集団司令部の停止命令に違反しないていどという条件っ きであったが , 司令部をのそく部隊は戦闘偵察を行うと いう名目で進撃することを許可した。 英仏海峡への進撃 英仏連合軍は , ドイツ車のアルデンヌ森林地帯の突破 とミュ - ーズ川の渡河のニュースに対して , その後ドイツ 軍はパリ方面に向うか , または北西へ進撃してベルギー 方面に展開した連合軍を包囲するか , その意図を判断で ミューズ川を渡ったドイツ きすにいたが , 5 月 16 日夜 , A 軍集団は西に直進するとの情報が入ったため , これに 対してフランス軍総司令部は , その進撃を阻止するため ドゴール准将のもとに第 4 装甲師団の編成を行うな ど , 反撃の準備に着手した。 クライスト機甲集団では , 第 19 機甲軍団は戦闘偵察を 行うため , 主力をもってモンコルネ方向に撤退中のフラ ンス第 7 軍を追撃し , オアーズ川の渡河点に向ってい た。また第 14 機甲軍団は , 第 19 機甲軍団の左翼後方を掩 護するとともに , 軍団の左翼をもってエーーヌ川に沿って 前進していた。 さらに機甲集団の右翼を進む第 41 機甲軍団は , 第 6 と 第 8 機甲師団を並列に配して進み , その右側には第 4 軍 に属するヘルマン・ホト大将 ( 歩兵 ) の第 15 機甲軍団が 第 5 および第 7 機甲師団を中心に進撃していた。実に 7 コの機甲師団を中心とした大機械化部隊の集団が北フラ ンスを駆け抜けようとしていたのである。 これら 4 コの機甲軍団は , 次第に右に進路を変えて西 北に向かい , 海峡方面を目指しつつあった。そしてフラ ンス第 9 軍を撃破し , ソンム川以南の第 2 , 第 6 , 第 7 および第 10 軍と , 以北の主にベルギーーに展開したフラン ス第 1 軍 , イギリス海外遠征軍およびベルギ - ー軍を分断 し , 包囲することを目的としていた。 当時 , 連合軍にはドイツ軍の機甲師団に対抗できる機 甲部隊として , フランス軍には第 1 ~ 4 装甲師団 , 第 1 ~ 第 3 軽機械化師団 , さらに機械化された第 1 ~ 5 軽騎 兵師団と , 第 1 , 第 3 , 第 5 , 第 9 , 第 12 , 第 15 および 第 25 自動車化師団 , 独立第 1 騎兵旅団などがあり , イギ リス軍には直轄の第 1 装甲旅団 , 偵察 / 襲撃の騎兵任務 を行う第 4 / 7 , 第 5 近衛竜騎兵連隊 , 第 13 / 18 軽騎兵 連隊クイーン・メリー・オウン , 第 15 / 19 キングズ・ロ イヤル軽騎兵連隊 , 第 1 ロジアン・ポーダー騎馬連隊 , ファイフ・フォルファー義勇農騎兵連隊 , ィースト・ラ イディング・オプ・ヨークシア義勇農騎兵連隊および第 12 王国槍騎兵連隊プリンス・オプ・ウェイルズがあり , さらにベルギー軍は , 機動軍団に第 1 自動車化師団 , 第 14 機械化師団。国境軍団に第 1 騎兵師団および第 2 騎兵 師団があったが , その機甲および自動車化部隊の総兵力 はドイツ軍に若干およばなかった。 しかも , 連合軍の機甲戦力の中心であったフランスの 第 1 ~ 3 装甲師団は , 緒戦で作戦計画が肩すかしを喰っ クライスト機甲集団の主な部隊指揮官 < 1940 年 5 月 10 日〉 集団司令官ェ / くルト・フォン・クライスト大将 ( 騎 ) 参謀長クルト・ツアイツラー大佐 ( 歩 ) 第 19 機甲軍団長ハインツ・グーデリアン大将 ( 機 ) 第 1 機甲師団長フリトリヒ・キルヒナー中将 ( 機 ) 第 2 機甲師団長ルドルフ・ファイエル中将 ( 機 ) 第 10 機甲師団長フェルディナント・シャル中 将 ( 機 ) G D 自動車化連隊長フォン・シュトクハウゼン 大佐 ( 歩 ) 第 41 機甲軍団長 , 、ンス・ライン , 、ルト大将 ( 機 ) 第 6 機甲師団長ヴェルナー・ケンプフ少将 ( 機 ) 第 8 機甲師団長アドルフ・クンツェン中将 ( 機 ) 第 14 機甲軍団長グスタフ・フォン・ヴィーータ - ーム ハイム大将 ( 歩 ) 第 2 自動車化師団長 第 13 自動車化師団長 第 29 自動車化師団長 く 1940 年 6 月 8 日 > パウル・ - ーデル中将 ( 砲 ) トリヒ・ロ - ートキル フリ ヒ少将 ( 騎 ) ョアヒム・レメルゼン少将 ( 機 ) 集団司令官ェ , くルト・フォン・クライスト大将 ( 騎 ) 参謀長クルト・ツアイツラーー大佐 ( 歩 ) 第 14 機甲軍団長グスタフ・フォン・ヴィータース ハイム大将 ( 歩 ) 第 9 機甲師団長アルフレート・フービキ少将 ( 機 ) 第 10 機甲師団長フェルディナント・シャール中 将 ( 機 ) 第 9 歩兵師団長フォン・アベル中将 ( 歩 ) 第 13 自動車化師団長フリー トリヒ・ロートキル ヒ少将 ( 騎 ) G D 自動車化連隊長フォン・シュトクハウゼン 大佐 ( 歩 ) 第 16 機甲軍団長 ェーリヒ・ヘフ。ナー大将 ( 騎 ) 第 3 機甲師団長ホルスト・シュッンフ。少将 ( 機 ) 第 4 機甲師団長シュテファ少将 ( 騎 ) ェリヒ・ハンゼン中将 ( 騎 ) 第 4 歩兵師団長 第 33 歩兵師団長ルドルフ・ジンツェニッヒ少将 ( 歩 ) s s 戦闘師団長パウル・ハウサ - ー S S 少将 S S L. A . H. 旅団長ゼッフ。・ディ トリヒ S s 少将
テムに分かれる。揺架は砲本体をスライドの上に載せ , 駐退復座機構を持っている。 エレベーション機構部と補助動力装置は軽量な砲架の 上に載せられているが , その砲架はサドル , 本体 , 展開 式脚部 , 主輪と尾輪 , 自動食込み式駐鋤を持つ。尾輪は 油圧で昇降でき , 主車輪は動力で駆動できるうえに油圧 サスペンションと油圧プレーキを持ち , フ・レーキは牽引 . 車からでも補助動力装置の運転手からでも操作できる。 砲尾システムは , 半自動式のくさび型鎖栓 , 自動式点 火チューフ・装填機 , チュープ排出機 , 非常点火装置から なり , 主点火装置は機械式である。 装填装置は半自動式で , 砲身の上下 , 左右の角度いか んにかかわらず完全に作動する。砲尾のうしろには装填 トレイが位置している。 FH70 の砲身は , 前述のように一体プロック構造で , 口径は 155 , 砲身長は 6022E ( 38.85 口径 ) あり , 一般 には 155E / 39 口径とよばれている。 砲身は上下にそれそれ 1250 ミル ( 約 70 。 ) と 90 ミル ( 約 5 。 ) , 左右にそれそれ 478 ミル ( 約 29 。 ) 動かすことがで きる。砲身の設計耐圧力は 4400 バール , 最大反動時のフ・ レーキ力は 278 , 000 ニュートンだ。砲ロ制退器は 2 重ア クション式で , 砲身を最大射角にしたときの最大制動力 射撃姿勢の F Ⅱ 70 は 392 , 78 ニュートンもある。 輸送中は , 砲身が 180 。回転して砲尾の近くにあるクラ ンプで止められるが , これで全長は 9.80 川と短くなり , C ー 130 クラスの中型輸送機に積めるようになる。 照準器は直接照準と間接照準の 2 種類あり , 西ドイツ のライツ・ウェッツラーが製作している。 射撃と移動の操作 FH70 の射撃は , まず手で砲尾を開いて初弾と装薬を 薬室に装填し , 第 2 弾を装填トレイに載せることからは じまる。そして砲尾を閉じ , 点火チューフ・がマガジンか ら自動的に装填されて発射準備が整う。 発射 , 、ンドルが引かれると , 砲弾が発射される。発射 時の砲の反動力は , 砲身の両側に設けられた油圧ショッ で構成されている駐退機構とマズル・ ク・アフソーハー プレーキ ( 砲ロ制退器 ) で受止められる。このとき砲身 は最大 1400E も揺架にそって後退し , この後退の最後の 位置で砲尾がカムで自動的に開き , 使用ずみのチュープ が放出され , 砲身が再び元の位置にもどる間に第 2 弾が トレイの上に移ると砲尾に持上げられて砲尾までスライ ドして行く。このあと , この第 2 弾は初弾と同様に人力 でガッチリと押込まれ , 発射態勢となる。 0 0 83
KLEIST PANZER GROÜP を第 グテーリアンが、その機甲師団群の創設にあた 0 て主力装備として期待したⅢ号戦車だ 0 たが、 1940 年 5 月の時点では、そ の数量は全軍でた 0 た 349 輛しかなく、しかもその備砲 3.7 戦車砲は、英仏の重戦車に対して全く無力であった。写真は 進撃する 2 輛のⅢ号戦車 E 型。後方にヘンシェル Typ33Dl 3t トラックがみえる。 40 年 5 月 ~ 6 月のフランダース・フランス戦、いわゆ クライスト機甲集団は、 1940 年 3 月、ポーランド作戦 るフランス侵攻作戦においてその主力となったゲルト・ において第 14 軍の予備となっていた第 22 歩兵軍団司令部 フォン・ルントシュテット上級大将指揮下の A 軍集団の をもとにして、ザールプリ、ツケンで編成された 中で、空前の大機甲部隊をもって進撃し、この戦いの勝 その兵力は第 19 機甲軍団の 3 コ機甲師団、 1 コ自動車 利の原動力となったクライスト機甲集団は、第 2 次大戦 化狙撃兵連隊。第 41 機甲軍団の 2 機甲師団、さらに集 の様相を第 1 次大戦とは決定的に変えるもとになった革 団予備である第 14 機甲軍団の 3 コ自動車化狙撃兵師団と 命的な戦闘集団であった。 いう、かってみない大きな機甲編合部隊であ。た。そし 今回は、このクライスト機甲集団の戦いのあとを、同 て、この部隊の指揮・統制のために設けられた機甲集団 集団司令部によって記録された戦闘日誌を中心に追って 司令部には、司令官エバルト・フォン・クライスト大将 みることにしたい 参謀長にはクルト・ツアイツラー大佐 ( 後に参謀総長 ) が任命され、その下に、作戦班、情報班、兵站班などが 配属され、さらに自動車化通信連隊、野戦郵便局および 機甲集団の編成
・第を多 ( 第 5 月 22 日 , カンプレー付近を後方に向う避難民を横にみて前線 に進むⅢ号型戦車。乗員のたたすまいにも余裕がみられる それそれ正面 10 , 縦深 20 にわたり堅固な防衛陣地を クライスト機甲集団フランス内部へ 構築していた。 第 3 機甲師団の突破は第 33 師団の第 104 連隊が協力し 改めてシャンパーニュの突破口に移ったクライスト機 てはじめられ , 第 4 機甲師団は軍団予備となった。第 3 甲集団は , 6 月 9 日 , その機動力を生かしてコンヒ。ェー 機甲師団の主力は第 3 戦車旅団 ( 2 コ大隊編成の第 5 , ニュ北方で戦線を大きく迂回し , 北フランスの商工業の 第 6 戦車連隊 ) と第 3 自動車化旅団 ( 2 コ大隊編成の第 中心であるスワソンでエーヌ川を渡河し , パリ盆地北東 3 自動車化連隊と第 3 オートノミイ大隊 ) であった。 のシャトー・ティエリでマルヌ川を越えた。 戦車旅団は , 突進軸として防衛線を突破して深く突入 第 16 機甲軍団の第 3 , 第 4 機甲師団は , パリ盆地東部 し , 歩兵および自動車化部隊を妨害するフランス軍砲兵 の工業地帯であるトロアに進出し , 第 14 機甲軍団は , 第 陣地を撃破することが目的で , 後続する自動車化旅団は 16 機甲軍団の右翼を前大戦のマルヌ会戦でドイツ軍の最 敵の抵抗線の掃討を行うことになっていた。 前線となったモーでマルヌ川を渡り , シュルセーヌ地区 戦車旅団の攻撃は予定どおり迅速に行われ , 防衛線を に到達した。 突破して約 2 時間半で 14 コ砲兵中隊を撃破した。その 2 この頃になると , フランス軍は壊滅状態になっていた コの戦車連隊は , 防衛線に約 8 進出したが , 燃料 , 弾 ので , 機甲集団はディジョンを経由して一気にソーヌ ~ 薬が欠乏してきたので警戒任務に転し歩兵部隊の攻撃 ローヌ渓谷まで突進し , リョンを占領してフランス戦車 と補給を待つかたちとなった。しかし , 後続の自動車化 700 輛を捕獲した。 旅団はフランス軍の頑強な抵抗を受けて , 攻撃は阻止さ その後 , 機甲集団は後続する歩兵部隊とともに 1 日平 均 40 ~ 50 の進撃速度でフランス軍の残存部隊を掃討し れ , しかも , 3 日間にわたるはげしい反撃を受けたので 予備の第 4 機甲師団を戦線に投入したが , 決定的な突破 つつ , スペイン国境に向って南下した。第 3 機甲師団の 先陣は , パリの南方 390 のクレルモン・フェラン ( F はできなかった。 1 レースで有名 ) , 第 4 機甲師団は同じく 517 のサンテ また , 第 14 機甲軍団はポン・サント・マグザスを経て ティエンヌに進出したが , 6 月 22 日についにフランス軍 オアズ川の対岸に橋頭堡を確保したが , ノワイヨンで 敵の猛烈な反撃を受け , 結局 , 最初の目的である両軍団 は降伏し , 対フランス戦は終了した。 の連絡は成功しなかった。だが , A 軍集団に属してシャ ュ方面にいたグ - ーデリアン機甲集団の突破作戦 クライスト機甲集団は , ドイツ本国に引き上げて補充 が成功し , フランス軍の防衛線に突破口をあけることに と編成変えを行い , 戦力を強化することになった。そし 成功したので , クライスト機甲集団は陸軍総司令部の命 て第 1 機甲集団と名前も改められ , 東方に転じてノくルカ 令によっていったん戦線から離脱し , シャンパーニ ン攻略 , 対ソ戦に参加するのである。 ュの 突破口に移動した。 58
甲部隊はダンケルクからほぼ中距離砲の射程外 ( 13 以 上 ) において停止せよ。さらに偵察と防衛のための行動 だけが許されるという電報を受けとった。すなわち , 敵の砲の射程内に踏みこむなという意味である。 クライスト大将は , 後に私はこの命令を無視して海 峡に向って突進しようと考えた。私の戦車部隊はすでに ハ - ーセプルックに進出し , イギリス軍の退路を遮断しっ つあったと語っている。 クライスト機甲集団は , 3 日間その位置で戦闘を中止 し , この間に連合軍はクライストの目と鼻の先を通過し てダンケルクに入ったのである。この結果 , アルデンヌ を突破以来 , 夜を日についで進撃し , 目ざましい成果を あげたクライスト機甲集団の突進も , 最後の段階におい て精彩を欠く幕切れとなった。 また集団の主力として , 南方からダンケルクに突入し ようとしていたグーデリアン大将にも停止命令が伝達さ れた。彼の第 19 機甲軍団は , 開戦の 5 月 10 日から 24 日ま での 15 日間に , 図上距離 550 を走破し , 1 日平均 33 ~ 37 の速度でアルデンヌ地帯 , ミューズ川 , オアーズ川 などの障害を越えて進撃してきた。その間には , 敵の抵 フランス軍の戦車部隊。性能的には劣っていなかったが , 集 抗ばかりでなく , 味方の干渉や妨害に悩まされながら軍 中して投入されなかったため , ドイツ軍を狙止てきなかった 団の先頭に立ってきた。 最後の段階でその戦果に若干ケチがつけられたが , 作 いっているからだ。 戦上におけるマンシュタイン計画の卓抜さと , グーデリ クライスト機甲集団の改編 アンの戦車理論の正しさは , ドイツ軍内部にはっきりと ダンケルク前面までの進撃で , 機甲部隊の第一の任務 訒識されるにいたった。 印じ、ロ は達成されたと判断した国防軍最高司令部は , フランス 機甲集団の 3 日間にわたる停止は , 連合軍にダンケル を届服させる第 2 の攻撃命令である指令第 13 号を発令し クに入る余裕を与え , さらにフランス軍の議牲的奮闘と イギリス海軍の必死の活動により , 338 , 226 名 ( フラン た。 機甲部隊はさらに南に進み , ソンム川に沿って強化さ ス兵 12 万名を含む ) がイギリス本士に脱出した。また , れつつあるフランス軍の残存兵力を攻撃することが主な ドゴール将軍の第 4 装甲師団は 5 月 26 日からアベヴィー 任務とされた。そして攻撃再開のために , 5 月末 , 機甲 ュ地区で反撃を行い , 140 輛の戦車のうち 50 輛を失いな 部隊に対する大幅な編成替えが行われた。 がらもドイツ軍のダンケルクへの攻撃をけん制して脱出 を掩護する役割を果たした。 クライスト機甲集団は , グスタフ・フォン・ヴィータ クライスト大将はダンケルクの陥落後 , カンプレーで スハイム大将の第 14 機甲軍団と , 第 6 軍からエリッヒ ヒトラーに会ったとき , 機甲集団が攻撃を続けていれば ・ヘーフ。ナー大将 ( 騎兵 ) の第 16 機甲軍団が配属された。 第 14 機甲軍団には , 第 9 , 第 10 機甲師団 , 第 13 自動車 連合軍の脱出を狙止できたのになぜ停止させたのかと質 問した。これに対してヒトラはダンケルクから連合 化師団 , 第 9 歩兵師団および GD 自動車化連隊が編入さ れ , 第 16 機甲軍団は , 第 3 , 第 4 機甲師団 , SS 自動車 軍が脱出するかも知れないと思ったが , 戦車部隊がフラ ンダース ( ベルギー , 北フランス地方の呼び名 ) の沼沢 化師団 , 第 4 および第 33 歩兵師団 , SS ライフ。シュタン ダルテ・アドルフ・ヒトラー自動車化旅団からなってい 地帯にはまりこむことになり , いたずらに損害を大きく することを恐れたからだ洋と答えている。ヒトラーも戦 た。 車部隊が決勝兵種であることを認識していたのである。 そしてクライスト機甲集団は , フォン・ポック上級大 - またこの意見に対しては , グーデリアンも同じ考えを 将の B 軍集団の機動戦力として , ホト大将の第 15 機甲軍 持っていたらしく , 進撃の中止に対してはそれまでのよ 団 ( 第 5 , 第 7 機甲師団 , 第 2 自動車化師団 ) ととも うな強いアビールをしていない。彼の戦車理論からみて ソンム川のアミアン ~ ランスの橋頭堡からセーヌ下 に も , 防禦された特定地の攻略は歩兵部隊の仕事であって 流および北フランス攻略に向うことになっていた。 機動力が売物の機甲部隊を使うべきではないと以前から 一方 , グーデリアン大将はクライスト機甲集団を離れ 55
の渡河を開始せよというものであった。だが , 当時は 近のフランス第 9 軍の防衛陣地を突破後 , ダーヴィール まだ第 2 機甲師団の進撃が遅れて , 軍団の全力がそろっ ~ シャルルヴィルの北方に進出した。この軍団は第 19 機 ていなかったので , グーデリアン大将は延期を要求した 甲軍団と異って , 各師団が横陣になっていっせいに戦線 が , クライスト大将は空軍のシュベルレ上級大将との協 を突破するのではなく , 集中突破をねらった。すなわ 議の結果であることや , 砲兵部隊にもすでに命令を出し ち , ケンプフ少将の第 6 機甲師団を先陣として空軍の予 ていることなどから , 延期の中し出を拒絶した。 備攻撃の終了後 , 師団および軍団砲兵の煙幕射撃によっ こうして 13 日午前 , 第 2 航空軍の第 1 , 第 2 , 第 5 飛 て支援されながら , あらかじめ偵察しておいた地区から 行師団の全力をあげた攻撃がはじまり , 渡河地点のフラ フランス軍の弱い陣地を突破してその背後に進出した。 ンス第 2 軍の防禦陣地に対して 8 時間にわたる打撃が加 さらに後続するクンツェン中将の第 8 機甲師団は , 第 えられた。第 19 軍団は , 天然の要害セダン付近のパイゼ 6 機甲師団のあけた突破口から進撃し , 敵の主抵抗陣地 を撃破して第 6 機甲師団の後方を掩護した。その結果 , ル地区で渡河を開始し , フタンクール , ノワイエ・ポン ・モージュの間に橋頭堡を確保することに成功した。 突進軸である第 6 機甲師団は後方に対する考慮がなくな り , フランス第 9 軍および第 2 装甲師団の補給線をはじ 渡河後の軍団の攻撃は , 右翼部隊である第 2 機甲師団 めとして , 無防備の後方地区になだれこんで , これに徹 はドンシェリー南方のラ・マルフェー高地帯を占領した 底的な打撃を与えた。 後 , 西方に旋回し , 一部の兵力をもってサポーニュ・エ ・フェーシェルのフランス軍の防衛陣地を突破した。 さらに機甲集団予備である第 14 機甲軍団は , 機動予備 中央部隊である第 1 機甲師団は , 軍団直轄の GD 自動 戦力として第 19 機甲軍団の後方に配置されていたが , 5 車化連隊の増強を受けてミューズ川のフランス軍の防衛 月 15 日にミューズ川を渡って第 19 機甲軍団の占領したセ 陣地を掃討後 , ベルヴォー , ラ・マルフェー咼地を攻撃 ダン橋頭堡に入り , その第 2 , 第 13 , 第 26 自動車化師団 し , ノワイエ・ポン・モージュ付近の拠点を攻略した。 に , 第 19 機甲軍団から第 10 機甲師団と GD 自動車化連隊 さらに翼部隊である第 10 機甲師団は , セダン東方を の配属を受けてセダン前面に展開して , 橋頭堡の防衛と 進み , ノワイエ・ポン・モージュで第 ] 機甲師団と合流 付近の掃討にあたった。 セダン付近における戦闘は , フランス軍にとっては初 一方 , 機甲集団の右翼部隊である第 41 機甲軍団は , モ めての本格的な機甲戦闘であり , クライスト機甲集団の ンテルメ ~ ヌゾンヴィル間でミューズ川を渡り , この付 前面の防禦地帯には第 2 軍の第 55 師団 , 第 71 師団などが フランスになたれこむ 38 ( t ) 戦車。前年のチェコ 進駐てドイツ軍に接収さ れ , 西方戦ては機甲部隊 にとって貴重な戦力増加 となった
四 40 年 5 月ロ ~ 図日頃、セダン付近のミューズ川を渡渉中の S d k f z. 2 引 A 装甲兵車。第一機甲師団第一自動車化 連隊第一大隊の本部車輛で、車体後部に所属マークと標識をつけている。当時、本車のような専用の装甲兵車 を持っ機械化歩兵部隊はドイツ軍にのみ大量に存在したことが、初期の電撃戦に大きな効果を生んだ 立 4 詹 257 」 APC イ / 厖ム / 町 0 /. g /. , ム / ル〃 : な D ん . / ra ハ / んどんな」″ 7 イ / んはね 1. 炎上するヴァノー・レ・ダムの町の中を行く I 号戦車 A 型。 I 号戦車は、一連のドイツ戦 車の始祖ともいえるものだが、開発当初から 訓練用の目的を持っていたことからもわかる とおり決して実戦向きとはいえなかった。し かし戦いは勢いであり、同時にドイツ軍の卓 抜した作戦指導が I 号戦車にも活躍の場を与 えた。たが武装と防禦力が決定的に不足して いることは、この戦いでも実証された。後に 続くのはクルップ L 2 H 6 X 4 トラック。 たん雇 iv. / 山 0 / : 」〃ん & 、〃 / ん川″ g ん / ん 房な〃 g 帰〃 / / - / ハ記の〃い 73 / ん . ん .
急速な進撃は、戦車に平時では考えられないような無理を要求する。しかしドイツ機甲部隊は大戦前 からウィーンへの進駐のような長距離機動を体験しており、戦車の技術面はもちろん、支援体制にお いてもそれに而寸えられるように改善されていた。しかし独ソ戦においては、それでもなお充分ではな かったことが明らかになる。写真はベルギーの前線近くで修理を受けるⅡ号 A 型戦車。 g 記た / . 〃」″ザ」〃ん比 co “比イい〃〃イ supporl り〃 / / 厖ル / g 〃ん℃れ /. 2.9 60 馬力ェンジンのアドラー・スタンダード 6 乗用車をベースに、 8 装甲板による簡単なボディーをつけた 装甲自動車。先頭および 3 輛目は MG34 で武装した機関銃車 Kfz コ 3 、中央は無線機搭載の通信車 Kfz 」 4 。円 37 ~ 34 年にロ、型合わせて口 0 輛ていどが作られ、主として機械イヒ偵察部隊の訓練用に使われた。その後、 6 輪、 8 輪の本格的装甲車が開発されるにおよび本車は装備からはすされたが、それでも四年頃までは使われていたら しい。 4 輪駆動の説があるが、フロント・アクスルをみてもわかるとおり、単なる 4 x 2 仕様である。 4 た 73 〃〃イ 4 た 7 イのア to ″お記 cars / 〃心ツ / こぉ / んど / 〃 va 、、ん〃 / 0 お i•a 〃化 ン三をンっこ、 こ、め ・も、 04 ー れー ・阯 042
~ 戸ん .7 ・リ ら冬き・ー一 機動工兵連隊 ースアメリカン P ー 51 ムスタング戦闘機も出没するよう 速射砲 ( 対戦車砲 ) および整備中隊 になった。 戦車連隊の編成は九五式軽戦車 1 コ中隊 , 九七式中戦 「老河口飛行場を奪回せよ ! 」 車 3 コ中隊 , 一式砲戦車 1 コ中隊 ( 実際にはわずかしか この作戦が発動されたのは , 日本の敗北より 5 カ月証 配備されなかった ) と整備中隊であり , 戦車 73 輛 , 「い の 3 月 22 日のことであった。 すず」の九四式トラックを中心とする自動車 27 輛であっ 作戦部隊は 800 も西進する。 800 といえば新幹線で 東京から広島県福山までの距離である。 0 また偵察に使う捜索隊は戦車連隊とは逆に軽戦車が多 「酒を配る。各班ごとにとりに く , 九五式軽戦車 2 コ中隊 , 九七式中戦車 1 コ中隊 , 乗 出撃の前夜は盛大な出陣式が行われた。富士山の山 車歩兵 1 コ中隊 , 整備 1 コ中隊という編成であった。南 にある少年戦車兵学校を卒業したばかりの紅顔の少年兵 方の戦線では戦車が不足しているというのに , 軽装備の も , 慣れぬ酒を口の中に流し込む。 中国軍相手に貴重な戦車を投入するのはもったいないよ 途中の町々には壁に大きく「徹底的抗日 ! 」というポ : うな気もする。しかし戦車を使えば歩兵の出血が少くて スターが貼られており , あくまで日本軍に抵抗しようと すむし , 作戦も早く完了するから , 中国大陸に戦車第 3 する中国軍の心意気がヒソヒシと感じられた。 師団がとどめておかれたのであろう。 さて , 戦車第 3 師団は出撃してみると , 道がアメリカ 揚子江と北の黄河との間に河南省がある。同地の葉県 軍戦闘機の爆撃で 20 おきに大穴を開けられているのに にあった戦車第 3 師団は , 1945 年 ( 昭和 20 年 ) 3 月はじ 気づいた。戦闘機でも P ー 51 は 450 ん 9 爆弾 2 発ー一九七丸 め , いよいよ進撃を開始 , キャタヒ。ラの轟音はあたりに 軽爆撃機の 2 倍以上ーーーを抱き , 爆撃機としても使用で こだました。 きたからだ。 このころ , 日本軍はすでにルソン島 ( フィリヒ。ン ) で 九七式中戦車はちょっと走ってはまた工兵隊をよんで 敗北 , 沖縄に上陸される直前だった。中国方面へもイン 大穴に板をかけてもらい , 再びェンジンをかけるという ド経由でアメリカ本土からおびただしい軍需品が到着 , めんどうな進軍をくり返さなければならなかった。 GMC の大型トラックで前線に運ばれていた。それまで 戦車第 3 師団は敵をあざむくため , はじめはわざと方 のカーチス P ー 40 のみならず , 数カ月前からは新型のノ 向を偽って走り , 途中から反転した。 100
0 を : を を第 林間の道を行く第 7 機甲師団の 38 ( t ) 戦 車。この師団はロン す。 メル少将に指揮され て , 機甲集団の右翼 を猛進した 3 て , 第 39 および第 41 機甲軍団を統率するグーデリアン機 断されたのは , 従来フランス軍が採用している一連の防 甲集団の司令官に就任した 衛線に固執したことが原因で , 敵が一部の地点を突破す ると , 戦車パニックによってその隣接する地区を防衛す 第 2 次フランス作戦 る部隊が , 側方および後方に危険を感じて陣地を放棄し 連合軍の最後の部隊が , ダンケルクからイギリスへ脱 たからであると認めている。 出した日から 3 日後の 6 月 5 日水曜日の未明 , イギリス 同時にドイツ機甲部隊については , 、ドイツ軍は , 最 海峡の沿岸からエーヌ川までの 360 のソンム川沿いの 前線にある戦車部隊の戦力をじゅうぶんに発揮させる原 戦線から , A, B 両軍集団に配属された各砲兵部隊の砲 動力である弾薬 , 燃料その他の補給を行う後方支援部隊 撃と空軍による準備攻撃に続いて , フランス全上への進 がよく組織されている。そしてこういう補給の行きとど 攻作戦が開始された。 いた戦車部隊の突進を正面から狙止することは無謀であ 第 2 次フランス作戦におけるドイツ , フランス両軍の り , 味方の損害が増えるばかりなので , 戦車部隊の突破 兵力は , ドイツ A, B 軍集団に 6 コ軍 ( 50 コ歩兵師団 , を認めてもよいが , 後続する歩兵部隊を完全に狙止する 1 コ山岳兵師団 , 1 コ騎兵師団 , 10 コ機甲師団 , 5 コ自 ことによって , その兵站を切断することができれば戦車 動車化師団 , 1 コ自動車化旅団と同連隊 ) , フランス軍 部隊は自然に戦力を消耗する、と分析している。 はマジノ線西北端から海峡までに 2 コ軍集団 ( 5 コ軍 = すなわち , 防衛線はいちど機甲部隊に突破されても , 43 コ歩兵師団 , 3 コ装甲師団および 3 コ軽機械化師団 ) その機能を維持して突破口をふさげば , 機甲部隊を枯死 が配備され , さらにマジノ線内には 17 コ要塞師団および させるとともに戦線を保持することができるというもの 若干の予備部隊が配置されていた。 である。 ドイツ側の右翼部隊であるフォン・ポック上級大将の ウェイガン防衛線は , この理念にもとずいて残存フラ B 軍集団は , イギリスからの増援を遮断するため , 北フ ンス軍を再編成して配備したものだが , 後方に機動予備 ランスの港湾地域の占領とパリに脅威を与えてフランス がなかったため , フランス軍の頑強な抵抗にもかかわら 軍の予備兵力をソンム川付近にけん制し , この作戦の主 ず突破されたあとは簡単に迂回されて , 防衛線は維持で 力である左翼の A 軍集団の攻撃を容易にすることを目的 きても孤立して意味をなさなくなってしまった。 としていた。そして , べロンヌおよびソンム川橋頭堡か この防衛線の突破の先陣となったのがクライスト機甲 ら , フランス第 7 軍の防衛しているウェイガン線を突破 集団 ( 第 6 軍に所属 ) である。 し , ソンム川下流からセーヌの下流にわたるフランス軍 まず , 第 16 機甲軍団はべロンヌ橋頭堡から , また第 14 戦線を攻撃する任務が与えられ , この突破作戦の打撃部 機甲軍団はアミアンの橋頭堡から発進し , それそれがウ 隊としてクライスト機甲集団が投入された。 ェイガン防衛線を突破して , オアーズ川で合同する計画 ウェイガン防衛線とは , モーリス・ガムラン元帥に代 であった。 ってフランス陸軍総司令官に就任したマクシム・ウェイ 第 16 機甲軍団の攻撃は , 右翼に第 3 機甲師団 , 左翼に 第 4 機甲師団を配置し , 第 33 師団が後方に続いた。軍団 ガン元帥が , ドイツ機甲部隊の進撃を狙止するために展 正面のフランス軍防衛部隊は , ソンム川南岸に無数の防 、ドイツ機甲部隊のミ 開させたもので , ウェイガンは , 衛拠点を構成した第 7 軍の第 29 および第 19 歩兵師団で , ューズ川の防衛線突破によって連合軍の戦線が各所で分 57 1