戦後の食堂車の マシ 35 写真 : 鈴木靖人 マシ 35 ・カシ 36 ロ D ロ 0 ロ D マシ 35 3 両 , 定員 30 人 . 戦後初の新製 昭和 26 年日車・川車製 , 食堂車で全鋼製の切妻車体となった . 窓は二重固定窓で 冷房付き . なお石炭レンジを電気レンジとしたものはカ シ 36 と形式を分けたが , 28 年に石炭レンジに替えたため マシ 35 ( 3511 ・ 12 ) となった . またカシ 36 は電気冷蔵庫・ 電気冷水器を備えていた . スシ 48 ・マシ 49 戦前製のスハシ 48 ( 旧スシ 37 ) を昭和 28 年に復旧改造し D ロ D ロロ 喫煙室 調理室 マシ 35 車内 写真 : 鈴木靖人 ・戦後鋼製食堂車 戦後しばらくは , 戦前製の食堂車を復旧して使用してい たが , 昭和 26 年に戦後初の食堂車が新製された . 写真 : 鈴木靖人 EF58 引の引く " つばめ ". 食堂車はもちろんマシ 35 29
日本鉄道の 1 等寝台・ 1 , 2 等食堂合造車い 361 ~ 6 ホシ 10300 ( 和食堂車 ) 明治 36 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 1 等寝台 4 人 , 大正 8 年日車製 , 2 軸ボギー , 定員 30 人 . 1 等 6 人 , 2 等 20 人 , 食堂 5 人 . 上野ー青森間の直行列 ナシ 10370 車に使用された . この車両は 36 年の第 5 回内国勧業博覧 大正 7 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 20 人 . 会に出品され , 日本鉄道でも相当自信を持っていたもの オシ 17700 国有化後 , 不便なため食堂の椅子を撤去し と思われる . 定員 3 ( ) 人 . 大正 8 年大井工場製 , 3 軸ボギー 44 年にイネロ 5050 ~ 5 となった . その後北 て売店とし , オシ 17700 〔スシ 28650 〕 海道に渡り , 急行に使用された . 調理室配膳室 オロシ 92003 ~ 6 ロ ロロ 調理室 ロ 匚 ロ ・木造大形車 ロ ロ 大正 8 年度から従来より大形の車両限界で製造された . 成田鉄道の喫茶室付 1 等車 ナシ 20300 ( 和食堂車 ) 大正 11 ~ 14 年日本車・大宮工場製 , 2 軸ボギー , 大正 明治 36 年改造 , 2 軸車 , 定員 1 等 6 人 , 食堂不詳 . 上野 この車 ー成田間の列車に連結された . その他いっさい不明 . 11 年製は定員 30 人 , 大正 12 , 13 年製は定員 28 人 . 南海鉄道の 1 等・喫茶室合造車 両が最後の和食堂車である . 明治 39 年 , 難波ー和歌山市間に 1 日 2 往復運転された . ナシ 20300 〔ホワシ 20880 〕大正 12 ・ 13 製 その後本数も増えたが , 大正 6 年廃車となった . その前 調理室 配膳室 に 44 年 , 電化が完成し電車化された . 2. 食堂車の発展期 国有化後 , 初の食堂車が明治末期から製造され始めた . これは明治 43 年に制定されたボギー車の基本形式によっ て製造され , これにともない雑形客車の廃車および改造 が進んだ . ・木造中形車 オロシ 17750 明治 43 年 ~ 大正 6 年 , 大井・大宮・神戸・苗穂工場製 3 軸ボギー , 定員 2 等 20 ~ 24 人 , 食堂 12 人 . オロシ 17750 〔スロシ 9215 形 10259 号〕 にこロロ 調理室 喫煙室 0 (T) こロユ 0 室 0 ロ煙 ロュに ュ匚ュ = VI ロ 9 ロて 2 等室 0 ナシ 20350 大正 13 , 14 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 30 人 . ナシ 20350 ロロ 二ロ ロ ロロ ロ匚 調理室配膳室 ユ匚 ロ匚 ロロ オシ 27700 ・オシ 27730 大正 12 年大宮工場製 , 3 軸ボギー , 定員 30 人 . オシ 27730 は昭和 2 年大宮工場製で , 台ワクが異なるだけである . この車内配置は戦前製の食 ( トラス棒→魚腹台ワク ) 堂車の基本となった . オシ 27700 ・ 27730 〔スシ 28670 〕 ュロ ュロ ュロ ロ ロロ 調理室 ロ ロロ ュロ ロロ ュロ ュロ ロロ 2 等室 ナロシ 17770 明治 43 年 ~ 大正 6 年 , 大井・大宮・神戸・苗穂工場製 3 軸ボギー , 定員 2 等 8 人 , 食堂 18 人 . ナロシ 17770 〔オロシ 9215 〕 0 00 0 0 0 0 0 0 00 0 調理室 0 0 0 0 0 2 等室 写真所蔵 : 交通博物館 オシ U700 形食堂車車内 ナロシ 10400 大正 2 年大宮工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 12 人 , 食堂 18 人 . ナロシ 10400 ・ 1 0450 配ロ ロロ 調理膳ロ ロロ ロロ ( ロ室 ロ ロロ ロ ロ ロ 2 等室 ナロシ 10450 大正 8 年大宮工場製で , ナロシ 10400 とほば同形 . 2 み
第「第を 以上 , 木造食堂車であるが , 3 軸ボギー車は東海道線の特 急に , 2 軸ボギー車はその他 の列車や他線区で使用された . 、、戈前製鋼製食堂車 昭和にはいり , 新製客車はす べて鋼製車となり , 食堂車に おいてはすべて 20m , 3 軸ポ ギー車となった . スシ 37700 木造食堂車の最後の形式となったオシ 27730 昭和 3 ~ 5 年日車・川車製 , 38 両 , 定員 30 人 , ダブルルー フ . 登場当時はスシ 48670 と称し , 昭和 3 年に上記の形 式となり , 16 年にはスシ 37 となった . 19 年に戦時体制 下で一般車に格下げされ , 戦後も食堂車に復活しなかっ た . 車内はオシ 27700 とほば同じ . スシ 377 圓・ 37740 喫煙室 コロロロ ロロロコ スシ 37740 昭和 4 ~ 6 年川車 , 大宮・鷹取工製 , 19 両 , 定員 30 人 , ダ プルルーフ . スシ 37700 とほほ同じである . 窓の位置が 下がり , 窓が大きくなり , 長形台ワクとなったスシ 37700 「 100 年の国鉄車両」から 調理室 二重屋根最後の食堂車スシ 37740 形 ( →スシ 3 フ ) 「川 0 年の国鉄車両」から 写真 : 鈴木靖人△戦後スシ 37 の両端扉を理め冷房化改造したマシ 29 マ戦後車内をベイ : / ト塗装したマシ 29 「川 0 年の国鉄車両」から △非冷房のものはスシ 28 に改められた マスシ 3774 ( ) の重厚な車内 写真 : 久保敏 写真 : 鈴木靖人 25
特集 : 食堂車 〔ロネシ 9070 ・イネシ 9080 ・ 9090 〕旧山陽 ー等室 ホコシ 9210 ( 改造前 ) 旧山陽 2 等室 調理室 この車両の増備により , 食堂車連結列車は 6 往復となっ 2037 , 8 明治 37 年兵庫工場製で , 上記車両の増備車であ る . これらは国有化の後 , 44 年にイネシ 9080 ~ 82 となっ 2 等食堂合造車 ( 2399 ~ 2401 ) 明治 39 年兵庫工場製 , 3 軸ボギー , 定員 2 等 8 人 , 食堂 24 人 . 山陽鉄道最後の食堂車で , 好評な食堂を拡張した ものである . 国有化の後 , 44 年にホロシ 9210 ~ 12 となっ 官鉄の食堂車車内 ( 洋食堂 ) 写真所蔵 : 交通博物館 思われる . 39 年に 2 等の座席を撤去し , 全室食堂車とし 定員は 26 人となった . 44 年にホシ 5060 ~ 2 となった . 2 等食堂合造車オシ 7 ~ 9 明治 39 年新橋工場製 , 3 軸ボギー , 定員 2 等 23 人 , 食堂 18 人 . 東海道線の最急行列車用につくられた , 大形ボギ ー車である . 44 年にオロシ 9190 ~ 2 となった . 食堂車シ 10 ・ 11 明治 39 年に新橋ー神戸間の 3 等急行用として使用開始さ れたが , シ 10 は新製 , シ 11 は改造されたものと思われる が , はっきりしたことは不明である . 44 年の改番でシ 10 はホシ 5063 , シ 11 はホハワシ 5092 となった . 〔ホワシ 5070 〕 調理室膳至 0 0 0 〔ホシ 5065 〕 調理至 ロ喫ロ ュロロ ロココ ロロ 山陽鉄道の食堂 車内 写真所蔵 : ・その他の国有化された私鉄など 交通博物館 関西鉄道の 1 等食堂合造車 229 ~ 231 ・鉄道作業局 明治 34 年四日市工場製 , 2 軸ボギー , 定員 1 等 44 人 , 食 2 等食堂合造車シ 1 堂 8 人 . 名古屋ー湊町間の急行列車に使用された . 国有 明治 34 年新橋工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 7 人 , 食堂 化の後 , 44 年にホロ 5690 ~ 2 となり売店付車となった . 24 人 ( 推定 ). この車両は当初 , 2 等食堂合造車であっ 讃岐鉄道の喫茶室付 3 等車形式不詳 , 両数 5 両 ( 推定 ) たが , 図面・写真が残っていないため , 詳しいことは不 製造年不詳 , 大阪の福岡鉄工所製 , 2 軸車 , 並等 ( 3 等 ) 明である . また , 洋食堂であったと思われ , 後に製造さ 客車を多度津工場で改造したものであり , 軽食飲物を供 れたシ 4 ~ 6 と同じであろう . 現在残っている図面は , した . 明治 39 年に山陽鉄道に吸収され , 2273 ~ 7 となり 明治 39 年から運転開始された 3 等急行に使用の食堂車の 国有化の後 , 喫茶室は撤去され , 44 年にはハ 2240 ~ 4 と ものしかない . シ 1 は明治 39 年 , 和食堂に改造され , シ なった . 2 ・ 3 は 42 年 , 3 等和食堂合造車に改造された . また 44 年 讃岐鉄道の喫茶室付 1 等車 には , それぞれホワシ 5070 ・ホハワシ 5 ( ) 90 となった . こ 製造年不詳 , 福岡鉄工所製 , 2 軸車 , 定員 1 等 8 人 , 食 れらの車両は , 新橋ー神戸間の急行列車に使用された . 堂 6 人 ( 山陽時代 ). 1 等客車を多度津工場で改造した 2 等食堂合造車シ 4 ~ 6 もので , 上記の車両と同様である . 明治 39 年に山陽鉄道 明治 36 年新橋工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 7 人 , 食堂 になり , 2264 ・ 65 となった . 国有化後の 42 年 , 1 , 2 等 24 人 . この車両は東海道線の夜行急行用に製造されたと 合造車に改造され , 44 年にはイロ 328 , 9 となった . 23
東急に電気検測車が登場′ 30 ′こ 0 常よゞイぉ 私鉄では初めての本格的電気検測車 , 東急デャ 30 田 円 77 ー 3 ー 9 写真 : 石井謙ー・平岩哲 市村昇 東京急行電鉄交通事業本部 車両部車両課長 1. はじめに す . 台車は川崎造船所製のポールドウインタイプで , 休 電気車を走行させるためには , 電車線 ( トロリー線 ) か 車前まで軸受は平軸受でしたので , 今回もそのままとし らバンタグラフによって集電し , 電流をモーターに流し てあります . 検測車としての新称号はテヤ 3000 形とし , 続ける必要があります . この電車線が正常であれは良い 車両番号は 3001 号となります . のですが , ひとたび異常が発生するとバンタグラフを破 損させたり , 最悪の時には電車線の切断という事故にな 3. 検測車としての改造個所 る恐れがあります . したがって , その保守作業にあた ( 1 ) 運転台の増設 ては人手にたよって , 架線高さ・偏位・取り付け状態・ 新製時より片運転台方式で上り側が運転室でした . 今回 摩耗等を常時巡回し , 監視し続けなければなりません . 連結面寄りの下り側 ( 当社では第 1 ェンドと称していま このたび , 近代化の一貫として上記作業の一部を機械 す ) に運転室を設けることになりましたが , 大改造を行 化して合理的な保守ができるように , 電気検測車を 1 両 なわす , 乗務員用扉の新設と ATS その他運転機器の取 製作しましたので , 簡単にご紹介いたしましよう . り付けのみを行ないましたので , 妻面はフラットのまま で , 330 ( ) 形の正面形状と似たものになりました . ②屋根上中央部にドーム取り付け 2. 車両はデハ 3551 号を改造 屋根の中央部を削り , 観測用ドームを取り付け常時車内 デハ 3551 号は車休を昭和 28 年に東急車輛で新製した半鋼 から観測できるようにし , 夜聞はシールドビームにより 製車です . 当時 , 川崎車および東急車で新製したク 投光します . 車内には床面より 120 ( ) mm の高さに観測台 ハ 385 ( ) 形と同一寸法として , 連転室の向きのみが逆の車 を固定し , リクライニングシートをおいてあります . 両で , McMcTc と 3 連を組んで編成美を誇ったもので ( 3 ) 測定用パンタグラフの増設 昭和 50 年 5 月から , 当社の廃車計画にともなって休車 走行のための集電用パンタグラフの他に , もう 1 台測定 扱いとなっていましたが , 今回後述のような改造を施し 用のパンタグラフを増設しました . このパンタには , 後 長津田車両工場で定期検査を実施して再登場したわけで 述の測定器具類が取り付けられます . よって # 1 パンタ
~ 注いはす 朝念の用危か いきした 1 2 料理は く東北線の食堂 車 , 仙台ホテ ル列車食堂の 朝食案内チラ 所蔵 : 市川健三 めつけていた観念から脱皮したこのアイデアは歓迎され た . 素行の悪い酔客は昔も今も同じであろうが , マナー を重んじる当時としてはハレンチであった . しかし , こ の女子従業員の乗務は , 翌 6 年 10 月 1 日から東京ー下関 間特急 " さくら " にも開始されると , 要員的にもポーイ の圧迫をともなってポーイから大反対もあったとか . 当 時はチップが認められていた時代でもあったため , この 女子従業員の乗務でチップ減収と , とにかくチップにか かる生活のウェイトが高かったため , ボーイ連の反対も お分かりのことと思う . いすれにしても , 利用する旅客 からみればこの食堂車のムードはソフトになって , 入り やすくなったのは事実であったようだ . このような時代に充当された食堂車は , 大正 8 年度以 降 , 車両限界の見直しなどが行なわれ , 従来の中形客車 時代から大形客車化へと発展することになった . 昭和初 期までのステップとして , 車体幅は約 210mm , 高さも約 150mm 拡幅して大形ボギー客車の製作が行なわれた . この結果 , 食堂車での連結面長さは , 2 軸ボギー車で ェ . 食卓の配列は , すべて洋食堂式とする . 16 , 860mm , 3 軸ボギー車で約 20m とし , 車体幅は 2 , 800 と , おおむね以上のように整理された . このように整 mm となった . 特に大正 12 年以降の新製車では , 出入口 理されたのも , 将来の列車増発 , すなわち食堂車の増備 を廃止してその部分を物置に改められたが , この構造は が大幅に行なわれるのを前に進められたが , この考え方 昭和 2 年まで続けられ , 鋼製車へとバトン・タッチされ は , ほば今日まで踏襲されているともいえる . た . 昭和になってからは , 新製車はすべて鋼製車へスイ 3. 昭和前期の食堂車 ッチされた . これにより食堂車はすべて連結面間 20m ・ 昭和初期 , それは不景気時代のどん底であった . とかく 車体幅 2 , 880mm の鋼製 3 軸ボギー客車で統一され , ここ 国鉄のジンクスに , 特急列車は不景気の落とし子といわ れるが , 昭和 4 年 9 月 15 日 , 東京ー下関間 2 往復の特急 に , ようやくにして 20m 客車が出現することになった . 昭和 2 年にスシ 48670 形式 , 後にスシ 37700 形式に改 列車に " 富士・桜 " と命名するなど , 特急列車への意欲 められ , さらには 16 年 , スシ 37 形式が初めて鋼製車とし をかきたてた . これらが足がかりとなって , 5 年 3 月に てお目見えした . 外板は今日とは異なりリべッと止めと は " 富士 " を鋼体客車による運転で開始したが , この時 し , 食堂定員 30 名 , 喫煙室には 3 名の長手腰掛けを設け 組み込まれた食堂車はスシ 28 であった . たため手洗所を廃止した . その向かいに専務車掌室が設 さらに同年 10 月 1 日 , 東京ー神戸間 " つばめ " , 6 年 けられて , これは今日の食堂車のレイアウトに受け継が 12 月 25 日には東京ー大阪間 " 臨時つばめ " , 12 年 7 月 1 日 に東京ー神戸間 " かもめ " が運転されるようになった . れている . その後 , 特急時代となった昭和 4 ~ 6 年にはスシ 37740 これら数々の名特急列車は , 鋼製車の出現によってス 形 , 16 年スシ 37 , 28 年冷房装置取付車はマシ 29 ・非冷房 ヒ。ード・アップが可能となったところも多い . これらに 車はスシ 28 として登場した . 前記スシ 37700 形のアコモ 活躍した食堂車は , いずれもスシ 28 ・ 29 等が充当された 改良車ともいわれるが , リべット溶接方法の改良 , 窓位 この時期には , 観光地・神社詣りなどの急行列車増発 置の改良などによる外観美を重視するとともに , 一般照 が行なわれたが , 食堂車の連結も行なわれた . この頃の 明をよくするために脚付天井燈を用い , さらに局部照明 食堂営業は , 東海道・山陽線を中心に " 富士 " は「みか のために小形の燈具の取り付けを行ない , また , カーテ ど」 , " 桜 " は「東洋軒」で担当したのをはじめ , 他に ン上飾をつけた扇風機を食卓ーっあきに左右千鳥に取り 「精養軒・東松軒」 , 九州では「みかど・共進亭」 , 東北 ・常磐・奥羽線では「伯養軒・松葉館」 , 北海道では「浅 付けるなど , 各種の改良がみられた . さらに 8 ~ 10 年になると , 従来のもや屋根形食堂車を 田屋」など 9 業者で , その味を互に競っていた . 丸屋根とした近代的食堂車スシ 37800 形式 , 16 年スシ 37 このように複数で営業を行なうと , 新しいアイデアと となり , 28 年に冷房車はマシ 29 ・非冷房車はスシ 28 とな して , 5 年 7 月 5 日から東京ー大阪間不定期急行 19 ・ 20 列車の食堂車に「東洋軒」で女子従業員を , 試行として ったが , これらは車内の照明にその重点を置き , 今日の 食堂車からみると , 重厚さにその特徴が見い出される . 乗務させてみた . 結果としては , きわめて好評であり , 従来 1 等車には , 食堂車といえどもポーイがお相手と決 当時のこれら車両には放送設備がなかったため , 専務 マッシマ 78
の改良形である . 昭和 16 年にスシ 37 ( 3739 ~ 57 ) となり 19 年に 7 両が一般車に格下げ , 12 両がスハシ 48 となっ た . スハシ 48 は調理室部分を残し , 食堂部分を 3 等室と し , 食事を供することができるようになっていたため , シの小文字が付されていた . 戦後は 9 両が駐留軍に接収 されてスシ 37 に復旧し , 解除後もそのまま使用された . 28 年に冷房付きのものはマシ 29 , ないものはスシ 28 とな った . また残りの 3 両はそのまま使用され , 28 年にスシ 48 となった . マイシ 37900 昭和 6 年大宮工場製 , 5 両 , 定員 1 等 10 人 , 食堂 18 人 , ダブルルーフ . 九州線内の急行用として製造された . 昭 和 9 年の九州線内 1 等廃止にともない , 給仕室・喫茶室 を撤去して食堂としマロシ 37900 に改造され , 定員は 2 等 13 人 , 食堂 12 人となった . 改造は後藤工場 ( 3 両 ) , 小倉工場 ( 2 両 ) であった . 16 年にはマロシ 37 となり , 19 年にはスシ 37 と同様な改造をうけて , スハシ 49 となっ た . そしてさらに 27 ・ 28 年にはスハシ 38 に改造された . スロシ 37950 昭和 7 年鷹取・大宮工場製 , 5 両 , 定員 2 等 19 人 , 食堂 18 人 , ダブルルーフ . 車内は上記のマロシ 37 とほほ、同じ で , 2 等室の座席が異なる程度である . 昭和 10 年にスロ シ 38 となり , 19 年にスハシ 49 となった . また , 27 ・ 28 年 にスハシ 37 ・スハシ 38 として復活 , スハシ 37 の方は 28 年 九州で活躍したマイシ 379 開 ( →マロシ 37 ) 冂年の国鉄車両」から マロシ 37 は戦後スハシ 38 として復活 , スシ 48 と台車を交換したため TR74 となっている 尾久にて 写真 : 江本広一 マイシ 379 ・ 00 ロ ロロ ロ ロロ 室 喫煙室 室調理至 スハシ 38 ロロ」 3 等室 : 理室 にマハシ 29 となった . スシ 37800 昭和 8 ~ 10 年日車・川車 , 大井・大宮・鷹取工場製 , 20 両 , 定員 30 人 . スシ 37700 ・ 37740 の改良形でシングルル ーフとなり , また出入口台が完全になくなった . 昭和 16 北海道用として作られたスロシ 37950 の車内 . 防寒のため窓は二重になっ ている . 「 18 年の国鉄車両」から 26
・特急形客車 ナシ 20 昭和 33 年 , " ビジネス特急 " こ だま形特急電車とともに登場し た " 動くホテル " 20 系固定編成 客車の一員としてナシ 20 が誕生 した . 編成の一端にはディーゼ ル発電機を積んだ電源車が連結 され , 豊富な電力によって冷暖 房はもちろん , 食堂車では従来 の石炭コンロにかわって , ビフ 酒匂Ⅲ鉄橋を渡る上り”あさかぜ” 小田原ー鴨宮間にて ー囲 2 ー 8 ー 5 写真 : 三島富士夫 テキもあっという間に焼ける屯 気コンロを中心とした理想的な キッチンが可能となった . 20 系の製作は日本車輛と日立 製作所が担当したが , 内装の細かい点は両社に任されて なかでも食堂車では , 和風の日本車輛 , 洋風の日 いた . 立製作所がデザインを競い合い , まったく異なったムー に在的 ドになっている . 好評のうちに 20 系は総勢 400 両を越す大世帯となった が , 寄る年波には勝てず , 看板列車の多くを後輩に讓っ て , 現在営業しているナシ 20 は " あさかせ " 2 往復だけ 初のオール電化食堂車としてデピューしたナシ 20 日立製ナシ 20 車内 写真 : 三島富士夫 写真 : 尾崎寬太郎 写真所蔵 : 交通博物館 日車製ナシ 20 車内 33
・急行形電車 サハシ 153 昭和 36 , 37 年川車・近車製 , 定員 2 等 36 人 . 好評だったモハシ 21 ( 15 のの急行電車版といえる車両 で , 急行用電車としては初めて冷 房付き ( ビュフェ部 ) で登場した . 立食形式で座席はない . また「す し」の営業を行なった . 昭和 50 年 新幹線博多開業時の山陽急行廃止 東海道電車急行最盛期はサロをはさみサ , 、シ 3 が 2 両連結されていた . 上り " なにわ " にともない , 本形式は運用からす 山科にて円 64 ー 3 ー 27 写真 : 野口昭雄 べてはすされ , 一部は試験車に改造されたが , 残りはす べて廃車となった . なお , 40 ・ 43 年にサハシ 165 ・ 169 に それぞれ改造された車があり , 現在も使用されている . サハシ 153 2 等室 カウンター スシ立食用カウンター サハシ 165 昭和 37 年に登場した直流勾配線区用急行電車 165 系のビ ュフェカー . 車体構造などはサハシ 153 ( 廃車 ) とほば 同じで , サハシ 153 の「すし屋」に変わって「そば屋」 が設けられ , 当初からビュフェ部は冷房付きであった . 当初 12 両新製され , 上越線の急行 " 越路 " などに使用さ れ , 後に中央東線の急行 " アルプス " などにも使用範囲 が広がったため , 昭和 40 年にサハシ 153 から 5 両が改造 され ( サハシ 165 ー 51 ~ 55 ) , 合計 17 両となった . 急行ビュ フェは 45 年頃をヒ。ークに , 相次ぐ特急の増発のかげで次 々に営業休止または廃止になった . なお , 登場当初はカ ウンター側にも窓側にもプラスチック製のイスが設けら れていたが , 現在は散去されている . 製造初年 : 昭和 37 年 , 改造年 : 昭和 40 年 , 製造 : 汽車 ・近車 急行用ピュフェのパイオニア , サハシ 153 写真 : 諸河久 写真 : 鈴木靖人 上越・中央線用サハシ 165 サハシ 165 2 等室 調王場 サハシ 169 昭和 43 年川月の白紙ダイヤ改正により登場した信越線の 横川一軽井沢間 ( 碓水峠 ) における EF63 と協調運転可 能の急行電車 169 系のビュフェカー 川両すべてサハシ ミー 1 了 : コ ; 二コヨ。を : 1 を、一 153 からの改造で , 構造その他はサハシ 165 ー 51 ~ 55 ( サハシ 153 改造 ) とすべて同じである . 改造年 : 昭和 43 年 , 改 造 : 郡山・松任工場 . サハシ 16550 ・ 169 調理 2 等室 横軽協調運転用サ , 、シ 9 はサ , 、シ新 3 から改造された . 写真 : 久保 敏
写真 : 関崇博 △山陽路を下る 455 系 " つくし” 写真 : 三島富士夫 サハシに設けられた " そば”コーナー サハシ 451 交直両用急行電車初のビュフェカーとして昭和 37 年に登 場したサハシ 451 は 5()Hz 用 451 系・ 6()Hz 用 471 系 2 系 列の急行ビュフ工として 16 両製造された . サハシ 165 と ほほ、同じ設備を持ち , 「そば屋」が設けられ , 特急形 481 ・ 483 系登場までの交直両用電車の花形であった . 現 在 , ( 山台 ( 連 ) に 9 両配置されているが , すべて営業を やめている . 製造年 : 昭和 37 年 , 製造 : 近車 . 調理場 マ東北線で活躍するサハシ 4 引 マ北陸線で活躍するサハシ 455 サハシ 451 2 等堂 写真 : 三島富士夫 サハシ 455 交直両用急行形 451 ・ 471 系の改良形 455 ・ 475 系のビュフ ェカーとして , 昭和 39 年に登場したサハシ 455 はサハシ 451 とほば同じだが , 窓側に F R P 製のイスが設けられ た . サハシ 451 同様現在では 25 両すべて営業を廃止され ており , 車販の基地として利用されている . 製造年 : 昭 和 39 年 , 製造 : 近車・日立 . サハシ 455 調理 2 等室 " そは” コーナ・ -- のメニ コ、 ーうどんコーナー”も設けられた . 天ぶらそま田 . ー月見そは 0 なめきそは 0 きつなそに ざるそば もりそば 0 かけそは 0 、中第をま総題 2 うんルを 4 を ま製いーしをす・ 一品第を、います ~ 〕ビ・第をリや・ス第《を を皆み物イををこま当