車両 - みる会図書館


検索対象: 鉄道ファン 1977年6月号
83件見つかりました。

1. 鉄道ファン 1977年6月号

第「第を 以上 , 木造食堂車であるが , 3 軸ボギー車は東海道線の特 急に , 2 軸ボギー車はその他 の列車や他線区で使用された . 、、戈前製鋼製食堂車 昭和にはいり , 新製客車はす べて鋼製車となり , 食堂車に おいてはすべて 20m , 3 軸ポ ギー車となった . スシ 37700 木造食堂車の最後の形式となったオシ 27730 昭和 3 ~ 5 年日車・川車製 , 38 両 , 定員 30 人 , ダブルルー フ . 登場当時はスシ 48670 と称し , 昭和 3 年に上記の形 式となり , 16 年にはスシ 37 となった . 19 年に戦時体制 下で一般車に格下げされ , 戦後も食堂車に復活しなかっ た . 車内はオシ 27700 とほば同じ . スシ 377 圓・ 37740 喫煙室 コロロロ ロロロコ スシ 37740 昭和 4 ~ 6 年川車 , 大宮・鷹取工製 , 19 両 , 定員 30 人 , ダ プルルーフ . スシ 37700 とほほ同じである . 窓の位置が 下がり , 窓が大きくなり , 長形台ワクとなったスシ 37700 「 100 年の国鉄車両」から 調理室 二重屋根最後の食堂車スシ 37740 形 ( →スシ 3 フ ) 「川 0 年の国鉄車両」から 写真 : 鈴木靖人△戦後スシ 37 の両端扉を理め冷房化改造したマシ 29 マ戦後車内をベイ : / ト塗装したマシ 29 「川 0 年の国鉄車両」から △非冷房のものはスシ 28 に改められた マスシ 3774 ( ) の重厚な車内 写真 : 久保敏 写真 : 鈴木靖人 25

2. 鉄道ファン 1977年6月号

スロシ 38 は戦後スハシ 38 として復活・北海道 で一生を送った . 写真 : 鈴木靖人 スハシ 386 の 簡素な車内 写真 : 鈴木靖人・ 年にスシ 37 となり , 19 年には食堂を 3 等座席としてスハ シ 48 となった . 戦後 11 両が進駐軍命令でスシ 37 に復旧 し , 残りもスシ 47 ・ 48 に復旧改造された . 28 年にはスシ 37 ・ 47 で冷房付きがマシ 29 , 冷房なしがスシ 28 となっ た . 車内は従来のものとほば同じ . スロシ 38000 昭和 8 ~ 10 年日車 , 鷹取・小倉工場製 , 15 両 , 定員 2 等 19 人 , 食堂 18 人 . スロシ 37950 をシングルルーフにした もので , 食堂側の出入口がなくなった . 車内は従来のも のとほば同じであった . 当初 , 主に北海道・九州で使用 された . 昭和 16 年にスロシ 38 となり , 一部が 17 年にスロ スロシ 38 は晩年スハシ 2918 台として活躍した . 北海道用に作られたスロシ 37950 ( →スロシ 38 ) 「 100 年の国鉄車両」から 九州・北海道用に作られたスロシ 380 ) ( スロシ 38 ) 「 100 年の国鉄車両」から 小牛田にて】 961 ー 5-30 写真 : 宮田雄作 27

3. 鉄道ファン 1977年6月号

ストラ丿レ " の / ヾー わが恋人 " の食堂車内 ミストラノレ あった . その後 , 各線の急行に食堂車が復活 , 車両の大半は 戦前派だった . 、、阿蘇 " ( 筑豊線経山 , 東京ー態本間 ) のスシ 37700 →スシ 37 →スシ 29 は , リべットの並んだ タつ・ルルーフの車体が古色蒼然 , 、、鹿鴫館 ' ' などとい う人もあったが , シャンデリア風の 3 列の室内燈がか もし出す室内のアンティークムードは捨て難いものて あった . 当時の食堂車は , 正月のしめ飾リ , クリスマ スのデコレーションなど , 季節ごとに室内のムード作 リもおこたらなかった . 日召和 31 年 ( 1956 ) 11 月の東海 道全線電化て、、あさかせ ' ' が雑形混成てお目見得 , そ の年末 , 東京からの帰途 , 深夜の大阪着も辞せす , 初 物食いの私は乗車し , この夜デレーションを施した マシ 35 て、、車上のイプ ' ' を祝ったのも愉快な思い出の ーっ . 2 年後の昭和 33 年 ( 1958 ) 秋 , 東京ー大阪日帰 リのピジネス特急、、こだま ' ' がデピューし , 、、あさか せ ' ' の 20 系化も行なわれた . 旧、、こたま ' ' のピュフェ ての立喰いが珍しく , 夕食に一ルミート定食を楽し んだが , 、、あさかぜ ' ' のメーカごとに違うインテリア もうれしくナシ 20 の 50 台 ( 日立製 ) のアルミ素材を生 かしたデザインがフレッシ寸て , そこて食べるミヤコ ホテルの「シャトーラリアン」に魅入られ , 夜のウタ ケのため帰阪時に、、あさかせ ' ' を利用する機会が多く なった . 昭和 36 年 ( 1961 ) 2 月の、、なにわ ' ' 電化て , サハシ 153 に、、立喰い寿司屋 ' ' の開業を見たが , 値段 も安値 , 走る車上の、、寿司喰いネェー ' ' はイキ , その夜 間連用の、、金星 ' ' は , ポイルドエックやサラタて朝食 を済ますのもオッ . 同年秋 , 電中・急行が大増発となリ 以後の東海道往復に「喰いな司屋 ? 」を愛川した いすれにしても , 当時は、、エサなし工ル特急 ' ' がま かリ通る破産国鉄 ? てはなく , かっ , ジェット機とい う尻きャカラの跳梁もない , 新幹線開通まての , 「鉄 道の件き時代」てあった . 楽しい V 0 ー T u R E - R E S T A U R A N T イギリス・スカンジナビア・ドイツ圏を除さ , かって の三」」一凵ッパの食嗇車は , W A G ( ) N ー L I T S 社の 92 青い V 0 1 T U R E ー R E T S A U R A N T が国境と いうシ万ラミを越え , 各国の鉄道を独占した . したが って , 担当支社の所在国に応じ , メニューやワインリ ストの違いはあっても , 車両は W A G O N ー L I T S 本社の一括発注だから , 各国鼓通の画一的デザインて あった , だが第 2 次大戦後 , 東・西両陣営の対立とい った政治間題をはし " め , もろもろの事 1 青からいつまて も V O I T U R E ー R E S T A U R A N T を W A G ON 1956 年夏タ・イ L I T S て独占てきなくなってきた . イヤから , 西側 7 カ国協力て登場した T E E ( T R A ー N S E U R O P E X P R E S S ) が WA G 0 N— L I T s 社の独占から各国の食堂車を、、解放した , , と もいえる . W A G O N -L I T S 社は , 食堂車自体も所 有 , 画一デサインが各国ごとに違った車両と混成する とかえって異色を放つ存在となった . TEE 発足時 , 各国の電化は未だして , 小編成の内 燃動車たったが , 食堂車車内にコーナーを設ける程度 1 両のときは特殊なトレーラーになリ , 青い V 0 1 T U R E -R E S T A U R A N T にお声 ? はかからな かった . 利用が増えると動力列亜は種々の支障が生し 各国の電化進歩や多電流車両の開発によリ , しだいに T E E は E L けん引の客車編成に変わっていった . 19 64 年のフランス・ベルギー共同開発によるベネルック ス系統 ( I L E D E F R A N C E 形 ) がハシリ ? , トリコロールをデザインしたカフェテリアがすばらし い . 座席と同時予約の食付座席もあリ , 解放室座席 車の一部にテープルをセット , 予約者に丿レームサーピ スする . キッチンやカフェテリア ( 軽食 ) はあるが , 食堂車と呼べる車種はなく , W A G O N -L I T S 車 は食堂営業だけてある . 1969 年に、、 M I S T R A L ' ' がモードチェンジ , 応 V O I T U R E -R E S T A U R A N T はあるが , 食 付座席も採用 , 2 両の食堂車にはさまれた解放室座 席車をこれに充当している . いつは ' う , 1967 年、、 C A P I T O L E ' ' てフランスの 200 kmj'lL 転開始のさい , ノッンス国鉄籍の赤い高速食堂車が川意され , 「 G R

4. 鉄道ファン 1977年6月号

2 人掛けの 2 種類になり , 定員は 42 人でサシ 181 などに くらべてかなりゆったりとした感じである . なお , この 形式から調理室の合理化のため , 皿洗機も設置されてい る . 製造初年 : 昭和 49 年 ( ~ ) , 製造所 : 日車・川重・ 東急・近車・日立 . 0 新幹線のビュフェ 35 形 側廊下式の新幹線の食堂車 36 ・形 円 76 ー 1 写真 : 平岩哲 写真 : 編集部 36 形の調理 室 写真 : 平岩哲 36 形 目新 3 暠こ寵 B 冝〕二 0 ロつ 0 ロつ c ロ二匸 調理室 37 形式 バラストの吹き上げや , すれ違いの時の風圧などによる 窓ガラス損償防止のため , 昭和 51 年から製作された " 小 ・新幹線電車 窓 " の新編成の合造ビュフェカーである . この形式は身 35 形 体障害車利用対策として , ドア・通路が車イスが通れる 東海道新幹線開業にあたり , 東京ー大阪間 3 時間 10 分で ように広くなっている . この 37 形式の登場により , 35 形 は食堂車は不用という理由から , ビュフェ合造車が製作 の一部に廃車が始まった . 製造初年 : 昭和 51 年 ( ~ ) , された . これが 35 系である . 製造所 : 日車・川重・東急・近車・日立 . 中央に出人口があり , 半分が普通車 , 反対側がビュフ 37 形 工となった合造車である . ビュフェ内は山側にイス付き のカウンター , 海側にはオープンカウンター式の調理室 壁にはスビードメーターや , 洗った手を乾かすェアタオ ルが備えてあり , 軽食をとりながら風景をながめるには 格好の車両である . しかし , 食堂車登場以降は補完的立 場に回り , 最近のモデルチェンジ車 37 形はイスも撤去さ 現在 , 国鉄に在籍中の食堂車・ビュフェカーは , 客車・ れ , ビュフェは売店としての性格を強めつつある . 製造 電車・気動車・新幹線を合わせて 11 形式 513 両である . 初年 : 昭和 39 年 , 製造所 : 川車・汽車・近車・日立・日 かって東海道・山陽線などの幹線を走る特急・急行には 車・東急 . 食堂車またはビュフェが組み込まれ , 四季折々の車窓と ともに乗客に旅情を与えてくれたが , 昭和 40 年代半はを 境に車両の老朽化・短距離特急の登場 ( 房総特急など ) ・ 要員の不足その他の理由で , 次々に姿を消していった . 在来線ではこのような状態から , 現在では " ひばり " など一部の列車を除いては食堂車に昔日の面影はなく , 36 形 いつほう , 39 年の開業以来 1 前途は決して明るくない . 博多開業を翌年春に控えた昭和 49 年に登場した新幹線初 編成中 2 カ所のビュフェだけで食堂車の連結がなかった の食堂車 . 在来線よりも広い車体幅を利用して通路を片 新幹線は , 博多開業前年の 49 年から " ひかり " 用の H 編 側に移し , 食堂車内を直接通らすに移動できるようにし 成の 8 号車に食堂車 ( 36 形式 ) が組み込まれ , 名実とも た . このため , テープル配置はマシ 38 と同じ 4 人掛けと に日本を代表する列車になったのである . ロ⑩ 普通室 調理場 〔コ 35 形 2 等室 0 0 C C 0 3 い Q C いし ゴ調理場 み 2

5. 鉄道ファン 1977年6月号

を 1 」 R EP 0 R ア 大井川へゆく西武 551 系 車内で特筆すべきことは , もと 5 ( ) 00 系の使用していた回 転クロスシートを装備したことで , 大幅なサービス向上 だか , シートは残念なことに , 向かい合せに固定されて いる . シートの色は青色である . 余談になるか , 大井川 では在来車にも 5000 系の旧座席を取り付けるとのことで 座席のみ所沢から貨車で発送された . この 2 両 , 3 月 13 日に所沢を出発 , 大井川に向かうので , 本誌が出るころ にはもう活躍していることと思われる . また , この 2 両 にはさまれて活躍していたサハ 1426 も , 追って大井川入 りするか , こちらは改造はされないで発送される . 大井 川では , 今後も , この形の車を増備の計画かある由で , 仲間か増えることも期待できる . 最後に , ご教示下さった所沢工計画課の淵江敏明氏ほ かの方々にお礼申し上げます . 青山慎 西武戦後初の新車で , 当時流行の湘南形前面を持っクモ ハ 351 形か , 所沢工場で改造され大井川人りすることと なった . 以下改造の要点を述べる . 種車はクモハ 365 ・ 366 で , 双方電動車なのをクモハ十 クハに変史しており , 大井川では , モハ 312 十クハ 512 の 番号を名乗る . 車体外部に凵を移すと , 3 扉を 2 扉にし た点か凵立つ . このため , 近江鉄道あたりの車に似通って いる . なお , 扉跡の窓 2 つはほかに比べて幅狭である . 塗色は赤とクリームで , 前面は金太郎式塗分けで , 鮮か な赤か印象的である . 大井Ⅲ行きを待っモハ引 2 十クハ引 2 所沢工場 19 フ 7 ー 3 ー 7 スコンがデスクタイプ ( ハンドルは力行とプレーキの 2 ハンドルで , 力行は 4 段 , プレーキは連転・プレーキ ( 2 ~ 7 ) ・非常の 8 段の制御段がある ) になることではな かろうか , 完成予定は 52 年 3 月木である . 6. ( ) E R 1901 ・ 19 ( ) 2 の改造 小田急電鉄で廃車となったデハ 19 ( ) 1 ・ 1902 を購人し , モ ハ 120 形式 , 124 ・ 125 号に改造工事中であるが , 212 号 の改造等があり予定よりおくれ , 昭和 52 年 1 月 4 日現在 モハ 125 号の車体関係の改造を終え , 塗装も伊予鉄色と なってはいるが , 機器の艤装は全く行なわれていない . また , 1902 号は回送されて来た時の姿で古町工場に留置 されている . 124 ・ 125 号は制御装置をモハ 3 ( ) 3 ・ 3 ( ) 4 号か ら転用する . 7. その他 昭和 52 年には , 横河原線の 4 両編成化 , 郡中線の重執条 化 , 松山市駅構内の信号完全自動化等の改良工事が予定 されている . 〇資料提供 伊予鉄道車両課 藤川照明氏 ″乗務課 山崎宗貞氏 モハに 4 への改造を待つ元小田急デハ円 02 号 古町車庫 1977 ーレ 4 779

6. 鉄道ファン 1977年6月号

東急に電気検測車が登場′ 30 ′こ 0 常よゞイぉ 私鉄では初めての本格的電気検測車 , 東急デャ 30 田 円 77 ー 3 ー 9 写真 : 石井謙ー・平岩哲 市村昇 東京急行電鉄交通事業本部 車両部車両課長 1. はじめに す . 台車は川崎造船所製のポールドウインタイプで , 休 電気車を走行させるためには , 電車線 ( トロリー線 ) か 車前まで軸受は平軸受でしたので , 今回もそのままとし らバンタグラフによって集電し , 電流をモーターに流し てあります . 検測車としての新称号はテヤ 3000 形とし , 続ける必要があります . この電車線が正常であれは良い 車両番号は 3001 号となります . のですが , ひとたび異常が発生するとバンタグラフを破 損させたり , 最悪の時には電車線の切断という事故にな 3. 検測車としての改造個所 る恐れがあります . したがって , その保守作業にあた ( 1 ) 運転台の増設 ては人手にたよって , 架線高さ・偏位・取り付け状態・ 新製時より片運転台方式で上り側が運転室でした . 今回 摩耗等を常時巡回し , 監視し続けなければなりません . 連結面寄りの下り側 ( 当社では第 1 ェンドと称していま このたび , 近代化の一貫として上記作業の一部を機械 す ) に運転室を設けることになりましたが , 大改造を行 化して合理的な保守ができるように , 電気検測車を 1 両 なわす , 乗務員用扉の新設と ATS その他運転機器の取 製作しましたので , 簡単にご紹介いたしましよう . り付けのみを行ないましたので , 妻面はフラットのまま で , 330 ( ) 形の正面形状と似たものになりました . ②屋根上中央部にドーム取り付け 2. 車両はデハ 3551 号を改造 屋根の中央部を削り , 観測用ドームを取り付け常時車内 デハ 3551 号は車休を昭和 28 年に東急車輛で新製した半鋼 から観測できるようにし , 夜聞はシールドビームにより 製車です . 当時 , 川崎車および東急車で新製したク 投光します . 車内には床面より 120 ( ) mm の高さに観測台 ハ 385 ( ) 形と同一寸法として , 連転室の向きのみが逆の車 を固定し , リクライニングシートをおいてあります . 両で , McMcTc と 3 連を組んで編成美を誇ったもので ( 3 ) 測定用パンタグラフの増設 昭和 50 年 5 月から , 当社の廃車計画にともなって休車 走行のための集電用パンタグラフの他に , もう 1 台測定 扱いとなっていましたが , 今回後述のような改造を施し 用のパンタグラフを増設しました . このパンタには , 後 長津田車両工場で定期検査を実施して再登場したわけで 述の測定器具類が取り付けられます . よって # 1 パンタ

7. 鉄道ファン 1977年6月号

~ 注いはす 朝念の用危か いきした 1 2 料理は く東北線の食堂 車 , 仙台ホテ ル列車食堂の 朝食案内チラ 所蔵 : 市川健三 めつけていた観念から脱皮したこのアイデアは歓迎され た . 素行の悪い酔客は昔も今も同じであろうが , マナー を重んじる当時としてはハレンチであった . しかし , こ の女子従業員の乗務は , 翌 6 年 10 月 1 日から東京ー下関 間特急 " さくら " にも開始されると , 要員的にもポーイ の圧迫をともなってポーイから大反対もあったとか . 当 時はチップが認められていた時代でもあったため , この 女子従業員の乗務でチップ減収と , とにかくチップにか かる生活のウェイトが高かったため , ボーイ連の反対も お分かりのことと思う . いすれにしても , 利用する旅客 からみればこの食堂車のムードはソフトになって , 入り やすくなったのは事実であったようだ . このような時代に充当された食堂車は , 大正 8 年度以 降 , 車両限界の見直しなどが行なわれ , 従来の中形客車 時代から大形客車化へと発展することになった . 昭和初 期までのステップとして , 車体幅は約 210mm , 高さも約 150mm 拡幅して大形ボギー客車の製作が行なわれた . この結果 , 食堂車での連結面長さは , 2 軸ボギー車で ェ . 食卓の配列は , すべて洋食堂式とする . 16 , 860mm , 3 軸ボギー車で約 20m とし , 車体幅は 2 , 800 と , おおむね以上のように整理された . このように整 mm となった . 特に大正 12 年以降の新製車では , 出入口 理されたのも , 将来の列車増発 , すなわち食堂車の増備 を廃止してその部分を物置に改められたが , この構造は が大幅に行なわれるのを前に進められたが , この考え方 昭和 2 年まで続けられ , 鋼製車へとバトン・タッチされ は , ほば今日まで踏襲されているともいえる . た . 昭和になってからは , 新製車はすべて鋼製車へスイ 3. 昭和前期の食堂車 ッチされた . これにより食堂車はすべて連結面間 20m ・ 昭和初期 , それは不景気時代のどん底であった . とかく 車体幅 2 , 880mm の鋼製 3 軸ボギー客車で統一され , ここ 国鉄のジンクスに , 特急列車は不景気の落とし子といわ れるが , 昭和 4 年 9 月 15 日 , 東京ー下関間 2 往復の特急 に , ようやくにして 20m 客車が出現することになった . 昭和 2 年にスシ 48670 形式 , 後にスシ 37700 形式に改 列車に " 富士・桜 " と命名するなど , 特急列車への意欲 められ , さらには 16 年 , スシ 37 形式が初めて鋼製車とし をかきたてた . これらが足がかりとなって , 5 年 3 月に てお目見えした . 外板は今日とは異なりリべッと止めと は " 富士 " を鋼体客車による運転で開始したが , この時 し , 食堂定員 30 名 , 喫煙室には 3 名の長手腰掛けを設け 組み込まれた食堂車はスシ 28 であった . たため手洗所を廃止した . その向かいに専務車掌室が設 さらに同年 10 月 1 日 , 東京ー神戸間 " つばめ " , 6 年 けられて , これは今日の食堂車のレイアウトに受け継が 12 月 25 日には東京ー大阪間 " 臨時つばめ " , 12 年 7 月 1 日 に東京ー神戸間 " かもめ " が運転されるようになった . れている . その後 , 特急時代となった昭和 4 ~ 6 年にはスシ 37740 これら数々の名特急列車は , 鋼製車の出現によってス 形 , 16 年スシ 37 , 28 年冷房装置取付車はマシ 29 ・非冷房 ヒ。ード・アップが可能となったところも多い . これらに 車はスシ 28 として登場した . 前記スシ 37700 形のアコモ 活躍した食堂車は , いずれもスシ 28 ・ 29 等が充当された 改良車ともいわれるが , リべット溶接方法の改良 , 窓位 この時期には , 観光地・神社詣りなどの急行列車増発 置の改良などによる外観美を重視するとともに , 一般照 が行なわれたが , 食堂車の連結も行なわれた . この頃の 明をよくするために脚付天井燈を用い , さらに局部照明 食堂営業は , 東海道・山陽線を中心に " 富士 " は「みか のために小形の燈具の取り付けを行ない , また , カーテ ど」 , " 桜 " は「東洋軒」で担当したのをはじめ , 他に ン上飾をつけた扇風機を食卓ーっあきに左右千鳥に取り 「精養軒・東松軒」 , 九州では「みかど・共進亭」 , 東北 ・常磐・奥羽線では「伯養軒・松葉館」 , 北海道では「浅 付けるなど , 各種の改良がみられた . さらに 8 ~ 10 年になると , 従来のもや屋根形食堂車を 田屋」など 9 業者で , その味を互に競っていた . 丸屋根とした近代的食堂車スシ 37800 形式 , 16 年スシ 37 このように複数で営業を行なうと , 新しいアイデアと となり , 28 年に冷房車はマシ 29 ・非冷房車はスシ 28 とな して , 5 年 7 月 5 日から東京ー大阪間不定期急行 19 ・ 20 列車の食堂車に「東洋軒」で女子従業員を , 試行として ったが , これらは車内の照明にその重点を置き , 今日の 食堂車からみると , 重厚さにその特徴が見い出される . 乗務させてみた . 結果としては , きわめて好評であり , 従来 1 等車には , 食堂車といえどもポーイがお相手と決 当時のこれら車両には放送設備がなかったため , 専務 マッシマ 78

8. 鉄道ファン 1977年6月号

特集 : 食堂車 〔ロネシ 9070 ・イネシ 9080 ・ 9090 〕旧山陽 ー等室 ホコシ 9210 ( 改造前 ) 旧山陽 2 等室 調理室 この車両の増備により , 食堂車連結列車は 6 往復となっ 2037 , 8 明治 37 年兵庫工場製で , 上記車両の増備車であ る . これらは国有化の後 , 44 年にイネシ 9080 ~ 82 となっ 2 等食堂合造車 ( 2399 ~ 2401 ) 明治 39 年兵庫工場製 , 3 軸ボギー , 定員 2 等 8 人 , 食堂 24 人 . 山陽鉄道最後の食堂車で , 好評な食堂を拡張した ものである . 国有化の後 , 44 年にホロシ 9210 ~ 12 となっ 官鉄の食堂車車内 ( 洋食堂 ) 写真所蔵 : 交通博物館 思われる . 39 年に 2 等の座席を撤去し , 全室食堂車とし 定員は 26 人となった . 44 年にホシ 5060 ~ 2 となった . 2 等食堂合造車オシ 7 ~ 9 明治 39 年新橋工場製 , 3 軸ボギー , 定員 2 等 23 人 , 食堂 18 人 . 東海道線の最急行列車用につくられた , 大形ボギ ー車である . 44 年にオロシ 9190 ~ 2 となった . 食堂車シ 10 ・ 11 明治 39 年に新橋ー神戸間の 3 等急行用として使用開始さ れたが , シ 10 は新製 , シ 11 は改造されたものと思われる が , はっきりしたことは不明である . 44 年の改番でシ 10 はホシ 5063 , シ 11 はホハワシ 5092 となった . 〔ホワシ 5070 〕 調理室膳至 0 0 0 〔ホシ 5065 〕 調理至 ロ喫ロ ュロロ ロココ ロロ 山陽鉄道の食堂 車内 写真所蔵 : ・その他の国有化された私鉄など 交通博物館 関西鉄道の 1 等食堂合造車 229 ~ 231 ・鉄道作業局 明治 34 年四日市工場製 , 2 軸ボギー , 定員 1 等 44 人 , 食 2 等食堂合造車シ 1 堂 8 人 . 名古屋ー湊町間の急行列車に使用された . 国有 明治 34 年新橋工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 7 人 , 食堂 化の後 , 44 年にホロ 5690 ~ 2 となり売店付車となった . 24 人 ( 推定 ). この車両は当初 , 2 等食堂合造車であっ 讃岐鉄道の喫茶室付 3 等車形式不詳 , 両数 5 両 ( 推定 ) たが , 図面・写真が残っていないため , 詳しいことは不 製造年不詳 , 大阪の福岡鉄工所製 , 2 軸車 , 並等 ( 3 等 ) 明である . また , 洋食堂であったと思われ , 後に製造さ 客車を多度津工場で改造したものであり , 軽食飲物を供 れたシ 4 ~ 6 と同じであろう . 現在残っている図面は , した . 明治 39 年に山陽鉄道に吸収され , 2273 ~ 7 となり 明治 39 年から運転開始された 3 等急行に使用の食堂車の 国有化の後 , 喫茶室は撤去され , 44 年にはハ 2240 ~ 4 と ものしかない . シ 1 は明治 39 年 , 和食堂に改造され , シ なった . 2 ・ 3 は 42 年 , 3 等和食堂合造車に改造された . また 44 年 讃岐鉄道の喫茶室付 1 等車 には , それぞれホワシ 5070 ・ホハワシ 5 ( ) 90 となった . こ 製造年不詳 , 福岡鉄工所製 , 2 軸車 , 定員 1 等 8 人 , 食 れらの車両は , 新橋ー神戸間の急行列車に使用された . 堂 6 人 ( 山陽時代 ). 1 等客車を多度津工場で改造した 2 等食堂合造車シ 4 ~ 6 もので , 上記の車両と同様である . 明治 39 年に山陽鉄道 明治 36 年新橋工場製 , 2 軸ボギー , 定員 2 等 7 人 , 食堂 になり , 2264 ・ 65 となった . 国有化後の 42 年 , 1 , 2 等 24 人 . この車両は東海道線の夜行急行用に製造されたと 合造車に改造され , 44 年にはイロ 328 , 9 となった . 23

9. 鉄道ファン 1977年6月号

2 圓 200 2600 蓄電池 1 0 品 0 00€ 定 記録器 0 一 観 測台 00 に 0 容 0 日 008 ー ー 700 ー ー 7 5 0 ~ 7 5 0 に 0 Ⅱ 00 80 田 00 図 500 0 3880 800 800 600 2740 引 0 4 50 800 800 3880 800 8 圓 200 4 50 引 0 2440 800 800 絽 60 800 380 卩 80 380 380 ロ 000 テレビカメラ 観測窓 投光機 09 7 匚二」 098 09 巴 09 8 一 09 一 0 一 VZ 008 幻 35 幻 35 088 420 3000 Ⅱ 000 420 3000 ロ 840 909 矩お込八く 09 礼震八く 09 9 ~ 9888 27 00 2740 2700 ロ 98 90Z 一 98 容 98 2740 0 【 96 車体中央 ニ 2 妻側 / 80 1977 / 6 鉄道ファン V 矼 17N0. 194 付図 ・・集電用 PT ー 35 測定用 PT - 3 ・・ポールドウイン形 ・・ TDK- 528 ・・ M M C ー H - 田 D ・ A M M ( 自動空気プレーキ ) ・・ TDK ーー 342A 車両形式・・ 車両番号・ 最高速度・・ ・電動検測車 パンタグラフ・ ・・テヤ 3000 形 ロ 主電動機・・ ・、テヤ 30 田号 制御装置・ ・ヨ 4 名 制動装置・ 電動発電機 ・・ 75 / h 1 電気検測車 RF22055 2 デヤ 3000 形 ・・・ 38 . 0 t

10. 鉄道ファン 1977年6月号

ホ - , 、フ 3 をはさみ DTD 編成で走る最終日の装飾列車 沢一波佐羅間にて円 77 ー 3 ー 19 写真 : 筆者 けて闇の中に消えて行った . バスが尾小屋から帰って来 車両が集結し , 新小松の駅はガランとしていた . 20 日の北 るのを持ってから発車の予定だったが , そうとう遅れて 国新聞によるとファンの数 2000 人と書いてあった . また いたのでバスを待たすして新小松へと山を降り始めた . 6 両の車両全部が一両 100 万円で買われ行先が決まって 観音下で , 沢で , 金平で , 西大野で・・・・沿線の多くの駅 いるとも書かれていた . しかしそのような事実はなく , 蒸 で人々が別れを告けた . 吉竹を過ぎると新小松へはあと 機の C 155 もまだ行先が決まってないという . 希望者には ひと息 , 廃止への強力な圧力となった国道 8 号線の踏切 ってくれるような話だったが値段は聞きもらした . ま りもこの列車が最後 , 4 ~ 5 台の乗用車が待っているだ た路線の撤去作業は数名の保線員で行なうため 1 年位か けだった . そして新小松到着 , 午後 10 時半を少し回って かるとのことだった . 最後に迷惑ばかりかける私たち鉄 いたようだ . 道ファンのために何かと便宜を計って下さいました尾小 一夜明けて新小松の車庫にはホハフ 7 を除くすべての 屋鉄道の皆様にお礼申し上げます . 尾鉄よさようなら ! 倉谷口にて 円 77 ー 3 ー 13 写真 : 河井秀夫 707