責任者 - みる会図書館


検索対象: 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)
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1. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

155 ・フノワは一所懸命に考えた。ついに一つの決心に達した。それは彼にとって困難でつらいもの , 冫しナ「私はできませ シンシアにとってもがっかりさせるものだった。彼は最後こ、つこ、 ん、私は私の上長に対する長い忠誠の経歴を持っています。彼らはみんな私に手紙を書いてくれ ました。暗号は私の責任、私の個人的責任でした、それを守るのが私の義務でした」 シンシアは彼女の雇主に、裏切り者のヴィシーの仲間の間にここに少なくともひとりだけ自分 の原則に忠実な者がいると告げて、遣憾ながらこの試みを放棄せざるを得なかった。実際、・フノ ワは彼が裏切るのを断った連中より、より良い信条に仕えるに価した人物として光っている。 ド・ラ・伯が暗号室の責任を引き継いだ。彼は若い男で、妻と子供 ・フノワが辞任したので、 のいる家庭を抱えていた。彼がかねに困っていると信ずる十分な理由があった。限りないエネル ギーと執念の持主であるシンシアに、つぎになにをせよという必要はなかった。彼女は直ちに彼 と近づきになる工作を始めた、もっとも彼女は自分のしていることをベストランに知らせないよ うに注意はしていた。ド・ラ・»-a の妻は当時二番目の子を宿していて、彼自身多少とも退屈だっ たので、シンシアのような思いやりのある話し相手をみつけて喜んだ。 じきに彼女はラヴァールについての彼女の意見を彼に伝えはじめ、このような裏切り者の政治 家を忠誠心のあるフランス人が支持することに驚きを表明した。遠くからゆっくりと彼女は海軍 暗号のテーマに近づいて行った。そしてそれが手に入るとドイツの敵に大変役に立っことを強調 した。さらにおびき寄せるために、それを手に入れてくれたら、即座にかなりのかねを払うとい 、その後も、暗号になにか変化があったことを知らせてくれれば、月々お礼をすると告げた。 ド・ラ・ >-i は迷いに迷ったようだが、結局断った。実際は、彼の表面上の迷いは、その振りを しただけだった。彼は真直ぐに大使のところに行き、話の全部を告げた。彼はシンシアが申し出

2. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

った。しかし彼が重要な評価について私にいつも予め相談してくれたので、一部の萌芽的な間違 った推論や結論を多少とも修正できたと思う」 イギリス側からの 0 への最後の讃辞は、ドイツがすでに敗北し、日本に対する勝利がつい コ に得られた一九四五年八月に寄せられた。この日、ロンドンの特殊工作執行部長の少将サー リン・ガビンズは、ワシントンのドノヴァン将軍にこう圭冖いた。 ・ : 私はあなたと戦略調査局の全員に、共通の敵の敗北にあなた方がなされた素晴しい貢 献に対しの讃辞と全世界にわたるあなた方の協力に感謝にみちたお礼の言葉を送る。 あなたおよびあなたの指揮下の男女すべてと一緒に働くことは喜びでした。われわれ二つ の機構の密接な連携は、英米の連合によって達成されるものの前触れであり、この連合こそ 人類の将来の平和と幸福にとって実に重要である、とわれわれすべては感じています。 原註 1 サ 1 ・フランク・ネルスンの 0 部長の後任は、サー・チャ 1 ルズ・ハンプロ 1 で、その また後任は少将サ 1 ・コリン・ガビンズで、彼は以前の工作および訓練の責任者だった。 原註 2 スチュアート・オールソッ。フ、トマス・プレイデン共著『サプ・ローザ』 ( 一九四八年 ) 一 原註 3 ローズヴェルト前掲書、第三巻三九九ペ 1 ジ。 原註 4 ホワイトヘッド前掲書、一九九 ~ 二〇〇ペ 1 ジ。 原註 5 オールソッ。フ & プレイデン前掲書、二〇 ~ 二二ペ 1 ジ・ 原註 6 サー・プル 1 ス・ロックハ 1 ト著『友と敵と外国人』 ( 一九五七年 ) 一〇ペ 1 ジ。

3. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

スティーヴンスンがフーヴァーに始めて会った頃、—はローズヴェルト大統領から、西半 球全域にわたって合衆国の安全を脅しそうな破壊活動の秘密情報蒐集と潜在的スパイと妨害エ作 者に対する適切な予防措置を準備する責任をまかされた。この責任をフーヴァーは歓迎した、と いうのはこの野心的な長官は常に—の利益を伸ばすことを願っていたが、これは—の権 威と影響力にかなりプラスするものだったからである。ところが彼はこの新しい責任を果すのに 中立法でひどいハンディキャツ。フを受けていた。 イギリスのと違い、アメリカのは社会的監視の目のぎらぎら光る中で仕事をしな ければならなかった。が秘密情報組織として機能でぎるためには、フーヴァーは議会の支 持が必要だったが、この支持は与えられなかった。彼には合衆国の領土の外でス。ハイを雇う法的 権限がなかった。そのため彼は、国務省とラテン・アメリカ諸国の公式の米外交機関の目をかす めて行動しなければならなかった。彼の法的権限は合衆国内における対抗スパイ活動に限定され ていたが、そのためにさえ自分の仕事に不可欠な情報源に近づくことは許されなかった。例えば 当時は郵便や電報の国内検閲がなかった、それでの工作員は郵便局から手紙を盗むことま でしなければならなかった。この不法行為が暴露し、万一正当化されないようなことが起ったら、 組織の存続、あるいは少なくともフ 1 ヴァーの長官としての任が危くされるような規模の政治 的波紋を起しただろう。もう一つのハンディキャツ。フは、最近米最高裁判所がの工作員の 5

4. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

そしてもうひとり子供が生れる予定だった。彼の仕事は大使館の特別に隔離された一部で行われ、 ここには大使さえ入ることを許されなかった。彼はやがて直属上官の陸軍武官ニコライ・ザポー チン大佐がカナダにおける複雑で幅広いスパイ活動の責任者であることを知った。 彼と彼の妻は、世界で最高と告げられていた本国のモスクワの生活条件と比べて、自分たちの 現在の生活条件に驚いた。個人的安全感、好きなようにしゃべり、みてよい自由、商店やスー 1 マーケットの食料品や商品の豊富さ、自分の自動車で走りまわる労働者たちーーこれが普通の カナダ人の状態だった、そしてこの教訓はイゴールとアンナ・グーゼンコに忘れられていなかっ た。ところがある午後、ザポーチン大佐から執務室に呼ばれ、モスクワからグーゼンコと彼の家 族を直ちに呼び戻すよう指令が来た、と告げられた。大使館のスタッフが不足すると指摘するザ ポーチンの要求に答えて、二、三日後、その指令は変更され、グーゼンコは「いま暫く」いまま での地位にとどまるよう命令された。だが、彼と彼の妻はこれが一時の猶予に過ぎないのを知っ ていた。それで、なんとかカナダに居残らねばならない、と決心した。その間にグーゼンコの後 任がモスクワから着任し、グーゼンコは新来者に仕事を説明するため、もう二、三週間いること を許された。そして一九四五年九月六日に引き渡し命令が来た。 「これはこの国とあなた自身、とくにアンドレイと新しい赤ちゃんのためになにか大きなことを するチャンスですよ、なにもかも貰い、なにも与えないことはしないようにしましよう」と彼の 妻はいい張った。 イゴール・グーゼンコが与えようと決心したものは、カナダにおけるソ連のスパイ組織の完全 な文書による証拠だった。これを念頭に彼は、特別に面白いと思う電報の端を折りながら秘密の 書類とじをずっと調べた。そして九月五日の夕方・ーー引き渡すことになっている日の前日ーーーし

5. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

一九四二年六月一三日、大統領は行政命令で 00—を廃止し、その代りに二つの機関、・ー・戦時 情報局 (O>-«) と戦略調査局 (OTJCO) を設置した。前者は、五二歳の著述家でオクスフォー ー・ディヴィスの下に、 トの前ローズ奨学生、コロン・ヒア放送のニュース解説者エルマ 呼ばれる秘密宣伝工作を除き、とくに一切の海外宣伝の責任を委ねられた。後者はドノヴァンを 長とし、 00—の残る機能、大統領命令の言葉をかりると、「統合参謀本部の指揮と監督の下に 政府の工作機関として」の機能を任せられた。これらの機能から西半球は明確に除外された。換 言すると、はその決められた分野で、 ( 統合参謀本部のために ) 秘密情報を収集し、情報 の評価を準備し ( 調査分析 ) 、 ( 地下無線送信所の運営といった秘密宣伝活動を含な ) 秘密工作 の計画と実施、および″戦略調査〃局の要員の訓練の責任を持った。この関連で″戦略調査″と いう用語は、「 ( ラジオ、新聞、出版および情報の散布を含む関連対外宣伝活動の連邦政府の計 画に関するものを除き ) ・実際の、または計画された軍事作戦を支援したり、戦争努力を推進する ために使用される、軍事行動以外の手段でわれわれの意志を敵に強制するのに用いられる一切の 措置」と定義された。 ート・ンヤーウッド・こっこ。 ついでながら、 00—から宣伝部門を切り離した責任者は、ロく 西半球の外で心理戦争を計画実行するため対外情報部と呼ばれるこの部門を組織した 彼は、ドノヴァンと原則の点でーー・彼はこの部門を文民的性格のものにして置くことを望み、 ノヴァンは他の OØØと同様これを軍事規律に服させようとしたーー・意見が合わず、自分ととも ( 原註 7 ) ・ディヴィスの組織に移し、は O>* の対外部門となった。スティ にその部門をエルマー 1 ヴンスンによると、「彼とドノヴァンはさっさと別れて行った」。またこの裂け目が癒えるこ 幻ともなかった。これは不幸なことだった、というのはこの両人は卓越した能力の持主であり、と

6. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

230 これまでに述べてきた英安全保障調整局の様々な活動には、相当の数の職員が必要だった。実 際、の活動の最盛期には、本部には一〇〇〇人に近い男女がいた。カナダ人は概してアメ リカ人と仲良くやっていけるのを知っていたので、スティーヴンスンはまず第一に彼の機構の人 集めを自分の国に頼った。こうしてカナダは、提督ひとり、将軍ひとり、空軍中将ひとりを含む 各方面の人材を提供した。最も輝かしいカナダ人のひとりは、トロントの大学教授で、彼は通信 の責任者となり、ウエスタン・ユニオンのテレクリ。フトン暗号機械を改造して、ニューヨークと スティーヴンスンが代表しているロンドンの様々な組織との間の日々の ( 一〇〇万語をこえる ) 巨大な量の秘密通信を運ぶのを可能にした。それに献身的で勤勉な女性の秘書とか事務職員も、 大部分がカナダ人だった。 他方、本部の主要な管理職の多くは、大部分イギリスからそのために送られて来たイギリスの コノッ。フ・ガスリーとその 人びとに占められていた。保安部の責任者としてすでに述べたサー ・カーリ日ディヴィスの他に、なにかの時に O に属したイギリスの実業 補佐役のウォルター 第七章宣伝工作の現実の姿

7. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

204 えて妨害活動をしようとした。職員に対する厳しい不断の監視が必要だったし、どの放送もステ ィーヴンスンの通信専門家が注意深く傍受しなければならなかった。 合衆国が中立であるかぎり、も他のどんな短波放送局も政府機関が接収するわけに行 かなかった。ドノヴァンは大統領から公式に国のために宣伝放送をする責任者にされたが、この 責任を率先してやるだけの権限がなかった。せいぜいできることといえば、放送局にじかに材料 を供給し、局がそれを放送するのを希望するぐらいだった。事実、放送局は、皮肉にも を含めて、通常 OO—の手引きを受け入れなかった。このようにドノヴァンは、 oo—のために 短波放送局の設備を徴用することはできなかったが、をと一緒に隠密に利用する ことはできた。これが真珠湾二週間前の状況だった。 ついでながらローズヴェルト大統領は戦争兵器としての宣伝について、英首相よりもずっと大 きな関心を持っていた。例えば彼は、英外務省顧問のサー ・ヴァンシタートがロンド ンからやったドイツを攻撃する一連の放送で、のちに『黒い記録』という表題で出版されたもの に感銘を受けた。合衆国がまだ中立だった一九四一年一一月七日、彼はこの放送のテキストを、 「これがわれわれの必要に合うように編集されたら、わが国の一部の放送関係者によって実に有 効に使われるど思う」とのメモをつけて、ドノヴァンに送った。よりイギリス的な、あるいはよ り英帝国的すぎる文章や段落は適当に除くとよいだろう、「それに」と大統領はつづけた、「ド ィッ人は国民として過去一〇〇〇年の間つねに野蛮人だった、と証明する努力も、ちょっと行き 過ぎなような気がする。罪をドイツ人が全く破壊的指導にーーーそして破壊的指導者自身にーー従 っていることに帰せている文章を強調すべきだろう」、私はドノヴァンが「この小さな記録」を 読んでほしいと思う、というのは私が示唆したように、これがアメリカの聴衆用に改編されたら、

8. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

とれる手段方法は徴々たるもので、当時の状況から必要とされるものに遠く及ばなかった。必要 1 ヴィスの使節団とは別個に、だが同時にこれと密接に提携して、 なのは保安組織であって、パ 工場や鉄道、造船所やドックの保安や妨害活動防止措置について勧告し、妨害活動その他の破 活動、労働組合内の共産主義者の影響、船員の買収や脱船を調査報告し、製造会社や合衆国内の 英使節団に職を求める個人の信頼性を″診断″し、最後にアメリカおよびカナダの保安当局、と くに、カナダ騎馬警察隊、税関および移民局それから地方警察および港湾職員とできるた け密接な連絡をとることだった。 ーヴィスはこうした責任をスティーヴンスンに譲ることを手離しで喜んだ。そこでこれらを の保安部が引き受け、同部は購入委員会の旧信用調査および海運保安課を吸収した。同時 に旅券取締局はスティーヴンスンの秘密活動の″隠れみの″となることをやめ、彼の本部要員に ・センターのの統計分析部で遂行された。 関するかぎりではこの仕事は今後ロックフェラー しかし便宜上、外国の申請者にイギリスの査証を交付する通常の旅券取締業務は前と同じ建物で つづけられた。 ーヴィスの助けでスティーヴンスンは、保安部を収容する場所を購入委員会が様々な汽船会 ド・ビルにみつけた。また 社と一緒に入っている、・フロード・ストリート 一五番地のキューナー ・タウンタウノ・オフィス の下町事務所として知られるようになったものの責任者に、幸運にもサー・カ / ツ。フ・ガ スリーという理想的人物をみつけた。彼は大変な個人的魅力と海運業に関する相当の経験をもっ の際立った物腰と立派な風采にはかすかに。フ 敏捷だが温和なイギリスの准男爵だった。ガスリ 1 ロシアの士官を思わせるものがあったーー・・事実、第一次世界大戦中、近衛歩兵第一連隊に将校と して勤務していた。彼はの保安部長として大成功であり、ニ = 1 ヨークの波止場でも社交

9. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

もに政治戦争の遂行に深くかかわ 0 ていたからだ。それで軍司令部における円滑な仕事の進行と 能率はふたりの・ホスの仲違いにより改善されなかった。とくにこの仲違いがそれぞれの部下によ り一層激しいものにさせられただけにそうだった。が作戦の軍事分野における一切の宣伝 工作の権利を主張した時には、この仲違いが大きな反目にまで発展した。それはアイゼン ( ワー 将軍が連合国ヨーロツ。 ( 派遣軍最高司令官として独自の統合英米心理戦争部 (*n) を設け、 作戦の舞台における宣伝工作の責任を持たせ、経済戦争執行部 (*@) との対外部門か ら指導を受けることにすることでやっと解決された。この二つのロンドンにある文民の機関はそ ートとロ ・フルース・ロックハ れそれサー ート・シャ 1 ウッドが責任者だった。幸いにもシャ ( 原荘 8 ) ウッド A 」ロック、 ートは実に仲良く協力した。 シャーウッドがロンドンに移っても、彼とスティーヴンスンの関係は、最初から変りなく非常 に温かなものだった。「あそこに、あのまたとない素質を持った、実に高潔な人物が歩いて行 く」とスティーヴンスンは本書の筆者にあるタ方、五番街を歩いている時いって、遠くにボ・フ・ シャ 1 ウッドをみつけた。「あんな人はそういないよ、とくに今のようなあくせくした世の中で スティーヴンスンにとって不幸なことに、彼とシャーウッドとの公式な関係は、 0 が作ら れて直ぐの一九四二年夏に中断された。これは、イギリス王妃の兄弟で現在の女王の叔父にあた る ( のちにサー ) ディヴィッド・ポーズ = ライアン閣下の率いる政治戦争使節団がロンドンから ワシントンに来たためだった。ポーズ日ライアンはスティ 1 ヴンスンのやっている公然の宣伝、 その中でも最も重要なのは極東向け放送だったが、そのすべてを引き継ぎたいといった。この提 案に最初スティーヴンスンは反対した。そういうことをすると、円滑に行っている連携作業の継

10. 3603号室 (ハヤカワ文庫NF)

206 脇の方からできるだけの忠告と援助をした。それは非常に仲の良い、英米の戦争努力の観点から すると、その及ぶあらゆる分野のうちで非常に効果的な連絡だった。もっともあとでみるように、 ド / ヴァンはのちに政治戦争遂行の責任を別の機関に引き渡さねばならなかった。両者の関係が 緊密だったのには、三つの基本的理由があった。第一にドノヴァンの生れ立ての組織では他では 入手できない欠かせない材料を、 OO—はを通じて手に入れることができた。つぎに oo —はの知識と経験を、良かれ悪しかれ、彼らの最も貴重な資産の一つと考えていた。第三 に関係した個々の職員が互いに個人的に好意を持ち、信頼した。彼らは並んで仕事をしたが、そ れは互いに競争心をもっている競争組織の代表としてでなく、共通の努力で結ばれている友人と してであった。彼らはすでに多くの業績をあげ、これからも当然もっと業績をあげる現実的提携 に向って献身していた。宣伝という全く重要な分野でこの協力が直きに終らねばならない運命に あったことは、ある意味で残念だった。 真珠湾と、ドノヴァンが六カ月後に彼の公然の宣伝の責任を新設の米戦時情報局に譲るまでの 短い期間に、この協力がどんなにうまく行っていたかの一例をあげよう。 一九四二年五月、日本が東南アジアの大半を席捲し、日本の誇りと自信が最高潮にあった時、 松永海軍少将は東京から日本語の談話を海外の日本語の分る聴衆に放送し、日本が最近獲得した 帝国を巡視した見聞を話した。彼は捕虜になった米水兵が、明らかにセレベスで、強制労働に使 役されている様子を述べ、こういった 彼らは飛行場の穴を埋める作業をしている。彼らの仕事は比較的容易なものである、飢え で苦しんでいる者が沢山いるが、それらは日本式の食物に慣れていないからである。ひどい