 往復の けん引不能の EHIO をフル回転で運用させ , 下関まで入 列車をひいて上京し , 多くが昼間の撮影可能時間帯であ 線できかっ 95km / h の特急貨物列車 B のけん引も可能な り撮影に好適であると思われる . また吹田一鷹取間の小 EF65 一般形を低稼動率にしておけば , 万一のさいにも 連転貨物列車 985 レは吹二区の EHIO 重連であり , 短区間 後者をもって前者に置きかえるという互換性を重視した 結果によるもので , 高性能・状態良好であるがゆえに高 であるが 4 重連の感すらあり , 現連用の最大のハイライ 稼動率になっているわけではない . また現在は吹二区・ トであるといえよう . ( 表 5 参照 ) 結論として稲二区・吹二区とも新鋭の 60 系電気機関車 稲二区とも台車検査を稲二区に集中化されていることを つけ加えておこう . が抬頭している現在でも , 特急貨物列車仕業はないもの 運用区間は稲二区が汐留ー吹田間で地域間急行貨物列 の , 急行貨物からローカル貨物に至るまでの 85km / h 以 車を中心にローカル貨物列車に至るまでその運用のほと 下の貨物列車に幅広く運用されているのが実情であろう んどが 75km / h 以下の貨物運用であり , 85km / h の急行貨 物列車仕業は少ない . また米原・吹田方面への仕業は少 こうして , 登場後早や 20 年をむかえる EHIO は , 出現 当時大出力といわれたものの , その後登場した新系列電 なく新鶴見までの仕業が 10 仕業もあり , 昼間に首都圏人 りする列車が多いため東京ロでの撮影の条件も良いよう 機が F 形でありながら同等の出力を持ち , さらに 1.6 倍 もの出力を持っ E F 66 が幅をきかせる時代となっては , 表 5 EHIO 重連運用表 もはや旧形機と言わざるを得なくなった . しかし , これ からもこの E H 10 は東海道・山陽の主として今しばらく 吹ニ区 E L 一組 は活躍を続けることであろう . 米 原 写真 : 木田昌広 円 75 ー 6 ー 6 西宮ー芦屋間にて 引 . 3 現在 鷹取 1 ー」 根 9 8 5 2 9 8 4 に : 24 A 23 PART Ⅱ E F 66 現在日本の電機の中で最高の出力を持っ EF66 は貨物機 でありながら , その洗練されたスタイルで人気も高い . フレートライナーを 100km/h でけん引することのできる この EF66 が特急旅客列車の先頭に立つのがファンの夢 であろうが , 理論的には E F 65 けん引時よりもスビード アップすることができるようだ . それではこの魅力ある : 56 貨物機 E F 66 について , これから述べることにする . ロ : 50 田 : 44 ( 2984 ) 円 : 39 円 : 48 : 38 23 : 前 985 A 32 に : 24 円 : 46 ー 23
黒となってからも台車回りの灰色はしばらく続けられて 機関区において工場から出張した職員により取り付けら いた . その間にも " こだま " 形電車等も台車回りを灰色 れている . また , 運転室整備は 1 人乗務化によるもので として登場している . しかし , 保守側から見ると点検は 時刻表の位置変更およびスイッチ類の配置替え等を行な しやすくなったものの , 逆によごれが目立っ結果となり ったものである . 以上あげた改造の他にも内部機器 ( コ 昭和 39 年あたりから従来どおりの黒色にあらためられて ンプレッサー・電動発電機 ) 等の取り替えが行なわれて いるが , ここでは省略させていただくことにする . ( " こだま " 形電車も同様の理由から黒色に変更された ) その他の改造 ■工場および検査について 運転関係および保安関係の機器を中心に他に次のような EHIO は一時的に新鶴見および米原に配置されていたこ 改造が行なわれている . ともあるが , そのほとんどを稲沢第二区・吹田第二区の ・信号炎管の取り付け ( 昭和 39 年 ) 両区で過ごしている . その両区の担当工場は稲沢第二区 ・ EB ・ TE 装置の取り付け ( 昭和 46 ・ 47 年 ) が浜松工場 , 吹田第二区が鷹取工場であったが , 昭和 44 ・乗務員無線の取り付け ( 昭和 45 年 ) 年度末をもって浜松工場が電気機関車検修業務を廃止し ・運転室整備 ( 昭和 44 ・ 45 年 ) たため , 現在では , 稲沢第二区の EHIO も鷹取工場で検 ・電気式速度計化 ( 昭和 42 年 ) 査を行なっている . また以前浜松工場では丙修繕にさい ・己録式速度計の取り付け ( 昭和 45 年 ) し工事日数短縮のため循環振替修繕を行なっていた . こ ・屋上ふみ板の FRP 化 ( 昭和 51 年 ~ ) れは , 主要電気部品をあらかじめ前に入場した車両 ( 同 ・前面ガラス合せガラス化 ( 昭和 35 年ただし試作機 ) ー車種 ) から振り替えて使用するものである . 例として 以上の内 , 信号炎管については緊急改造であったため は EH1014 の部品が EH1041 へ振り替えるというように して行なっていた . 1976 ート 25 写真 : 河井秀夫 この方式による丙修繕は昭和 35 年ごろさかんに行なわ れていたようで , 検査業務合理化のはしりと言うことが できよう . ところで , 現在では台車検査を EHIO の場合 は稲沢第二区で集中して行なっており ( 集中台検と呼ば れる ) , さらに台車の振り替え検査も併用しているため , 台車と車体とは必すしも一致しなくなっている . これら の検査方式は今では他の形式でも行なわれており , それ により機関車の履歴より部品 ( 主電動機・台車等 ) の品 質管理および履歴が重視される傾向にある . ■ E Ⅱ 10 の運用と現況 昭和 29 年に登場した EHIO は東海道・山陽線の重量貨物 列車用として 30 年には首都圏ー米原 , 翌 31 年には首都圏 ー吹田 , 33 年にはさらに姫路と西下する電化とともにそ の運用範囲を西進させ , 35 年の倉敷電化では岡山および 宇野まで到達し , 優等貨物列車を中心に運用されたが , 同時に F 形機にして EH 級の出力を持つ新鋭の EF60 が 登場し , EHIO の凋落が開始されたのであった . そして 年ごとに続けられた 60 系電機の増備により , 優等貨物列 車の運用を次々に失ない , 特に昭和 40 年に EF60 の発展 形とでもいうべき EF65 の登場後は名実ともに EHIO は 第二線級機関車となってしまったことは否めないであろ う . また首都圏ー岡山・宇野間とされた運用区間も , " 西 の箱根 " 瀬野一八本松間に入線不可能のため , 以降の電 化西進のさいも運用区間は西進しなかったのである . ま た三原電化時には糸崎まで運用されることが検討された ものの , 貨物輸送の区切りとしての糸崎はあまりにも貧 弱であり , 逆に糸崎乗り入れによる運用の複雑化をさけ るため , けっきよくは岡山以東および宇野線内専用に落 ちついたようである . 二一一口 饗ー 0 27
マンモス電機 EH ー 0 ・ EF66 真柳哲也・外山公夫 PART :I E Ⅱ 10 日本の国鉄では線路その他の関係でマンモス機関車とい うものが非常に少ない . 特に 1067mm という狭軌を使用 国鉄で唯一の E H という形式と , そのスタイルが魅力的 しているため , 電気機関車ではヨーロッパの車両に見ら な EHIO は , 今でこそ新系列電機の影にかくれてあまり ぬし れるような床上へ大きくはみ出すような電動機は使用す 目立たなくなってしまったようだ . しかし東海道線の主 ることができす , もしそのような電動機を使用すれば重 としての風格はいまだ失なわれていない . さて EHIO の 心が高くなり狭軌であるゆえに安定性がいちじるしくそ 誕生の背景および特徴については西尾源太郎氏が詳細に こなわれ , 高速運転は不可能となることであろう . この 述べておられるので , ここでは試作機・量産機の主な相 ような環境の中で生まれた E Ⅱ 10 と E F 66 という 2 つの 違点・改造および現況等を中心に EHIO の活躍を追って マンモス電機は時代こそちがえいすれも国鉄電気機関車 みたいと思う . それでは初めに E H 10 の試作機と量産機 の主な相違点について述べることにする . 史上大きな工ホックを作った車両として忘れることはで きない . ここでは現在でも東海道・山陽の 2 大幹線で活 試作機 E Ⅱ 101 ~ 4 躍するマンモス電機に焦点をあててご紹介することにし 昭和 29 年の 7 月から 9 月にかけて 4 つのメーカーから各 々 1 両ずっ作られた試作機は次のような特徴がある . ま 新鶴見機関区にて 円 76 ー 3 ー 27 写真 : 斉藤千春 マンモス電機のツラガマエ 避雷器 号 一連 レ令気 フ指電 ま : ・第を手ス刀 第名第・ 第ヮった = 、、こ ・ステラブ プ 5
の終了したものと今後の予定 ( 一部 ) をあげる . 塩害対策 手スリおよびステップ EHIO は東海道・山陽を走る関係で , 海岸線を走ること 完成当時の EHIO は前面のスタイルもあっさりしており が多い . そのような区間ではガイシ等に塩分を含んだゴ 手スリ類もほとんどなかった . その後保守作業や誘導者 ミが付着し , 雨などにより絶縁破壊をおこすことがあっ の便を計るために手スリおよびステップ等が追加され た . そこで , このような事故をなくすためにパンタグラ た . その主なものとしては , まず前面窓下の手スリおよ フ台および渡り母線等の絶縁強化を行なった . またヨロ び連結器上のステップがある . これらはいずれも前面窓 イマドに対しても錆止等の改良を行なっている . このよ ガラスの清掃やワイバー等の保守の便を計るために取り うな一連の工事を合わせて塩害対策工事と称し , 昭和 34 付けられたものである . この内ステップは連結器解放テ ・ 35 年に行なわれた . しかし工事対象機は吹田第二区の コの関係で中央部で分かれている . 改造工事は昭和 36 年 車両に多く , 稲沢第二区の車両については履歴等によっ から 42 年ごろまで続けられた . また同じころスカートに ても記録を発見するにいたっていない . 取り付けられている誘導者用ステップが改良され , テー 機関車塗色の変更 ルライト脇の手スリも大きくなっている . これらの改造 EHIO が出場した当時は , 試作機と 15 号機を除いて黒の は新系列電機と合わせるために行なわれたものと思われ ボデーに灰色の台車回りといういでたちであった . また る . さらに昭和 45 年になると一部の車両に対してではあ 車体が茶褐色であった 2 ・ 3 号機はいずれも早い時期に量 るが誘導者用ステップにスペリ止が取り付けられた . ( 58 産機と同じ塗色に統一された . そして高速試験用の 15 号 ・ 60 号等 ) 機についても試験終了後 , 稲沢第二区へ転出したさい茶 色から黒にあらためられたものと思われる . さて , 車体は 下り貨物を引き , 根府川付近を行くトッブナン六一 ップ朝 戸イいイい 4 一 4 レ 4 4 イみイ」み . い帳をン
PS 22 B パンタグラ フの姿で , 全検終了 後の本線試運転をす る EHIO 幻 芦屋ー西宮間にて 1976 ー 2 ー 23 写真 : 岩堀春夫 するもようであるから , 大きなパンタグラフを付けた E 新形の PS15 を使用していた . PS15 は旧形電機用とし H 10 の姿をカメラにおさめるのは今の内ということにな ては最後のバンタグラフで , 以後より小形な PS17 へと ろうか . 大きな車体に小さなパンタグラフと全体にアン 移っていった . EHIO が他の形式のバンタグラフを取り バランスな感じはぬぐえないようだが , 見方によっては 付けた例としては , 過去に一例だけ見ることができる . そ 新生 E H のごとく感じられる面もある . 読者のみなさん れは EH1035 で昭和 34 年 6 月にスリ板試験のため No. 2 はどちらのタイプをお好みであろうか . なお表 3 に改造 パンタグラフを P s 14A に交換したもので , その後本来 の P S 15 にもどされている . ところが最近になって , 従来 表 3 E Ⅱ 10 パンタクラフ改造一覧 ( 予定をふくむ ) 用いられてきた p s 15 の部品の補充がつかなくなりこの まま P S 15 を使用することがむすかしくなってきた . そ こでこのさい直流電機すべてに使用できる新標準パンタ 入場予定日 吹 改造確認 EH ー 02 ー 2 月 23 日 グラフを開発することになった . このいきさつや構造に ついては松田清宏氏が述べておられるので参照願いたい EH ー 030 稲 改造確認 3 月田日 さてこのようにして登場した下枠交差の PS22B はます 吹 EH ー 054 4 月 6 日 E H10 に取り付けられることになった . その第 1 号機は 吹 EH ー 0 6 4 月日 本年 2 月 23 日に鷹取工場で落成した EH1021 で , その後 吹 EH ー 0 ー 2 4 月 23 日 3 月には 30 号も交換されている . 今後は順次 PS22B に 予定 予定 予定 ( 注 ) 改造は鷹取工場 EH 64 EHIO ラストナン・ノく一 No. 64 柏原ー近江長岡間にて 円 75-3 ー 9 写真 : 諸河久 プ 9
る工事は浜松工場において行なわれている . ( 表 1 参照 ) ー改造 それでは次に EH 川に施された主な改造について述べる ことにする . 制御回路の改造 EHIO は元来主電動機が 8 個あるために速度の制御範囲 が狭いという欠点を持っていた . 特に中・高速域では , 速度の制御が不十分で列車の高速化にともなってその欠 点がクローズアップされてくるようになった . そのころ すでに新系列電機として登場していた EF60 等は制御回 路の直並列段から弱界磁が使用でき , 中・高速域での性能 が格段に向上していた . そこで , この E H 10 においても従 来の並列段の弱界磁に加え , 直並列段においても弱界磁 が使用できるように改造することになった . 改造試作車 には吹田第二区の EH1049 が選はれ , 昭和 37 年 3 月 13 日 鷹取工場において工事が行なわれた . そして , 同年 3 月 28 日から 4 月 2 日にかけて , 改造の成果を見る試験が表 2 のような要領で行なわれている . その結果はなかなか 良好で連転時分が短縮でき , さらに使用電力も若干では あるが少なくなったと伝えられている . 外観にはほとん ど変化はあらわれず , 運転室の主幹制御器に新たに弱界 磁ハンドルが取り付けられたぐらいである . なお改造は 順次行なわれ , 昭和 40 年ごろまでにほとんどの車の工事 表 1 高速運転関係試験 ( EH1015 使用 ) 内容 験 試験年月日 試験区間 試 一列車 " つばめ " けん引試験 5 東 京→米原 米 原→東京 2 列車、・つばめ " けん引試験 6 高速運転試験 ロ 金 谷←浜松 電磁プレーキ停止試験 品川駅構内 →ヶ崎 藤客 電磁プレーキ運転試験 電磁プーレキ停止試験 ( 改良後 ) 品川駅構内 電磁プレーキ運転試験 ( 改良後 ) ( 注 ) 電磁プレーキの改良は浜松工場 表 2 制御回路改造試作試験要項 新鶴見区にて 1976 ー 3 ー 27 写真 : 斎藤千春 EHIO の連接部 が終了した . ョロイマドの改造 EHIO には車体連結面寄りに 2 組の通風用ョロイマドが あるが , 近年 E F 58 に見られるのと同様なェアフィルタ ーへの改造が進められている . しかし , EF58 に比べそ の改造はあまり進められておらず , ョロイマドの E H10 を見る機会の方が多いようだ . 改造の理由としてはヨロ イマドの老朽化 ( 錆などによる ) , および保守の合理化 のためと思われる . また E H 10 の中にはヨロイマドの変 形機が見られる . 今のところ E H 1051 および 60 の 2 両が LH108 の変形ョロイマド 写真 : 三島富士夫 つなっ ( っ ( 0 ( 0 引 . 3 . 8 ~ 9 引 . 3 コ 5 ~ ロ 32 . 2 . 24 ~ 26 32 . 3 . 3 ~ 5 三 = 三 = 三 = 8 : 39 通貨 G 5 に : 40 E H m49 E H 田または E F 60 本務一死重扱 合計に 00t けん引 試験内容 昭和 37 年 直並列段弱界磁使用によるノッチ扱による 3 月 28 ・ 29 ・引日 3 月 30 日・ 4 月 2 日 在来のノッチ扱による 試験 機 Ⅱ 00 t 「 06 試験 日
世界のマンモス機関車 敏 久保 E-3 3 車体構成のマンモス電機ではツキー山脈越えに使用された・ : ルウォーキー・セントボール鉄道のギャレスモータ式 EP 2 形 . シカコ。・、 A—I 連結形 機関車の発達の歴史は大出力化への歴史でもある . でき A—2 連節形 るだけたくさんの客車や貨車をけん引したい , できるだ ーット機関車 B ーダブル・ユー け高い速度で走りたいという希望は大量輸送システムと ーット機関車 しての鉄道のサービス改善やコストダウンにつながる大 C ーマルチ・ユー ダブル・ボディ機関車は主回路装置は一組しか持たず , きな要素であった . 特に広大な大陸を横断する単線鉄道 曲線通過性能などの理由から車体を 2 分割しているタイ の場合には列車単位の増大やスビードアップは線路容量 プで , わが国の EHIO をはじめ直流機関車はこのタイプ の増大や人件費の節減にいちじるしい効果があった . が多い . 連節形は Bo—Bo—Bo 形が代表的だが , 走行 機関車の出力はいうまでもなく定格引張カ x 定格速度 性能の面からそう大形でないのにかかわらず車体を分割 で定まるものであるから , いわゆる大出力機関車には主 しているもので , ここでいうマンモス機関車には入らな として貨物けん引用に使われる引張力の大きい機関車と いと考えてもよく , 他の大形機と比較するとちょっと異 旅客用の高速形機関車とがある . 引張力の最大値は動輪 上重量 x 粘着係数できめられてしまうので , 大きな引張 質である . ダブル・ユニット機関車は , ョーロッパの直接式交流 力を得るためには動軸数を増やす ( 軸重は線路の制約か 機関車やアメリカの機関車にみられるようにほとんど同 ら定められるので ) か粘着性能を向上するしかない . じ機能をもった二つの機関車を永久連結にしたもので , つばう高速性能は 1 軸当りの主電動機出力を大きくする それぞれ独立の主回路装置をもっており , 片運転台の機 ことができれは動軸数を増やす必要はない . 関車を背中合わせに重連したようなものだが , 機器配置 ここでは , EHIO 形と同じように二つ以上の車体を持 は点対称になっていないのが通例である . った世界のマンモス電機をとりあげてみようと思うが前 マルチ・ユニット機関車はスエーデンの Dm 3 形や , に述べた分類からいえは " 高引張カ形 " に属するもので アメリカの一部に見られるように運転台のない中間機関 ある . 車を組み込んだもので , 電車と同じような考えに立って いる . それでは重連や三重連とはどう違うのだろうか ? ダ プル・ボディ形は大出力にした場合 , ー車体では機器が収 容しきれないために二つの車体に分散配置しているので ■マンモス機関車の分類 よく内容をみる 複数の車体をもったマンモス機関車も , といくつかの種類があることがわかる . A ーダブル・ボディ機関車