老ペタン元帥を国家元首として、明らかに権威主義的基盤の上にヴィシーに樹てられた非占領 下フランスの政府と関係を維持するとのローズヴェルト大統領の決定ほど、外交分野における大 統領の決定で当時アメリカの世論を鋭く対立させ、ひどく批判されたものはなかった。カナダ首 相マッケンジー・キングも、ヴィシ 1 に代表を置いているために、同じく国で攻撃された。あと から起ったことに照してみると、このふたりの政治家の決定が十分に正しかったことに、現在は 疑問がない。 というのは、のちにチャーチル氏がいったように、「ここにわれわれが他に近づき ( 原註 1 ) ようのない中庭への窓が少なくとも一つあった」からである。とはいえそれは、各方面で、とく に海外でナチとの闘いをつづけているドゴールとその自由フランス委員会に同情する向きでは、 広く誤解された。この感情が強められたのは、ヴィシ 1 の不面目なファシスト的外見のうしろに、 対独共犯者の元凶でペタンの予定された後継者ビエール・ラヴァール副首相の不吉な姿がみえた からだ、その彼は元帥とヒトラーとのモントワール会見を仕組み、公然とイギリスの敗北を祈っ ていた。 第四章ヴィシー ・フランス、その他
ドールトン博士はロンドンで新聞記者 米議会が武器貸与法を通過させた直ぐあと、経済戦争相 会見を行い、合衆国が今後イギリスを助ける最善の方法は、「敵の資産を凍結し、敵の商社の ″・フラックリスト作成〃に協力し、船舶の燃料補給の管理に協力することーである、とアメリカ の特派員に告げた。ついで彼は、彼によると「敵と通商している」幾つかのアメリカの商社の名 をあげた。そこにはジ = ネラル・ア = リン・アンド・フィルム会社、ニ、ージャージー ムフィールドのシ = ーリング会社、 = 、ーヨークのパイオ = ア・インポート会社があがっており、 そのいずれも本当はドイツの工業および商業コンツ = ルンの子会社だった。同じ関連でドールト ン博士は、チェース・ナショナル銀行もあげた。 この声明はアメリカの新聞にのって、大いに反響を呼んだ。槍玉にあがった会社は怒ってこの 非難を否定する一方、 ( ル国務長官はこの非難に「ひどく憤慨し」、少なくともその一つの場合、 ( 原計ー ) チ = ース・ナショナル銀行の場合は事実無根であるとの信念を表明した、といわれる。経済戦争 相がその声明の基礎にした事実は、むろん、スティーヴンスンから供給されたものだった。それ 第五章特殊工作
スティーヴンスンがロンドンの—Øと 0 本部のために引き受けた仕事の一つは、工作員 をつのり、訓練し、敵地に送り込むことだった。それを実行するのに、幾多のみえない障害があ 合衆国は西半球で最大の将来の人員募集源だったが、スティーヴンスンの機構は遺憾ながらそ れを十分に利用できなかった。アメリカの中立がつづくかぎり、合衆国政府は国内の外国の少数 民族から人員が募集されるのを好まなかった。そして合衆国政府はこの希望を、移民局や司法省、 稼ぎの大半を強制的に召し上げられようとしていた時だ。 さらに資金が一九四四年末に、リスポンから時価六〇〇〇ドルのダイヤモンドのネクタイ・ビ ″くッド・に届けられた。ひ ンと指環を持って飛んで来たもうひとりのドイツの工作員から きつづいて同種の巧みな方法の支払いがなされたが、これは″パット・の二重スパイとして の成功を十分に証するものだった。というのは、それはドイツ側が明らかに彼を高く買っている ″パット・は、ドイツが降伏した時も無電送信をつづけていた。そ ことを意味したからだ。 してドイツの地下活動が復活する場合に備えて、そうしつづける計画だった。 スティーヴンスンとその組織が、様々な面倒はあったにせよ、アメリカ人を助けて二重スパイ を操作させたのは十分価値があったこと、そして素晴しい欺瞞工作が、とくに合衆国の戦力に関 してドイツ側に対して施されたことは疑いな、。
シェーリング・コンツェルンよりずっと恐るべき攻撃目標は、一般に・・ファルペンと呼 ばれているところの、会社の全名前をいえば、インテレセンゲマインシャフト・ファルペンイン ドウストリ・アクチェンゲセルシャフト ( 利益協同体・染料工業株式会社 ) という名の巨大なド ィッの染料トラストだった。資本金九億ライヒスマルクを擁し、その種の会社としては世界最大 のものだった。米司法省の反トラスト部のひとりによると、それは「独占の集合体であり、カル テルの侵略体制」であった。その合衆国における主な子会社は、ドールトン博士の非難した会社 の一つ、資本金六二〇〇万ドルのジェネラル・アニ . リン・アンド・フィルム・コーポレーション ・オヴ・ニュ ヨーク ( 戦争が始まるまでアメリカン・・ ()5 ・ケミカル・コーポレーションと 呼ばれていた ) だった。それはまた、アメリカ最大の薬品会社スターリング・。フロダクッ社やス ターリングを支配するべィア・グループおよびニュージャージーのスタンダード石油会社ならび にデトロイトのフォード自動車会社と強く結びついていた ( ケルンのフォ 1 ド アルべンの一〇〇パーセントを支配する子会社だった ) 。 両アメリカにおける—・・ファルべン帝国をスティ 1 ヴンスンが暴露したものが、匿名で書 炻かれた小冊子『黙示録続編』となって現われた。これは二五セントで発売され、「あなたの一 0 行われた。しかしその大分前にスティ 1 ヴンスンと彼の部下の精力的措置のおかげで、同社のナ チの翼は効果的に切り取られていたのだった。
スティーヴンスンがフーヴァーに始めて会った頃、—はローズヴェルト大統領から、西半 球全域にわたって合衆国の安全を脅しそうな破壊活動の秘密情報蒐集と潜在的スパイと妨害エ作 者に対する適切な予防措置を準備する責任をまかされた。この責任をフーヴァーは歓迎した、と いうのはこの野心的な長官は常に—の利益を伸ばすことを願っていたが、これは—の権 威と影響力にかなりプラスするものだったからである。ところが彼はこの新しい責任を果すのに 中立法でひどいハンディキャツ。フを受けていた。 イギリスのと違い、アメリカのは社会的監視の目のぎらぎら光る中で仕事をしな ければならなかった。が秘密情報組織として機能でぎるためには、フーヴァーは議会の支 持が必要だったが、この支持は与えられなかった。彼には合衆国の領土の外でス。ハイを雇う法的 権限がなかった。そのため彼は、国務省とラテン・アメリカ諸国の公式の米外交機関の目をかす めて行動しなければならなかった。彼の法的権限は合衆国内における対抗スパイ活動に限定され ていたが、そのためにさえ自分の仕事に不可欠な情報源に近づくことは許されなかった。例えば 当時は郵便や電報の国内検閲がなかった、それでの工作員は郵便局から手紙を盗むことま でしなければならなかった。この不法行為が暴露し、万一正当化されないようなことが起ったら、 組織の存続、あるいは少なくともフ 1 ヴァーの長官としての任が危くされるような規模の政治 的波紋を起しただろう。もう一つのハンディキャツ。フは、最近米最高裁判所がの工作員の 5
( 京註 9 ) 側にとどまったことには変りはなかった。 ・ヘルモンテの手紙を入手した方法は尋常ではなかったが、この工作はその結果によって判断さ れねばならない。それは多分、革命を回避させたといえる、それは確かにドイツ公使の追放と多 数の危険人物の逮捕の原囚となり、、 六カ月後のリオの全米州会議の空気を準備し、この会議では ポリビアと一八のラテン・アメリカ諸国が枢軸側と断交し、団結して西半球防衛の共通の計画を ( 原註 ) 持っこととなったのた これはサムナー・ウエルズによると、「新世界を救った決断」だった。 スティーヴンスンが南アメリカで遂行した次の大きな工作は、 < —航空の閉鎖をもたらし た。戦争の初期、・フラジルは枢軸側のアメリカ大陸との最も重要な交通路の一つの終点だった。 ヨーロッパと・フラジル間を定期的に飛ぶイタリアの e —航空は、ドイツとイタリアの外交行 嚢、クーリエ、スパイ、ダイヤモンド、白金、雲母、化学製品、宣伝フィルム、本を連んだ。・フ ラジル政府はこ . の航空便を邪魔するつもりはなかった。プラジル大統領の義理の息子のひとりは、 この航空の技術主任だったし、他に多く有力なプラジル人がこの航空の着陸権を維持するのに利 害関係を持っていた。米国務省の抗議を無視して、ある米石汕会社はに給油していた。 »--ä e はイギリスの経済封鎖の最大の抜け穴だった。そこでロンドンの特殊工作執行部 ( 0 @) はこれに対し思い切った手を打っことを迫られていて、スティーヴンスンにその旨の指令が 出された。
247 リて彼が三つないし四つとも失う結果にならないとい : 最後の四州はデューイの最も危い : えない。 選挙の結果は、まさにスティーヴンスンの予言した通りだった。デューイは彼の最小限として 挙げられた八州全部と残りの勝っかもしれないとされた州の四つで勝った。ローズヴ = ルトは三 六州で勝利し、四三二の選挙人票を得た。もっとも一般投票の彼の得票は相当縮小し、得票差三 〇〇万票で、一九一六年以後の大統領選挙では最少だった。 スティーヴンスンがやったもう一つの予想は、重要なニューヨーク市の市長選に関するものだ った。一九四四年初め彼は、フィオレオ・ラガーディアは再出馬しない、次の市長はウィリアム ・オドワイアだ、と予言した。この時はラガーディアが再出馬すると一般に受け取られ、新聞も それを当然とみていた。 一八カ月後、オドワイアが同市の歴史始まって以来の最大の得票差で選 出された。 ギャラツ。フ世論調査については、さきのローズヴ = ルト選挙の時のような失敗が時折あるが、 スティーヴンスンはギャラツ。フ調査に対し健全な敬意を持っていて、その調査結果を大抵は極め て正確とみていた、というのが公平だ。彼はさらに、ローズヴ = ルト政府が人に知られないよう にこれを利用しているのを知っていた。このためギャラツ。フの組織は特定問題についての回答を 入手するのに使われ、その回答は大統領の演説起草者サミュエル・ローゼンマン判事に渡され、 判事はこれを大統領に伝えた。それらが同政府の政治戦略に相当な影響を持ったことは疑いない。 ギャラツ。フの調査員の集めた情報の多くは、ギャラツ。フの役員のひとりで、自らも米世論の専門 家である才気に富むスコットランド人ディヴィッド・オーグルヴィを通じて、スティ 1 ヴンスン
244 戦争の遂行と直接関係ある秘密情報を収集するほかに、スティーヴンスンはアメリカの国内政 治に関する貴重な情報を集めることができた。それは一般に大統領自身とかクーネイオーやドノ ヴ . アンといった彼の顧問や政府の一員によって、個人的になされた事実の言明と個人的に表明さ れた意見や意向に基づいていた。この情報はロンドンの最高水準に届くだろうと知っての上でス ティーヴンスンに進んで告げられたのである。 ついでながらクーネイオーは、大統領の・フレーン・トラストであるだけでなく、その・フレーン ・トラストの調整役でもあり、スティーヴンスンとのその連絡係でもあった。この頃このプレー ン・トラストこよ、アドルフ コラン、モリス・ア フランシス・ビドル、トム・コ レッ , い、。 ンスト、 ハリー・ホ。フキンズ、ローウエル 十フ・シャ ティヴィッド・ナイルズ、 : ・ 1 ウッド . ~ は」、がしュ / ここにふたつの例をあげよう。日本による真珠湾攻撃の翌日、スティーヴンスンはロンドンに、 大統領がその翌日議会に発表する予定の損害と死傷者の数を知らせた。「とにかく、これはイギ リスをそう気ままに批判してはならないとの海軍への健全な教訓であろう」とローズヴェルトは いったといわれる。この情報の出どこはドノヴァンで、彼は、ホワイトハウス始まって以来の最 も熱病じみた疲れる日々の一日のあと、一九四一年一二月の七日加ら八日にかけての深夜、大統 領に呼ばれたのだった。「わが方の飛行機すべてが地上でやられるなんて」と大統領は、ドノヴ ( 京 3 ) アンがフィリビン海岸の緊急防衛策を具申した時、怒りに任せて続けた。 もう一つの例は、ワシントンにおけるソ連の戦術に関するものだった。一九四四年四月スティ 1 ヴンスンは、ソ連が武器貸与法を戦争が終っても三年間延長してもらって「大海軍を建設」し
224 この情報はイギリス側に連絡されたが、ロンドンの英諜報機関の責任者たちは、長いことそれ を、だまされやすいアメリカ人に敵がわざと″仕掛けたわな″以上の何物でもない、 といって信 じようともしなかった。それが本物であるのを確信しているスティーヴンスンは、ついに、彼の 一一一口苺亠を借りると、ロンドンにガヴァンメント・コ 1 ド・アンド・ サイファー ・スクールの校長の 支援を得て「暴動を起した」。やがて暗号解読者たちは彼らが調べたものとそれを突き合わせる ことができ、その結果、この情報の信頼性が疑問の余地なく証明された。 ニューヨークに帰って少しして、スティーヴンスンは、報告に帰国していたアレン・ダレスと 会い、彼の成功を心から祝った。これと同時にスティーヴンスンはドノヴァンにつぎのような手 紙を送った。 〈ニューヨーク、一九四四年一一月一五日〉 あなたの実に有能なスイスにおける代表が当地に来られたので、私が最近ロンドノこ、 時、″ウッド〃関係の記録と成果を調べる機会を得たことを想起しました。これは間違いな くこの戦争での最大の秘密情報工作の成果の一つです。 私はこの例外的ケ】スを例にあげていますが、私はさらにあなたの全秘密情報機構が、他 の様々な既存の秘密情報組織と比べて、驚くほど短期間に立派になったことに心から感嘆の 念を表明しなくてはなりません。ここでは、これに劣らず立派なあなたの他の部門の活動に ついて私がみたことはふれませんが、私としてはあなたの″諜報れ面ーーーこれは結局、海外 工作では最も徴妙な活動なのですが が実に驚くほど成功していることに私の喜びを記録 しないではおれません。本当の経験をした人、譟報のやり方とその成果とを多少でも知って
170 スティーヴンスンと彼の組織が深い関心を持っていた秘密経済戦争のもう一つの面は、密輸の 防止、とくに小量だが、高価な禁制品の密輸の防止だった。 職業的密輸業者は、イギリスの経済封鎖を破って不法な所有物を通過させようとしてしばしば 大変巧妙な手を使った。従って、防止措置も同様に抜け目なく、よく組織されていないと、ほと んど成功の見込みはなかった。密輸業者といえば、二重底の船乗り用所持品箱やロッカーはあり きたりのことだった。一台の特殊無線送信機が、ビアノに偽装されて三度も船を乗りついで大西 洋を渡って、ブ丁ノスアイレスに密輸入された。ベネズエラのスペイン人は歯みがき粉のチュー ・フの内側にダイヤモンドを隠した。スティーヴンスンに届いた報告によると、白金がカナリアの 籠の水差しに入れて密輸されたし、別の報告によると、この物資が普通の手紙に貼る郵便切手の 裏にかくされて細い針金の形で運ばれた。ある男がアルゼンチン税関からこの金属二〇ポンドを 粉状にして肌につけたベルトに入れて運んでいるのを見つけられた。船舶情報を送っているかど でジプラルタルで捕った別の男は、白金をつめた写真機を船の無線装置内に隠していた。白金は また桃のカン詰に隠してアルゼンチンから密輸出されたし、またある時はかなりの量がコックの 厨房の貯蔵なべにみつかった。密輸業者は金貨をとかし、これを真鍮のノ 。、ツクルまがいの形にし、 そのため合衆国政府は、時が来た時に、枢軸側のために働いているアメリカ人が経済戦争の実際 ( 原註 3 ) 措置に対しどんなに抗議しても、これを暴露する用意ができていた」