ロンドン - みる会図書館


検索対象: 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)
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1. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

田 、ハルとの会談で展開し、彼らを感銘 ド / ヴァン自身こうした議論をノックス、ステイムスン させたが、彼らには行動に出る前にもっと具体的証拠を、とくにイギリスの提案に同意する必要 の方が、そうすることで晒される国内的危険より大きい、との主張を裏づける証拠が必要だった。 こうした証拠を入手するためにドノヴァンは、もう一度ロンドンを訪問し、地中海に足を伸ばし、 イギリスの海上運送と兵站への危険が、最近イタリアのギリシア侵略で増大している状況を、み ようと提案した。今回はドノヴァンは海軍省の代表として公式に旅行することに意見が一致した。 ロンドンまで彼とともに飛んだスティ 1 ヴンスンは、出発前にロンドンの秘密情報機関本部に打 、と述べ、「彼は重大な役割を、 電し、ドノヴァン訪問の重要性は強調し過ぎることはできない 多分死活的役割を演じよう。だがそれは正規の外交と一致しないかもしれないし、またその通路 に限定されないかもしれない」と論じ、「あなたが個人的に首相に、ドノヴァンが目下のところ われわれの持っ最強力の友人であると伝えてほしい」と告げた。 ミューダで遅れたのち、彼らは一二月中旬ロンドンに着いた。こ 悪天候のため二週間近く・ハ 彼らは、スティーヴンスンの言葉によると、「ドノヴ こで両人はチャーチルその他と会ったが、 , アンの第一回訪問の前に私が″お膳立て〃したことの正しかったのを証明したこの人物の第二回 訪問の意味と可能性を理解した」。首相は内閣補佐官のひとりで、有能な兵略家のヴィヴィアン ( 原註 ) ・ダイクス准将をドノヴァンについて中東に行くよう手配した。 ついでスティ 1 ヴンスンは海軍省の海軍情報部長に、地中海艦隊司令長官カニンガム提督にあ ててドノヴァンの旅行の目的について打電させた。スティーヴンスンがのちに述べたところによ ると、「それは提督とその部下に、ドノヴァンがこの世でもあの世でも会いそうにない最重要な 使節である」のをいやというほど明確にさせたものだった。彼はさらに、「私がそれを知ってい

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% ーは、ペドフォードシャーのペドフォード侯の別荘ウォ。ハーン・アビーから運営され、物理的に 政勢をとる特殊工作部 ( S02 ) は、ロンドンのペイカー街の見映えのしない事務所に本部を構 ケスクセ・べイカ え、これが少なくとも名前だけは広く知られることとなった ( 「べイカ 1 街ってなんだい」 と解放直後パリのカフェでひとりのフランス人がもうひとりに訊いているのが耳に入った ) 。 ドノヴァンが一九四一年四月、中東と・ハルカンの旅行から帰り、ホワイト ( ウスに報告すると、 ローズヴェルト大統領はこの問題を真剣に考慮しはじめた。というのは、この頃には武器貸与法 が機能し出し、議会はイギリス側に立って大規模に介入する考えに慣れてきたからだ。五月初め スティーヴンスンはロンドンに、彼がドノヴァンに「一切のアメリカの機密情報を調整する仕事 を引き受けるよう説得を試みている」と打電した。このために彼は、ホワイトハウスに影響力を シャーウッ 持っている様々な個人、とくに大統領の演説の多くを書いている劇作家のロ・、 ドや、敗北主義のジョゼフ・ケネディに代って一九四一年初めに駐ロンドン米大使となった同情 的で親英派のジョン・ワイナントの協力を得た。同時に彼は、ドノヴァンに秘密情報を供給し、 ドノヴァンがこれを大統領に知らせ、こうして合衆国にスティーヴンスン自身のと同じような秘 密の情報機関を作る必要を強調できるようにしていた。ところが最近の訪問でドノヴァンに素晴 しい印象を与えているが、そういう情報をド / ヴァンに提供することに対しロンドンの旧い秘密 機関の一部には若干の面白くない気分があった。「ある時には」とスティ 1 ヴンスンはのちにド ノヴァンの親友で戦時中の仲間のひとりに、彼独特の言葉でこういった、「一番上の偉い人 ( チ ャーチル ) の支持を得る必要があった、彼は、私にとって幸いなことに、英米関係に関するすべ てのことについて私といつも意見が一致していたし、彼の側近には関係部門がわが友ドノヴァン との関係で偉い人の命令を逸脱しそうになることに鋭い目を光らせている何人かがいた。イズメ

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もに政治戦争の遂行に深くかかわ 0 ていたからだ。それで軍司令部における円滑な仕事の進行と 能率はふたりの・ホスの仲違いにより改善されなかった。とくにこの仲違いがそれぞれの部下によ り一層激しいものにさせられただけにそうだった。が作戦の軍事分野における一切の宣伝 工作の権利を主張した時には、この仲違いが大きな反目にまで発展した。それはアイゼン ( ワー 将軍が連合国ヨーロツ。 ( 派遣軍最高司令官として独自の統合英米心理戦争部 (*n) を設け、 作戦の舞台における宣伝工作の責任を持たせ、経済戦争執行部 (*@) との対外部門か ら指導を受けることにすることでやっと解決された。この二つのロンドンにある文民の機関はそ ートとロ ・フルース・ロックハ れそれサー ート・シャ 1 ウッドが責任者だった。幸いにもシャ ( 原荘 8 ) ウッド A 」ロック、 ートは実に仲良く協力した。 シャーウッドがロンドンに移っても、彼とスティーヴンスンの関係は、最初から変りなく非常 に温かなものだった。「あそこに、あのまたとない素質を持った、実に高潔な人物が歩いて行 く」とスティーヴンスンは本書の筆者にあるタ方、五番街を歩いている時いって、遠くにボ・フ・ シャ 1 ウッドをみつけた。「あんな人はそういないよ、とくに今のようなあくせくした世の中で スティーヴンスンにとって不幸なことに、彼とシャーウッドとの公式な関係は、 0 が作ら れて直ぐの一九四二年夏に中断された。これは、イギリス王妃の兄弟で現在の女王の叔父にあた る ( のちにサー ) ディヴィッド・ポーズ = ライアン閣下の率いる政治戦争使節団がロンドンから ワシントンに来たためだった。ポーズ日ライアンはスティ 1 ヴンスンのやっている公然の宣伝、 その中でも最も重要なのは極東向け放送だったが、そのすべてを引き継ぎたいといった。この提 案に最初スティーヴンスンは反対した。そういうことをすると、円滑に行っている連携作業の継

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務省はかねの蛇口を締めて、頭金が払い込まれないかぎりこれ以上引き出すのを拒否した。財務 省の冷たい眼からすると、たとえ相手が米政府機関でも貸し越しには限度があるというのだった。 他方ロンドンは、さらに二〇〇万ドルを至急求めていた。そのぎりぎりの期限は、飛行機がイ ギリスからポーランドに飛び、みつかる危険をそんなに冒さないで帰れるのに十分な暗さのある 最後の月齢の三月一五日だった。説得したり、ドノヴァンとその部下の惜しみなき援助と、ちょ うど折よく小さな札で最初の二〇〇万ドルがアメリカに到着したりして、このもめごとは克服さ れた。一九四三年三月一三日までに第一回の五〇〇万ドルの最後の引渡し分が、ポーランドに送 られるようロンドンに到着した。それは直ちに飛行機に移され、ほとんどまっ暗闇の中をポーラ ソド領に降された。飛行機は無事に帰還し、ポーランドの地下運動はさらに何カ月もかねの心配 なしにやって行くことができた。 四、五カ月後、さらに五二五万ドルがイギリスに送られて来たが、この時にはイギリスにはア メリカの通貨に支払うだけの十分なドル資金がなかった。英大蔵省はなんとかして一枚の小切手 か何枚かの小切手を合衆国政府に渡さねばならなかったが、しかも米財務省にも外国資金管理局 にもこうした取引があったことも、その理由も知らせるわけに行かなかった。ドノヴァンの金融 関係顧問がこの問題を解決した。彼はの代理として米財務省から紙幣を引き出し、それを イギリスに送るようスティーヴンスンの事務所に引き渡した。英大蔵省は英補給省に小切手を送 って支払い、補給省ではニューヨークの英購人委員会に、ドノヴァンの金融関係顧問個人あての 同じ額の小切手を振り出すよう指示した。後者はそこでこの払い込みを OØØに渡した。この手 配の有利な点は、ロンドンの補給省、またはニューヨークのその購入委員会による使途の明示さ れてない目的のための高額の支払いは普通のことだったので、ここに述べたような取引も注意を

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遂行しなければならなかった。この点でドノヴァンの協力は、この物資を大量に、しばしば実に 短い予告で入手するのに貴重だった。例えば米財務省および・ ( ンカーズ・トラスト社との長たら しい交渉のあとで、 O は 0 と力を合わせて、ほとんど二〇〇万ポルトガル・エスクード / のイギリスの秘密工作員が必要としたもので、こ 相当のドルを支払った。このかねはヨーロツ。、 れはポルトガルの船主ジョセ・べンサウゼのリスポン事務所を通じて用立てられた。 別の時、五〇ドルと一〇〇ドル紙幣で一八〇〇万ドルを超えるものが、最後の侵攻の前と侵攻 の間とにヨーロッパのイギリスおよび連合国側の地下組織のために、ニューヨークからロンドン に送られた。それは一九四二年に始まり、二年後に終る一連の長い操作であって、それを知って いるのは、Ø O とロンドンの 0 の他はドノヴァンと彼の部下ふたりしかいなかった。この 送金が英大蔵省と米財務省の間に直接行われたら、あまりに多くの人が関係することになり、そ の結果、紙幣の発送とその目的地が容易に敵に知られていただろう。 この厄介ごとを避けるため、ドノヴァンの部下のひとりが米財務省から高額紙幣で引き出すよ う手はずが整えられた。こうして最初の三〇〇万ドルは一九四三年二月に送られ、イギリスで掻 き集めた一ドル、二ドル、 五ドルの札に交換された。合衆国にそれらは送り返され、高額紙幣で 引き出したと同じ O(J)CO の職員により米財務省に払い込まれた。 すべては順調に行っていたが、高額紙幣の一〇〇万ドルはひと袋で足りたが、小さな札で同じ 額をとなると、三〇袋も四〇袋もいることが明らかになった。それで空便だと積荷空間が不足す るし、護送船団で大西洋を渡るとなると、少なくとも四週間はかかるので、東から西への流れと 西から東への流れのテンポが合わなくなった。最初の三〇〇万ドルが米財務省から引き出されて 幻ロンドンに送られ、総額のほとんど半分が予定されていたポーランド側に配られたあとで、米財

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に完全な信頼関係が生れた。その後すこしして、ソスビー商会の会長の故チャ】ルズ・デ・グラ 1 ッとその補佐官のロンドンのモーガン・グレンフ = ル銀行のウィリアム・ヒル日ウッドという トの代理として西半球のすべてのイギリスの検 検閲局のふたりの最も有能な高級職員がハ 閲を引き受け、ニューヨークにその本部を設けた時、この信頼関係はスティーヴンスンによりこ の両人にも拡げられた。同様の連絡取決めがカナダ保安当局、とくに王立カナダ騎馬警察とも結 ばれた。最後にスティーヴンスンはロンドンの指令で、ラテン・アメリカのお粗末な現在の英秘 密情報網と直接連絡をとれるようになった。しかし彼は直きに、これらの工作員の大部分が = 、 ーヨークの彼の着任した当時の旅券取締局と大して変らない貧弱な能力しか持たないのを発見し た。そこでスティーヴンスンは彼自身の代表をメキシコや中央アメリカのすべての主要地に派遣 して、ラテン・アメリカの機能を強化することにした。 エドガー ・フーヴァーとそのは、こうした初期の頃は、この上もなく協力的だった。拡 大するスティーヴンスンの組織はそれ自身のス。 ( イだけでなく、イギリスの資産の特別防衛のた め独自の警察力に近いものを使用していたので、明らかに合衆国の中立に対する明白な脅威であ り、の暗黙の承認がなければ、存在することなど考えられなかった。しかしフーヴァーは 黙認者にとどまらなかった。彼は本当の意味でその保護者だった。この機構に英安全保障調整局 O) という変名を示唆したのは彼たった。さらにスティ 1 ヴンスンに—の無電チャン ネルを使用させた。これが何カ月にもわたってとロンドンの本部との唯一の安全な通信手 段となった。個人的にはスティーヴンスンと実に緊密に協力し、ドイツおよびイタリアとの戦争 でイギリスの利益を防衛し、促進するという当時にあっては全く非中立な目的を推進し、部下の 行職員には可能なあらゆる手段でを援助するよう指示した。要するにフーヴァーはを、

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252 4 戦争の大部分を通じて、スティーヴンスンは通常は仲介者を通してアメリカの新聞と効果的関 係を維持することができ、時にはアメリカの新聞は彼の組織が提供した材料をもとに、例えばヴ ギャラツ。フの方法を知って、ディヴィッド・オーグルヴィは、世論調査を他の国で密かにやれ ば、多くの政治上、人種上の問題を人民投票の混乱ゃあり得べき腐敗なしに解決するのに役立っ かもしれない、と考えた。このような世論調査を戦時中のいつでもよいからスペインでやれば、 その結論はフランコに対するイギリスの政策の指針として使えただけでなく、・ とんな宣伝工作を やれば最も効果的か決定できただろう、同じ方法で・フラジルのインテグラリストとかイギリスの サー・オズワルド・モズリー のファシスト黒シャッ党といった政治運動の実力のほども評価でき ただろう、と思った。 これらの着想がオーグルヴィの書いた『人民投票の結果を予知し、計画された出来事の衝撃に 対する国民の反応を予言し、ギャラップの技術を秘密情報に適用する案』と題した報告に展開さ れて、一九四三年八月スティーヴンスンからロンドンに送られた。 当時はワシントンの英大使館もロンドンの本部もこれに対し色気をみせなかったが、一 年後アイゼンハワー将軍の司令部の心理戦争部が、オーグルヴィが主張し、スティーヴンスンが 支持した方法で、ヨーロッパで世論調査をやって成功した事実に変りはない。それ以後、合衆国 政府もギャラツ。フ博士の手法を公然、非公然に一貫して利用している。

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もって大使にぶつけて困らせる質問を教え込んで置いた。このためアンリ日ア工とその部下はま すます不利な形で報道されることとなった、というのはヴィシーの代表の弱々し、 、逃れ的説 明は全然説得的でなかったからである。「大使はフランス国民の、友好国の代表として発言して いるそうだ」とヘラルド・トリビーンはさらに社説で書いた、「それなのに彼の代表する政府 は、合衆国がその死活的利益に深く相反すると宣言したドイツの勝利を促進し、合衆国ができる かぎりのあらゆる援助を与えると誓約しているイギリスの抵抗を妨げるようなあらゆることをす でにしている」 この一斉の新聞キャンペーンの効果は、合衆国におけるヴィシー政府代表の信用をすっかりな くさせることとなった。自由フランスはむろん歓喜した。ムーサ自身は大使にわずかなかねでま だ雇われているにせよ、ムーサのゲシュタポがその活動を大半やめたのは、まんざらでない満足 すべき結果だった。アンリ日ア工はどうかといえば、彼は彼と彼の部下とに対する攻撃をこれ以 上公衆の前で弁明しようとせず、古傷に関するこれ以上の質問は答えることを拒否した。しかし 個人的には、スティーヴンスンが大使館に持っている筋によると、「少なからず困惑している」 とのことだった。事実、とくにひどく感情が激した時などは、この事件全部を「ドゴール・ユダ ヤ・イギリス・—の陰謀」だといったりした。しかし彼はイギリスを本気に疑ったことは全 くなかった。このことについてはロンドンの— ( 英秘密情報機関 ) 本部も同じだった。新聞 に続き物が出て数週間して、スティ 1 ヴンスンは彼のロンドンの本部から、ニューヨーク・ヘラ ルド・トリビューンに合衆国におけるヴィシー ・フランスの活動の暴露に関するものが載ったの をみたと思う、との趣旨の連絡を受け取った。そしてそれは「意見を聞きたい」と結んであった。 スティーヴンスンの意見は記録されていない。い・ すれにせよ、おそらく印刷できるものではなか

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たと発表した。 他に″ム 1 ンストーン〃とか″プロモ〃とか″アスビリン〃 ( 彼に関して色んな頭の痛いこと ーロツ・ンー 、″。、ツト・といった二重 があったので、そう名づけられた ) とか、 スパイがいた。ヨーロッパで戦争が終った時、操作されている後の三人により無線チャンネルは、 まだ使われていて、ドイツ側と毎日接触していた。最もうまく行ったのは、 この特定の二重スパイはオランダ人で、第一次大戦中ドイツの秘密情報機関のために仕事をし、 最後にラジオおよび電気装置の商人として故国に腰を据えた男だった。彼は商売上の関係でドイ ツのツアイス光学器械製造会社のオランダ子会社と接触するようになり、そこから一九四〇年ハ ーグでア。フヴェールに徴募された。彼の新しいポスたちは、彼を一定期間の訓練ののち合衆国に ドリードに着いた。ところがスペイ 送ることに決めた。一九四二年初め彼はアメリカへの途中マ との結論に ンで心境の変化を来たし、自分の国の同盟国を敵とする仕事をするわけに行かない、 達した。彼は。 ( スポートの関係で業務上訪問することを許されていたスペインのオランダ領事に このことを打ち明けた。 このオランダ人はロンドンに連絡し、ロンドンは当然スティーヴンスンに連絡して、できれば ″パット・を二重スパイとして合衆国に受け入れるよう取り計らってほしい と一緒に といった。フ 1 ヴァーは同意し、その援助で″パット・は渡航許可を得た。残念なことに彼 は到着直後、ひどい肺炎を起して倒れたが、回復とともにオランダとフランスにおけるア。フヴェ ールの仕事について貴重な情報をもたらすことができた。しかし彼がドイツ側と無線連絡を持っ ようになるには、一九四三年まで待たねばならなかった。だが、それ以降は、彼の通信の特質が

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244 戦争の遂行と直接関係ある秘密情報を収集するほかに、スティーヴンスンはアメリカの国内政 治に関する貴重な情報を集めることができた。それは一般に大統領自身とかクーネイオーやドノ ヴ . アンといった彼の顧問や政府の一員によって、個人的になされた事実の言明と個人的に表明さ れた意見や意向に基づいていた。この情報はロンドンの最高水準に届くだろうと知っての上でス ティーヴンスンに進んで告げられたのである。 ついでながらクーネイオーは、大統領の・フレーン・トラストであるだけでなく、その・フレーン ・トラストの調整役でもあり、スティーヴンスンとのその連絡係でもあった。この頃このプレー ン・トラストこよ、アドルフ コラン、モリス・ア フランシス・ビドル、トム・コ レッ , い、。 ンスト、 ハリー・ホ。フキンズ、ローウエル 十フ・シャ ティヴィッド・ナイルズ、 : ・ 1 ウッド . ~ は」、がしュ / ここにふたつの例をあげよう。日本による真珠湾攻撃の翌日、スティーヴンスンはロンドンに、 大統領がその翌日議会に発表する予定の損害と死傷者の数を知らせた。「とにかく、これはイギ リスをそう気ままに批判してはならないとの海軍への健全な教訓であろう」とローズヴェルトは いったといわれる。この情報の出どこはドノヴァンで、彼は、ホワイトハウス始まって以来の最 も熱病じみた疲れる日々の一日のあと、一九四一年一二月の七日加ら八日にかけての深夜、大統 領に呼ばれたのだった。「わが方の飛行機すべてが地上でやられるなんて」と大統領は、ドノヴ ( 京 3 ) アンがフィリビン海岸の緊急防衛策を具申した時、怒りに任せて続けた。 もう一つの例は、ワシントンにおけるソ連の戦術に関するものだった。一九四四年四月スティ 1 ヴンスンは、ソ連が武器貸与法を戦争が終っても三年間延長してもらって「大海軍を建設」し