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検索対象: 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)
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1. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

気前よく人びとをもてなした。 電子工学分野の科学研究と開発に没頭する一方で、スティーヴンスンは、彼自身の一言葉を使う と、「多少とも矛盾するようだが」、アマチュア・ライト級世界選手権を維持するために現役と してボクシングをつづけた。実際、彼のアマチュア・ボクサーとしての経歴は、はなはだ目覚し いもので、最終的にリングから一九二三年に引退した時は、無敗たった。 彼はまた飛行について興味を持ちつづけ、それとともに第七三飛行中隊の前の同僚の飛行中隊 長オ 1 をハー大尉との仲の良い競争関係もつづけた。一九二九年にオール・ハ 1 は、平均時速三五 七・七マイルを出してそれまでの世界記録を破り、イギリスにシュナイダ 1 賞をもたらした。彼 はこれをスー マリーン・スペシアルで樹立したが、これはのちに第二次世界大戦で有名にな ( 原計 2 ) るス。ヒットファイアの軍用機の原型であった。 一九三四年にスティーヴンスンは、Ⅱ・・スコーフィールド大尉が操縦し、彼の工場の一つ、 ジェネラル・エアクラフト・リミテッドが設計・製造した機で英国王杯ェア・レースで勝利を収 めた。これが双発低翼単葉のモノスパーだった。この時にみせたこの機の性能は、当時航空相で 自らも情熱的な飛行機乗りだったロンドンデリー卿に深い感銘を与えーー・・それは一つのエンジン で飛行し、上昇することができたが、当時では前代未聞の偉業だったーー・・彼は直ちにその一機を 自分の個人用に注文したが、筆者は同航空相とよく操縦席に坐ってこの機を飛ばしたので、この ヨークのアパート 出来事はよく覚えている。今日サー・ウィリアム・スティーヴンスンをニュ メントに訪れる者の眼にまず入るものの一つは、彼が古典的空の競技の勝利者としてジョージ五 世国王の手から受けた金のカツ。フである。 スティ 1 ヴンスンの会社のもう一つに、サウンド・シティ・フィルムズがあったが、これはこ

2. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

富ク卿 ) は大統領がいささかとつつきにくい奴とみている ( リファクスよりとうまくやれ る」と痛切に感じていたからである。 スティーヴンスンのビーヴァブルックに対する尊敬の念には並なみならぬものがあり、この頃 たまたま彼の悪口をいう者ーー・それは沢山いた に会うと、その男をひどくけなすのが常だっ ″リトル・ビル″は、彼のいう「戦争勝利派」、イギリスではチャーチルとビーヴァプルツ ク、アメリカではローズヴェルトとドノヴァンを先頭とする人びとの側に全面的に立っていた。 首相からみてもそうだが、スティーヴンスンからみれば、航空機生産相としてのビーヴァプルツ ル・オヴ・・フリテン ″イギリスの戦い〃の偉大な英雄であり、戦闘機隊を新しい、また修理した飛行機で一杯 にするそのほとんど超人的業績は、チャ 1 チルが一九四〇年八月初め彼を戦争内閣のその地位に 任命したことを十分に正当化するものだった。「それは彼の活躍する時たった」と首相はのちに ( 原註 ) 書いている。あるいは、スティーヴンスンが彼独特の表現で筆者にのべたように、「ビーヴァ・フ ルックが彼らしい力強い仕方で行使したあの物凄い圧力がなければ、空の闘いの終りに飛ぶこと のできる哀れなほどわずかの航空機がゼロ以下の力にならなかった、とだれがいえようか ? 」 彼自身が年功を積んだ経験に富む戦闘機乗りたったので、スティーヴンスンは戦場にいる息子 マックス・エイトキンの安全を気にするビーヴァ・フルックの気持と空中戦における息子の目覚し い勇敢な行動の記録に対する父親の誇りがよくわかった。彼はとくに一カナダ紙が、彼ら両人は 英独空軍の不均衡を縮小するのに多忙である、とつぎのように書いた讃辞を好ましく思った、 ( 原計 ) 「父親はイギリス機を生産し、息子はドイツ機をやつつける」 スティーヴンスンの評価によると、ビーヴァプルックのもう一つの戦時中の偉大な功績は、ロ ーズヴ = ルト大統領にアメリカの戦時生産計画を最初に「実に壮大な筆で描かせた」ワシントン こ。

3. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

齠なく乗客から郵便物を取り上げる名手だった。「われわれはもう直ぐイギリスの巡洋艦にとつつ かまる」と彼は船の乗客広報組織を通じて告げるのが常だった、「だから安全に持っていたい郵 便物を抱えている人はだれでも、それを船長室に渡してイギリス側に押えられないようにしたら よい」と。ある航海では重要な情報の書いてある一八通もの手紙が、このようにして入手され、 あとでスティーヴンスンのニューヨーク事務所に引き渡されて検査された上で投函された。ヴィ ・フランスのスパイ、ムーサの手紙の一部はこのようにして入手され、スティーヴンスンは 一、れを合衆国におけるヴィシーの隠密活動をやめさせるキャンペーンに利用した。スペイン船に 乗っている別の敏捷な監視員は、スペイン海軍作戦部長からすべてのス。ヘイン船の船長に渡され た、スペイン参戦の時にだけ開封することになっている封緘された航海命令をこっそり入手する ことに成功した。これらの入念に封緘された命令書は、密かに開封され、写真にとられ、一見だ れも手を触れなかったように再び封緘され、船の監視員のほかは、船長も船内のほかのだれにも 知られないでもとの場所に返された。 スティーヴンスンの監視員の多くは、船が寄港した中立国や敵国の出来事を報告できた。彼ら は流言を拡げ、反枢軸文書をばらまくのに使われた。彼らは一つの寄港地から他の寄港地に枢軸 側スパイのために禁制品や口頭のメッセージを運んでいる疑いのある船員について情報を提供し た。こうして船の監視員の定期的にもたらす報告から、スティーヴンスンの事務所では怪しい船 員の完全なリストを作成することができた。このリストは合衆国の各種の海連機関に提供され、 多くの好ましからざる船員が解雇されたり、船主から二度と採用されなくなった。 船舶監視員計画のためには、イギリスが合衆国の港や合衆国の船舶で工作員を使わねばならな かったから、これは必然的に米当局との摩擦の一つの原因だった。それで一九四一年末頃に、ス

4. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

広範な努力より以上に成果をあけられそうなひとりの個人に思いを集中させた。私の判断は結局 正しかった。ドノヴァンはその思想行動の独自性のために必然的に批判されたが、彼らの間でも 彼が一九四〇年夏に国際情勢を正しく評価していたことを否定するものは少なかった。 当時、合衆国政府は二つの行動路線のどれを取るか議論していた」とスティーヴンスンはつづ けた。「一つはイギリスが死ぬほど必要としている物資を供給して、イギリスに戦争をつづけさ せるよう努力することだった。もう一つはイギリスはもう駄目だとしてあきらめ、ドイツの脅威 を相殺するためもつばらアメリカの軍備拡張に集中することだった。前者の路線が結局とられる ことになったのは、主としてド / ヴァンが倦まずこれを主張したからだ。フランスの失陥の直後 は、大統領自身さえ、イギリス支援が現状では無駄にならないとは確信が持てなかった。ロンド 、と強調した電報を想起するまでもないだろう。 ンとパリの大使が、イギリスの戦いは希望がない ーグ大佐やホイーラー上院 ここの閣僚の大半が同じ結論に傾いており、そうした結論はリンド・ ( 議員といった人たちの組織された孤立主義に活発に表現されていた。他方ドノヴァンは、合衆国 から十分な援助が与えられたら、イギリスは生き残れるし、生き残ると確信していた。まず第一 にイギリスのなによりも必要とするものを彼に告げて、彼が適切な方面にそれを知らせることが できるようにし、ついでアメリカの物質的援助は先見の明のない慈善ではなくて、健全な投資で ある、との彼の主張を裏づける具体的証拠を彼に供給するのが私の任務だった」 スティ 1 ヴンスンから報告を聞いたドノヴァンの最初の反応は、ノックスおよびステイムスン との会合のお膳立てだった。これには彼とスティーヴンスンがともに出席した。この会合の主要 議題は、駆逐艦に対するイギリスの火急の必要であった。そしてアメリカの中立法を侵犯しない で、また海軍艦艇がとくべつの感傷的価値を持っているアメリカの世論を傷けることなしに、当

5. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

299 ーセットの最上階のスティーヴンスンのひと続きの部屋で簡単な儀式でもって行われた。将軍が 、ート・シャーウッドの列席する中でスティーヴン スティ 1 ヴンスンの妻と前 0 —の副長官ロ・ / クストン スンの上衣に勲章をとめると、 0 でシャーウッドと同様の地位にあったネッド・ 大佐が表彰状を読み上げた。同時にドノヴァンは自分の写真を彼に送ったが、そこには彼のつぎ の文字が書かれていた。 その友情と知識と絶えない援助でもって第二次世界大戦中アメリカの秘密情報機関の設置 と維持に多大の貢献をしてくれたビル・スティーヴンスンに ビレ・ドノヴァノ 彼はさらにもう一つの讃辞を受けるが、これにも触れねばならない。それは英労働党の指導者 ドールトン博士からのもので、彼の省の下に特殊工作執行部は発展したのだった。一九四七年に スティーヴンスン夫妻はロンドンを訪問し、この時、当時戦後の最初の労働党内閣で蔵相だった ド 1 ルトンに会った。ニューヨ 1 クに帰ると、スティ 1 ヴンスンはつぎの手紙を受け取った。 ・—、グレート・ジョージ街、蔵相官房〉 拝啓サー・ウィリアム閣下 この二、三週の間あなたに再びお会いして、われわれの戦時中の交わりを温めたことは、 楽しいことでした。 私がチャーチル氏の連立内閣で経済戦争相だった当時、あなたは合衆国にいて共同の大義

6. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

う。ホルツミンデンの不幸な仲間も例外でなく、彼らは勝負ごとをやるか、脱走計画を練る以外 にすることがなかった。ホルツミンデンでの勝負ごとの一つに、″ドイツつぼを負かす″という 実に簡単なのがあった。それは通常なにかドイツ側の所有物を手に入れることによって、収容所 石守の鼻をあかすことだった。「それがたとえポテトであっても、うまくせしめたら」とドルー = ・フルックはのちに思い出している、「それは少なくとも一日の話題となり、なにかやったそと いう感情を持たせたんだ ! 」 収容所司令官は = ー「イアーとかいう大尉で、彼はカイゼル (; ッ ) に顔かたちがよく似てい た。スティーヴンスンが一九一八年一〇月の、休戦の二、三週間前にホルツミンデンからの脱走 を実行し、フランスから飛行中隊に辿り着くのに成功した時、収容所看守の鼻先きで司令官室か ら司令官の写真をわざと盗み、これを持って脱走した。これは捕虜にしたやつに対する軽蔑の最 後のジェスチャーなんだ、と彼はいった。彼はまだその写真を持っている。 動員解除の時、ウィリアム・スティーヴンスンは二〇代の初めだったが、全国的規模の商業無 線の、いやテレビジョンの到来を予見していた。そして自分の発明の才をこの金もうけになる分 野に使おうと決心した。一時彼は家族がまだ住んでいるウイニペグに帰ったが、カナダでも、ま た国境を越えた合衆国でも、彼の選んだラジオの分野で求めていたその機会は、放送事業の当時 の・フ 1 ムにかかわらず、見出せなかった。合衆国はむろん大規模な放送の先駆者であり、この新 しい媒体にはじめてその名を与えたのは一」の国だった。じきに様々な出力の沢山の放送局が″音 波を送り″始め、多数のラジオ商会が出現し、色々な放送局の違った要求を満す完成品の受信機 と聴取者の家庭で受信機を組み立てるのに必要な部品とを市場に送り出した。無電発信所のこの でたら目な設立の一つの結果は、地域的にこみ合った放送局間では相当の混信が生じる一方で、

7. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

166 セントや二五セント貨がどのようにヒトラーの戦争資金のたしになっているか」ということを ″削除なしの物語〃の形でアメリカの公衆に知らせたものだった。このドイツのトラストが様々 に巧妙に手を伸して行くさまを説明する一方で、それはアメリカの公衆にファルペンの薬品を買 わないようにさせることを狙った幾つかのひと騒がせな噂をのせていた。例えば、トラストのべ ルリン本社の文書館が、イギリスの爆撃機に破壊され、処方書がやられたので、間違った処方の ため沢山の人が死んだ、といったものだ。この出版は当時広範な関心を呼んだ。—・ ・ファル べンとの関係がはっきり指摘されているニュージャージ 1 のスタンダード石油の専務は、スティ 1 ヴンスンの機構のアメリカ人連絡員に、だれがこの本を書かしたか教えてくれたら、五万ド やる、といっこ。 このキャンペーンの成果の一つは、ジェネラル・アニリン・アンド・フィルム・コーポレーシ ョンのドイツ生れの重役で秘書局長のウィリアム・フォン・ラートが辞任しなくてはならなくな ったことだ。父親が・・ファルべンにいるフォン・ラ 1 トは、。、 ノリのドイツ大使館の書記官 エルネスト・フォン・ラートの親類で、彼が若いポーランド生れのユダヤ人ハーシェル・グルュ ンツバンに一九三八年暗殺されたのを口実に、ナチの最大のユダヤ人虐殺の一つが起ったのだっ た。『黙示録続編』のもう一つの結果は、—・ ()5 ・ファルべンに対しいかなる自己の製品もイギ 丿ス、カナダ、オーストラリアあるいは南アフリカに売らないと誓約していたスターリング・・フ ロダクツが他の三つの子会社とともに起訴され、それそれ五〇〇〇ドルの罰金を科せられたこと ・こっこ 0 ドイツと密かに貿易しているもう一つのアメリカの商社は、ドイツ人が牛耳っているパイオニ ア・インポ 1 ト・コーポレーションで、これは ~ ドイツ陸軍将校のヴェルナー・フォン・クレム

8. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

に出され、スティーヴンスンが買った。彼にとってこの歴史的遺品は、二つの世界戦争の思い出 をよみがえらせるとともに、今日のなすべきことに思いを及・ほすのに必ずしも不適当な媒体では ないのかもしれない。なぜなら合衆国における第一次大戦の英秘密情報機関の長官として彼の先 任者であった故ウィリアム・ワイズマンと同じく、イギリスが良好な関係を維持することを心か ら最も大切であると思っている国に、静かなカナダ人はとどまることに決めたからである。 最後に私は、最近スティーヴノスンとその公的仕事に寄せられた三つの讃辞を引用したい。そ の二つはアメリカの方から、一つはイギリスから寄せられたものである。 最初のは合衆国の駐英大使ディヴィッド・・フルース閣下からのもの 彼のアメリカの友人、故ウィリアム・ドノヴァン将軍は、英安全保障調整局が無からいま だかってどこにもみられなかった最大の統合された秘密情報と工作の組織に築き上げられた といったが、それは誇張ではなかった。 真珠湾の何カ月も前から合衆国が海外用のため同様の組織を持つべきだ、というのがステ ィーヴンスンの信念だった。彼はその長官に彼の友人がなるのを望んだ。このために彼は徴 妙な影響を行使して、この提案の長所にローズヴェルト大統領の注意を向けさせた。 戦争の終りにドノヴァンはスティーヴンスンへの恩義を認め、その友情と知識と絶えない 援助でもって第二次世界大戦中アメリカの秘密情報機関の設置と維持に、スティ 1 ヴンスン は多大な貢献をしてくれた、といった。 私自身、ドノヴァンの一部下として、スティーヴンスンと彼の職員の物惜しみしない忠告

9. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

て見守った人はなかった。 スティーヴンスンが時折、″諜報合戦〃の日々のことを懐かしく想起するのは自然である。だ が、それは現代世界における諜報活動の圧倒的重要性についての彼の考えを強めるだけだった。 彼は最近こう語った、「一般に諜報活動は、われわれが本で知っている血を凍らせるような冒 険でなく、激しい仕事、限りない忍耐、高度に発達した専門的技術、どこまでも注意深くかっ有 能な組織とから成っている。戦争は民間人も兵士もともに呑み込む瞬間的燃焼の事柄となってし まった。今日、敵の攻撃に対する第一の防衛が情報ーー・攻撃者がいつ、どこを攻撃するかを知る こと に、あるのはむろん明らかである。これは秘密情報機関の任務である。そしてこれがな ければ、他の防衛手段は悲しいことに限られた役にしか立たないだろう」 このように、非凡な、そして誤ることのない感覚で、シャーウッドの静かなカナダ人、サー ウィリアム・サミュエル・スティーヴンスンは、彼自身の地下活動の物語とそれが記憶されるに 価する理由を要約した。 今日、スティーヴンスンは大部分ニューヨークに住み、時々カナダと西インド諸島を訪れては 同地の事業上の関係者と接触を保っている。自分の時間の多くをニューヨークのイースト アーと国連の建物を見晴らすアパ 1 ト の書斎で過しているが、その様子は本書の「序文」に私の 友人のイアン・フレミングが書いている。 この部屋の調度の一つにちょっと触れる以外には、フレミングらしい描写に私の付け加えるも のはないだろう。それは静かなカナダ人の使っている机の椅子である。それはかってカイゼル・ ヴィルヘルム二世のもので、この最後のドイツ皇帝の第一次大戦後の亡命先のオランダの都市ド パーネット・ギャレリー ールンの市長が彼に献上したものだった。数年前それがパ の競売

10. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

電話の不法な傍聴、つまり盗聴によって得られた証拠は、たとえ傍聴された会話が国家の安全を 危くするものであっても、法廷に持ち込めないと宣言した決定に現われていた。こうしてフーヴ アーは、一方ではアメリカの軍備の緊急必要の観点から大統領の指令を実行しなければならない 気持と、他方ではアメリカの中立を維持しようとの立法府の大部分のほとんど狂信的な固執との 板ばさみとなった。 スティーヴンスンが戦争の影響の下に発達していたイギリスの秘密情報機関の多様な資産のす べてをフーヴァ 1 とその部下に開放したことによって、フーヴァ 1 はこのジレンマから抜け出せ た。スティーヴンスンは—の高級職員二名にロンドンの本部を訪問させ、ここでナチのスパ イ方法の詳細な報告を受けさせ、つづいてフーヴァーの長官補佐一名にラテン・アメリカの幾つ もの英のセンターを訪問させ、担当係官と同地域における現地組織の設置を討議さ せる措置をとった。スティ 1 ヴンスンは英帝国検閲当局との親しい関係から、の老練なエ = ーダ基地に送り、郵便検閲の技術を学ばせることができた。の実験室 作員一名を・ハ ューダの専門家のひとりでスティーヴンスンのニューヨークのスタッフだっ の技師はまた・ハ た女性から、手紙が開封されているのを受取人に気づかれないような仕方で密かに手紙を調べる 様々な方法を教えられた。この高度に秘密なやり方の一つに、外交その他の特別扱いの書簡を開 封してまた封印しても、封印に全く触れられてないようにみえ、紫外線その他の化学試験にも不 反応な方法があった。 がこの機密の微妙な仕事に要員を募った時、愉快なことがあった。イギリスの経験した ところでは、高度の手先きの器用さが必要なこの仕事には女性が最適たった。ワシントン 本部のひとりの長官補佐が多数の未来の女性要員を面接したが、仕事に不適格の場合があるので、