一つ - みる会図書館


検索対象: 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)
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1. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

しないで彼に届くようにしたらよいのに、—はこのクーリ 工を罠にはめようとしたが、そん なことをすればドイツ側はむろん、 : ハイシクル″に重大な嫌疑がかかっていることを知ったた ろう。しかしスティーヴンスンは、合同各省間委員会でかなり骨を折ったあげく、一九四二年八 月までよ″・、 ノイシクル″に仕事をさせられるだけの情報を引き出した。しかしこの時—はっ いに、彼がうそっきであり、置いておくのはかねがかかり過ぎる、との理由で手を切ることに決 定した。実際は″・ハイシクル〃はきわめて知的でもあり、勇敢でもあるスパイだった。こんな風 に彼を腐らせねばならなかったのは、どっちかというと遣憾なことだった。 かなりの厄介ごと といってもそれは—とは無関係だったが があったもうひとりの 南アフリカの 二重スパイは″スプリングボック という男たった。貴族出のドイツ人でーーー・祖父 ガゼルのこと はカイゼル・ヴィルヘルム一世の宮廷の高官たった よく南アフリカを知り ( 暗号名はそこか ら来ていた ) 、戦前ここで繁昌する仕事をやっていた。彼はまた女性に強い魅力を持っている人 物で、それは一時彼を担当した O の職員の奥さんをうまく誘惑したことからも判る。 . 彼はド ィッ側により・フラジルに派遣され、ここでイギリス側に寝返った。彼は大部分カナダを中心に仕 事をし、ドイツ秘密情報組織の構成と方法について貴重な情報を提供した。これが手がかりで、 エンゲルスとヘルベルト・フォン わけても・フラジルにいる有数なドイツのスパイ、アルフレド・ ・フォイエル、それにスマツツ将軍暗殺の指令を受け、のちに捕まって処刑された南アフリカの リー・フラントという名のス。ハイの逮捕となったのだ。しかし″ス。フリングボック“について主な 厄介ごとは、彼の情報をどのようにしてドイツに送り届けるかという点にあった。それでプラジ ルにいる彼の仲介者が逮捕され、・フラジル当局がその尋問の過程で彼の名前を発表した時、カナ ダ側は彼の逮捕を演出しなければならなかった。カナダ側はこの逮捕はイギリスの要求で行われ

2. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

278 事をしているスペイン・ドイツ密輸網の内部に「作り上げた」。残念なことに、価値ある情報を もたらし始める直前に、彼はアルゼンチン側に密輸のかどで逮捕され、いなくなった。それに、 すでに示唆したように、二重スパイは彼らが表向きは忠誠を移した組織に浸透して、敵にその構 成、方法、意図を報告しようとするかもしれない。あるいは二重スパイは知らないで敵にそうし た情報を与えないともいえない。敵が裏切られているのを発見し、そこで逆にこの二重スパイに 意図的に正確と思われるような誤らせる情報を供給する時には、 4 ・ タフル・ダ・フル日クロス〃も 起るのである。最後に、二重スパイは時々本当の有用な機密材料を提供されて、これを敵に伝え ることを許されないと、敵をだますのに使えない。 というのは、そうでないと、敵は直ぐに彼ら の情報が無価値であると悟り、彼らをお払い箱にするからだ。こうした情報の当然の源泉は軍な のだが、軍というのはそれを出すのをしばしば最も嫌がるのである。 こうした様々の落し穴があるので、—は戦争の初期は、二重スパイを使うのを警戒した。 ( 原缸 3 ) 確かに—は前に述べたウィリアム・シーポルトの場合はかなりの成功を収めたが、二重ス。、 イとしてシーポルトを利用したのはごく限られたもので、戦略的ニセ情報を送る通路には使われ なかった。真珠湾前のころは、フーヴァーは二重スパイをむしろおとりとみていて、その効用は これまでみつからなかった敵の他のス。ハイを発見するのにあるとしていた。それでシーポルトの 場合、比較的重要度の低い材料で仕事をさせていたので、陸海軍から適当な情報を出してもらう 必要は起らなかった。 スティーヴンスンとフ】ヴァーはともにこの問題に関心を持ったが、合衆国の軍がその重要性 に気づかず、情報を出してくれようとしなかったので、真珠湾前は問題の徹底的検討は行われな かった。スティーヴンスンはこの頃、アメリカにいる敵のスパイが送った情報の書いてある手紙

3. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

ようと活発なロビー活動をしているのに米海軍、とくに海軍司令長官のキング提督が強く反対し ている、と報告した。適切な問いをキングはしていた、「やつらは一体だれに対してこの憎々し い艦隊を使おうというのだ」 様々な筋から入手できる情報を分析して、スティーヴンスンは例えば一九四〇年と一九四四年 の大統領選挙の結果といった将来の事柄について、ロンドンに信頼できる予想を提供し、それら の選挙については注目すべき正確さで予想した。この関連で彼は一九四四年二月初めに、ヘンリ ・ウオレス自身が五カ月後の民主党大会で副大統領候補を拒否されるのを数日前まで知らなか ったのに、「大統領はウオレスを副大統領候補として放棄する、と約束した」と報告した。 一九四四年の大統領選挙でローズヴェルトの相手の共和党のトマス・・デューイは、米世論 研究所、一般にギャラツ。フ世論調査といわれているものの選挙分析にかなり影響されていた。む ろん彼は、この研究所の所長であるジョージ・ギャラップ博士自身が政治的に共和党であること に勇気づけられていた。デューイにとって不幸なことに、ギャラツ。フ調査はこの時は、少なくと も選拳の初期の段階では、信頼できるよりどころにはならなかった、というのはギャラツ。フ調査 はほとんど最後の瞬間までデューイの優位をいい続けていたからである。のちに、ギャラツ。フ博 士が数字をデューイ優位に故意に操作し、それによって選挙民のなだれ現象を作り出そうとした のだ、といわれた。だが、これは全く真実でなかった。誤差は純粋の計算違いだった。 他方ロンドンでは英首相が、戦争の最後の決定的段階に行われるこの選挙の結果に、なろん大 変関心を持っていた。そこでスティーヴンスンは独自の立場から予想するよう求められ、ドノヴ アンに、選挙の傾向の「臨床的分析」を準備する援助を頼んだ。ドノヴァンがこの中し出を大統 領に伝えて許可を求めたところ、大統領も同じくその結果に関心を表明した。彼はそこで

4. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

からして比較的限られた社会生活を送「て満足していた。重大な過失になりそうな場合は二件し かなかったが、幸い実質的害を与えないで済んだ。 他方、ロンドンの様々な本部が幹部職員を送り出す時にとる慎重な注意は、時に不必要な神秘 さに包まれていた。例えばロックフェラー ・センターの O の事務所の宛名はむろんドイツ側 に知られているのに、 べン・リーヴィはそれを知らされなかった。その代りに彼は、ある電話番 号を暗記して、ニ = ーヨークに着くと直ぐそこに電話して、「こちらはモーティマー」というよ うに告げられた。彼は電話番号は正確に記憶していたが、変名は忘れていた。ダイヤルを回した あとで、「こちらは : : : 」、 「こちらは : : : 」、といい続け、あげくのはて「こちらはべン・リー ヴィです」と口をすべらした。「それで結構です」と相手側の声は答えた。「われわれは待って いたのです。真直ぐいらっしゃい」。そして彼は五番街六三〇の三六〇三号室に行く道を教えら なろん、スティーヴンスンのスタッフの上級職員にとっても、以前の民間の生活の時の友人に 出会った時など、自分のしている仕事の本当のことを隠すのが難しいときがよくあった。例えば 本書の筆者は奇智に富んだアイルランドの詩人で自叙伝作者であるダブリンのオリヴァー ト・ジョン・ゴーガティ博士と親密な間柄たった。ゴーガティが戦争が始まって少ししてニ = ヨークに住なようになると、遅かれ早かれわれわれが出会うのは不可避だった。事実そうなって、 昔の親しい友人関係が復活した。長い ゴ 1 ガティは私がなにをしているか知っている振りは ちらともみせなかった。ところがある晩、私のアパートで催した小さなタ食会に彼を招いた。ゴ 1 ガティのほかの客は、 O の人たちだけだった。その夜、ゴーガティは一枚の原稿用紙を求 めた。彼は一分か二分、なにか書きなぐると、やがてそれを私に渡し、お客の一同に向って、

5. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

理この地図の写しを取ることを許した罪を問われた。 地図の発見はラテン・アメリカに対するドイツの意図のなるほどと思わせる証拠であり、合衆 国のすべて善良な市民にとってかなりのショックたった。大統領はいってもよかった、「われわ れは戦陣を張ったのだ」と。 原註 1 チ = 1 ス・ナショナル銀行はドイチ = ・ライヒス銀行との取引を批判されたのだが、この取 引は明らかにドイツ大蔵省の利益になった。 原註 2 メドリコット前掲只第二巻三三 ~ 四ペ 1 ジ。 原註 3 メドリコット前掲書、第二巻四五。へ 1 ジ。 原註 4 詳細はメドリコット前掲書の第二巻の、一六 0 ~ 九ペ 1 ジと四二七 ~ 三五ページを参照。 原註 5 デ・ヨング前掲書、一一二、 一八ペ 1 ジ。フ 1 ルマンとその仲間の五人はそれぞれ五年か ら一二年の禁固刑に処せられた。 原註 6 ホワイトヘッド前掲書、一八 原註 7 エリック・マシュウィッ著『私は不機嫌じゃない』 ( 一九五七年 ) 一四四 ~ 五ペ 1 ジ。 原註 8 ニ = 1 ョ 1 ク・タイムズ、一九四一年七月一一〇、一二、 一三、二四日付。 原註 9 ハル前掲書、第二巻一三八八ペ 原註川ウエルズ前掲書、一〇一。へ 1 ジ。 原註Ⅱウエルズ前掲聿ス一二四ペ 1 ジ。 原註貶デ・ヨング前掲書、一三五ペ 1 ジ。 原註蜷ウッドワ 1 ド前掲書、四一七ペ 1 ジ。 原註Ⅱタイムズ、一九四一年一〇月一一九日付。

6. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

185 た。彼女によると、彼はラ。 ( スのドイツ公使宛の封緘した手紙を携帯しているとのことだった。 その後少しして現地の—の代表から r-A 本部に、自分がブエノスアイレスのドイツ銀行ビ ルの満員のエレヴェーターでフェントールの側に立っている間に、イギリスのスパイが彼からど うも手紙を奪ったようだ、との知らせが届いた。 七月初めスティーヴンスンはロンドンに、合衆国政府はある種の文書の横取りに成功したこと を知っており、それが興味あるものなら、時を移さす渡して欲しいといっている、と知らせた。 ロンドンは、それは「当地の最高当局が緊急に必要としていたもの」であるとして、文書の全文 を知らせるよういって来た。ついで数日後、ポリビア政府に至急警告して、クーデタが起ったら 鎮圧できるように手配されたい、またこの件はアメリカ側と自由に討議し、アメリカ側が好きな 、といった趣旨のメッセージが来た ( 「とにかく一刻も遅れすに警告 措置を取って差し支えない を伝えるのが絶対必要」とのことだった ) 。 そこでスティーヴンスンはその手紙をフーヴァーに渡し、フーヴァーは感謝と驚きをもってこ れを受け取った。フーヴァ 1 は直ちにこれを国務長官コ 1 デル・ハルに渡し、ハルはそれを口】 ズヴェルト大統領にみせたあと、その写真複製を大至急ポリビア政府に送った。 スペイン語でタイ。フされ、明らかに・ヘルモンテの署名のついたこの手紙は、ベルリンのポリビ ア公使館、一九四一年六月九日付となっていて、宛名はポリビア駐在ドイツ公使エルンスト・ヴ = ンドラー博士となっていた。手紙にはこう書かれていた、「ヴィルヘルム街の友人は私に、あ なたから受け取った情報からみて、クーデタを起し、哀れなわが国を弱体な政府と完全な資本主 義的傾向から解放すべき時は迫っている、という。私はさらにずっと進んでクーデタは七月に起 すのが、時期的にも好都合と思う」。コチャ・ ( イ ( とサンタクルースには、「われわれに最も好

7. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

ャンペーンが計画された。合衆国にいる友好的な新聞記者に利用できる証拠を知らせるのは、容 易なことだったろう。スティ 1 ヴンスンはこれでは十分でないと考え、もっと実質的な工作をす る必要があると判断した。この工作はスティションに任された。例えば有名なコラムニストの ウォルター ・ウインチ = ルは、アメリカの商船員がリスポンから投函した一通の手紙を受け取っ た。そこには、、 , ンプルクからプラジルへ航海中のユダヤ人の避難民から、ドイツにいるすべて の公認された海外通信員が、外国の目的地に送る手紙の中に入れるよう、毎月ゲッペルス博士の 情報省から = 、ース報を送られていると聞いた、と書かれていた。この話を裏づけるために同船 員は一枚の印刷した紙片を同封し、これは例のおきまりの文章が入っていなかったとして差出し 人に返送されたもう一通の手紙にドイツの検閲局により插入されていたものである、とウインチ = ルに告げ、さらにこれらの文章の入っているおそらく ( ンプルクで出されたとみられる最近の ニュース報の写しを同封していた。 これはウインチ = ルと彼の二五〇〇万の読者にとって面白い話だった。彼も読者もスティショ ンのことは聞いたこともなかった。 それから亡命ポーランド教授で第一次大戦中は破壊工作と″抵抗運動〃の専門家だった男の考 案した″ヴィク〃といわれるゲームがあった。それは「民主主義を愛するすべての人たちの面白 い新しい気晴らし」なのたそうだが、その目的は中立国にいるファシストたちやファシズム同調 者を絶え間ない小さな迫害にあわせて時間を無駄づかいさせ、彼らの仕事を混乱させ、その神経 をすり減らさせ、彼らと土地の住民といさかいを起させようというものだった。″ヴィク〃は英 語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語で書かれた安価な、匿名の小冊子でもって開始され たが、この小冊子はスティションで作成され、スティーヴンスンの部下が南アメリカ全体に極

8. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

肥た外交官をしつかりと捉えて離さなかったのは、明らかに性によるものだったからである。その 他に彼女は沢山の長所があった。広く旅行しており、ヨーロッパ人の心理をよく知っていた。鋭 い切れる頭脳を持ち、的確な報告者だった。勇敢で、しばしば彼女の雇主が許さないような危険 を冒そうとし、またそうしたがった。彼女の信頼性は文句なしだったし、雇主に対する忠誠は完 全だった。金銭に貪欲でなく、自分の信ずる主義主張に仕えるのに貪欲なだけたった。事実、生 活するのに必要な経費よりちょっと多くのわずかなサラリーしか貰わなかった。彼女の仕事の価 値は金銭では計れないものがあった。それは結局、かねで買えないものだった。 この物語の都合上、彼女はシンシアと呼ばれるが、それは彼女の本名ではない。またこの文章 の読者が、彼女を本書の筆者の想像の産物であると考えないよう、この頃、筆者は彼女の職業上 のお客の一部が受けていたのとは違った仕方で、彼女と知合いになる喜びを持ったことを明らか にしなければならない。例えば者は一九四一年八月下旬のあるタ方、ニューヨークのマジソン 街を彼女と歩いていて、新聞の見出しにラヴァールがフ一フンスで彼の生命を狙う者によって撃た れ、負傷したとの発表をみたのを、いまでもありありと思い出す。詳しいことの載っている新聞 を買い、彼女が住んでいる近くのホテルに場所を移し、ラヴァーレ ノが怪我がもとで死んだら、ど ういうことになるか議論した。ところがラヴァ 1 ルは負傷から回復し、暗殺者の弾丸によってで なく、彼がフランスの伝統的敵のために裏切った国の、公式の銃殺隊の弾丸によって死ぬ運命に あった。 シンシアは一九四〇 ~ 四一年の冬にかけてでかい功績をあげた。それは最初の大きな仕事で、 ワシントンのイタリア大使館からイタリア海軍暗号を入手する一、とだった。彼女はまず海軍武官 アルベルト・ライス提督に紹介してもらい、時を移さず熱心に交際を深めて行った。彼は彼女の

9. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

の進言を確認してヒトラーを誤まらせた主たる責任者は、ロザミア卿と金髪のイギリスのヒトラ ー崇拝者ュニティ ・ミットフォードであることを打ち明けた。この両人は一九三九年に、イギリ スが「ファシズム革命の前夜にある」と報告していたのだ。ヴァイデマンによると、陸軍参謀総 長べック大将の立案したイギリス侵略のしつかりした詳細な計画があったのだが、ヒトラーとゲ 1 リングのほかはだれも賛成しない非実際的な素人向きの計画に替えられたのだった。参謀本部 がヒトラーに、この方法によるイギリス侵略の計画は自殺的たというと、ヒトラーは三日間ひど い憂うつ症にかかった。イギリス処理の最終案は、とヴァイデマンはつづけた、激しい絶え間な い空襲でこの国をやつつけることだったが、それはヒトラーが「イギリスは長期間の爆撃に耐え られない」と信じたからだった。 おそらくヴァイデマンの最も貴重な機密情報は、・ハルカン諸国における将来のドイツの戦略に 関するものだったろう。一九四〇年一一月、彼はワイズマンに、ドイツ高等司令部はスペインを 説いて協力させ、・フルガリアとユーゴを枢軸側に引き込んで、地中海を両端で封鎖する計画であ る、と告げ、「兵站の観点からは、・ハルカン経由の動きは一部の人が考えるほど困難でなく、こ の問題については慎重な研究が終っているーと語った。すでに述べたように、これはヒトラーの 戦車が五カ月後・フルガリアを通ってユーゴとギリシアに侵入した時に起ったことの全く正確な予 言だった。 この会談のニュースがおそらくホワイトハウスを通って国務省に結局届いたのだろう、それで この接触は打ち切られたが、それは和平交渉の案を練ることがアメリカの中立の地位と矛盾する 好ましくない政治活動になると気にしたからだった。ステファニー王女は彼女の滞在許可の延長 を断られ、米移民局から退去を命ぜられた ( ワイズマンの会談参加が全面的にの承知と承

10. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

101 った。フランスの失陥を祝してニューヨークでヴェストリクのために催された宴会には、同社の ネ長も出席していた。ヴ = ストリクの目的がアメリカの大企業に、ドイツはすでに戦争に勝った も同然と信じさせ、孤立主義のために彼らの支持を取りつけるにあることは明白だった。実業家 への報酬は枢軸側の支配するヨーロッパでの商売上の特権ということたった。 こうした事実は、スティーヴンスンから仲介者を通じてニ、ーヨーク・ヘラルド・トリビ、 ン紙に流され、ここで第一級品のニュース・ストーリーに仕立てられ、拡大されて続き物にされ た。これが今度は、とくにフランスの陥落はドイツがフランスの実業家、政治家を腐敗させたた めだと指摘する、隠れた第五列の脅威についての幾つもの社説となって全国に配られることとな こうした暴露の波紋は直ぐに現われた。ヴェストリクは罵倒の手紙や電話の洪水に見舞われた。 彼の屋敷の外には敵意を持った群衆が集り、彼は蓄音機に《ゴッド・・フレス・アメリカ》や《星 条旗》をかけて鎮めようとしたが、が彼に二四時間の護衛をつけねばならなかった。彼の 運転免許証は取消しになった。それはその申請のさいに彼が″身障者″であるのを明らかにせず、 実は彼が片方の脚をなくしていることがヘラルド・トリビューンに暴露されたからだった。つい には、スティ 1 ヴンスンによって突っかれたの勧告にあおられた国務省が、合衆国に非友 好的活動を行ったかどで彼を召還するようドイツ政府に要求し、それで一九四〇年八月末には彼 は日本船でドイツに帰る途上にあった。 ヘラルド・トリビューンは、アドルフ・ヒトラーの危険な使節を燻し出したことをみなから喜 ばれ、この立派な仕事のために同紙にビ = ーリツツア賞を贈ろうとの提案さえあった。同時に例 の石汕会社の株は暴落し、社長は自分の今後の心配から自分は心から親英的なのだ、と新聞に請