、蟷ををを物 名谷方面 ー MyOdani . トピック神戸市交西神線・名古屋市交鶴舞線が開通 神戸市営地下鉄路線図 西神線 神戸市交西神線 新長田駅のテー プカット 写真 . 河井秀夫 1 977 - 3 - 1 2 カラー みようだに ミナト神戸初の地下鉄 , 西神線 ( 名谷ー新長田間 ) が 3 月 13 日から営業を開始した . いつは、う , 名古屋で は 3 月 18 日から市営地下鉄鶴舞線 ( 伏見一八事間 ) が営業を開始した . 両地下鉄ともサイリスタチョッ パ制御の最新鋭車両を投入しており , わが国の地下 鉄車両としては初めて冷房装置を備えている点が注 目される . ( 本誌 1 8 1 ・ 188 号参照 ) 山手計画線 新長田 名古屋市営地下鉄鶴舞線路線図 名鉄大山線 名鉄豊田新線 八事 御器所 荒畑 上前津 大須観音 伏見 八 事 一開通 線伏見事す 3101 名古屋市交鶴舞 伏見駅のテープ 1 9 77 - 3 - 1 8 写真 : 編集部
R EP 0 R T 阪急神戸線近況 本線を去る 900 系 篠原丞 阪急電鉄の 900 形といえは , 昭和 5 年に転換式クロスの ロマンスカーとしてデビューし , その軽快なスタイルは 阪急タイプを確立するとともに , 阪神間特急 25 分連転の 立役者として , 省電や阪神電車を相手に花々しい活躍を した , あまりにも有名な電車であります . そして , 当時ともに活躍した新京阪ディ 100 や , 参急 デ 220 ( ) をはじめとする数多くの名中 : か姿を消してしまっ た今日でも全車か健在で , 相変わらす六甲山の麓に 23 ( ) HP の主電動機音・を高らかにひびかせながら , 昔Ⅱの勇 姿をそのままに健脚を誇っていることでも , また有名な 電車なのであります . この 900 形 20 両に , その増備で 2 両固定編成となった 920 系 56 両 , 戦後の生まれで 920 系と同系列の 800 系 14 南海線最後の貨物列車 ED 田引十引 52 堺駅貨物線 円 77 ー 3 ーに ー活躍したころの 920 系 925 十 955 十 926 十 956 特急に 西宮北ロー武庫荘 ( 武庫川鉄橋 ) 円 59 ー IO -25 両を加えた 90 ( ) 系グループは , 長らく神戸本線の主力と して阪急の代名詞的な存在でありましたが , 近年の相次 ぐ高性能車の増備によって大半の 900 系グループはしだ いに神戸本線を追われ , 宝塚線や今津線を第 2 の職場と しております . そして , ついに 900 形の一部に廃車の宣告がなされる とともに , 神戸本線に残っていた 9 ( ) 0 系グループの運用 も , 4 月中ごろには消滅することになりました . 最後まで神戸本線に残っていた 9 ( ) ( ) 系グループは , 下 記の 7 両編成 2 列車 , 14 両のみです . 大阪← Mc Tc NI T M Mc Tc 932 ー 962 ー 907 ー 914 ー 9 ( ) 4 ー 920 ー 950 922 ー 954 ー 90 ( ) ー 910 ー 909 ー 927 ー 957 駅間距離の長い神戸本線では , 各停列車でも 100km / h の高速連転を行なっていますので , 阪神間の王者の面目 を保った豪快な走りつふりを十分に味わうことかできま 武庫川を渡る 900 系 932 十 2 十 907 十田 4 十 901 十 920 十 950 南海貨物列車さよなら 1977 ー 2- に 5151 十 5152 で , さよなら行事か挙行された . 当日 , 現場 では平松連輸部長をはじめ堺支区 , 堺駅など貨物関係者 30 名が集まり , 長年の労をねぎらうため藤原駅長から金 山村定雄 谷運転士に , 川口助役から平田車掌にそれぞれ花東の贈 堺ー春木ー貝塚の貨物営業廃止にともない , 南海線を走 呈か行なわれ , 川時 14 分関係者の拍手に送られ最後の貨 っている貨物列車か消えることになり , 3 月 12 日堺駅貨 物列車は出発した . なおこれにより , 貨物取り扱いは和 物線において最後の列車となった羽倉崎車庫行回送 ED 歌山地区の加太・和歌山港の両支線のみとなった . ミい 写真 : 南海広報課提供 ノ 75 堺駅長から乗務員に花東贈呈
京都駅で出発を待つ C6225 けん引の上り " つはめ ". 戦後の客車食堂もっともはなやかなりし頃 円 56 - Ⅱ - 2 写真 : 高橋弘 は並みのものてはななった . 車内の乙ードは , 乗務員まても懾くなったように思わ 暇な時は乗務員の方ガ多い時もあったな , 1 等車 3 せた . もちるん , 5 円の売り上けに 1() 円のチッフガ常 両 , 2 等寝台車 6 両 , そして 2 等座席車 1 両のオール 識て , 神戸て降りる時にあ辞儀をヴれは , チッフガ落 ・ 1 ・ 2 等編成のこの列車は , まさに夜のワイーンてあ らるといった , らよっとオーバーな話しもあった . った . 列車ガ停車ヴれは , 1 歩も 2 歩もさガって待つ このような列車の食堂ては , 次のメ二ユーガ定食て はどの気の使いようてあった . あった . つまり , 夜はチースとハ乙ガ通例て , 時には 大臣はもとより , 日本の知名人ガー堂に会したその ハ乙サつタ程度てあった . それガ , 突然カレーライス ) 一を要第業を一 45
鉄道ファン 食堂車ただ今営業中 / 特急列車北から南から / 上田哲郎・相沢秀仁・太田正行・ 特集 : 食堂車 諸河久・月岡忠・前田信弘・平岩哲・三島富士夫・ 食堂車ものがたり / 大井広 特集 : 食堂車 国鉄の食堂車ホイシ 9180 から新幹線 37 形まで / 慶応義塾大学鉄道研究会 ある日の食堂車ーコック長のこばれ話ー / 編集部・・ 食堂車の付いた客車列車編成記録 / 鈴木靖人・玉井理ー・関崇博・ 食堂車メニュー今昔 / 市川健三・佐々木桔梗・中村文雄・・・ 最新の食堂車ー新幹線の 36 ・ 37 形・ 食堂車思い出力ラー / 小玉光・吉岡心平・三島富士夫・久保敏・・ 、、さくら ' ' の食堂車オシ 14 にあなたをご案内 / 編集部・・ 夜行列車の走るサロン 食堂ただ今営業中ィ′特急列車オンパレード / 太田正行 メニュー雑感 / 佐々木桔梗・ 東西食堂車ア・ラ・カルト食いしん坊食べある記乗りある記 / 野村 董 スイス国鉄 ( S B B ) の新しい食堂車・・・ ョーロッパの食堂車 / 久保敏・和田由紀夫・・ 消えた軽便・・・尾小屋鉄道 / 飯島巌・・ ィベリア半島レールの旅 4. ロス・コトス峠へ登る赤い国電 / 堀淳一 ビバ S L / コッペル重連山口線を走る / 斉藤精宏・・ ・トピソク神戸市交西神線・名古屋市交鶴舞線が開通 / 河井秀夫・編集部・・ 東急に電気検測車が登場 / / 市村昇一 R E P O R T ・ P O S T ・ ーナー きっ」 : コ サロンカ 車内放送・ 車両のうごき・ ・・・ 14 ・・・ 22 ・・ 43 ・・ 48 ・・・ 64 ・・・ 66 ・・・ 68 ・・・ 70 ・・・ 88 ・・・ 90 ・・・ 95 ・・・ 96 ・・・ 98 ・・ 102 ・・ 108 ・・ 110 ・・ 111 ・・ 114 ・・ 120 ・・ 124 ・・ 126 ・・ 128 ・・ 129 付図 : イラストで見る食堂車の系譜図 / 竹中寿人・廣田芳治 食堂車連結列車の変遷 / 慶応義塾大学鉄道研究会 オシ 14 ・新幹線 36 形調理室見取図 東京急行デヤ 3000 形電気検測車形式図 表紙 ミナト神戸に新鋭地下鉄走る . 名谷にて 写真 . 河井秀夫 1 977 - 3 - 1 2 発行者山田昭平 発行所株式会社交友社 東泉支店 113 東京都文京区本駒込 6 ー 7 ー 11 TEL. ( 03 ) 947 ー 1100 ( 代表 ) 本店 464 名古屋市 T ・種区宮西町 3 ー 1 振替名古屋 8502 TEL. ( 052 ) 731 ー 0456 本誌に関するこ投稿・お問い合わせ等については , 上記東京支店編集部へ . 昭和 52 年 6 月 1 日発行 鉄道ファン昭和 52 年 6 月号 定価 680 円 ー送料荷造共 80 円一
広島鉄道管理局 に配布した . 図柄は四国特急・字高連絡船な : 野崎昭三・白井昭 ) ⑩ 3 月 10 日から「山陽路再発見ンリーズ入場券 ど現在の四国鉄道の姿と高松一丸亀間の風景 神戸市交通局 No. 1 ( 史跡 ) 」を 6 枚 1 組 300 円で三原・岩 を描いたもの ( 提供 : 金沢初男・粟屋博 ) ⑩ 3 月 13 日から「地下鉄西神線開茎記念乗車券 国 , 小郡駅で各 4000 組 , 広島駅 8000 組 , 徳山 〔私鉄〕 」 5 枚 1 組を 400 円で 3 万組発売した . 図柄 ・下関駅で各 5000 組を発売した . 図柄は大三 ◆尾小屋鉄道 は春の駅名谷駅・鳩の駅新長田・名谷電車車 ・宮島・防府・山口・下関の各史跡の 2 月 1 日および 2 月 10 日から「尾小屋ンリー 庫・神戸で初めての市街電車・なっかしの神 カラー写真 ( 提供 : 河田耕一・難波敬一 ズ記念乗車券」を 3 枚 1 組 800 円で A ・ B セ 戸市電 ( 提供 : 田村喜一 , 佐瀬繁治・岩崎清 山昭男 ) ⑨ ット各 4000 組発売した . 図柄は A セットは c 司・後藤孝・白水剛・中村佳嗣・長尾裕・毛 函船舶鉄道管理局 15 一 5 号 S L ・尾小屋駅全景・尾小屋鉱山 , 利安孝 ) ⑩ 3 月 15 日から「みなみ北海道史跡の旅ンリー B セットは大杉谷口橋梁を行く C 15 ・観音下 日立電鉄 ズ記念急行券新 3 」を 1 種 4000 円で函館 3000 付近を行く D C ・尾小屋町のいすれも白黒写 2 月 1 日から「創立 50 周年記念乗車券」を 8 枚 , 松ⅱ行 2000 枚発売した . 図柄は松前藩墓所 真 ( 提供 : 西尾博保・毛利安孝 ) ⑩ 枚 1 組 1000 円で 3 万組を発売した . 図柄は車 の全景 ( 提供 : 佐藤代二・木村光夫・吉川 ◆大井川鉄道 両及び風景写真 ( 提供 : 北島顕正 ) ⑩ 広 ) ⑩ 3 月 1 日から「大井川の自然と鉄道ンリーズ 四国総局 No. 2 記念乗車券」を 6 枚 1 組 400 円で発売し 2 月 21 日から「高松ー宇多津開駅 80 周年記 た . 図柄は S L 勢揃い , 冬の s L c 11 対 c 念券」を 1 種 1 万枚作成し , 高松・鬼無・端 12 , 森林鉄道の春など申込みは静岡県金谷 岡・国分・鴨川・坂出・宇多津の 7 駅で乗客 町 1112 同社記乗係送料は 1 組 60 円 ( 提供 : ) をトい・ご : 、、しに新物 8 一 , に一まな 駅第・ 第ををを 0 を 釵物戸市営地下第ド、念第は、 ~ 8 一を 2 」 を 0 を等を 3 にを第考 200 日立 当洋長燾ト をを 50 70 を 」き電 輦 50 80 コ 0 電 725
特集 : 食堂車 〔ロネシ 9070 ・イネシ 9080 ・ 9090 〕旧山陽 ー等室 ホコシ 9210 ( 改造前 ) 旧山陽 2 等室 調理室 この車両の増備により , 食堂車連結列車は 6 往復となっ 2037 , 8 明治 37 年兵庫工場製で , 上記車両の増備車であ る . これらは国有化の後 , 44 年にイネシ 9080 ~ 82 となっ 2 等食堂合造車 ( 2399 ~ 2401 ) 明治 39 年兵庫工場製 , 3 軸ボギー , 定員 2 等 8 人 , 食堂 24 人 . 山陽鉄道最後の食堂車で , 好評な食堂を拡張した ものである . 国有化の後 , 44 年にホロシ 9210 ~ 12 となっ 官鉄の食堂車車内 ( 洋食堂 ) 写真所蔵 : 交通博物館 思われる . 39 年に 2 等の座席を撤去し , 全室食堂車とし 定員は 26 人となった . 44 年にホシ 5060 ~ 2 となった . 2 等食堂合造車オシ 7 ~ 9 明治 39 年新橋工場製 , 3 軸ボギー , 定員 2 等 23 人 , 食堂 18 人 . 東海道線の最急行列車用につくられた , 大形ボギ ー車である . 44 年にオロシ 9190 ~ 2 となった . 食堂車シ 10 ・ 11 明治 39 年に新橋ー神戸間の 3 等急行用として使用開始さ れたが , シ 10 は新製 , シ 11 は改造されたものと思われる が , はっきりしたことは不明である . 44 年の改番でシ 10 はホシ 5063 , シ 11 はホハワシ 5092 となった . 〔ホワシ 5070 〕 調理室膳至 0 0 0 〔ホシ 5065 〕 調理至 ロ喫ロ ュロロ ロココ ロロ 山陽鉄道の食堂 車内 写真所蔵 : ・その他の国有化された私鉄など 交通博物館 関西鉄道の 1 等食堂合造車 229 ~ 231 ・鉄道作業局 明治 34 年四日市工場製 , 2 軸ボギー , 定員 1 等 44 人 , 食 2 等食堂合造車シ 1 堂 8 人 . 名古屋ー湊町間の急行列車に使用された . 国有 明治 34 年新橋工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 7 人 , 食堂 化の後 , 44 年にホロ 5690 ~ 2 となり売店付車となった . 24 人 ( 推定 ). この車両は当初 , 2 等食堂合造車であっ 讃岐鉄道の喫茶室付 3 等車形式不詳 , 両数 5 両 ( 推定 ) たが , 図面・写真が残っていないため , 詳しいことは不 製造年不詳 , 大阪の福岡鉄工所製 , 2 軸車 , 並等 ( 3 等 ) 明である . また , 洋食堂であったと思われ , 後に製造さ 客車を多度津工場で改造したものであり , 軽食飲物を供 れたシ 4 ~ 6 と同じであろう . 現在残っている図面は , した . 明治 39 年に山陽鉄道に吸収され , 2273 ~ 7 となり 明治 39 年から運転開始された 3 等急行に使用の食堂車の 国有化の後 , 喫茶室は撤去され , 44 年にはハ 2240 ~ 4 と ものしかない . シ 1 は明治 39 年 , 和食堂に改造され , シ なった . 2 ・ 3 は 42 年 , 3 等和食堂合造車に改造された . また 44 年 讃岐鉄道の喫茶室付 1 等車 には , それぞれホワシ 5070 ・ホハワシ 5 ( ) 90 となった . こ 製造年不詳 , 福岡鉄工所製 , 2 軸車 , 定員 1 等 8 人 , 食 れらの車両は , 新橋ー神戸間の急行列車に使用された . 堂 6 人 ( 山陽時代 ). 1 等客車を多度津工場で改造した 2 等食堂合造車シ 4 ~ 6 もので , 上記の車両と同様である . 明治 39 年に山陽鉄道 明治 36 年新橋工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 7 人 , 食堂 になり , 2264 ・ 65 となった . 国有化後の 42 年 , 1 , 2 等 24 人 . この車両は東海道線の夜行急行用に製造されたと 合造車に改造され , 44 年にはイロ 328 , 9 となった . 23
日本鉄道の 1 等寝台・ 1 , 2 等食堂合造車い 361 ~ 6 ホシ 10300 ( 和食堂車 ) 明治 36 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 1 等寝台 4 人 , 大正 8 年日車製 , 2 軸ボギー , 定員 30 人 . 1 等 6 人 , 2 等 20 人 , 食堂 5 人 . 上野ー青森間の直行列 ナシ 10370 車に使用された . この車両は 36 年の第 5 回内国勧業博覧 大正 7 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 20 人 . 会に出品され , 日本鉄道でも相当自信を持っていたもの オシ 17700 国有化後 , 不便なため食堂の椅子を撤去し と思われる . 定員 3 ( ) 人 . 大正 8 年大井工場製 , 3 軸ボギー 44 年にイネロ 5050 ~ 5 となった . その後北 て売店とし , オシ 17700 〔スシ 28650 〕 海道に渡り , 急行に使用された . 調理室配膳室 オロシ 92003 ~ 6 ロ ロロ 調理室 ロ 匚 ロ ・木造大形車 ロ ロ 大正 8 年度から従来より大形の車両限界で製造された . 成田鉄道の喫茶室付 1 等車 ナシ 20300 ( 和食堂車 ) 大正 11 ~ 14 年日本車・大宮工場製 , 2 軸ボギー , 大正 明治 36 年改造 , 2 軸車 , 定員 1 等 6 人 , 食堂不詳 . 上野 この車 ー成田間の列車に連結された . その他いっさい不明 . 11 年製は定員 30 人 , 大正 12 , 13 年製は定員 28 人 . 南海鉄道の 1 等・喫茶室合造車 両が最後の和食堂車である . 明治 39 年 , 難波ー和歌山市間に 1 日 2 往復運転された . ナシ 20300 〔ホワシ 20880 〕大正 12 ・ 13 製 その後本数も増えたが , 大正 6 年廃車となった . その前 調理室 配膳室 に 44 年 , 電化が完成し電車化された . 2. 食堂車の発展期 国有化後 , 初の食堂車が明治末期から製造され始めた . これは明治 43 年に制定されたボギー車の基本形式によっ て製造され , これにともない雑形客車の廃車および改造 が進んだ . ・木造中形車 オロシ 17750 明治 43 年 ~ 大正 6 年 , 大井・大宮・神戸・苗穂工場製 3 軸ボギー , 定員 2 等 20 ~ 24 人 , 食堂 12 人 . オロシ 17750 〔スロシ 9215 形 10259 号〕 にこロロ 調理室 喫煙室 0 (T) こロユ 0 室 0 ロ煙 ロュに ュ匚ュ = VI ロ 9 ロて 2 等室 0 ナシ 20350 大正 13 , 14 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 30 人 . ナシ 20350 ロロ 二ロ ロ ロロ ロ匚 調理室配膳室 ユ匚 ロ匚 ロロ オシ 27700 ・オシ 27730 大正 12 年大宮工場製 , 3 軸ボギー , 定員 30 人 . オシ 27730 は昭和 2 年大宮工場製で , 台ワクが異なるだけである . この車内配置は戦前製の食 ( トラス棒→魚腹台ワク ) 堂車の基本となった . オシ 27700 ・ 27730 〔スシ 28670 〕 ュロ ュロ ュロ ロ ロロ 調理室 ロ ロロ ュロ ロロ ュロ ュロ ロロ 2 等室 ナロシ 17770 明治 43 年 ~ 大正 6 年 , 大井・大宮・神戸・苗穂工場製 3 軸ボギー , 定員 2 等 8 人 , 食堂 18 人 . ナロシ 17770 〔オロシ 9215 〕 0 00 0 0 0 0 0 0 00 0 調理室 0 0 0 0 0 2 等室 写真所蔵 : 交通博物館 オシ U700 形食堂車車内 ナロシ 10400 大正 2 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 12 人 , 食堂 18 人 . ナロシ 10400 ・ 1 0450 配ロ ロロ 調理膳ロ ロロ ロロ ( ロ室 ロ ロロ ロ ロ ロ 2 等室 ナロシ 10450 大正 8 年大宮工場製で , ナロシ 10400 とほば同形 . 2 み
面間 ) 16 , 091mm , 車体幅 2 , 438mm と , 今日の客車に 比べミニサイズであった . 東海道線の食堂経営は , 最初 から業者委託方式とし , 入札により精養軒 ( 東京 ) が担 当することとなり , 西の「みかど」とともに , 列車食堂 業者の基盤がかためられることにもなった . 鉄道国有法は 39 年 3 月 31 日に公布されたが , この時期 における幹線の食堂営業は , 次のとおりであった . ます 日本鉄道は現在の東北・常磐線の前身となるが , 食堂車 は 36 年 8 月 21 日から営業が開始されたが , 地域的に不景 気風が吹き , 特に農村では凶作が続くなどあって , その 利用客は限られた旅客が利用するにとどまった . したが って , その規模は必然的に小規模とならざるを得なかっ たが , 仙台ホテル ( 現在の伯養軒 ) が上野ー青森間を担 当した . また , 九州鉄道 ( 現鹿児島本線 ) は , 豪華な食 堂車を米国に外注したが , 到着したのは国有化後の 41 年 となり , その構想が実らぬままに移行されることとなっ たが , 九州島内では , 明治 41 年 4 月 門司ー長崎間 門司一人吉間 ″ 41 年 7 月 ″ 41 年 11 月門司ー鹿児島間 と , 41 年に実現することになった . 昭和初期特急 " つばめ " の食堂チラシ 四国にあっては , 讃岐鉄道が 36 年 3 月 , 1 等車に女子 所蔵 : 市川健三 従業員を乗務させて , そこに設けた喫茶室で茶菓サービ スを主体とし , 料理も調進された . こうした , いわばス のため , 3 等客車を 1 両減車して行なわれたが , 3 等車 ナック方式ともとれる食堂は , 上野ー成田間成田鉄道に を減車することによる混雑が予想されることから , 実施 おいても 1 ・ 2 等客室間に喫茶室を設け , 茶菓・果物・ まで長引いたとも考えられるが , 時代的背景からも , 食 和洋酒・コーヒー等を扱っていたが , これらはいずれも 堂車を放置できなかったようであった . そこで国府津ー 参詣客を対象に , いわは今日の行楽客相手に行なわれた . 沼津間 , 馬場 ( 現行膳所 ) ー京都間のおのおのの勾配区 このような経緯でスタートした食堂車は , 国内優等旅 間は連結しないこととして , 新橋ー神戸間 2 往復の急行 客へのサービス設備であったともいえるが , 次第に国有 列車に使用された . 化後の直通運転など行なわれると , 必然的に急行列車 , ( 注 ) 当時の東海道線タ・イヤは , 1 ・ 2 等最急行 ( 今日の特急 ) のほかに あるいは将来の特急列車の運転計画へと展開される . 特 急行列車は 2 本連転されていたが , 内 1 本はい 2 等急行 , 残り 1 本は 3 等急行であったが , このように , い 2 等と 3 等旅客とはっ に特急列車にあっては , " 富士 " が東京ー長崎間 ( 関門 きり区別されたあたり , やはり今日とは異なった時代でもあった . は乗り継ぎ , 九州島内は急行に連絡 ) 系統列車であった が , 長崎からは海上航路への連絡列車であった . さて , この東海道線急行列車に使用された食堂車はホ シ 5060 形式で , 全車食堂の定員 28 名 ( 4 人卓 4 , 2 名卓 また下りは , " 富士 " に先行して運転される " さくら " 6 ) を充当した . また , 3 等急行列車は 39 年 4 月 1 日か は , 下関から関釜連絡船による , 当時 , 鮮満経由シベリ ら食堂車の連結を行ない , この列車には , 3 等専用列車 ヤ連絡列車ともいわれたが , 今日の国内を指向した特急 であることから , とくに和食を提供することとした . こ 列車に比べ , 当時の特急は国際色がきわめて強かった . のための車両はホハワシ 5090 形式とし , 半室食堂車とな このため列車ダイヤは , 下関の発着時刻はややもすると り , 今日のビュフェのようにロング・テープルで , 定員 固定されて , 東京へ逆引きされたダイヤでもあった . 15 名であった . ちなみに , 下関ー門司間関門航路は , 山陽鉄道が神戸 このように , とにかく戦前の食堂車には洋食・和食と ー下関間全通した 34 年 5 月 27 日と同時に開設され , 大瀬 が区別され , 前述のように 1 等車を連結した列車には洋 戸丸・下関丸 ( いすれも 188 t ) の 2 隻が就航し , 3 等 だけの定員 414 名 , 所要時間 15 分で毎日 17 往復の運航で 食 , 3 等車を連結した列車は和食と , 等級により食事も 異なることとなるが , 今日の食生活の隔りをひときわ感 あった . また , 関釜連絡船は 38 年 9 月 11 日壱岐丸 ( 1 , 180 t ) により , 当初は隔日運航でスタートし , 11 月 1 日対 じさせる , 大きなーコマでもある . こうして登場した食 馬丸の増備で毎日運航となった . 両船とも定員 317 名で , 堂車は , いすれも雑形 2 軸ボギー車であり , 車長 ( 連結 0 5 76
会 究 学 堂シ 国′ 疾走するプルー・トレインの食堂車ナシ 20 写真 : 廣田尚敬 1. 食堂車の夜明け この車両は日本で初めての寝台車で , 神戸ー馬関 ( 現下 ・山陽鉄道 関 ) 間の直通列車に使用された . 国有化の後 , 44 年にイ ネシ 9070 ~ 2 となった . これらの車両は , 官鉄・山陽鉄 日本における食堂車は私鉄から始まった . 明治 32 年 5 月 25 日 , 当時の山陽鉄道の京都一三田尻 ( 現防府 ) 間の急 道直通の最大急行にも使用された . またこの時から , 全 行列車に連結されたのが最初である . これは瀬戸内海航 部で 4 往復の列車に食堂車が連結された . 路に対抗したもので , さらに同鉄道では翌 33 年に , 日本 1 等寝台食堂合造車 147 号形 ( 1841 ) ( 2037 , 8 ) で最初の寝台車も営業を開始している . これは対抗上の 1841 明治 36 年兵庫工場製 , 3 軸ボギー , 定員 1 等寝台 ためだけではなく , 山陽鉄道の乗客へのサービス精神の 16 人 , 食堂 8 人 . 先に登場した 1681 ~ 3 と同形である . あらわれといえよう . 山陽鉄道の 1 等寝台食堂合造車 1 等食堂合造車 117 号形 ( 1227 ~ 29 ) 明治 32 年兵庫工場製造 , 3 軸ボギー , 定員 1 等 26 人 , 食 堂 8 人 ( 改造後は 13 人 ) この車両は京都一三田尻間の急行列車に使用された . 国有化された後も使用され , 明治 44 年にホイシ 9180 ~ 2 となった . 1 等寝台食堂合造車 124 号形 ( 1244 ~ 46 ) 明治 33 年兵庫工場製 , 3 軸ボギー , 定員 1 等寝台 16 人 , 食堂 8 人 .
~ 注いはす 朝念の用危か いきした 1 2 料理は く東北線の食堂 車 , 仙台ホテ ル列車食堂の 朝食案内チラ 所蔵 : 市川健三 めつけていた観念から脱皮したこのアイデアは歓迎され た . 素行の悪い酔客は昔も今も同じであろうが , マナー を重んじる当時としてはハレンチであった . しかし , こ の女子従業員の乗務は , 翌 6 年 10 月 1 日から東京ー下関 間特急 " さくら " にも開始されると , 要員的にもポーイ の圧迫をともなってポーイから大反対もあったとか . 当 時はチップが認められていた時代でもあったため , この 女子従業員の乗務でチップ減収と , とにかくチップにか かる生活のウェイトが高かったため , ボーイ連の反対も お分かりのことと思う . いすれにしても , 利用する旅客 からみればこの食堂車のムードはソフトになって , 入り やすくなったのは事実であったようだ . このような時代に充当された食堂車は , 大正 8 年度以 降 , 車両限界の見直しなどが行なわれ , 従来の中形客車 時代から大形客車化へと発展することになった . 昭和初 期までのステップとして , 車体幅は約 210mm , 高さも約 150mm 拡幅して大形ボギー客車の製作が行なわれた . この結果 , 食堂車での連結面長さは , 2 軸ボギー車で ェ . 食卓の配列は , すべて洋食堂式とする . 16 , 860mm , 3 軸ボギー車で約 20m とし , 車体幅は 2 , 800 と , おおむね以上のように整理された . このように整 mm となった . 特に大正 12 年以降の新製車では , 出入口 理されたのも , 将来の列車増発 , すなわち食堂車の増備 を廃止してその部分を物置に改められたが , この構造は が大幅に行なわれるのを前に進められたが , この考え方 昭和 2 年まで続けられ , 鋼製車へとバトン・タッチされ は , ほば今日まで踏襲されているともいえる . た . 昭和になってからは , 新製車はすべて鋼製車へスイ 3. 昭和前期の食堂車 ッチされた . これにより食堂車はすべて連結面間 20m ・ 昭和初期 , それは不景気時代のどん底であった . とかく 車体幅 2 , 880mm の鋼製 3 軸ボギー客車で統一され , ここ 国鉄のジンクスに , 特急列車は不景気の落とし子といわ れるが , 昭和 4 年 9 月 15 日 , 東京ー下関間 2 往復の特急 に , ようやくにして 20m 客車が出現することになった . 昭和 2 年にスシ 48670 形式 , 後にスシ 37700 形式に改 列車に " 富士・桜 " と命名するなど , 特急列車への意欲 められ , さらには 16 年 , スシ 37 形式が初めて鋼製車とし をかきたてた . これらが足がかりとなって , 5 年 3 月に てお目見えした . 外板は今日とは異なりリべッと止めと は " 富士 " を鋼体客車による運転で開始したが , この時 し , 食堂定員 30 名 , 喫煙室には 3 名の長手腰掛けを設け 組み込まれた食堂車はスシ 28 であった . たため手洗所を廃止した . その向かいに専務車掌室が設 さらに同年 10 月 1 日 , 東京ー神戸間 " つばめ " , 6 年 けられて , これは今日の食堂車のレイアウトに受け継が 12 月 25 日には東京ー大阪間 " 臨時つばめ " , 12 年 7 月 1 日 に東京ー神戸間 " かもめ " が運転されるようになった . れている . その後 , 特急時代となった昭和 4 ~ 6 年にはスシ 37740 これら数々の名特急列車は , 鋼製車の出現によってス 形 , 16 年スシ 37 , 28 年冷房装置取付車はマシ 29 ・非冷房 ヒ。ード・アップが可能となったところも多い . これらに 車はスシ 28 として登場した . 前記スシ 37700 形のアコモ 活躍した食堂車は , いずれもスシ 28 ・ 29 等が充当された 改良車ともいわれるが , リべット溶接方法の改良 , 窓位 この時期には , 観光地・神社詣りなどの急行列車増発 置の改良などによる外観美を重視するとともに , 一般照 が行なわれたが , 食堂車の連結も行なわれた . この頃の 明をよくするために脚付天井燈を用い , さらに局部照明 食堂営業は , 東海道・山陽線を中心に " 富士 " は「みか のために小形の燈具の取り付けを行ない , また , カーテ ど」 , " 桜 " は「東洋軒」で担当したのをはじめ , 他に ン上飾をつけた扇風機を食卓ーっあきに左右千鳥に取り 「精養軒・東松軒」 , 九州では「みかど・共進亭」 , 東北 ・常磐・奥羽線では「伯養軒・松葉館」 , 北海道では「浅 付けるなど , 各種の改良がみられた . さらに 8 ~ 10 年になると , 従来のもや屋根形食堂車を 田屋」など 9 業者で , その味を互に競っていた . 丸屋根とした近代的食堂車スシ 37800 形式 , 16 年スシ 37 このように複数で営業を行なうと , 新しいアイデアと となり , 28 年に冷房車はマシ 29 ・非冷房車はスシ 28 とな して , 5 年 7 月 5 日から東京ー大阪間不定期急行 19 ・ 20 列車の食堂車に「東洋軒」で女子従業員を , 試行として ったが , これらは車内の照明にその重点を置き , 今日の 食堂車からみると , 重厚さにその特徴が見い出される . 乗務させてみた . 結果としては , きわめて好評であり , 従来 1 等車には , 食堂車といえどもポーイがお相手と決 当時のこれら車両には放送設備がなかったため , 専務 マッシマ 78